三河戦線、異常なし(6)
松平元康の初陣は、翌年二月五日に行われた。
織田に内通していた賀茂郡寺部城城主・鈴木重辰の成敗ミッションが、元康の初陣として選ばれた。
今川家家臣の粛清を三河衆にやらせるのは、内部に遺恨を抱え込まない為と同時に、元康の将器を見定める事にある。初陣でも、大将扱い。
今川義元にとっては、頼りにしていた軍師・雪斎の直弟子として何処まで使える武将に育ったのかを知る事が出来る。
「という訳で、観戦に来ました。軍監ではありません。口は挟まないので、楽にして下さい」
元康の初陣の為に集まった三河衆は、大将である元康の隣に座った陣中の『異物』からの挨拶を、苦々しくも甘受する。
陣中に今川の家臣がいると、手柄を横取りされるのではと警戒するのが三河衆の常なのだが、この武将に限っては、畏怖の方が先に立つ。
朝比奈
重厚な立ち振る舞いに武将としての貫禄が漲っており、齢二十歳を過ぎたばかりと聞いても、信じる人は稀。
現時点での今川家最強の武人である。
名門・今川家は、義元の時代に戦国大名として大成し、朝比奈泰朝の登場で最盛期を迎える。
東海道では、誰もこの武将に勝てなかった。
横に座られた松平元康は、爪を噛みたい衝動を抑えつける。
「手柄を立てる機会を与えていただき、感謝します」
元康は、平常心のみを表に出してみせる。
親戚と三河衆の耳目が集まる陣中で、隙は見せない。
少しでも他の大将格に劣る所業を見せれば、主君の忘れ形見というアドバンテージは、色褪せてしまう。
元康にとって、それは人生の失敗に等しい。
「楽しみですよ。雪斎様の軍略が如何に引き継がれたのか、目の当たりに出来る。兵数一千名同士の対決ですから、条件は五分。負けられませんな」
この若武者は、プレッシャーをかけている訳ではない。
根が素直で、腹芸は不得手。
本当に、松平元康の初陣に期待して目を輝かせている。
(松平元康が、今川義元にとってどれだけ役に立つ人物に成るかについて、期待している)
元康は、相手の望みを正確に読み取る。
彼の滞陣は、今日の元康の戦には、何の支障もない。
「朝比奈殿には、満足していただけますよ」
元康は、余裕を見せる。
お互い朗らかに終わらそうと気遣いし合う大将同士に感化され、陣中は和やかな雰囲気に包まれながら、戦に傾れ込む。
陣中の向かい側、寺部城城下の入り口柵付近に布陣した鈴木重辰の軍勢から、
矢合わせが始まり、激しい矢の応酬が続く。
陣中の朝比奈は、呑気に持参した水筒から水分補給しながらコメントする。
「強気ですね。まだ籠城をしないとは。自前の兵数は二百名もないのに」
朝比奈は、鈴木重辰の軍勢に尾張の傭兵が多いのを見て取り、織田の手が長い事を知る。
「一戦してから、鈴木の軍勢だけ籠城する気です。傭兵たちは四方に散って、此方に横槍を入れる機会を窺う。初戦では粘らずに引くでしょう」
松平元康が、戦の展望を明かす。
朝比奈は、頼もしそうに懐かしそうに、元康を暖かく見守る。明らかに、雪斎と重ねている。
三河衆は、初陣でも稀代の軍師の如く戦況を読み切る元康に惚れ直す。
元康の方は、ストレス任せに爪を噛まないようにする事に全力を傾けている。
その最中に、服部半蔵が進撃を開始した。
公約通り、一番槍を果たす気である。
「ほお…」
朝比奈泰朝が、東海道最強武将の顔付きに戻って、服部半蔵の突進に見入る。
矢の雨に対して槍を高速回転させて防ぎながら、服部半蔵は敵陣地に一直線に駆ける。
半蔵に狙いを合わせようとする射手には、後方の服部隊が弓と鉄砲で狙撃して援護。
更紗(現在は下半身褌一丁)が流れ矢を忍者刀二刀流で払って、自軍射手の安全を確保する。
「陽花。斜め右、緋色の鉢巻を巻いた射手」
月乃の指示に従い、隊で唯一鉄砲を持つ
「心臓を狙ったのに〜」
ぶつくさと零しながら、陽花は次弾の弾込めをする。
顔に火薬や火花の跡が付かないように能面を装着したままなので、なかなかシュールな絵面である。
「夏美。半蔵様の正面、盾の影で鉄砲の弾込めをしている兵を」
身の丈六尺(約一八〇センチ)の女偉丈夫が、最寄りの木に二蹴り飛び上がって高さを取ると、特注の強弓を引き絞る。
強勢の矢は盾を割ったが、標的は無傷で横の盾に移動しようとする。
淵沢夏美が二射目を放つより早く、隣の木に登っていた名射手・内藤正成の放った矢が、標的の頭を射ち抜く。
獲物を取られた夏美が、物凄い目付きで睨む。内藤正成は、相手にせずに戦況を見詰める。
月乃が頭を下げて礼をする。
半蔵が死なずに敵陣への一番槍に成功し、暴れまくる。矢の勢いが大きく乱れ、血煙が舞い上がる。
その隙を逃さず、松平元康が突撃の命を下す。
「いいね」
朝比奈泰朝は、愉快そうに体を揺する。
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