紫陽花令嬢は自分の望む色で咲く

森陰五十鈴

赤の衝撃

 ざわついた会場を背にし、みごとな躑躅つつじの木の裏に隠れてようやくクリスティアンは安堵した。ライティネン侯爵夫人が主催の春の茶会。義理立てのように送りつけられた招待状を見た母が、参加するように、と言うものだから仕方なく顔を出したのだが、クリスティアンが予想していた通り、やはり碌なものではなかった。

 その最たる理由は、挨拶の際に夫人に娘を紹介されたことだ。ライム色のドレスを着た、デビュー前のご令嬢。恥ずかしげに頬を染め、背伸びして大人みたいに振る舞うさまは可愛らしいと言えなくもなかったが、なにぶん目がぎらついていた。まるで腹をすかせた肉食獣。招待が義理立てではなく、娘を宛がうのが目当てなのだと気付いてしまえば、うんざりするというものだ。


 クリスティアンは、アーリラアイネン王国の第五王子だ。身内に余程の不幸がない限り、王位に着くことはあり得ない地位だが、王族というものは不思議なもので、ただその血が流れているというだけで、勝手に人が寄って集ってくる。しかも、そろそろ二十を迎えるクリスティアンは結婚適齢期。婿に迎え入れたい貴族の当主や令嬢たちが躍起になって機嫌を取りにやって来る。

 さらに言えば、クリスティアンは容姿端麗だ。成長しても見事なプラチナブロンドに、翡翠の瞳。王妃に似て線は細く、王に似て甘い顔立ち。年頃の娘たちにますます注目されてしまうというわけだ。


 今回もまたそういったわけで、クリスティアンは茶会に参加してから今の今まで一時間あまり令嬢たちに狙われて、会場中を追いかけ回された。当たり障りなく躱し、隙を見てここへ逃げ込んで、ようやくほっと一息吐けるようになったというわけだ。


 空を仰ぐ。自分だって年頃の男。可愛らしい娘と恋のひとつでもしてみたいとは思っている。が、周囲にいるのが王子の妃という立場に焦がれているだけの令嬢ばかりなのでは、恋に落ちようがない。遊び相手と割り切ってしまうという手も考えられるかもしれないが、クリスティアンは下位とはいえ王子という立場、あまり節操のないこともできない。

 ……何処かにいないものだろうか。クリスティアンに寄り添ってくれるような娘は。

 それでもって、健康的で礼儀正しく、凛としていて可愛らしく魅力的な、それなりに高い身分の令嬢であれば、申し分ないのだが。


「……さすがに欲張りすぎか」


 自らの理想の高さにひとりごち苦笑する。夢物語でもあるまいに、そんな完璧な人間がこの世にいるはずもない。せめて、その中のどれか二つ(といっても身分は必須だからもう一つ)くらいは持ち合わせていてくれればそれで良いか。


 さて、茶会がお開きになるまでは、まだ時間はあるようだ。このまま帰ってしまいたいが、半ばで引き上げれば、息子の嫁探しに夢中の母が文句を言う。何処かでひっそりとやり過ごすことができないものか、と庭のさらに奥の方へと入り込んだ。


 そこで、出逢った。


 降り注ぎそうなほどに見事に咲いた藤の棚の下に一人の娘がいた。くっきりとした目鼻立ち。ほどよくふっくらとした朱唇。少し令嬢にしては短めの、肩よりも少し長い程度のブロンド色の髪をそよ風に靡かせ、淡紅色のドレスに構わず芝生の上にじかに腰を下ろし、後ろに手を付いて花を見上げている。

 普通の令嬢としては、あり得ないその行動。だが、そこに粗暴さや野蛮さは感じられず、気品も損なわれていない。むしろそのような自然体の姿が彼女の魅力を引き出しているような気がした。

 まるで、花の精のような。


 とくん、と胸が高鳴る。

 今しがたクリスティアンが思い描いた理想のほとんどに当てはまるような娘がそこにいた。


「……失礼」


 そっと、脅かさないように声をかける。きょとんとした青みの強い紫の瞳は、紫水晶のように煌めいて、クリスティアンの胸はさらに高鳴った。

 舞い上がってしまいそうなのを必死で押さえて、理想のその人に向かって話しかける。


「よろしければ、私も同席しても良いだろうか」

「ええ、もちろんです。クリスティアン殿下」


 娘はさっと立ち上がった。素早い行動であったが、所作は乱れ一つなく美しい。ますますクリスティアンの理想に近い。

 流れるような一挙一動に目を奪われていると、ドレスの裾から脚が覗いたのが見えた。一瞬のことだったが、恥ずかしさに目を逸らす。

 その先に淡い微笑みがあった。その笑みもまた魅力的で引き込まれてしまいそうになる。その笑みをまじまじと見て、初めて見た令嬢だということを再認識する。このような印象的な娘、一度すれ違えば忘れるはずもない。ひょっとして、デビュタントはまだなのだろうか。


「私のことを知っているのか」


 第五王子の知名度は低い。国事にこそ参加するが、主役は王や王太子になるのでやはり国民の注目はそちらに集まるし、クリスティアンが容姿端麗といっても、類似した顔は他にも七つあるので、特別噂になっているわけでもない。いくら容姿端麗で令嬢たちに追いかけ回されているとはいえ、社交界に出ていない娘が一目で特定できるほどには、クリスティアンの顔は知れ渡っていないはずなのに。


「もちろんです」


 はきはきと娘は答えた。明るくしっかりとして、耳にちょうど良い高さの声だ。


「王族の方でいらっしゃいますから。国に忠誠を誓う者として当然です」

「なんだかこそばゆいな」


 令嬢の口から〝忠誠〟だなんて。クリスティアンは頬を掻く。まるで騎士のような口ぶりだ。

 クリスティアンが王族であるからか、これまでの令嬢の中にも国への忠心を語る者がいたにはいたのだが、その言葉はどうも浮ついて聞こえていた。しかし、彼女は違う。芯の通った声は真実味を感じさせた。


「名は?」


 尋ねれば、娘は立ったときと同じように素早く流れるような身のこなしで、きちりとした完璧な礼を取った。


「お初に御目にかかります。私は辺境伯セランネが娘ヴィルヘルミーナと申します。差し出がましいのをお許しいただけるのであれば、ミーナとお呼びくださいませ」

「では、その言葉に甘えよう」


 慇懃に頷くその内心で、クリスティアンは心が浮き立ちそうだった。まさか、初対面で愛称を許してもらえるとは思わなかった。あちらから歩み寄ってくれた事実に、期待を抱いてしまう。

 どうにか縁を結ぶことができないか、という期待を胸に秘めながらヴィルヘルミーナの隣に腰を下ろし、天を仰ぐ。


「見事な藤の花だ」

「ええ。夫人の愛情を感じます」


 クリスティアンと同じように空を見上げるヴィルヘルミーナは、溜め息混じりに応じた。うっとりと見上げる娘の横顔を見て、クリスティアンは頬を赤くする。

 あまりに見つめていたものだから、彼女は視線に気づいてこちらを向いた。クリスティアンは誤魔化すように、ヴィルヘルミーナに尋ねた。


「そなたは、何故ここに?」

「その……人混みに疲れてしまいまして」


 ほんの一瞬だけ、明るく輝いていた娘の表情が曇った。どうやらあちらも相当に苦労をしたらしい。無理もない、これだけ魅力的な令嬢だ。男であれば声を掛けて見たくなるのも道理。しかもデビューもまだとなれば、次はいつ遭遇できるか分からないのだ。今のうちに、と思うのが男心というものだろう。

 ……しかし今回の茶会、それほど男性の出席者は多くなかったように思えたのだが、気の所為だろうか。

 まあ、人数が多くなくとも、気疲れというものがあるかもしれないか。


「殿下は、どうしてこちらにおいでになられたのですか?」

「クリスでいい」


 こちらも愛称で呼ばせてもらっているのだから、と付け加えると、ヴィルヘルミーナは曖昧な笑いを浮かべて頷いた。まあ、実はクリスティアンがそう親し気に彼女に呼んで欲しかっただけなのだが、そんな真意は押し隠して質問に応じる。


「私も……人に囲まれるのに、疲れてしまった」


 ああ、と察するヴィルヘルミーナ。やはり同志なのか、と思ってしまえば親近感さえ抱いた。

 これはもう運命だ、そうに違いない、と心の中のクリスティアンが叫ぶ。気が逸るのをむりやり押さえつけ、余裕あるように振る舞いつつ、人混みに疲れた男を演技する。


「だが、今日は僥倖だった。……そなたに逢えた」

「まあ、お上手ですね」


 ころころと彼女は笑う。本気に捉えられていないのが残念だが、二人の間に漂う空気は悪くない。


「良ければ、このまま茶会が終わるまでここで話でもしないか」


 良い機会だから、と提案してみれば、ヴィルヘルミーナは目を細めて頷いた。


「……殿下のお邪魔でないのなら」


 それから茶会が終わるまで、二人は人知れず楽しい話をして過ごした。

 ……残念なことに、クリスティアンが望んだような進展はなかったのだが。




「セランネのご令嬢……ですか」


 木の温もりのある王妃の私室。茶会の首尾を訊いてきた母親に、彼女の思惑を知っていたクリスティアンが素直に答えると、王妃は少しだけ難しそうな表情を浮かべた。


「また変わった娘を」


 理解できない、とクリスティアンが受け継いだ色を持つその顔には書いてあった。


「何か不都合が?」

「いいえ。家格に問題はありませんし、本人も……まあ、人柄に問題はないでしょう」


 変わり者ではありますが、と付け加えた。変わっていただろうか、とクリスティアンは首を傾げる。確かにそこらの令嬢とは違ったが、変わり者と言うほどのものではなかった……気がする。


「確か……騎士団にいましたね」


 一目惚れの相手を思い浮かべていたクリスティアンの耳に、母の呟きが届いた。


「騎士団に……」


 記憶によれば、セランネ当主は領主の仕事に専念していたはずだから、母が言うのはヴィルヘルミーナの兄か弟だろうか。セランネ辺境伯に男児がいると聞いたことはなかったのだが、それはクリスティアンの記憶違いだったか。まあ、この国の貴族は多いので、当主はともかく、その家族構成までいちいち細かく覚えていないのだけれども。


 なんにせよ、城内に居るというのであれば、その騎士に会いに行ってみようか。


 あのあと確認して分かったことだが、ヴィルヘルミーナはまだ社交界デビューを果たす年齢に至っていないらしい。デビュタントを迎えていない令息令嬢が社交場に姿を見せるのは、縁ある家に家族ごと招待されたときだけ。それも、日中に開かれるガーデンパーティーか茶会に限られる。セランネの縁者のパーティーにしらみ潰しに参加するよりも、誰かに紹介してもらった方が、もう一度彼女に会える確率が高いだろうと思っていた。

 ライティネン侯爵夫人に打診を頼むことも考えたが、彼女には娘を紹介されている。きっちりと断ったわけではないので、別の娘を紹介しろ、とはやはり言い難いものだ。だから、他の伝手はないものかと思っていたところだったのだ。


 思い立ったら、ということで、早速クリスティアンは仕事の合間に騎士の訓練所へと赴いた。


 アーリラアイネンの王城カラッティア城は、かつて強国に対する防衛を目的に造られたこともあって、要塞の印象を抱く。高く積まれた黄土の石壁の中、門を通り抜けたその先は、騎士隊が集合でき、戦えるような広さをもった石畳の広場がただ広がるだけ。そこに優美な彫刻や噴水の類いは何一つない。それどころか、花々を楽しむ庭園もなかった。三つの円塔が印象的な城内でさえ、式典のための大広間以外の、談話室や温室の類いは一切ない。居住区の他は、政治的あるいは軍事的な設備があるだけだ。

 城が機能を果たすための必要な設備以外はすべて削ぎ落とした武骨な城。建設当時はさぞ侘しい城であったことだろう。

 しかし、現在は緑の国の別名に恥じぬほどに、城内には多くの植物が植えられていた。通路などを除き、とにかくやたらに木々や花を植えていったので、城壁内はまるで森の中にいるような錯覚を抱く。夏至祭ユハンヌスのときにカラッティア城の広場で開かれるガーデンパーティーは今やこの国の名物で、近隣国にまで知れ渡った催しの一つとなっている。


 しかし、そんな城でも、さすがに城壁の側にぽつんと設けられた訓練所に限っては、建設時の武骨さを払拭することはできなかった。土が踏み固められただけの広場。その周囲を囲む、木造の詰所。あまりに簡素で武骨過ぎるので、この場所だけ手を抜いているのではないか、とよく言われている。実際は、騎士団が余計なものを植えるなと拒み続けているからなのだが。


 その訓練所では、土埃を巻き上げて、多くの騎士たちが剣を振っていた。今いるのはざっと五十人ほどだろうか。ある一角では、小隊を組んで陣形の確認をし、また別の一角では素振りで型の練習を行っている。さらにまた別の区画では、一対一の模擬戦が行われていた。

 あまりに多くの騎士が乱雑とし、しかも動いているものだから、クリスティアンはどれがセランネの息子か分からなかった。仕方なしに、近くにいた騎士を捕まえる。


「ここに、セランネの子息がいると聞いた」

「……はい。おりますが」


 なんだか微妙な表情を浮かべてその騎士は答える。何故そんな表情を浮かべるのか全く分からなかったが、とにかく件の騎士を呼んでもらった。


「ヴィル!」


 クリスティアンの願いを受けて、陣形を確認している区画に向けて声を張り上げた。返事をしてやってきたのは、小柄なブロンドの短髪の騎士。白地にキャンパス・ブルーのラインが入った制服は少し大きくだぼついて、騎士にしては華奢な印象を受ける。クリスティアンを見上げる瞳は、あのとき見た、青みの強い紫水晶そのものだ。

 なるほど、よく似ているな、と思う。いまいち年齢がわからないのだが、小柄なので弟の方だろうか。


「お呼びでしょうか」

「殿下が用事があるそうだ」


 ヴィル、と呼ばれたその騎士は、クリスティアンの方に向き直り、敬礼を取った。


「君がセランネの子息か」


 その騎士は、眉根を寄せ、首を傾げつつも頷いた。


「……その」


 いよいよ当人を目の前にしたところで、自分が思っていたよりも小心者だったらしい、クリスティアンは躊躇してしまった。けれど、今言わずしていつ言うのか、と決心を固める。


「すでに聞いているかもしれないが、先日茶会でセランネのご令嬢と会ってな」

「あ、あー。あの、殿下……」


 クリスティアンの言いたいことを察した騎士は、何か言いたげに口を開く。しかし、既にいっぱいいっぱいで冷静さを欠いてしまったクリスティアンは、相手の言葉を遮って勢いのままに言葉を紡ぐ。

 ついでに、周囲がどんな状況であるか、すっかり頭から抜け落ちていた。


「一目で惹かれてしまったのだ。もし良ければ、君の姉君を……ヴィルヘルミーナ嬢を、私に紹介してもらえないだろうか!」


 宣言のあと、沈黙が落ちた。クリスティアンと騎士の間だけではない。訓練所内のクリスティアンの声が届く範囲にいる皆が、動きを止めた。それを見てさらに周囲の人間が動きを止め……連鎖的に、訓練所にいた全ての人間が、彼らに注目する結果となった。

 ちちち、と鳥の声が通り過ぎる。


「えっとですね、クリスティアン殿下」


 どれくらい呆けていたのだろうか。ぽかん、と間の抜けた表情でクリスティアンを見上げていた目の前の騎士ヴィルがようやく口を開いた。


「ご存じないかもしれませんが、父セランネには、子供が一人しかおりません。もちろん養子も」

「え……」


 思いも寄らない言葉に、今度はクリスティアンが固まった。

 記憶違いでなかったのか、と思うのと同時に、なら、彼はなんなのだ、という疑問が湧いた。それとも彼女が偽物? いや、それだと男児がいないという話になるのだから、彼のほうがおかしいのではないか。


 混乱するクリスティアンに対して、セランネの子であるという騎士は、止めを差す一言を告げた。


「殿下がおっしゃられているのは、私のことです。私が、ライティネン侯爵夫人のお茶会で殿下のお目にかかった、ヴィルヘルミーナですわ」

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