第76話 希望

 


 アーロンは心が粉々に砕け散った「あの日」を思い出していた。「あの日」から、何もかもが変わったのだった。



 アーロンは幼少の頃から類稀なる美しさと優雅な立ち居振る舞いで、多くの人を魅了した。

 勉学と剣術の両方に優れ、神に愛されていると称されるほどに何もかもが素晴らしく光り輝いていた。

 頭の回転が早く、一度読み聞きをしただけで理解してしまい、勉学を教えている者が舌を巻くほどであった。

 剣術の鍛錬にも日々汗を流したが、不思議な力が備わっているかのように何度か剣を交えただけで相手の剣筋が分かった。だが才能に溺れることなく努力を怠らなかったので、10歳を超える頃には稽古では騎士すらも負けてしまうほどだった。


「余人の遠く及ばない才能を天から与えられている。

 ゲベートの未来は明るい。

 これから先も、アーロン様の近くで、国が栄えるのを見続けたい。」

 笑顔を浮かべた多くの者達がアーロンを褒め称えて取り巻いた。

 この頃の彼は、今とは違って人間とは如何なるものであるのかを知らなかったので、顔を赤らめながら微笑んでいた。


 婚約者とも、すぐに心が通じ合った。

 聡明で美しく誰に対しても朗らかで優しい彼女は彼の理想だった。まさに運命の女性だと思った。彼女の明るい笑顔を見るたびに幸せな気持ちになり、心から愛しく思った。


 友人にも恵まれた。

 楽しい日々を共有し、辛い時には励まし合い、喧嘩もした。

 友とは少年ながらも国の将来について熱く語り合い、互いに切磋琢磨しながら成長していく充実した日々だった。

 ゲベートのさらなる繁栄を願い、国を守っていこうと友と誓い合った。

 

 ほどなくして大きな力も加わり、彼は第1軍団騎士団隊長となった。

 幸せに満ち溢れた日々だった。何一つとして陰りのない自らの人生に深く感謝をした。

 まるで魔法にかかったかのように、全てが上手くいっていた。

 アーロンは心から笑っていた。

 今のような感情を偽る為の優しい笑顔ではなく、美しく見える世界に感謝しながら、声を上げて笑っていたのだった。



 けれど、魔法のような日々はそう長くは続かなかった。

 魔法はいつかは消えていく。

 ゲベートに吹く風は、偽りで彩られた世界を許さなかった。




 はじまりは単なる興味だったのだろうか?

 いや、体に流れる血が、苦しめられている者達を助けるように警鐘を鳴らしたのかも知れない。

 そう、それは運命だったのだろう。


 アーロンは「魔法」という言葉に、いつからか強く心惹かれるようになった。城の中にいるという見たこともない魔法使いの子供達に会ってみたいと思うようになった。 


 騎士であっても会うことは出来ないのだが、アーロンが王である父に直接頼むと、王は目を細めながら頷いた。父は息子のことを目に入れても痛くないほどに可愛がっていたが、息子は父ではなく王としてしか見ていなかった。父に対しては尊敬や愛情など不思議なほど持たなかったが、それは表情には出さなかった。

 すぐに王は側近を呼び、アーロンには聞こえないぐらいの小さな声で何かを囁いた。

 王の権力は絶対であり、側近は何も言うことなく頷いた。

 こうして決められた曜日の、決められた時間という条件のもと、魔法使いの子供達の室に出入りをすることが許された。それ以外の時間は教育にあてなければならないということで、決して室に入ることは出来なかった。

 その裏に隠された意味を考えようともせず、何も疑うことなく、魔法使いの子供達に会えることを彼は喜んだ。



 魔法使いの子供達は、突然現れた「王の息子」に怯えた顔をした。アーロンの逞しい腕をチラチラと見る子もいた。

 だが彼の言葉遣いは優しく、物腰も柔らかだった。

 ある少年が、彼の瞳を見ながら恐る恐る近寄って行った。彼の優しい瞳と香りに触れると怯えた表情は消え去り、他の子供達も近付いて行った。

 その日のうちに、恐れの目で見る子はいなくなった。

 アーロンは、ただ嬉しかった。

 まさか子供達が、人間であるはずの彼に何か言いようのない親近感のようなものを感じているとは思いもしなかった。


 月日が経つにつれて、子供達は少しずつ微笑みを浮かべるようになった。


 しかし、それ以上の事は「彼に」願おうとはしなかった。

 側近達は扉の横で常に目を光らせていた。その薄気味悪い目は、子供達が少しでも妙な行動を起こそうとするのを許さなかった。


 

 ある春の暖かな午後、彼は何も言わずに、締め切っていた室の窓を開けた。

 「王の息子」のする事を止める側近はいなかった。

 それに窓を開ける程度では、子供達は逃げ出す事はないだろうと思っていた。


 しかし淀んだ室の空気を変えるかのように、穏やかな風が吹き込みカーテンを揺らした。側近は風によって揺れるカーテンを眺めた。

 

 アーロンは気にすることなく次の絵本を取ろうとしたが、彼の手に触れたのは、子供の1人がテーブルにおいた魔法書だった。

 魔法書を手に取ると、彼は全身の血があつく燃えたぎるような感覚に陥った。パラパラとページを繰ると、ある呪文が目に入り、声にこそしなかったが脳裏に焼きついた。本来であれば魔法使いの呪文の言葉を理解するなど知識がなければ不可能だったが、彼にはその文字を読み理解することが出来たのだった。

 彼は固まって動かなくなった。

 すると子供の1人が、彼が手にしているのは魔法書であると気付いて別の絵本を手渡した。すると彼はニッコリと微笑んで、何事もなかったかのように魔法書をテーブルの上にそっと戻した。


 すると風は止み、側近達も視線を戻した。



 その夜、アーロンは軽い興奮状態にあるかのように眠れなかった。目を閉じたままベッドの上で何度も寝返りを打っていた。時計の針の音が異様に耳に響き出すと、彼は気持ちを鎮めようと思い、ゆっくりと起き上がった。

 窓を開けて冷たい夜風を感じていたが、風に導かれるようにバルコニーに出た。

 見上げた漆黒の夜空には、美しい三日月が煌々と輝いていた。

 すると、アーロンは父を思い出した。父は三日月を恐れ、その日だけはいつも早くに執務を終え、宮殿の部屋に閉じこもるのだった。

 だが、アーロンは違っていた。剣を鞘からはじめて抜いた日の夜空には、今日のような美しい三日月が輝いていた。その輝きがあまりにも美しかったので、新しく何かをはじめる日は三日月の日と決めていた。


 月を見ていたアーロンは運命のようなものを感じた。

 バルコニーから部屋に戻ると、ドアの鍵をちゃんとかけていることを確認してから、鏡の前に立ち大きな手を見つめた。

 鏡に映る彼の頬は少し赤く染まっていた。

 魔法が使えたら国の役に立てるとでも思ったのかもしれない。けれど、どうせ人間である自分には魔法は使えないし誰も見ていないのだからと思い、気軽な気持ちで詠唱した。

 すると広げた手の平には、小さな小さな炎があらわれ、ユラユラと揺らめいた。

 アーロンは大きく目を見開いた。

 何度も瞬きをしたが、間違いなく手の平には小さな炎が揺れていた。鏡を見ても、自らの手の平で揺らめく炎が映っていた。


 アーロンは鏡に映る自らの真っ青な顔を凝視した。

 するとグレーの瞳がとてつもなく恐ろしい色に見え出した。魔法使いの子供達の顔が頭に浮かぶと、髪の色は様々だったが瞳は黒色だった。その事を思うと、背筋が寒くなった。


「かつての勇者は魔法が使えたらしいが、本来は魔法使いだけしか魔法は使えない。

 火の魔法は失われた魔法でもあり、とてつもない魔力と猛々しい魂がなければならない。

 それを…どうして…僕が…?

 いや…そもそも…何故僕が魔法を使えるのだろうか?

 僕には魔力がないはずなのに…どうして…。

 何かの悪い夢だ…悪い夢に違いない。

 疲れているんだ…幻覚だ…。

 この事は忘れよう…忘れてしまおう。」

 アーロンはそう言いながらも、ますます恐ろしくなり、その場に崩れ落ちた。



 少しだけ開いていた窓から冷たい夜風が吹き込んだ。

 彼の全身が外からも凍りつくようだった。

 顔を上げると揺らぐカーテンの隙間から見える三日月が、自分が魔法を使う瞬間を見ていたように思った。


 漆黒の夜空のように重くのしかかる絶望感を、この時はじめて味わった。


「忘れるんだ…」

 アーロンは何度も呟いた。




 それから数日が経ったが、忘れられるはずもなかった。

 アーロンの不安と恐れは日に日に強くなっていき、真実が知りたくてたまらなくなった。

 

 アーロンは王妃の子ではなかった。

 王妃は子に恵まれず、王は愛妾との間に子を作っていた。

 母は没落した貴族の娘で非常に美しい女性だったとアーロンは聞かされていた。生まれつき体が弱く部屋に篭りっきりで、愛妾といえども社交界に出ることもなく、母を知る者は誰もいなかった。

 出産してすぐに体調を崩して亡くなり、母の肖像画もなかったので顔を知らなかったが、王は母親似の息子の美しい顔を自慢にしていた。

 アーロンの瞳の色はグレーだが、王の瞳の色はゲベートでも珍しいヘーゼルで光によって複数の色に変わった。

 あの瞬間まで、珍しい瞳の色について深く考えることはなかったが、黒に限りなく近いグレーとしか思えなくなった。




 そんなある日のことだった。

 いつものように魔法使いの子供達と遊んでいると、ナタリーという名の少女の姿を何日も見ていないことに気が付いた。白金のような金髪の巻き髪で、白い肌に頬はほんのりと赤い、大きな黒い瞳をした愛らしい女の子だった。


 何人かの子供達は違う場所で魔法の特訓をしていると聞かされていたので、そのメンバーに加わったのだろうかとも思ったが、気になって仕方がなかった。

 子供達に小さな声で聞くと、分からないとでもいうかのように首を傾げるだけだった。 


 アーロンは妙な胸騒ぎを覚えた。


「ナタリーが好きな花が咲いたので、見せてあげたい。」

 アーロンは室から出てしばらく歩くと、廊下に飾られた花を見ながら何気なく言った。


「ナタリーは体を悪くして、空気の良い地方で療養をしています。」

 側近は声色を変えることなく言った。


「何処の地方に行ったのか?」というアーロンの問いに対しては側近は言葉を濁した。

 「いつ頃帰ってくるのか?」については「彼女の体調次第です」と答えた。

 アーロンはチラリと見た側近の横顔を訝しんだ。口ではどのような事を言えても、その瞳は信用できなかった。何か隠し事をしているのではないかと思った。

 

 ナタリーが何か恐ろしい事に巻き込まれているのではないかと思うと、騎士団の仕事の合間を縫って側近を何度も尾行した。

 なかなか尻尾を掴めなかったが、冷たい雨の降る日の午後に、側近は庭園の隅で、雨の音に紛れながら小さな声で怪しげな話を始めたのだった。


「今度こそ、神の怒りに触れるのではないか?」

「だが王は止められない。やりたいようにやらせておくしかない。懐妊しないように願うしかない。」

「次の検査はいつだ?」

「1ヶ月後の満月の日だ。

 朝は王がまだ部屋にいらっしゃるかもしれない。

 午前中はマガイモノの室で作業をしてから、夕方にでも宮殿に向かうとしよう。」

 淀んだ空に稲妻が閃くと、側近の醜悪な素顔が光った。

  

 アーロンは心臓が止まりそうになった。

「神の怒り、王、懐妊」という言葉とナタリーを結びつけ、恐ろしい想像が止まらなかった。

 さらに魔法使いの子供達のことを「マガイモノ」と呼んでいる事に驚愕した。「作業」が何を意味しているのか分からなかったが、「物」のように扱われていると側近の言葉の調子から容易に想像できた。

 アーロンは両手で顔を覆った。何かが少しずつ音を立てて壊れていくのを感じた。

 彼は足音を出さないように、その場から静かに立ち去った。


 しばらくすると恐ろしい雷が城の近くに落ちた音がした。

 もう引き返すことのできない恐ろしい道に足を踏み入れてしまったようにアーロンは感じた。



 翌週になり彼は室に行くと、側近に見つからないように魔法書を絵本で隠しながら開き、必要な呪文を暗記した。

 その日の夜から、姿を消す魔法を完全に会得する為に、何度も自らに繰り返し施した。


 満月の日になると、アーロンは急に体調が悪くなったと言って騎士団の訓練を休んだ。

 姿を消し、魔法使いの子供達の室の前で側近が出てくるのを待ち続けた。側近が室から出てくると、彼は影のように後ろをついて行った。


 宮殿に着くと、側近は誰も目もくれないような部屋のドアを開いた。部屋に入るとジメジメとしていて埃っぽい臭いがした。

 側近は一見重厚に見える家具に手を触れると、片手でおしのけた。見た目こそ重厚だったが、男が一人で動かせるほどの軽い家具だった。

 家具をどけると、地下へと続く暗い階段が現れた。

 側近は家具の引き出しを開けてランプを取り出すと灯りをつけ、静かに暗い階段を降りて行った。

 アーロンは音を出さないように細心の注意を払いながら後ろを歩いたが、気が気でなくなり足が震えて壁に手をつきながらでしか先に進むことが出来なくなった。

 地獄へと続いていく階段のように見え出した。


 もう何度も戦場に出ていたが、こんな気持ちになったことはなかった。真実を知りたくて来たはずなのに、アーロンは逃げ出したくなった。


 僕が考えている事が間違いであって欲しい

 一国の王である父がそんな事をするはずがない

 こんな逃げ場のない空間に少女を閉じ込めて全てを奪うなんて…そんなはずはない…お願いだ…

 アーロンは祈るように心の中で繰り返した。


 側近は暗い階段を降りきると、短い通路を歩いてまた階段を上り、その先に現れた細長い通路を歩いて、立派なドアの前で立ち止まった。

 ドアを3回ノックした。

 中から男の返事がない事を確認すると、ドアを開けて部屋に入って行った。



 側近が部屋から出て来ると、アーロンはぶつからないように壁によった。

 側近はアーロンに気付く事なく戻って行った。

 アーロンも戻りたくなったが、真実を知らなければならないと思い、側近の足音が聞こえなくなると震える手でドアをノックした。

 今度は「どうぞ」と答える少女の声がした。その声は探していたナタリーの声だった。


 アーロンはドアをゆっくりと開き、静かに部屋に入って行った。宮殿の他の部屋と同様に豪華な家具でしつらえてあったが、中でも彼の目を引いたのは、部屋の中央に置かれている少女が一人で寝るのには大きすぎるベッドだった。


 ナタリーはラベンダー色のネグリジェを着て、ベットの側の豪華なソファーに腰掛け、高いところにある小さな窓から見える青い空を眺めていた。

 彼女は小刻みに震えながら、アーロンの方に向き直った。


「そこにいらっしゃるのは…アーロン様ですね?」

 そう言ったナタリーの黒い大きな瞳は悲しみの色に染まっていた。

 胸元が大きく開いたネグリジェから見える雪のように白い肌には、男が女を堪能し愉しんだ跡がくっきりと刻まれていた。柔肌を蹂躙した噛み跡や吸い付かれた鬱血痕が痛々しいほどに白い肌を紅く染めていた。


 アーロンが驚愕した表情になると、彼女の顔はみるみる青ざめていった。彼の視線から肌を隠そうと、膝にかけていたブランケットを胸元まで引き寄せた。

 男の一方的な欲望をぶつけられているということを、アーロンに知られたショックは大きかった。彼女は体の震えを止めようと、ブランケットを強く握り締めた。


「すま…ない…僕が……見えるのか?」

 無遠慮に直視してしまった肌から目を逸らしてアーロンは言った。


「はい…うっすらと…ですが。

 それに…優しくて素敵なアーロン様の香りがしています。

 ここに来てからは、頭が大分はっきりとしてきましたから。」

 ナタリーはそう言うと下を向いた。



「本当にすまない…すまない…。

 謝ってすむことじゃないけれど…僕の父が…本当にすまない…すまない…」

 アーロンは深く頭を下げた。

 どんな言葉で謝罪をすればいいのか分からなかった。

 頭も真っ白になり、何度も「すまない」とだけを繰り返した。  


 ナタリーは何も答えなかった。

 アーロンは下を向きながら彼女が震えて服が微かに動く小さな小さな音だけを聞いていたが、やがて苦しい顔をしながら顔を上げた。


「ここから…逃げ出そう。

 僕が…何とかする…こんな所に…いさせられない。

 僕の父が…許せない…いや…僕も…あの男の血が…同じ血が…同じ…」

 アーロンは吃りながら言った。


 自分を犯した男の息子と逃げたいと思うのだろうか?

 逃げたところでどうするのか?

 行くあてなど何処にもなく、何も考えられなかったけれど、男の魔の手から今すぐに少女を救い出さなければならないとアーロンは思った。


 父が好色なことは、アーロンも知っていた。

 王妃と数人の妾がいながら、それでも性欲が旺盛だった。

 彼女達以外の女性とも一度限りの関係を重ねる姿に彼は呆れ果てていた。欲望は果てしなく、女を抱く度に父の目はギラついていった。息子の目には色欲の権化として映っていた。女性も金と宝石しか求めておらず、愛情など全くなかった。

 父が王でなければ誰も寄り付かない、人間としての魅力は全くない男だった。

 あんな風にだけはなりたくないと心底思っていたが、まさか凌辱までしているとは思ってもいなかった。

 凌辱をしている事実だけでも許せないのに、相手は自分の息子よりも年下に見える親子ほどに歳の離れた10代中頃の見た目をした少女である。

 はらわたが煮えくりかえるのと同時に吐き気も覚え、父に対して激しい殺意が芽生えた。



 ナタリーは静かに首を横に振った。


「いいんです、アーロン様。

 私は、このままで。私の事は放っておいて下さい。

 それに王様とアーロン様は全く違います。

 同じではありません。 

 アーロン様は今まで一度も酷い事をされませんでした。むしろ優しくしてくれました。

 だから…どうか…そんな顔をなさらないで下さい。

 私は、大丈夫です…」

 ナタリーは自分に言い聞かせるように言った。


「そんな…一緒にここから出よう…どこか遠くに行こう…。

 僕が君を一生守る。

 あの男の手の届かないところで…だから…どうか…」


 だが、ナタリーは首を横に振った。


「私は、このままでいいんです。 

 アーロン様…王様は私を愛しているわけではないのです。

 いつからでしょうか…「魔法使いの女の子」に興味を持たれるようになりました。

 私が逃れば、別の女の子が連れてこられるだけです。

 私が我慢すれば…いいのです。

 目を瞑っていれば、終わります。

 大人しくしていれば…抵抗さえしなければ……はやくおわるのです…だから…いいのです…」

 ナタリーは目を伏せながら言った。

 身体の奥深くにまで注ぎ込まれる男の恐怖を思い出したのか、大きな瞳からは一雫の涙が流れ落ちた。


 アーロンは自らに必死でそう言い聞かせる少女を見ると、頭を鈍器で殴られたような感覚がした。

 彼女は抵抗することも出来ずに行為に耐えている。

 その行為を強いている父を悪魔だと思った。

 そして「魔法使いの少女」に興味を持ち、歪んだ性欲をぶつけていると知ると恐ろしくなった。 

 魔法使いと人間との性行為は「禁忌」である。

 禁忌を王が犯している。

 ナタリーの言葉から察するに、これが初めてではないのかもしれないと思うと、彼の背筋が凍りついた。


 僕は魔法が使えて、瞳の色はグレーだ

 僕は…一体…なんなんだ?

 アーロンの逞しい体が恐怖に堪えきれずに震え出した。

 それでも彼は背中に腕を回して拳を握り締めて体の震えを止めて、少女の涙を拭おうとした。


「そんな事…言わないでくれ。

 僕は…君を助けたい。あの男から…助けたい。

 他の子供達も連れて…皆んなで逃げよう…」

 弱き者を守る騎士の隊長とは到底思えない上擦った声でアーロンは言った。1人で城から大勢の子供達を引き連れて逃げることなど到底不可能だと分かっていたが、そう口にしていた。

 ナタリーは頷かなかった。

 アーロンはその様子を見ると、自らの頼りない言動が彼女を不安にさせているのだと思った。自分が何者であるかよりも、ナタリーを頷かせる事に全力を注がねばならないと思い直し、今度ははっきりとした口調で言った。


 

「僕が、室から魔法使いの子供達全員を助け出す。

 他の誰でもない、この手で救い出す。

 僕の力を信じてくれ。」

 と、アーロンは強く言った。

 

 すると、ナタリーは少し救われたような顔になった。


「その言葉は…本当に嬉しいです。

 逞しいアーロン様の手を握りたくなるほどに、嬉しくてたまりません。

 でも、それでは…ダメなんです。

 私達は…オラリオンから来たのです。はじめからゲベートにいた魔法使いではないのです。

 私達が逃げたら、金貨と引き換えに別の国から魔法使い達が連れて来られるだけです。そして酷い目に遭わされるでしょう。もう逃げられないように足枷をつけられ、手錠をはめられるかもしれません。

 それが分かっているのに…私達だけアーロン様の手を取って逃げる事はできません。

 3つの国の魔法使い達は、他の国の仲間を思い、皆んな耐えているのです。

 だから…オラリオンとソニオの仲間を見捨てて、私達だけが自由になるなんて出来ません。仲間が苦しんでいるのを知りながら、私達だけが…笑って生きることなど…私達には…出来ません。

 3つの国が変わらなければ、何も変わらないのです。」

 と、ナタリーは言った。

 どれだけ自分が苦しめられようとも仲間を思う彼女の姿をアーロンは見ていられなくなった。


 自分の無力さを呪い、考えの甘さに苦しくなった。



「今の世界では、私達には安住の地はありません。

 それに希望の光があまりにも遠いのです。

 あの至高の光…全てを導く光…が必要なのです。でも、固く閉ざされてしまいました。もう…救いはないのです。

 私達魔法使いは…諦めています。

 滅びいく運命なのです…」

 ナタリーは悲しい声で言った。


 すると、アーロンの内に眠っていた勇猛さが爆発した。


「救いはある!

 ここに!

 僕が世界を変えてみせよう!

 そして君達を救おう!必ず!必ずだ!

 正義が陰り、悪が蔓延っているのなら、それに立ち向かい世に救いをもたらす者こそが騎士である!

 この身を捧げ、僕が君の願う光となり、正義と自由を勝ち取ろう!」

 アーロンは大きな声を出した。


「アーロン…様」

 ナタリーは騎士の名を呼んだ。

 男は先程までとは違い、偉大な事を成し遂げる力があるように彼女の瞳に映った。


「私は…その言葉を信じたくなりました。

 アーロン様には、秘められた大きな力があるのかもしれません。私達魔法使いが陽の光の下を自由に歩く幻が見えました。」

 と、ナタリーは言った。



「幻ではない。現実にしてみせる。

 約束しよう。

 君達を救い出す為に、君が知っている事や何をされているのかを教えて欲しい。

 僕は立ち向かう為に、真実を知らなければならない。

 辛い事を思い出させてしまうけれど。」

 と、アーロンは言った。


 ナタリーは苦しい顔をしながらポツリポツリと話し始めた。声にする度に記憶が鮮明に蘇り、心と体に受けた痛みを思い出し、顔色はより青白くなっていった。

 アーロンは人間の恐ろしさを思い知った。

 平気な顔をしながら陰で恐ろしい事が出来る人間もいると、ようやく分かったのだった。

 何も知らずに室で笑っていた自分が恥ずかしくなった。

 多くの人間を統括する騎士の隊長でありながら、自分が何も見ていない事を知ったのだった。



「もう何人もの子供達が死んでいます。

 体も心も壊れるほどに調整された子供達は、金貨3枚もする高級な薬を飲まないと死んでしまうのです。

 1瓶飲めば苦しみは和らぎますが、その時だけです。飲み続けなければ決して治りません。

 でも…そんな高い薬…飲むことは出来ません。

 私はここに来てはじめて飲ませていただきました。」

 と、ナタリーは言った。

 アーロンは眉間に皺を寄せ、苛立ちと激しい怒りを含んだ目になった。子供達をモノのように弄び、実験のような事を繰り返している王と側近が許せなかった。


「僕は、一体何を見てきたのだろう…。

 どうして子供しかいないのか…どうして疑問に思わなかったのだろう。

 すまない…苦しみに気付けなかった。いや、気付こうとしなかった。」

 アーロンは自らの愚かさに怒りを覚えた。

 そして助けを求められず、苦しみに耐えている子供達を思うと涙が頬を伝った。



「そのような悲しい顔はなさらないでください。

 私達を思って涙を流してくださったのは、アーロン様だけです。

 アーロン様がいらっしゃる時間だけが…本当に…救いでした。永遠に続けばいいと思うほどに…。

 アーロン様はあたたかくて優しくて、苦しみを束の間だけでも忘れることができたのです。

 室にいらっしゃるのを、いつも楽しみにしていました。」


「ナタリー……」

 アーロンは小さな声でそう言うと、首を垂れた。

 騎士の隊長でありながら、目の前にいる救いたい少女の名を呼ぶことしか出来ない…これほどの恥辱はなかった。


 しばらくの沈黙が流れたが、それを破ったのはアーロンだった。


 顔を上げたアーロンの瞳は不気味に光っていて、彼の中で何かが化わろうとしていた。

 美しさの裏に恐ろしい狂気を秘めた男に化わろうとしていたのだった。


「ナタリー、教えて欲しい。

 僕の母を知っているのだろう?

 僕が魔法を使えるのは…僕の母が人間ではないからだ。」

 アーロンは低い声で言った。


 ナタリーは戸惑いの色を浮かべた。

 アーロンにどう話していいのか分からないかのように、その唇を震わせた。


「正直に話してくれ。

 僕は、失われた火の魔法も使えるんだ。 

 この体には、魔法使いの血が流れている。」

 アーロンは少し怖い目をしながら言った。


 ナタリーは少し困った顔をしたが、アーロンのグレーの瞳を見ると意を決して、ある少女の名を口にした。


「ある日、突然、室からいなくなりました。

 金髪の巻き髪の輝くように美しい方でした。 

 今…こうして…頭がハッキリとした状態で、アーロン様のお顔を見ると…思い出さずにはいられません。」


「そうか」

 アーロンは平静を装いながら言った。

 心の中は激しい嵐のように風が吹き、止むことのない雨が降り出した。


「とてもお優しい方でした。

 アーロン…さま…あの…」

 アーロンの表情を見ていた彼女は彼が恐ろしくなり、その先の言葉を飲み込んだ。


「僕は、騎士として自分の為さねばならない事が分かったよ。

 それ以外の僕は、全て捨て去ろう。」


「アーロン様?」

 ナタリーがそう言うと、アーロンはこの時はじめて異様な目つきで優しく微笑んだ。

 ナタリーは彼の雰囲気が変わったような気がした。

 今まで聞いたことがないような冷たい声を聞いたのだ。彼が浮かべている微笑みも優しいはずなのに、恐ろしくてたまらなかった。


「今、覚悟を決めたよ。

 僕は騎士の隊長としての役割を果たさなければならない。

 その為に、生まれてきたのだろう。」

 と、アーロンは言った。


 突然、アーロンは剣を鞘から抜いた。

 その手に握られた剣からは強い光が発せられ、彼の狂気に染まった顔を照らした。

 ナタリーの目に映る男は彼女の知っている騎士ではなくなり、男に見据えられた誰もが震え上がるような戦慄する恐ろしさを備えていた。


「アーロン様!

 危険な事はなさらないで下さい!」

 ナタリーは怖くなって叫んだ。

 今にもアーロンが剣を握り締めたまま走り出し、王の首を斬り落としにいくのではないかと思った。


「危険?

 危険なことなど何もないよ。

 愚か者を断罪するだけだ。

 正義の騎士の剣を掲げて、この手で王の首を斬り落とす。他の誰でもない僕がやらねばならない。

 あの男はもう王ではなく神に背く大罪人であり、幼い少女に関係を強いている異常者だ。

 国の頂点に、あの男がいる限り、歪んだ世界は正せない。

 誰かの犠牲の上になりたつ世界など、僕が壊さなくても、いずれは崩壊する。涙で濡れた地は崩れ落ち、奈落の底に沈んでいくだけだ。

 これ以上苦しみの涙を流させはしない。

 今、この瞬間より、騎士の剣を鞘から抜いたのだ。  

 望みを果たすまで、僕は剣を鞘には収めない。」  


 彼の瞳が窓から差す光によって、グレーではなく黒く輝いたのをナタリーは見た。

 外には強い風が吹き、小さな窓から見える青い空に何処から飛んできたのかも分からない美しい花弁が激しく舞った。

 この部屋から、そのような景色を見るのは、はじめての事だった。風に舞う花弁を見ているうちに、彼女は花弁が伝えようとしている事を悟った。


 ナタリーは伝え聞いていたユリウスの幻をアーロンに見ると、慌てて本棚に駆け寄った。

 そして一冊の本を、アーロンに手渡した。


「これを、どうかお持ちになって下さい。

 もう私には必要のないものです。

 いえ、貴方様にこそ相応しい。

 どうか…望みの為に、多くの魔法を会得してください。」


 その本は、魔法書だった。


「魔法が必要となる時が来るでしょう。

 風向きが変わったのを感じたのです。

 その風は力強く、今も世界を包んでおられました。

 私は…光を…見ることができました。

 ありがとう…ございます…」


「か…ぜ?」


「はい、風です。

 詳しいことは…申し上げられません。」

 ナタリーはそう言うと、小さな窓に視線を向けて今も舞っている花弁を見た。


 ナタリーが不思議な事を言い始めたので、アーロンも小さな窓を見たが何も分からなかった。


「風が吹きました。

 最果ての森のダンジョンが、新たな勇者を求めています。

 その時が、やって来ます。

 そこに眠るクリスタルは語り継がれていることとは違い、世界を統べていらっしゃるのかもしれません。

 この世界は歪められているのでしょう。

 これから先、恐ろしい真実がアーロン様を待ち受けているのでしょう。

 けれど、私はアーロン様を信じています。」


「真…実…」

 と、アーロンは言った。

 その言葉がアーロンの心に強く突き刺さった。


「アーロン様は、新たな希望なのかもしれません。

 必ずはっきりとした形で「その時」がやって来ます。

 それまでは、どうかお待ちください。

 たとえ数年経とうが、私達はもう数百年間待ち続けてきたのです。はやる気持ちに負けて、時をあやまってはなりません。

 その力がなければ、夜明けはきません。」

 と、ナタリーは言った。


 彼女は微笑みを浮かべた。


「アーロン様

 私は希望の光を見る事ができました。  

 私はあの御方を実際には知りませんが、きっとアーロン様のような御方なのでしょう。

 その光を胸に…私は…生きていく事ができます。

 もうすぐ私の食事を側近が運んで来ます。

 中からは外の家具を動かすことは出来ません。

 どうか、お帰りください。」

 ナタリーはそう言ったが、アーロンは彼女を見捨てるような気がして、なかなか動こうとはしなかった。


 すると、ナタリーは下を向いた。


「その後で…王が…いらっしゃいます。

 どうか…お願いします…」

 アーロンはその言葉を聞くと、彼女に背を向けた。



「僕は騎士としての責任を果たす。

 正義と自由と真実を取り戻す。

 待っていてくれ。

 君を苦しめた罰を、必ずあの男に降り注がせる。」

 アーロンは魔法書を持って歩き出した。


 ナタリーを振り返ることはしなかった。



 しばらくすると、側近が食事を運んで来る足音が聞こえてきた。見かけだけの家具が動く音がして、側近が階段を降りていくと、アーロンは階段をのぼり部屋から出て行った。

 狂った宮殿から出ると、アーロンは全速力で走り出した。



 広がる空は赤く染まっていた。

 その色が、今の彼には魔法使いの流す血の色に見えた。



 やがて真っ暗になったが、何処へ行くともなく、ただ歩き続けた。

 今夜は1人でいたかった。 

 大きな木の幹に寄りかかると、夜空に輝く大きな満月を見上げた。アーロンは苦しくてたまらなかった。


 何も出来なかった…見殺しにしたのと同じだ

 少女を救えずに、背を向けて逃げ出すことしか出来なかった

 そればかりか、こんなに近くで蛮行が行われていたというのに気付きもしなかった

 僕は今まで何をしていたのだろう

 そうだ…国一番の騎士ともてはやされて、有頂天になっていただけだ

 僕は見たいものしか見ていなかった

 予め用意された都合のいい世界しか見ていなかった

 これが騎士の隊長とは!こんな無様なものとは!

 いや、第1軍団騎士団隊長がこれほど愚かだからこそ、この国はこんなにも愚かに歪んでしまったのだろう

 アーロンは自らが「騎士ではなく、何も知らない王子」だったのだと痛感した。


 夜風は冷たく、今まで歩んできた彼の全てを斬り刻んだ。

 その力がありながら、「何もしなかった男」を許しはしなかった。

 美しい満月を見ながら、心が粉々に破壊されていく音をアーロンは聞いていた。




 この日を境に、アーロンは変わった。


 人を信じ、純粋で、優しかった彼は姿を消した。


 アーロンは多くの人々と接していたので、人を見る目があると思っていたが、それは大きな間違いだった。若く美しい瞳をした彼は騙しやすいと思われていたのだろう。

 愛妾の子だとしても、アーロンを溺愛している王は系図を何代もさかのぼり、最も近い傍系の子孫たる嫡出の男子に王位を継承させまいとして既に不慮の事故を装わせて殺させていた。なんとしてアーロンを次の王にするつもりだった。

 婚約者と友人以外の多くの者は、いずれはこの国の権力の全てを握る王になるだろうと期待して、今から薄汚い笑顔を浮かべて擦り寄り、甘言を並べていただけだったのだ。

 彼は様々な事が見えてくると、自らに堂々と意見し、恐れる事なく苦言を呈する者を側に置くようになった。

 さらに自分に注がれる言葉の底意について常に考えられるようになった。言葉の一つ一つに注意し、男の腹を探り出すように恐ろしい瞳を向けるようになっていった。



 アーロンから漂う雰囲気は、恐ろしいものへと変化していった。


 彼は室の真実を知ってから、どんな顔をして子供達に会えばいいのか分からなかった。胸が締め付けられるように苦しくなり室に行けなくなっていたが、ある日覚悟を決めると、姿を消してから側近と一緒に室に入って行った。

 ナタリーから聞いてはいたが、実際に悍しい行為をその目で見ると、あまりの残酷さに我を忘れて側近を殺めてしまいそうになった。

 だが、ここで殺せば何もかもが終わってしまう。

 全員を救わなければならないと思い、爪が食い込むほどに拳を握り締めて唇を噛み締めた。

 その光景を目に焼き付けた。

 偽りを信じたのは他の誰でもない自分だったのだから。騙せるだろう思わせたのも自分だったのだから。

 目の前で繰り広げられる暴力と暴言を、目を晒すことなく見続けた。

 拳が振り下ろされる度に、彼の心は真っ黒に塗りたくられ、彼の目はさらに恐ろしい光を宿すことになった。

 人間は相手に合わせて、幾つもの化けの皮を被れる。

 平気な顔をして何者かを演じる者達の本性を頭に叩きつけた。

 その全て、罪が裁かれる時に、嘘の涙にほだされ或いは偽りの言葉を信じて、情けをかけないように。弱き者達を苦しめた相応の罰を与える為、その醜さを目に焼き付けたのだった。

 室を出ると、アーロンは誓った。

 次にこの扉を開ける時は、自由という名の光の下に連れ出す救いの瞬間でなければならないと。



 婚約者との関係も以前のようにはいかなくなった。

 彼女は時折アーロンを心配そうな目で見るようになった。男が自分と一緒にいるにも関わらずに何か深い考え事をし、眉間に皺を寄せているのを見ると、彼の手にそっと絹のような艶やかな手をのせた。彼の立場を理解している彼女は深くは聞かなかったが、自分を見つめる男の瞳に、目の前にいる自分が映っていないのではないかと不安な表情をしていた。

 彼女を愛する気持ちは変わらなかったが、彼は悩んでいた。

 深く愛しているからこそ、この体で彼女を抱く度に美しい彼女を汚しているような気がしてならなかった。彼女を騙しているような気になっていた。そうすると自分では彼女を幸せに出来ないだろうと思ったが、他の男に彼女が抱かれるなど考えたくもなかった。

 誰よりも幸せになって欲しいと思っていたが、その隣にいるのが自分以外の男だと思うと、その男に激しく嫉妬していた。

 ならば真実を打ち明けなければならないと思ったが、自分が忌み子と分かれば、彼女がどんな顔をするのだろうかと思うと恐ろしくなった。

 受け入れてくれたとしても、全てが明らかになった時に忌み子の婚約者と罵られ、彼女に危害が及ぶのではないかとも恐れるようになった。

 大切に思いすぎるあまりに多くの恐れを抱くと、身動きが取れなくなり、すっかり臆病になっていった。

 恐れは日増しに強くなり、ついに彼女に真実を話すことなく、別れの道を選んだのだった。



 禁忌を犯して生まれたということは、アーロンにとってこれ以上はない苦しみだった。何故禁忌とされているのかは、実際のところ誰にも分からなかったが…。

 それに凌辱されながらも自分を産んでくれた母の事を思うと、心がひどく痛んだ。どういう気持ちで産んだのだろうかと思うと、涙が止まらなかった。

 そして、こうも思った。

 僕には呪いがかかっている。神の祝福は僕には降り注ぐことはない。

 僕がいれば、世界にさらなる禍が降り注ぐ。

 王の首を斬り落とし全てを成し遂げたら、僕も責任をとって自刃せねばならない。愚かな父と子、両方をこの世界から消し去らなければならない。神の許しなく生まれてきた僕が騎士であり続けてはならない…僕は生きていてはいけないのだ。 

 僕の正体を知れば、全ての人々が僕を嫌い呪うだろう。

 当然だ…僕は存在自体が罪なのだから。

 彼は、そう思っていた。


 アーロンは憎しみを力にかえる為、毎朝時間をかけて鏡や窓に映る自らの顔を見ることにした。

 ある日、変化に気付いた。

 まるで時が止まったかのように、彼の容貌は衰える事がなくなり美しいまま、いっさいの時を刻まなくなったのだった。



 アーロンは危険なソニオとの戦場に好んで出陣するようになった。

 恐怖の中に身を置くことで、今までの自分を罰し、さらに大きな力も得られるような気がした。

 どんなに剣術に優れていようが、戦場で生き残れるかは全く別の話である。彼が無傷で戦場から帰還していたのは、十分な訓練をしていたのもあったが、優れた他の騎士によって王子の生命と体が守られていたからだった。

 彼は戦場に立っていただけで、戦ってはいなかったのだ。

 望みを果たす為には、名実ともに第1軍団騎士団隊長にならねばならなかった。王の息子の肩書を超えるほどの偉大な隊長にならなければ、他の騎士や隊員の心は掴めず、何も成し遂げられない。

 アーロンは戦地でも人が変わったかのように猛々しくなった。彼の馬には誰もついて来れなくなり、敵を恐れさせるほどに剣は血に濡れて鋭利に輝いた。

 すると偽りの剣を握り、王の息子の戦場は安全だと思っていた者達は戦に紛れて逃げて行くようになった。

 戦いの中で、彼は背中を預けられるほどの信頼できる者が誰なのかを見る目を養った。

 


 アーロンは騎士団の中で恐れ敬われる存在へと変わっていったが、国民に愛され望まれる夢の騎士ともなった。

 常に節度を持ち、慈悲深く振る舞い、謙虚さをもって誰にでも優しく接し、寄進や贈答もし、孤児院や病院を建設し、弱き者達の言葉に耳を傾けた。

 しっかりと目を開いて国の行く末を考えるようになると、このままでは国は滅びるだけだと確信した。

 国民の多くは疲れ果てていた。

 繁栄しているのは一部の者だけで、多くは固定された階層に夢も希望も抱けずに絶望していた。

 絶望はやがて怒りへと変わり、反乱へと駆り立てる者が現れれば、群衆は暴徒となるだろう。多くの血が流れ国が崩壊していく様が、彼には容易に想像できた。

 国民から搾取するだけの王政を、なんとしても終わらせなければならないと思った。

 


 王は息子の変化を心配したが、王になる自覚が芽生えたのだろうと都合よく考え始めた。息子の立派な振る舞いによって、自らの威光が高まっていくように感じたのだった。目覚ましい活躍をするたびに国民の歓声は大きくなり、凱旋する息子を誇らしく思い、そして薄汚い笑みも浮かべた。

 息子の微笑みの変化に気付くことはなかった。

 息子が父親の首を斬り落とそうとしているなど、夢にも思わなかった。



 こうしてアーロンは騎士として着実に力をつけ、「その時」が来るのを待ち続けた。

「ダンジョン」と「勇者」という言葉が鍵だと思いながら様々な文献を読み漁り、多くの事を調べ、騎士団の任務と演習が終わると魔法の習得に力を注ぐ日々だった。





 数年後、世界に異変が発生した。

 王は玉座の間で報告を受けていたが、「ダンジョン」「魔物」「クリスタル」の言葉が出ると、瞳に恐怖の色がありありと浮かんだ。

 王は気持ちを落ちつかせようとして、側近に葡萄酒を持ってこさせてグラスに注がせた。それを掴んだはずなのだが、震える手から滑り落ちてしまい、音を立てて壊れていった。

 赤い色が絨毯に染み渡ると、王は真っ青な顔で膝をついて「三日月」と何度も小さな声で呟くだけだった。


 玉座の間は静まり返った。


 鎖によって体が締め上げられたかのように、王は苦しみで体を捩らせた。


 国家の危機であるにも関わらず、王はすすり泣きを始め、何の命令も下さずに縮こまって震え出した。

 アーロンは、ほくそ笑んだ。

 しばらくの間、王の無様な姿を、周りの騎士の目に焼き尽けさせることにした。

 この国の頂点に立つ男とはいかなる者であるのかを、勇敢な騎士の目に焼き付けた。騎士達は呆気に取られた顔で、震えている男を見下ろした。

 非常時に国を守ろうとしない王は王ではなかった。

  


「ダンジョンの魔物が動き出しているのならば…討伐せねばならない…討伐隊を最果ての森に向かわせよう…。

 クリスタルを…破壊せねばならない。

 さもなくば…聖なる泉の色は元には戻らないであろう…疫病も…」

 王はようやく口を開いたが、流言の通り、そう命令した。

 

 側近は王の命令するままに動こうとした。 


 一方、騎士の隊長達は怪訝な顔をした。魔物の足跡など見たこともなかった。流言を信じて、原因を探ろうともせず、ダンジョンに行くなど愚の骨頂としか思えなかった。

 第2軍団騎士団隊長が口を開こうとしたが、アーロンが制止した。アーロンは燃えるような目をしていた。

 怯えて震えている王とは対照的に、アーロンは堂々とした足取りで縮こまっている王にゆっくりと近寄って行った。

 第1軍団騎士団隊長の瞳には何らかの深い考えを持っているのだと他の隊長達は思った。

 

 アーロンのマントが翻ると、騎士は王ではなく彼を見、彼の次の言葉を待った。



「第1軍団騎士団隊長である僕が全てを引き受けましょう。

 全て、お任せ下さい。

 僕が国を救ってみせましょう。

 その為に、騎士の剣はあるのです。

 ゲベートを闇で覆い尽くす魔物を討伐してみせましょう。」

 と、王に救いの言葉を囁いた。


 恐ろしい目をした騎士の優しげな声は怯え切ったまま下を向いている王の耳に心地よく広がった。

 王は、涙を流しながら喜んだ。


 数日後、王は2つの国の王と会談を開いた後、これ幸いと喜びながら王命を下し、国民に向けて声高らかに宣言した。

「世界を救う勇者」にアーロンが任命されたとゲベート中に知れ渡ると、国民は手を叩いて喜び、祈りを捧げたのだった。




 数日後、アーロンは勇者として、白の教会で他国の勇者と顔を合わせた。

 彼が、待ち続けた瞬間だった。

 望みを果たす為には、他国との協力が絶対条件だった。

 選ばれたる者達と、同じ時を過ごし、じっくり話が出来ると思うと嬉しかった。

 王が選ぶのは、この旅を神聖化し国民の目を逸らす為にも、国民の誰もが認める優れた騎士の隊長だと思っていた。

 アーロンは期待を込めた眼差しで弓の勇者の顔を見た。

 そして危険な国の槍の勇者の顔を凝視した。

 目の前の屈強で軽薄そうな見た目をした男は、かつてソニオで最凶と恐れられた第1軍団騎士団隊長が育てた男であり、末端兵から隊長まで上り詰めた男だ。笑みを浮かべているその姿からは想像も出来ないが、誰もが口を揃えて恐ろしいと言う男だった。 


 だが、アーロンは希望を見出していた。

 英雄は英雄を知るという言葉のように、自分と同じものを槍の勇者に感じて仕方がなかった。目の前の男はただ残虐非道というだけではなく、何らかの熱い思いを持っていて、望みを同じくする「真の勇者」なのではないかと感じた。

 それを、この旅の間になんとしても見極めなければならないと思った。旅が終われば、ソニオの騎士と話をするなど不可能だった。


 一方、槍の勇者は鋭い一瞥を投げると、王の息子である彼を見なくなった。それが、かえってアーロンを獲物を追うかのように燃え上がらせたのだった。



 アーロンは教会の祭壇の前で跪くと、王がする何の意味もないクソみたいな儀式を受けながら、王達にではなく祭壇に向かって祈りを捧げた。

 

「3つの国の勇者が協力して、王政を終わらせましょう。

 国民を虐げ、国土を戦火で焼き尽くす、愚かなる王に剣を掲げましょう。

 真の自由と平和を取り戻しましょう。

 誰かの犠牲の上に成り立つ世界を終わらせなければなりません。

 悲しみの涙を終わらせ、神が望まれた美しい世界を取り戻してみせましょう。」

 アーロンは跪き、声には出さずに口を動かした。

 

 アーロンの首に黄金の羅針盤のネックレスがかけられると、ステンドグラスからようやく太陽の光が差した。

 黄金の羅針盤は光り輝き、アーロンは神の許しを得たような気持ちになった。すると焼き尽くされそうなほどに体が熱く燃えたぎった。



 アーロンは深々と頭を下げた。


「人間と魔法使い、全ての国民を守る為に、王とその周りに蔓延る者ども、この世界の「悪」を討伐し、この世界に光を取り戻してみせましょう!」

 アーロンは本来の望みの言葉を隠しながら、神の御前で誓ったのだった。



 ゲベートの港に降り立つと国民の歓声を受けながら、アーロンは颯爽と馬に跨りダンジョンを目指して出発した。

 澄み渡る青空の下、風が吹き、きらめく光を求め、馬を走らせた。


 そうして「剣の勇者」は厳粛な面持ちで孤島の方角を振り返り、頭を下げた。


 新しい夜明けがきて、望みが潰えることのないようにと。

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