武田信玄の殺し方(1)
藤吉郎の入っていた空桶の隣の空桶の中から様子を見届けた出浦盛清は、服部半蔵にすら気付かれないまま、同じ宿屋に入る。
(…てっきり、連中を皆殺しにすると思ったのに)
鬼の半蔵の異名は、既に武田にも届いている。
武将としても忍者としても飛び抜けているのに加えて、武田に諜報戦での戦いを挑もうとする、尋常ではない男。
だからこそ出浦盛清は、ハッタリだけで切り抜けた手際に感心する。
(殺した方が楽だったろうに、あんな連中)
出浦盛清は、服部半蔵が相手に情けをかけたとは、考えていない。
(後で使い潰す気だな)
同業者として、そう結論付ける。
これが竹中半兵衛と並ぶ土産話になると踏み、出浦盛清は服部半蔵ウォッチを続ける。
行き先は同じなので、仕事の上で全く支障にならない。
宿の二階に上がると、藤吉郎が絞め落とされていた。
木下藤吉郎の無差別級人誑しトークに対して、最も有効な対処法だった。
「警告で済ませるのは、おしまいだ」
明智光秀は、火縄銃の発射準備を終えた状態で、半蔵たちを追い返そうとする。
「迷惑の種は、追い返しました。明智殿には、何の迷惑も被りません」
光秀は、半蔵を静かに睨みつけてから、火縄銃の火を消す。
光秀と半蔵の相対を中心に、全員が座り直す。
「用件は?」
「三河に来ませんか? 朝倉よりも、高給で雇います」
光秀は、火縄銃よりも剣呑な言葉を、半蔵にぶつける。
「三河は、十年後には武田の領地に成っていますよ。滅びそうな家に、仕える気はない」
半蔵が少しも怒らず、驚きもしなかったので、光秀は苦笑する。
「今の台詞に驚かないというのは、問題なのでは?」
「拙者の此れからの十年は、九割九分九厘負けると分かっている相手に、どう抗うかの戦いになります」
半蔵は、三河では家康か酒井忠次にしか話せないような内容を、語る。
「国力を蓄えても、良い武将を揃えても、同盟者に助力を頼んで全てが都合良くいっても、まだ勝ち目がない。だが、負けても武田を三河で足止め出来れば、武田の勝ちではなくなる」
光秀の聡明そうな眼光が、半蔵の鬼面を見据える。
「…甲斐の虎が、実は病弱という噂に、賭けるおつもりか?」
光秀の眼光に、凄絶な煌めきが灯る。
己の才覚を生かせる仕事に飢えた男が、半蔵の話に餓狼のように喰らい付く。
「武田信玄は、若い時から戦に出た数こそ多いが、刀を手にしたのは本陣まで攻め込まれた時のみ。その回数は、異常に少ない。恐らく、あの御大は戦をする際、本陣に戦闘をさせない事を大前提に戦略を練っている。戦国武将としては、慎重すぎる。本陣の戦力を必ず遊ばせておくのは、妙だ」
こういう話に喜色満面になる光秀を、半蔵は同類と見做す。
「川中島の戦いで上杉謙信が本陣に突入して一騎討ちを仕掛けたのは、武田信玄個人の戦闘力が低い事を見抜いたからだ」
「…その説が確かなら…」
明智光秀は、名酒でも味わうように、体をゆらゆらと揺らしながら、半蔵の説を検討する。
「遠征が長引けば、信玄の寿命を著しく削れる」
「三河で一ヶ月以上足留めすれば、健康に支障を来たし、武田の軍勢は帰還を余儀なくされる。そして二度と同じような遠征は出来なくなる。まあ、都合の良い見立てですが」
光秀は立ち上がり、天を仰ぎながら哄笑を放つ。
「最強の戦国大名を、過労死!? 過労死させようだなんて!」
階段の下で聞き耳を立てていた出浦盛清は、全てを硬直させて今耳にした情報を咀嚼する。
そして、理解と共に、絶対に何のリアクションも取らないように、自分の体に一切の身動きを禁じた。
少しでも体の自由を許せば、二階に上がって今の話をした者と聞いた者を、全てを殺そうとしてしまう。
そんな挙に出れば、返り討ちは確実だ。
(落ち着け、俺。落ち着け。竹中半兵衛に会うのが主命だ。耳だけを使え)
出浦盛清は、殺意すら抑えた。
そんな盛清の様子を見て、宿屋の主人が神妙に忠告する。
「少年よ。階段の下から女性の上り下りを覗きたいという欲求は、分からなくもない。だが、恥ずべき事であるから、控えなさい。君の魂の為に」
大真面目な顔の主人に、横で帳簿を付けている女将が混ぜ返す。
「一番パンチラが観易いのは、この助平亭主が座っている場所だよ」
「百文(約八千円)で替わってあげよう」
女将が、算盤の角で主人の脳天に打撃ツッコミを入れる。
「いえ。自分の部屋で休みます。お休みなさい」
盛清は、ハキハキと就寝の挨拶をして腰を浮かすと、今夜の階段下での活動を諦める。
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