第76話 彼等の望み
ユリウスは何も応えようとはしない灰色の瞳を黙って見つめていた。
すると、灰色の瞳が色の薄い黒い瞳に見え始めた。
ユリウスは魔法使いの子供達を深く愛していた。
アーロンはもちろん成人しているが、数百年の時を生きるユリウスにとってはアーロンすらも苦しみを背負う小さな魔法使いの子供のように、その瞳に映り出した。
ユリウスは少し目を伏せて、小さく息を吐いた。
ユリウスのまとう闇がほんの少しだけ弱まったのだが、アーロンは全く動かなかった。
戦場で指揮を取る騎士の隊長ならば、その場に流れる空気が変わると勝利を掴む為或いは敗北せぬように、すかさず次の行動に出なければならないのだが、彼は身動き一つしなかった。
アーロンの心は、見据えられた漆黒の瞳によって過去を彷徨い続けていて、心と体は完全に離れてしまっていた。
灰色の瞳からは勇敢さは消えて、悲しみしか宿っていなかった。背中は丸くなり、立派な鎧を着ているが、とても剣など握れないかのように弱々しくなっていた。
「アーロンよ
戦場であれば、その首斬り落とされていますよ。
何もしないまま敗北を選びますか?」
と、ユリウスは言った。
アーロンはそれでも突っ立ったままでいた。
まるで初めての戦場で、あまりに悲惨な光景を見たことで魂が抜けてしまったかのように動かなかった。
「貴方は、ここに一体何をしに来たのですか…。
剣を握ったからといって、剣の騎士になれるわけではない。
それは貴方が1番よく知っているでしょう?
勇者の称号を背負ったからといって、勇者になれるはずもありません。
全ては何を為すかで決まります。
今の貴方は剣の騎士とは思えませんし、ましてや剣の勇者ではない。何者でもない、ただの小さな男です。」
ユリウスは独り言のように話し出した。その瞳は何処か悲しげだった。
「乗り越えられぬのなら、剣を捨てればよかったのです。
暗闇に紛れて馬を走らせ、山奥で暮らせばよかった。それならば傷つかずにすみます。
誰とも触れ合わず、心を癒してくれる動物達とひっそりと暮らす道もあった。それなのに、どうして私の前に剣を携えて現れてしまったのですか?私には私の役割があるというのに。
貴方は世界に新たな希望を与える存在になってくれるのかと思っていました。
だが、その臆病さでは何も為せません。まるで迷子の子犬のように震えています。
口では立派な事を語りながら、結局は自らの苦しみは乗り越えられませんでしたか?他者の苦しみは和らげることができても、自らの苦しみは違いますか?
立派な騎士を演じてきたようですが、ここまでのようですね。この先は、演技では到底乗り越えられません。
こうまで苦しみたくはなかったという瞳をしています。
けれど苦しむことを知らずに、苦しんでいる者達の気持ちは分かりません。喜びに満ちた生では、何もを救うことなどできない。永遠に、真実を見る目は養えないでしょう。
この旅で何かが変わるかと思っていました。
だが、違っていたようですね。
絡められた鎖からは逃れられませんでしたか?
神が貴方に与えた使命を、放棄しますか?」
ユリウスはそう言うと、剣を握る自らの右手をチラリと見た。
「あの時よりも、さらに世界は大きく歪んでしまった。
それゆえ勇者に課された使命は大きい。
だからこそ貴方しかいない。
凡庸とはかけ離れた美しさと強靭な肉体と気高い精神を与えた。他国と協力して剣を掲げるであろう貴方を誰とも違う、世界にひとりの存在にした。
剣の勇者の生き様を世界に刻み込む為に。
どうして新たな剣の勇者が王の息子であらねばならなかったのか…国を滅ぼすのであれば、統治体制をよく知る者が必要です。世界を破壊するのであれば世界を創造しなければならない。
革命の成功は喜ばしいことですが、一つ間違えればさらなる混乱を引き起こしかねない。無害に見えた人間すらも乱暴になり、次の瞬間には新たに脅威が生まれてくる。
新たなはじまりに過ぎません。」
ユリウスがそう言うと剣身が鋭く光り、光り輝く剣にまとわりつく血の幻を見た。
「忌むべき血を含んだ者が勇者となった。
だが真実にそうなのでしょうか?
忌むべき血でも呪いでもありません。
ミーシャは確かに苦しみました。嘆きの涙を流していました。男がしたことは決して許されません。相応の罰を与え、罪を償わせなければならない。
けれど、生まれてきた子供に罪はない。
忌むべき者ではなく、祝福された者です。
父が愚かだといって、その血を受け継いだ子も愚かであるはずがない。
全く違った人間です。
子供は、親の複製品ではないからです。
心を持ち、自ら考え歩み、自らという人間をつくりあげる為に何かを為していく。
貴方には、それを証明して欲しかった。
血で苦しむ者達の希望となって欲しかった。
勇者には、間違った考えを正す答えを導き出して欲しかった。
友の言葉によって救われたと思っていたのですが…勇者ですら人間が作り出した呪いを受け入れるとは…呆れ果てたものです。
私の言葉の刃に切り裂かれ、血の涙を流すのではなく、揺るがぬ考えを持ち、打ち砕かれることのない盾を持って欲しかった。その盾で自身を守り、打ち破る剣を掲げ、強い眼差しと言葉で、私に応えて欲しかった。
そろそろ掴んでいたかと思いましたが、それは私の間違いでした。
私の問いに、自らの考えを持って応えられない男には、世界は変えられません。」
ユリウスは厳しい表情で言った。
「人間は、愚かさの上に愚かさを塗り重ねていきます。
多くの人間は、自分とは違う者やコントロールが出来ない者を恐れます。その者の内に眠る可能性を本能で感じとり、怯えているのでしょう。
その者が、偉大な事を成し遂げ、世界が大きく変わるのではないかと恐れている。
新しいものを受け入れるのは怖い、世界が変わっていくのは怖い、現状維持と保身ほど心地よいものはありませんから。
禁忌の真実を、教えてあげましょう。
かつてのオラリオンの王は魔法使いの力を恐れました。
魔法使いが人間と交わり、力を持った子が生まれるのを恐れた。魔法使いには、その力ゆえに絶対的な魂への植え付けがある。だが、ハーフとして生まれる子はそうではないのかもしれないと考えた。
女の魔法使いは監視下におくことができる。
だが男の魔法使いがこっそり侍女とでも関係を結び、侍女が人間の男との子として、何処かで産み落とすかもしれない。子が成長して、仲間が不当な扱いを受けていると知れば、人間に攻撃魔法を放つかもしれないと恐れた。
だから、適当な理由を探した。
「禁忌」とすれば誰も犯さないと考え、室には男の側近しか入れないことにした。
王が作り出した「禁忌」を、神の怒りを恐れた人々が盲目に信じ込み、まことしやかに語り継ぐようになった。
皆が「禁忌」という言葉を恐れ、皆が「真実」としたのです。
これが真実です。
ただ、それだけの事です。
そろそろ分かり始めている頃かと思いましたが、残念です。
生まれてきた者は、誰であっても、神の祝福を受けています。」
ユリウスはアーロンの灰色の瞳を見つめた。
「たしかに貴方は人間よりも長い時を生きることにはなります。
だが、心も体も苦しむなどあるはずがない。
貴方の肉体は、魔法を放つ時にも悲鳴を上げたことはないでしょう?
隅から隅まで読んだ魔法書にも書かれていなかった。
それなのに何故、貴方が信じてしまったのでしょうか?」
と、ユリウスは言った。
「貴方を止めるものは、本来は何もありません。あるとしたら自分自身でしょう。
今のように他者の心ない言葉に傷ついて、自ら歩みを止めてしまう。
けれど、信念があれば打ち砕くことができます。
相手の事をよく知らないのに簡単に批判できるような者達は、何事もなかったかのように簡単に意見を翻します。
賛同する者が多くなれば、初めから自らも賛同していたかのように振る舞うでしょう。
中には、ただ誰かを批判したいだけの者達もいる。そうする事で、自らの埋まらない何かを満たしているのかもしれません。
自分以外の誰かも闇の世界にいて欲しい。だから心ない言葉を吐く。抗い続ける人間を陥れる言葉を必死になって探す。苦悩を抱えながらも乗り越え、光り輝くのを見たくない。
その時の自らの顔を鏡に写して見た方がいいでしょう。
醜く歪んでいる。
闇の言葉を吐くたびに、自らにも呪いを施して品位を落とし、さらに自らを深い奈落の底に突き落としている事にすら気づいていない。
誰かが不幸になったとしても自分が幸せになれるわけではありません。その分の幸せが分配されるわけでもない。
だが自分だけが不幸でありたくないと思ってしまう。自分だけではないと思えれば、そこに救いを見出せる。
貴方がそういう者達に引き摺られて、暗闇の中にいたいのであれば、それでも構いません。それも貴方の選んだ道です。
それもまた貴方のたった一度しかない人生です。 」
と、ユリウスは言った。
広場に流れる風が少し冷たくなり、ユリウスの漆黒の髪がサラサラと流れた。
「貴方は、夢を与える勇者になってはいけなかった。
子供達に夢を見せてはいけなかった…救いの光があるという夢を見せてはいけなかった。
私に勝てないようでは、とても英雄の使命を果たせるとは思えません。
ここまで来た力だけは認め、私がこの手で殺しましょう。
勇者となれない貴方は、私が終わらせなければならない。」
ユリウスはそう言うと、アーロンに向かって剣を振り下ろした。
強固なはずの鎧は簡単に斬り裂かれた。
真っ赤な血が噴き出すと、その色が、アーロンの目に入った。
飛び散る赤い色は痛み以上に、彼に熱い思いを蘇らせた。
その場に崩れ落ちないようにアーロンの足に力が入った。
「ようやく目が覚めたか?
私の前に現れた偽りの剣を握る男に容赦する気はない。
剣を握った以上、お前には責任がある。
勇者でない者をダンジョンから出すわけにはいかぬ。
偽りの騎士が勇者の称号を背負い、勇者の名を汚し、希望と呼べる剣を握った罰を与えねばならない。
お前は、剣を携えただけの憐れな男に過ぎないのだから。」
ユリウスは険しい目をしながら言った。
呼び方は「貴方」ではなく「お前」に変わり、ユリウスの口調は厳しいものへと戻っていた。
ユリウスもまた自らに課せられた役割を思い、アーロンに感じていた「魔法使いの子供」という思いは完全に消し去ったのだった。
アーロンの瞳は、巨大な力を持った男に対して、挑む炎に燃えていた。
「僕は、ゲベート国第1軍団騎士団隊長であり、悪から世界を救う剣の勇者である。そして、彼等の英雄となる男だ。」
アーロンは背筋を伸ばし、堂々とした声でユリウスの言葉を否定し、自らが何者であるのかを高らかに宣言した。
だが、ユリウスはその言葉を嘲笑うかのように冷たい視線を送った。
「お前が剣の勇者であるのならば、何故その手に剣を持っていない?
私に剣を向けることを恐れているからか?
それとも、その手に何か別の力でも持っているからか?」
ユリウスは床に落ちているアーロンの剣を見ながら言った。
アーロンはユリウスの剣から目を離さずにしゃがみ込み、自らの剣を拾い上げると瞬時に立ち上がり、今度は強い力で握り締めた。
「僕には、魔法使いの血が流れています。
僕の母は、魔法使いです。」
アーロンは目の前の偉大な魔法使いを見据えながら言った。
もう隠そうとはしなかった。
自らに流れる血を恐れることもなく、むしろ自信を持った声色だった。
「ほぅ…禁忌とされている男が勇者とは。
王はさらに愚かさを重ねたか。
お前もそれを知りながら勇者となった。
けれど、国民はどう思うだろうか?
それを知ってもお前を勇者と認めるのだろうか?
誰が許すだろうか?
大罪人の子に、一体何ができようか?」
ユリウスは一つ一つをゆっくりと問いかけ、答えを返せと漆黒の瞳で威圧した。
アーロンは一瞬表情をこわばらせたが、次の瞬間には迷いのない強い眼差しへと変わり、大きく口を開いた。
「知っているからこそ、勇者となったのです。
勇者となり、僕は責任を果たさなければならない。
国民が認めないのであれば、認めさせるだけです。
正しき事を為そうとするのに、誰かの許しがいるのでしょうか?許しなど要りません。
それに許しを与える者が、絶対的に正しいと言えるのでしょうか?言えるとしたら、その御方は1人しかいません。
白の教会で祈りを捧げた時に、ステンドグラスから差し込む太陽の光を見ました。
僕の為そうとする事が正しいという、神の許しはおりています。」
アーロンは力強く言い、白の教会で見た貴い光を心の中に思い描いた。
「父は罪を犯し続けている大罪人ですが、僕は同じではありません。僕は大罪人の子ではなく、騎士であり勇者です。
ゲベートの騎士達は愚かな王を見放していますが、僕の事は王の息子ではなく第1軍団騎士団隊長として信頼してくれています。彼等は、僕を王の息子としては見ていない。僕は、彼等の信頼に応える騎士として剣を掲げ続けます。
それに僕に流れる血を知っても、僕の事をすきだと言ってくれる友がいます。その友の言葉が全てです。
僕を大罪人の子というのはやめて下さい。僕は何の罪も犯していない。
僕は、僕の人生を、最期の瞬間まで枯れさせることなく、大切に咲き誇らせると決めたのです。
僕は堂々と胸を張り、騎士としての名誉を守り、気高くあり続ける、父とは全く違った男です。」
アーロンは声を張り上げ、目の前で自分を見下ろすユリウスを真っ直ぐな目で見た。
「それでも僕の事を認めない者もいるでしょう。
けれど、どうして僕がそういう者達の言葉で思い悩み、生涯臆病に生きなければならないのでしょうか?
僕にとっては何の意味もない者達の言動によって振り回される人生を送るのは、ごめんです。
僕の人生だからこそ、僕が信じた正しい道を自由に生きます。僕が、僕自身を傷つける道は、もう歩まない。」
アーロンはそう言うと、茶色い左目を見つめた。
「大切な友が、言ってくれたのです。
生まれてきたのには何らかの意味があったんだ、と。
魔法使いの血が流れている僕が世界を救えば、苦しみを背負い生きている者達に光を見せる事ができるでしょう。出自も何も関係なく、何かを為すのは自らの力であり、強い信念さえあれば批判を打ち砕き偉大な事を成し遂げられると。
僕は、彼等の光になりたい。
禁忌を犯して生まれてきた子が、世界を変える。
そして生涯胸を張って生き続けるのが、僕の使命であり、僕が生まれてきた意味なのでしょう。
僕の存在価値は、僕の為すべき事で決まりましょう。
僕はもう自らを忌み子や呪いの子とは言いません。
僕自身が既にそう思わずに、この身に宿る魔力を今は愛しているのですから。
この力はダンジョンの封印を解いた時のように、僕が守りたい者達を守り抜ける力となるでしよう。
呪いではなく、全ては力となる意味があったのです。」
アーロンは力強い声で言った。
そして、今度は漆黒の瞳を見つめ、強い力でユリウスの剣に挑みかかっていった。
ユリウスは口元に笑みを浮かべた。
アーロンの剣を容易く交わし、体勢を崩した彼の体を脚で蹴り飛ばした。アーロンは大きな音を上げて後ろの柱にぶち当たった。
柱がガタガタと揺れ、柱頭の装飾がバラバラと降ってくると、嫌な音を立てて床にめり込んだ。床から壁に向かって亀裂が走ると、壁が振動し崩れ始めた。
広場は崩壊するかのように激しく揺れ動いたが、ユリウスがアーロンに向かって一歩踏み出すと、静まり返った。
まるで魔法にかかったかのように、何の音もしなくなった。
「魔力を愛している…か。
ならば、私はお前の魔法を見てみたくなった。世界を救うと豪語した男の力を見たくなった。
お前が示す力次第で、私の力も見せてやろう。私の力を与えてやることもできる。
防御魔法は既に見せてもらった。
次は、お前の攻撃魔法を私に見せてくれ。」
ユリウスは甘く囁くように言った。
アーロンは漆黒の瞳を見つめた。
不意に、魔法使いの子供達が愛してやまない世界一の魔法使いの力をもっと見たいという好奇心が芽生えた。
甘い囁き声によって、ユリウスの力が与えられれば「もっと強くなれる」という危険な毒が体を回り、思考を甘く痺れさせていた。
「簡単に得られる力は、決して力にはならない」と分かっている彼ではあったが、圧倒的すぎる力は思考を狂わせようとしていた。
「何も恐れることなどない。
剣の勇者の力を示せ。」
ユリウスは、もう一度甘く囁くように言った。
アーロンの心臓の鼓動は激しく高鳴ったが、体に回った毒を追い出すかのように共に戦い続けてきた剣を輝かせると、剣を高く掲げた。
「剣の勇者である僕は、剣で力を示しましょう。
今この場所に立っている僕は、魔法使いではありません。
剣の勇者として、ここに立っています。
貴方の魔法をもっと見てみたいという気持ちはあります。世界一の魔法使いの魔法をこの目でもっと見てみたい。
けれど、その魔法は光の魔法に限られます。
誰かを救う魔法です。
攻撃魔法は友を傷つけてしまうかもしれない。僕は魔法を友を傷つける事には使いたくはありません。
魔法は傷つけるのではない、守る為にあるのですから。
魔法使いの血が流れている僕は、子供達が苦しめられてもなお人間に対して攻撃魔法を使うことなく、神の願いを守り続けた矜持を、僕も守らねばなりません。
僕は剣の騎士と魔法使いの両方の矜持を守ります。」
アーロンは剣を強く握り締めた。
「これから先、世界を救う時にも僕は魔法を使いません。
剣の勇者である僕は、剣を掲げて戦わねばならない。
もし僕が魔法を使って世界を救えば、一時的には救えても、より複雑になっていくでしょう。
圧倒的な力が加われば、弱い人間はその力を忘れられなくなり、やがては欲するようになるでしょう。
その力をなんとしてでも手に入れようと、恐ろしい所業をする者も現れるかもしれない。今は皮肉なことに、王の権力のもとに魔法使い達は人目に触れることはないですが。
そうさせない為にも、人間の世界を変えるのは人間でなければなりません。」
アーロンの瞳は怒りの色で染まった。
「暗く閉ざされた絶望の室から魔法使いの子供達を救い出し、彼等を守る時にこそ僕は魔法を使いましょう。
ゆっくりと時間をかけて、彼等の深く傷ついた心を癒せるように気を配り、彼等が本来の体と力を取り戻し、恐怖に支配される事なく人間に対して自らの意思をはっきりと口に出来るようになるまで支え続けなければならない。
その為ならば、いくらでも魔法を使いましょう。
僕の力を待っている子供達がいるのです。
僕は…僕達はなんとしても英雄として帰還しなければならない!」
アーロンは友の心に「英雄」という言葉を響かせるように大きな声で叫んだ。
そして、勢いよく兜を脱ぎ捨てた。
輝く金髪が汗で光り、灰色の鋭い瞳で友を見つめた。
旅の間、何度もフィオンに向けていたアーロンの自信に満ち溢れた表情だった。その瞳は全てを受け止め、乗り越えた事で、より一層強く激しく鋭さを増していた。
アーロンは再び剣を振りかざすと、友を連れ戻す為にユリウスの剣に挑みかかっていった。
迷いが消え去った剣の騎士の力は凄まじかった。剣に生きてきた騎士の剣は恐れを取り去ると、絶望と恐怖に対しても怯む事はなかった。怯む事こそ恐れのようであった。
互いの剣は火花を散らし、魂の雄叫びのような金属音が響き渡った。
アーロンは切り結び状態から武器の下をかいくぐり、斬りつけることなく体当たりして剣を取り戻そうとしたり、鍔迫り合いになったまま力強い腕を伸ばして友の腕を掴もうとした。
だが、どうやっても失敗に終わり、ユリウスの体に触れることすら出来なかった。
目の前にいるのに、あまりにも遠かった。
一方、ユリウスは切り結ばれた状態から即座に刃をかえして一歩詰め寄り、アーロンの喉元に剣を突き立てた。
「剣の騎士でありながら、全く私に届いていないぞ。」
ユリウスが耳元で言うと、アーロンは剣を突き立てられながらも不敵に笑った。
「もとより貴方に剣を届かせようとは思ってはいません。
僕は剣の騎士です。貴方には、僕の剣は、届かない。
はじめから分かっています。
神を守護する者が、何故神の如き者に剣を向けることができましょう。
だが、友には届いています。
僕の剣の音は、フィオンは何度も聞いているからです。
旅の間に何度も響かせ、友の耳と体に刻み込ませました。フィオンは、いかなる時も音に敏感に反応していました。部隊を預かる騎士の隊長ならば当然ですが。
友の剣の音が、届かないはずがない。
アンセル殿が貴方と剣を交えている間、僕は後方でただ恐れ慄きながら、見ていたのではありません。
アンセル殿と約束し、その時が来るのを、ずっと待っていたのです。アンセル殿が左目を失ってまで用意してくれたチャンスを逃しません。
フィオンは誰よりも強く、何があっても約束を守る男です。
黒い夜空に、もうすぐ赤い光が差し始めるでしょう。
赤い光が、黒い夜空を塗り替えるのです。」
と、アーロンは言った。
アンセルは自分が戦っている間はどのような状況になろうとも決して手出しをしないようにとアーロンに強く言っていた。
槍の騎士が友である弓の勇者に反応できるほど抗っているのならば、自分が正面からぶつかり続けることで、もっと闇の力を弱めさせられると思ったのだった。
アーロンは友の瞳を真っ直ぐに見つめ、語りかけるように言った。
「フィオン、約束を覚えているだろう?
同じ道を歩まないのであれば、僕が同じ道に君を引き戻す。
今が、その時だ。道が見えたぞ。
交わした約束は、何があっても守り抜かねばならない!
フィオン、君と交わした約束を守ろう!
約束だ!」
アーロンはそう言うと喉元に突き立てられた剣を、勇者の剣で力強く押し戻した。
「あらゆる者達が、君の帰還を待っている!
戻ってこい!フィオン!」
アーロンは大きな声で叫んだ。
ユリウスは押し戻された剣をすばやく下ろし、そのまま剣先を持ち上げて、アーロンの腹を突き刺した。
アーロンの動きが止まり、剣を握る手がダラリと垂れ下がり剣を落とした。美しい顔は激痛で歪み、口からは血を吐いて鈍い声を上げ、後ろに倒れそうになった。
ユリウスは片腕でアーロンを引き上げて倒れないように抱き寄せると、さらに深く突き上げた。
「その時ではなかったようだ。
剣の音も、友の叫びも、何も届かなかった。」
だが、アーロンは微笑んだ。
遠すぎるのならば、向こうから体に触れてくれるのを待っていたかのだった。
深く刺された腹からはドクドクと真っ赤な血が流れたが、ユリウスの肩に顔を埋めると、友の名を口にした。
「フィオン
いいから、戻ってこい。
僕を待たせるな。」
すると漆黒の髪に変化が現れた。先端が赤く変わり始めたのだった。
その変化を逃すまいと、アーロンは力ずくで押し倒し、馬乗りになって、剣を握る友の右手を掴んだ。
「思い出すな、フィオン。
はじめて君と剣を交えた湖での出来事を。
あの時も君の強さは凄かった。あれで、僕はさらに君に惚れたんだ。
あの時と同様に、僕はどれだけ君が優位に立とうが、最後には僕の元まで引き摺り込んでやる。」
と、アーロンは低い声で言った。
しかし無慈悲にも形勢は逆転され、今度はアーロンが下になった。
「槍の騎士、フィオン」
アーロンは恐れることなく、友の心に語りかけるような声で言った。
アーロンの心臓めがけて真っ直ぐに振り下ろされようとしていた剣の動きが変わった。
友を守る為に、囚われながらも腕を動かし、大きな音を立てて床に剣を突き刺したのだった。
男の口が、微かに、動いた。
「槍…騎士…俺は…」
アーロンに跨っている男が、微かに呟いた。
すぐさまアーロンは、ある女性の名も口にした。
アーロンはずっと友の心に最も近づける「その時」を待ち続けていた。髪の色が変わった今こそが「その時」だった。
その女性の名を聞くと、男の口が震えてその女性の名も小さく口にした。
「そうだ、フィオン。
君が愛してやまない女性の名だ。」
と、アーロンは言った。
「フィ…オ…ン」
男は自らの名を、ゆっくりと口にした。
その名と共に、絶望の上を歩き続けてきた。
苦しい日々を耐え抜いて勇者となり、英雄として後世にまで語り継がれるはずの男の名だった。
「そうだ、君の名だ。誇り高い騎士の名だ。
君はユリウスではない。
君はソニオ国第5軍団騎士団隊長であり、世界を救う英雄となる男だ。
君を見る、君の隊員の目は強い希望に溢れていた。
君が希望を抱かせたんだ。
この男の後ろを走りたいと。この男と共に駆け続けたいと。
君は、誰よりも、君の隊員を仲間を愛している。
君を見送った隊員の声と瞳を思い出せ!
隊長の名誉ある帰還を信じて疑っていなかった!
君は、君が愛する隊員のもとに帰らねばならない!」
アーロンは大きな声で叫んだ。
「仲間…隊長…俺は…俺の…隊員を…」
男は目をしばだかせて、自分が何者であるかを取り戻そうとしていた。
「そうだ、君は隊長だ。
君の隊員が君を待っている。隊員だけではない、彼女もだ。
フィオン、君はダンジョンから無事に帰還し、英雄となって彼女のもとにかえらねばならない。
彼女は君をずっと待っている。
君が1人の男として彼女のもとに来る日を。
ゼロではない日に、君が訪れてくれる日をずっと待っている。
君は幸せになっていい男だ。
彼女をその手で幸せにせねばならない。
君も彼女に幸せにしてもらわねばならない。」
アーロンは手を伸ばして友の頬に触れた。
「かえってこい、フィオン。
僕と共に戦い抜くと約束してくれたではないか。
君は約束を守る男だ。
共に世界を真の魔王から救おう。
3つの国に、あの日共に見た夜明けの光を僕達の手でかざすんだ。
絶望ではなく、希望の道に国民を導こう。
それが、僕達の真の使命だ。」
アーロンは力強い瞳で、真っ直ぐに友の瞳を見続けた。
「このままでは魔法使い達の心に、人間とは恐ろしい存在だという記憶しか残らない。
人間とはそうではないと、もう一度思ってもらう為には、彼等の室の扉を僕達が開けねばならない。
そうでなければ永遠に彼等の魂に恐怖が刻まれ、恐ろしい男達の顔しかでてこないだろう。
永い時を生きる彼等の苦しみは永遠となってしまう。
暗い扉を開けるのは、自らを苦しめる者達だけだと思わせてはならない。
その扉を、彼等を救う騎士が開けるんだ。
そうして、彼等に償おう。」
アーロンは力強く言った。
そして今度は感謝の念がこもった瞳で、友を見た。
「たった2ヶ月だった…。
でも君は僕にかけがえのない言葉をくれたんだ。
僕が僕自身の事を言っているとも知らずに、君は真っ向から否定してくれた。哀れみも同情もなく、心の底からそう思っているからこそ出た君の言葉が、どれほど嬉しかったのか…君には分からないだろうな。
君は絶望にくれていた僕の心を救ってくれたんだ。
こんな風に思う男がいるのならば、もう一度信じてもいいと思えた。
それに、全てを知ってもなお僕を受け入れてくれた。
君が僕の恐怖を完全に取りさらってくれたんだ。
今度は、僕が君を覆う闇を取りさらおう。
君に闇は似合わない。
君は諦めない!君は負けない!君は勝ち続ける!
夢の騎士であり続けよう!
僕は、君と共に走り抜きたいんだ!終わらせてはならない!この世界を!
君と共に世界を救う望みを叶えたい。
そして腰に剣を下げる事なく、君が酔うまで酒を飲みたい。君がいないと僕はつまらない。くだらない話をしながら、君に揶揄われ、君が笑う顔を見たいんだ。
何度でも言おう!僕には君が必要だ!
かえってこい、フィオン!
共に歩き続けよう!歩みを止めることなく!」
アーロンは流れいく血に負けまいと、凄まじい声を出した。
「騎士の剣とは、国民の為に振りかざすものだ!
国民を悪の手から守る為に!
真の魔王とは、国民を虐げる国王である!」
アーロンは友の手を握ると立ち上がって、共に床に突き刺さった剣を抜き、天井に向かって高く高く剣を掲げた。
「約束を果たそう!
英雄として帰還し、剣と槍と弓で、新しい夜明けを告げる!
真実を明らかにし、悪を討伐し、2度と同じ過ちを繰り返さないように戦い続けよう!
誰も苦しむ事なく、誰もが自由に生き、誰もが希望を持てる国を作り守り続けるんだ!
暗い闇に覆われた世界を暁の光で照らしてみせる!
未来永劫輝き続ける光を、僕達の手で掲げよう!
その為に、生きてきた!」
と、剣の勇者は叫んだ。
掲げた剣は、この上なく煌めいた。
真っ直ぐに天井に向かって掲げられた剣は全てを明るく照らすような眩い光を発したが、アーロンよりも男の手の力が強くなった。
そして漆黒の瞳が不思議な笑顔を浮かべると、眩い光は暗い闇にのまれていった。
「暗い闇は容易くは明けぬもの。
絶望とは、簡単に逃れられぬから絶望なのです。
最後まで闇に引き摺り込もうとする。
まだ光は差してはいない。
それに英雄が死ねば、今のように世界はまた闇にのまれるだけでしょう。
何度も何度も同じ事を繰り返すだけです。
どうやって守り続けるのか?」
と、ユリウスは言った。
「僕が死んでも、英雄が残したものは生き続けるでしょう。
何度も何度も立ち上がる者達がいるだけです。
僕は知っています。
英雄が気高くあり続ければ、少年と少女の瞳に光を焼き付けることができる!英雄とは、自らの為に行動するのではない。誰かの光になる為に行動するのです。
ならば光を後世に繋いでいけるでしょう!
僕達は終わらない。何度も何度も英雄がうまれる。
僕が国を守る騎士に光を見たように、光がある限り、光は消えはしないのです!」
アーロンは自らの剣を拾い、剣を構えた。
その剣の輝きは、男の言葉が真実であると証明した。
「挑み続けます。
次の光を生み出す為に!
貴方であっても、望みを挫く事はできません。
どれほど打ち負かされようとも、何度でも気高く立ち上がり戦い続けましょう!
それが勇者であり、光となる英雄の剣です!」
と、アーロンは叫んだ。
ユリウスは剣を高く高く掲げた。
掲げた剣を力強く握り直すと、剣には稲妻のような光が走った。
ユリウスの髪は逆立ち、漆黒の瞳がさらに色濃く輝くと、アーロンの剣に向かって勢いよく振り下ろした。
アーロンの剣は粉々に砕け散り、真っ赤な火をほとばしながら熔けていった。
その衝撃でアーロンの体は後方の柱まで吹っ飛び、柱にめり込むようにぶつかって頭から血を流し、体は床に叩きつけられた。
「その程度の剣では倒せません。
望みを果たすことは出来ないでしょう。」
ユリウスは左手に剣を持ちかえ、アーロンに静かに近付いて行った。
アーロンはフラフラと立ち上がったが、その手は多くの血にまみれ、身を守る為の剣もなかった。
広場には何の物音もしなくなった。
ユリウスの歩みを妨げまいと揺れていた柱と床も静かになり、恐ろしい足音だけが響いた。
ユリウスはアーロンの前に立ち、彼の右手をとった。
アーロンは声すら出せなくなった。
自らの意思で体を動かすことが出来なくなり、漆黒の瞳を見つめることだけが許されているかのようだった。
「そこに跪きなさい。」
ユリウスが静かにそう言うと、アーロンは言われるがままに跪いていた。
ユリウスに触れられている右手から冷たい感触が細胞に伝わってくると、アーロンは思わず声を漏らした。そのまま右肩まで手を這わせると、突然指を曲げて皮膚に食い込ませ、右肩から手首にかけて5本の筋を描くように切り裂いていった。
真っ赤な血が噴き出し、5本の筋がドクンドクンと動き出し、みるみるうちに黒い蛇のような生き物が頭をもたげて現れた。
「彼等は愚か者共を喰らい尽くす。」
ユリウスがそう言いながら目を細めると、その言葉で力を得たように甲高い音を発してウヨウヨと動き出し、アーロンの切り裂かれた右腕をつつき始めた。
アーロンは苦悶に耐えかねて、大きな叫び声を上げた。
ユリウスは右手に剣を持ちかえた。
その時、空気を裂く鋭い音がして、彼は一歩後ろに下がった。
友を守ろうとする矢が、2人の間に放たれたのだった。
「フィオン!
貴方の前にいるのは友であるアーロンよ!
勇者の敵は、目の前にいる友じゃない!勇者が討ち滅ぼさなければならない敵は別にいる!
その敵は、英雄でなければ討ち滅ぼせない!
ならば、私達が英雄となって帰還しましょう!
ルークとマーニャにも、そう約束したじゃない!」
矢を放ったエマの右手首には相変わらず蛇がトグロを巻いていた。だが彼女は意識を取り戻して立ち上がり、友を助けようと弓を引いたのだった。
ユリウスはエマをチラリと見たが、構う事なくアーロンに向かって剣を掲げた。
エマはもう一度矢を放とうとしたが、血だらけの別の男が柄だけとなった剣を握り締めて立ち向かっていくのを見た。
「ユリウス!
その剣、俺が受けとめる!
希望の光をもたらす勇者を守るのが俺の役割だ!」
そう叫んで挑みかかったのは、柄だけとなった剣を握り締めたアンセルだった。動けているのが不思議なほどに、体は真っ赤な血で染まっていた。
抉り取られた左目から流れる血は今も止まらず、顔の左半分は魔術が施された布でぐるぐる巻きにしていたが、動くたびに布は赤黒い血で染まっていった。
「アンセル殿!いけません!
僕は、まだまだ戦えます!」
アーロンは叫んだが、その声には力はなかった。
「俺は、俺の役割を果たさなければならない!
お前は、もうしっかりと自分の役割を果たしてくれた。
槍の勇者の髪の色が戻るほどに、友の声を届けてくれた。
ここからは、俺がやる。
今度こそ、ドラゴンが真実の意味で勇者を守り抜く。
お前はその小ちゃなドラゴンと共に、そこで見ていろ。」
と、アンセルは言った。
「無茶です!そのような体では!」
「今無茶しないと、世界が終わる。今が、俺の踏ん張り時だ。
俺の真価が試される。
お前のさらなる役割を果たすのは、これから先だ。
俺が、その舞台を用意してやる。
俺に任せろ。」
と、アンセルは叫んだ。
アーロンはアンセルの背中を見た。
その背中は逞しく、男の言葉を信じてもいいと思わせた。さらにアンセルが背負っている弓と矢筒は血に染まりながらも、何か特別な力があるかのように光り輝いて見えた。
「僕は貴方を信じます。」
と、アーロンは言った。
「そうだ、それでいい。
俺は、俺を信じてくれる者を裏切らない。
なんとしても英雄として帰還させる!
あの時、果たせなかったドラゴンの役割を俺が果たそう!」
アンセルはユリウスに宣言するように言い放った。
「まだ戦うつもりか?
まだ苦しむか?
全身血だらけのお前に何が出来る?
お前には、力が足りない。
左目に焼き付かせてやった恐怖を忘れたのか?」
と、ユリウスは言った。
「力が足りなくても、俺は何度でも何度でも立ち上がる。
恐怖を焼き付けられ、串刺しにされたからこそ、俺は諦めてはいけない。左目を抉り取られポッカリとあいた部分に、あの光景が今も広がっているからだ。俺が打ち負かされる事で辿り着く者達の運命が、どれほど悲惨であるのかを。
あの光景を見たからこそ、俺は挑み続ける。
必ず、俺は守り抜く。
あんな死は、騎士の皮を被った悪人共だけで十分だ。お前は罪の重さに比例して殺させた。騎士でありながら殺戮略奪暴行凌辱を繰り返すが、権力によって守られる奴等に相応の罰を与えたんだ。
だからゲベートの騎士団はいなかった。ゲベートの騎士はアーロンによって罰せられるからだ。
水蛇はもう十分愚か者を食い尽くした。もう腹一杯だろう。
時間だ、そろそろ帰ってもらおう。」
と、アンセルは言った。
「そうか、そう理解したのか。
だが、お前にはもう戦う為の剣はない。」
と、ユリウスは言った。
ユリウスは自らの剣を床に突き立てると、アンセルから柄だけとなった剣をもぎとった。
素早く血水晶を抜き取ると、柄を床に捨て、広場の中央まで歩いて行った。血水晶が抜き取られた柄は粉々に砕け散った。
ユリウスの大きな手の中に血水晶が優しく包みこまれると、光が漏れ出して土となり指先から流れ落ちて消えていった。
ユリウスが跪いて祈りを捧げると、犠牲になった魔法使いの子供達を導く為の光が天井から射した。
立ち上がったユリウスの体は、アンセルの瞳にとても大きく映った。
ユリウスがまとう闇はいよいよ濃くなった。
彼の姿は漆黒の大きな影のようになり、冷たい瞳が黒い姿の中で輝いた。
広場も一段と暗くなり、闇が垂れ込めていった。
気を抜けば、ユリウスがもたらす闇に心が引き摺り込まれそうだった。
「ならば、弓を掲げよう!
剣がなければ弓を掲げ、弓が折れれば両腕を広げるだけだ!
俺の全てをかけて、ソニオを照らす希望の光を取り戻す!」
アンセルは目の前に広がる恐怖に負けないように、力を振り絞って叫んだ。
「アンセル
弓を床におけ。
お前が私に抗う度に、侵食はさらに強くなり、顔の左半分から腐り果てていくぞ。激しい痛みも伴う。
人間が滅んでも、魔物は生き続けられる。
もう、諦めろ。
砂時計の砂は、5分ともたない。
もう、間に合わない。
もう、遅すぎたのだ。
何も変わらない人間の世界に終わりを告げなければならない。
愚か者が蔓延り、腐り切った世界を、絶望で覆い尽くす。
光は消え失せた。」
と、ユリウスは言った。
「俺は絶対に諦めない。まだ5分もある。遅すぎたなんて事はない。
俺が弓をおく時は、心臓が止まった時だ。
勇者は魔物である俺を見ても殺そうとはしなかった。
ならば、俺も彼等を見殺しになんかできない。
人間とは変われない者もいるが、変われる者もいる。
変われる者が英雄となり、戦い続ける者が声を上げるのであれば、この世界に希望は広がるだろう。
立ち上がる者がいる限り、俺は絶対に諦めない。
俺は自らの為すべきことを為すだけだ!
たとえ、この体がどうなろうとも!
それは、俺にしか出来ないからだ!
勇者が変える世界を、お前に見せてやろう。
お前をもとの光の魔法使いにかえしてやる!」
アンセルは声を張り上げ、背負っていた弓を勢いよくとり、高く掲げた。
すると、その弓柄に刻まれていた文字が白く輝き、闇夜に輝くアクアマリンのような光を発すると、暗くなった広場を希望の光のように照らした。
すると、ユリウスがはじめて声を上げて笑い出した。
彼の剣にも閃光のような光が走り、広場には一陣の風が吹いた。
アンセルは吹き飛ばされそうになったが、しっかりと踏ん張り、あとずさりをする事なく立ち続けた。
「ようやく私が望む男になったか。
自らの信念すらも持てない男の体では、私の力は適合できぬからな。
では、楽しませてもらうか。
矢をどのように放つのか、私は見てみたくなった。
その勇気を褒め称え、私の力を見せてやろう。」
ユリウスは小さく口を動かして詠唱を始めた。
ユリウスの剣が大きな音を発して、暗黒の空に轟く稲妻のように煌めいた。神々しく剣身が光ると、剣先から恐ろしい紅蓮の炎が燃え上った。
火の魔法だった。
ユリウスの炎の力は凄まじく、まるで炎が生きているかのように荒れ狂い出した。燃え上がっているのは剣だけなのだが、アンセルの全身が焼かれているかのように熱くなり、肌がジリジリと痛むと、眩暈がして息をするのも苦しくなった。
広場の壁も男の恐怖を思い出して、叫び声を上げるかのようにガタガタと揺れ動き、バラバラと崩れ落ちていった。相手を戦慄させるような恐ろしい風が吹くと、数本の柱が倒れて床に亀裂が走った。
そして、凄まじいほどの大きな音が鳴り響いた。
アンセルはずっと鳴り響く音は意味をなさないと思っていたが、今になってようやく分かった。
人間の断末魔の叫びが合わさった音だった。
それはユリウスが殺した人間の死ぬ間際の苦しみと痛みの声であり、彼が背負う死の影そのものだった。
すると、アンセルはその目に何か突然幻覚を見たかのように固まった。
ユリウスの後ろに多くの屍の幻を見た。
ユリウスの裁きにより、黒馬によって体中を喰らわれ、炎によって焼かれた2つの国の人間の屍の山だった。
麓は灰であり、山腹は焼かれ、頂は顔形も分からないほどに破壊し尽くされ苦しみのたうち回っている残骸の山の幻だった。
ユリウスが左手を上げると、灰がウヨウヨと動いて、叫び声を上げている頂の残骸の口の中に入り静かにさせた。
ユリウスは朗々と響き渡る声で言った。
「アンセル
終わりか、新たな始まりか、お前が放つ矢で決めるがいい。
私は、それに従い、導こう。」
神の如き者の右手に握られた燃え盛る剣が、アンセルに向けられた。
黒い煙が渦を巻きながら剣から立ち上がり、生か死か、アンセルが放つ矢に委ねられた。
「マーティス、勇者を守れ!」
と、アンセルは叫んだ。
勇者達の体では、燃え盛る剣から吐き出されている炎の熱量には耐えきれずに死んでしまうのではないかと思った。
アンセルの体から汗が大量に流れ、まとわりつく汗と血の臭いで頭がおかしくなりそうだった。
暗い広場の中で、死を連れてくるユリウスの剣の炎だけがほとばしっていた。
アンセルは弦に矢を番えたが、自分の心臓の音が聞こえるようだった。
彼の全身が恐怖で満たされていた。
目の前の男に対する恐怖と責任の重さに対する恐怖だった。
この腕に世界の行く末が託されている。生命を背負う重みで押し潰されそうだった。
矢をどのように放つのか、アンセルに明確な考えなどなかった。頭は混乱して、額からは止めどなく汗が流れ、手が震えると、矢はあらぬ方向に飛んでいった。床の亀裂に飲み込まれて折れ曲がり、3本の矢のうち1本は消え失せた。
アンセルは、炎の熱により灰となって消えていく折れ曲がった矢を見つめた。
砂時計の砂は、サラサラと落ちていった。
もう、時間はなかった。
アンセルは顔を上げた。
目を大きく開いて、まじまじとユリウスを見つめた。
目の前の恐怖と絶望を直視すると、様々な困難を乗り越えた日々が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
弱くて何も出来なかった過去、だが今の自分は膝を折ることなく立っている。
彼は脳裏に愛する者達の顔を思い浮かべた。
ダンジョンの仲間、マーティス、ミノス、そしてリリィ…。
大切な人と交わした約束を守り続けなければならないという勇敢な気持ちが奮い立った。
交わした約束を守れないことが、今のアンセルには死よりも恐れることだった。
アンセルの望みは吹き飛ばされ炎によって燃やし尽くされたかと思われたが、愛する者達を思い浮かべることで、しっかりと踏みとどまっていた。
それこそが厳しい鍛錬で学んできた事だった。
剣の腕だけではなく、苦しい稽古と心の葛藤とミノスの死から学んだ心の強さだった。
「槍の勇者を連れ戻す。
勇者を英雄として帰還させなければならない。
それぞれの国を光へと導く英雄が必要だ。
約束を守らなければならない。
俺は守り抜く。」
アンセルは彼の望みを何度も口にした。
天井まで伸びていた恐怖に打ち勝つように、背中を真っ直ぐに伸ばして、彼の望みを現実に変えようと弓を握り締めた。
広場に吹き荒ぶ恐ろしい風はどんどん激しくなり、身を斬るような冷気が加わった。
吹き荒ぶ風で、彼は右目すらも閉じてしまいそうになった。
風は冷たくなる一方で、弓を握る手がかじかんで感覚がなくなり、弓を放つ為の温もりすらも奪いさろうとしていた。
けれど、彼はその中にあっても一条の光に照らされていた。
その腕で抱き締めた愛する者の温もりを思い出すと、闇に飲み込まれる事のないように彼の手を温かくさせた。
しっかりとした感覚が戻ってくると、強い力で矢を握った。
アンセルが見上げた天井は真っ黒な闇に覆われ、夜明け前の最も暗い空のようだった。
彼は、その闇に絶望ではなく、夜明けが迫っている希望を見出した。
アンセルは天井に狙いを定めた。
「俺の願いを形にする。
水晶玉で見続けた彼等の言葉を信じる。
勇者の望みを信じ、暗く沈んだ空に暁の光をかざす。」
アンセルはそう言うと、願いを矢に込めた。
勢いよく天井に向かってその矢を放つと、炎のように燃え盛る赤い光の矢となった。
彼の望みを形にしたドラゴンの炎が、真っ直ぐに駆け上っていったのだ。
突然、ユリウスの動きがピタッと止まった。
「ユリウス!
お前がクリスタルの封印から解かれたのは、希望をもたらす為だ!
お前は、世界を滅ぼす魔王ではなく、光の道に導く魔法使いだからだ!
お前が望んだ夜明けの光、彼等がもたらす暁の光を見せてやる!」
と、アンセルは叫んだ。
ユリウスは燃え盛る赤い光の矢を見た。
それは真っ黒な空に広がっていく、赤い暁の光のようだった。暗く垂れ込めていた夜空を変える、どこまでも広がる暁の景色をつくりだした。
それは最果ての森の大地の上で、友の生命に等しい剣を握りながら見た、夜明けの光だった。
絶望を希望にかえる、暁の光。
友と見た景色を思い出し、この世界に夜明けの光をもたらす為に、力強い男の声が響き渡った。
「俺は真の敵を討つ。
それは人間の国王だ。
国王を討ち、人々を苦しめる騎士団を討ち、国を変えてみせる!
誰もが希望をもてる国にしてみせる!
俺が殺し苦しめた人々の数以上の人を幸せにする!
その為に、俺は生きてきた!」
槍の勇者フィオンは叫んだ。
ここに3人の勇者は真の魔王の名をユリウスに告げ、彼等の望みを口にした。
ユリウスは、剣を鞘に収めた。
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