第59話 歪曲 虹
薄暗い朝日が昇ると、空気はまだ震えていたが、鳥達が小さな声で朝を告げる鳴き声を上げた。立ち込めていたモヤが徐々に晴れてくると、国は荒れ果てた姿となっていた。様々な場所から炎と煙が上がり、川の水は氾濫して道はことごとく水に浸かっていた。家と小屋の屋根は吹き飛ばされ扉はねじり取られ、城の外壁もあんぐりと口を開け、ひび割れた大地には穴があいていた。
地面に横たわる死体の山も数えきれなかった。
側近は王がいつまで経っても戻らなかったので、ついに痺れを切らして船に乗って孤島に向かった。孤島の上空には不気味な雲が流れていて、白の教会には誰もいなかった。
側近が蒼白な顔をしながら城に戻ると、聖なる泉の水面に王の指輪が浮いていたと騎士の隊長から聞かされた。
側近は王と聖職者が天上の怒りを鎮めたのだと思い、大急ぎで新たな王を立てた。今までならば次の王位を巡って骨肉の争いが起こったが、泥舟のような王座には誰もつきたがらず、第一王子がそのまま即位した。
一方、時の風が新たな力を呼び起こしていた。
2つの国を滅ぼし、3つの国も恐怖で包み込み真実を知らしめた事で、変化が起ころうとしていた。
先王達の所業の全ては明るみとなっていて、国民は自らの愚かな行為を悔やんで嘆き悲しんだ。罪の意識に苛まれ、蝋燭の火を絶やさなかった。真実を確かめないまま、罪もない者達を言われるがままに傷つけ苦しめた事を深く悔いたのだった。
王だけでなく自らにも責任があり、その結果として2つの国が滅んだのだと思うと、国民は新たな道を歩もうと顔を上げた。
嘆き悲しむだけではなく、ついに立ち上がった。
正しき道を歩む為に、国民を率いる新たなリーダーが誕生して、各地で反国王の蜂起が始まり、腐りきった王政を終わらせようと立ち上がった。
人々は新たな夜明けを迎える為に、旗を掲げた。
新王達はオラリオンの城に集まり、事態が収束するまではお互いに協力する事にした。真っ暗な城の一室で頭を抱え、自らの権力を守る事だけを考えた。先王の愚かな所業によって死んでいった魔法使いと2つの国の国民の生命を弔うなどという事は、国民とは違って全く考えなかった。
(ようやく父が死んで、王となったのだ。
夢にまで見ていた地位と権力を奪われてなるものか。
豪華絢爛な暮らし、目も眩むほどの財宝、美味な酒、魅惑的な女達…玉座から見下ろす景色を絶対に手放したくはない。
もう一度…あの頃のような絶対的な力が欲しい…)
王達は2つの国に降り注いだ天上の怒りは先王の所業であり、自らとは何の関係もないと思っていた。さらに先王達が死をもって償い、怒りは去ったのだから許されており、王位は守られるべきだと考えていた。
それほどまでに強欲であった。
傲慢な教育を受けてきた彼等にとっては全てが過ぎ去りし事であり、これからも王政が続いていくものだと信じて疑わなかった。
しかし王の退位を求め王政を終わらせようとする民衆運動の旗は、城の窓からでも見えるほどに近付いていた。
固く門を閉ざし、籠城戦に持ち込んだ。
それでも国民の怒号が聞こえると、自らの国民に向かって弓を引いて剣を抜き、武力によって弾圧するように騎士の隊長達に命じたのだった。第1軍団騎士団隊長は黙ったまま王をしばらく見つめていたが、その目に諦めの色が浮かぶと重々しく口を開いた。
「王よ、お聞きください。
国民に向かって弓を引くことはできません。剣を向けるなど、もってのほかです。
すべき事は、一つしかありません。
城門を開かねばなりません。
今も城の防壁の割れ目から国民が城に入ろうとしています。押し寄せる波は勢いもあり、風向きも変わりました。
騎士達も彼等の声に耳を傾けて不満を漏らし、声の力によって押し戻されています。
守り抜ける日数は、あと3日でしょう。
時代は変わろうとしています。
どうか、ご決断下さい。」
と、静かに言った。
騎士の隊長は膝をついて自らの剣を抜いて足元においた。すると、第2軍団隊長も第3軍団隊長も同じく剣を抜いた。
彼等の剣は鋭く光り、民衆運動の指導者によって引き摺り出されて中央の広場で首を斬られるか、それとも城の中で自害するのかを迫った。
自ら王位を捨てようとはしない王に残されている道は、たった一つの死しかなかった。
隊長達はそのまま剣を持たずに、立派なマントを翻して王に背を向けた。王としての誇りを持てる残された道を歩ませる為に、時間を稼ごうとした。騎士の鞘には剣はなかったが、彼等の背中は堂々としていて、隊長としての責任をとる覚悟はとうにできていた。
一方、誰もいなくなった玉座の間で、王達の両手はガタガタと震えていた。玉座の間の窓から見える外の景色は、必死になって城を守ろうとする騎士と押し寄せる国民の燃える炎と叫び声だった。一晩中明かりが燃え続け、旗が風に翻っていた。
(何故…こうなった…アレは我の責任ではない。
どうして…これ以上責任をとらねばならないのだ…。
責任ならば、もう先王がとったではないか!
どうして王政が終わらねばならない。
先王の所業さえなければ、我の玉座は守られる。
記憶から消せさえすれば…そうだ…国民の記憶が無くなれば何もかもが元通りになる。
忘れさせてしまうことができれば。
消してしまうことができれば。
ヨカラヌモノを過去に遡って抹消さえできれば!)
過ぎ去った天上の怒りの恐怖は欲で忘れ、逃げていこうとする王位にしがみつこうと必死に手を伸ばした。権力にしがみつく道を選び、この魔法のようなことをやってのけるには、どうしたらいいのかと考えた。
しばらくの間、王達は冷や汗を流しながら部屋の中をグルグルと歩いていたが、突然オラリオンの王の顔が醜く歪んだ。
側近の「言葉」を思い出したのだった。
王達は邪悪な剣を手に取ると、東の塔へと向かった。
唯一東の塔の扉を開ける事ができる鍵を手にして重厚な扉を開け、王達は興奮した足取りで地下に続く階段を降りて行った。
東の塔は、オラリオンの魔法使いの王が新たな魔法を試す時に使用し、人間の体に害が及ばないよう外に魔力が漏れないようにと特別な魔法を施していた。
その鍵がなければ、決して扉を開ける事ができなかった。
閉ざされていた東の塔は光も風も入らずに、冷たくて陰気でジメジメとしていた。
そこには、魔法使いの子供達が閉じ込められていた。
オラリオンの王だけは魔法使いの子供達を殺さずにいたのだ。手足を縛られた痩せ細った子供達が、ブルブルと震えながら体を寄せ合っていた。
王達は震えている子供達を見て、残忍な微笑みを浮かべた。
権力があれば何をしても許されるという表情であった。
オラリオンの王は震えている1人の少年に問いかけた。
子供達の中では年長者で、よくオラリオンの魔法使いの王と話をしていた優秀な可愛い顔をした少年だった。オラリオンの魔法使いの王も彼の才能に惚れ込み、王自ら様々な魔法を教えていた。
少年は何も答えずに、固く口を閉ざすばかりであった。
すると、王は別の幼い男の子の首を掴んだ。
幼い男の子の顔が真っ赤になるほど細い首を締め上げながら顔を殴りつけると、少年は慌てて王の足元にしがみついた。
「やめてください!
忘却の魔法があります!
記憶の一部を消してしまう魔法です。
記憶を白く塗り潰し…何もなかった事にできる魔法です。
しかし、この魔法は神が闇の魔法書に記そうかと悩まれたほどの魔法でもあります。記憶を変えてしまう恐ろしい魔法ですから。
恐ろしい出来事に遭遇し、生きていく事さえも辛いとなった時に、神の許しを得てはじめて使うことが許される魔法です。
ですので…僕は…今回の事には使うべきではないと…」
少年がそこまで言うと、王は真っ赤な顔をして自らに意見した事を怒鳴った。
「この魔法は…恐ろしい反動もあります。
それに、この呪文を一度唱えてしまうと、相手が死ぬまで毎日唱え続けなければなりません。記憶を消し続ける為に…。
相手が国民となると…永遠に唱え続けなければなりません。」
「反動とはなんだ?」
と、王は言った。
「唱える事を止めてしまった時、相手が死んでいなければ、それをするように願った人に恐ろしい禍が降りかかります。
国民全員が死ぬことなど、きっと…ないでしょう。
王様…どうかお止め下さい。
王様の身に恐ろしい禍が降りかかるからです。この呪文を唱えた事がある、最も強力な魔力を持った者の力が、呪いとなって跳ね返るのです。
これから先…どれほどの魔力を持つ者が唱えるか分かりませんが、絶大な力を持つような方が唱える事があれば…身が捩れるような激痛に何日も何日も襲われるでしょう。もっと恐ろしい事になるかもしれません…死ぬ事が出来なくなるかもしれません。
それに…闇の魔法書に記そうかと神が迷われたのは、記憶を消すなど本来あってはならないからです。それに立ち向かい、乗り越えられる事を望んでおられるからです。」
と、少年は言った。
王の目が不気味に光り輝いた。
次の王の事など、どうでもいい
今が守られれば、後の世がどうなろうと知った事か!
「難しい呪文です。
大人の魔法使いでなければ…僕では魔力が足りないんです…」
少年がおとおどしながら言うと、王は忌々しそうに少年の頭を掴んだ。
「できるのか、できないのかを、聞いているのだ。
嘘をつくことは許さぬぞ。」
「できます…でも…」
「ならば唱えろ!今すぐにだ!」
と、王は怒鳴った。
「僕では魔力が足りません…この身を斬られるような苦しみに襲われます…。それに…神の許しがでていません…」
「だったらお前が身を斬られる前に、そこの女の体を斬り刻んでやろう!顔を切り刻み、両腕を斬り落としてから、両足も斬り落とそう!
お前が唱えると言うまで、順に嬲り殺しにしてくれよう!」
オラリオンの王はそう言うと、震えている少女の体を強い力で掴んだ。長い髪の毛を掴むと、肩から下の髪を斬って捨てた。
少女が小さな悲鳴を上げると少年をチラリと見、少女の着ている服をゆっくりと上から下に向かって切り裂いた。ぬけるほどに白い雪の肌があらわになると、少女は目から大粒の涙を流した。涙は頬を伝い膨らんだ双丘を濡らしていった。王は涙で光る肢体を舐め回すように眺め、柔肌を這う指先のように剣先を向け、鋭利な刃で彼女の震える白い肌を汚そうとした。
「やめてください!唱えます!唱えますから!!」
少年も泣きながら叫ぶと、王は残忍な笑みを浮かべて、止めどなく涙を流している少女から手を離した。
「神よ…おゆるしください…」
少年は崩れ落ちながら、小さな声で何度も繰り返した。
そうして王達は、魔法使いの子供達に忘却の呪文を唱えさせたのだった。
王にとって「ヨカラヌ全て」を消し去る方法を選んだ。
天上の怒りはもちろんのこと、魔法使いの存在意義、2つの国の大陸、戦争…その全ての記憶を白く塗り潰す方法を選んだのだった。
3日目に効果が現れた。
正義の旗を掲げていた国民は不思議な顔をしながら、旗を下ろし家へと帰って行った。さらに騎士達もどうして国民が城に押し寄せたのか分からなかった。騎士の隊長も腰に剣がない事を目を丸くしながら驚くばかりであった。
3つの国の王は、笑みを浮かべた。
これで何もかもが、王にとって元通りの世界となった。
王達は魔法使いの子供達を残忍な目で見つめた。
(このモノ達なら、先日のように暴力を振りかざせば何でも言う事を聞くだろう。
大人の魔法使いとは違い、暴力で押さえつければ怖がり、自らの意見を述べる事などできない。
決して刃向かわぬように、絶対服従をさせよう。
今度こそ「精一杯」尽くさせよう。
父のような失敗をおかすまい。
恐怖を叩き込み、心と体に擦り込ませ、足元に跪かせよう。
我をやがて脅かす存在にならぬように、魔法使いの力を我のモノにせねばならない。
なぁに…簡単だ…「力で」全てを支配してやろう!)
愚かさに、再び愚かさを塗り重ねたのだ。
やがて王は死に、また新たな王が国を治めることになったが、彼等も何の疑問もなく生命を踏みにじり続けた。
全ては慣習として
だが、少年の警告だけは語り継がれることはなかった。
王にとって都合の悪い歴史は歪められた。
王にのみ伝えられる『秘密』とされたのであった。
*
一方、その男の魔法使いは深い深い森の奥で暮らしていた。
2つの国を滅ぼした彼ではあったが、彼もまた様々な悲しみによって心を深く閉ざしていた。
けれど彼は森の中でも世界を見ることができた。
時の風を吹かせて、右手をあげる時を延ばそうとしたのだが、待てども待てども、世界は彼の望む方向に動こうとはしなかった。
さらに風によって、人間と動物以外の存在しないはずの懐かしい香りが漂ってきたが、ハッキリと存在していると確信すらもできなかった。
そして2つの国が滅んだ後の大陸は、驚くようなスピードで木々が成長して森となっていた。いつしか最果ての森と呼ばれるようになっていた。
全ての準備が整った。
ある日、神は彼の心に語りかけた。再び選ばなくてはならない時が到来したのだ。
彼は右手を見つめてから、森の中の美しい泉に自らの顔を映した。彼は男だったが、魔法使いの中でも一二を争うほどに美しかった。さらに神の領域に踏み込んだことで、この世のものとは思えない美しさになっていた。
漆黒の黒髪に闇のように黒い瞳、背が高く、優雅な立ち居振る舞い、彼の口から紡ぎ出される言葉は美しい音色を奏でるかのようであった。
何者も心を動かされずにいられないような、至高の美であったのだ。
彼はゲベートに立ち寄ってからオラリオンを目指す事にした。魔法使いの装いを脱ぎ捨てて、人間の身なりとなった。
上質な生地で作られた服で身を包み、洒落た帽子を被り、輝く靴を履いた。控え目で高級感のあるデザインが、より彼の美しさと優雅さを引き立てた。爽やかな香りをまとい、颯爽と歩き出した。
その男は、城に入る為に社交界を目指すことにした。
魔法によって人心を操作して城に入る事は簡単だったが、その場合は彼の知りたい全てを知る事ができなかった。
その男は、まだ人間を信じたい気持ちがあった。
あの頃と違って何かが変わったのではないかと、彼は小さな小さな希望を抱いていた。
だが、人間は変わっていなかった。
彼は人間の醜さと恐ろしさを知り、ひどく失望する事になったのだった。
ある日、その男は暴漢に襲われそうになっていた貴族の男を助けた。貴族の男は彼に深く感謝したのと同時に、帽子の下から見える類い稀なる美貌に驚いた。
何人もの美しく知性のある貴族の令嬢を見てきたが、今まで見たことのないような気品と美しさに一瞬で魅せられた。まるで夢のようであった。
身なりの上品さと言葉遣いの美しさにも感心し、その男ともっと話をしてみたいと思い、感謝の意をこめて茶会に招待した。
その男は微笑みを浮かべた。
貴族は茶会に友人も招待して、紹介する事にした。
こんなに美しい男を見る機会はこの先もないだろうと思い、友人に自慢したかったのと、友人が彼をどう評価するのかを聞いてみたかった。
その男は、2頭立ての立派な馬車に乗ってあらわれた。
2頭の馬はオラリオンでは見たこともないぐらいの端正な顔をした馬であった。
友人の貴族は聞かされていたとおり、想像を超えるようなあまりにも美しい男を見ると驚いて息を呑んだ。花のような貴族の令嬢ですら散ってしまうほど、どんな花々よりも優雅であった。
どんな男なのか品定めをしてやろうと思い、さらに暴漢と打ち合わせをして貴族に取り入り、人の良い彼を騙して金銭をむしり取ろうする下賤な者ではないかと疑っていたのだった。
けれど、その男は慇懃で不快にさせる言動など一つもなく、むしろ心地よいと思えるものだった。どのような話題でも深い知識を披露したが、自らの知識をひけらかすという話し方ではなかった。
「失礼、夕方に約束がありまして。」
その男はそう言うと、懐中時計を取り出した。
貴族達の目は、見事な懐中時計に注がれた。
その懐中時計はゲベート国の王室御用達であり、貴族ですらなかなか手が届かない値がつくものであった。流行に左右されることないクラシックなデザイン、熟練職人の手作業で作られる為に希少性が高く、彼等ですら父から受け継ぎ、特別な舞踏会でしか携帯することを許されなかった。
「素晴らしい懐中時計ですね。
僕の父も懐中時計を持っていますが、それほど素晴らしいものを見たのは初めてです。その懐中時計は、もしや…」
と、友人の子爵が言った。
「これですか?」
その男は子爵に懐中時計を手渡した。
子爵がその男に見つからないように刻印を確認すると、間違いなく本物だった。
友人の男爵は懐中時計を渡した時の彼のしなやかな指に輝く宝石を見た。指輪を見せびらかすような素振りが一切なく、彼の話に夢中になっていた為に気付かなかったが、今まで目にした事もないような珍しい宝石だった。
男爵はその指輪について尋ねた。
「パライバトルマリンという宝石です。
聖なる泉の色に似ていると思いましてね。
貴方も宝石がお好きなのですか?
私はカラーストーンが好きなので、幾つか所有しています。
その中の一つを、ゲベート国で友人になった方に差し上げました。赤色が好きな方でしたので、レッドダイヤモンドを差し上げたんですよ。大変気に入っていただき、その方のブローチとなっています。」
と、その男は言った。
ダイヤよりも価値がある宝石だったので女性にあげたのかと思い、不快感を与えないように聞いた。
すると男爵は驚いて目を丸くした。
ゲベートで一二を争うほどに名高く、気難しくて有名な伯爵の名を口にしたからだった。
「それで…貴方は…伯爵から何を貰ったのですか?」
男爵は目を大きく広げながら聞いた。
信じられない話だったので、その男の作り話ではないのかと疑っていた。
「あの2頭の馬です。ゲベート国の肥沃な大地で育つ馬は本当に素晴らしい。
主人の言う事をよく聞き、頭もよく、よく走ります。」
男爵は立派な馬を見てから、その男の顔を食い入るように見た。ゲベート国の者が、何よりも自慢にしている馬を与えるなど聞いたこともなかった。
翌日、子爵はゲベートの貴族の友人に手紙を送り、真相を確かめた。全て真実であった。
子爵は友に、こう言った。
「おそらく、彼は身分こそ自らでは明かさないが品位があるし、どこかの貴人で間違いないだろう。僕等以上の教養をお持ちだしな。
お前、社交界に招待しろよ。あの方の話は面白いし、皆んなが喜ぶ。誰に紹介しても恥ずかしくないぞ。」
その男が社交界に出入りをするようになると、貴族の令嬢達はこぞって着飾り彼の周りに集まった。時として、夫がいる婦人ですら彼に熱い視線を向けた。
けれど貴族の中には、何処から現れたのかも分からないその男を怪しむ者もいた。他国の伯爵と昵懇にしているとはいえ、素性が分からぬ男に、こうも簡単に社交界に出入りをされるのは腹立たしかった。
きわめて猜疑心の強い伯爵が、その男の虚を突こうとして難しい話を彼に投げかけた。
舞踏会場に飾られている絵画、ガラス器、オラリオンの歴史や武器、庭に咲く花々に詩など様々な話題で彼を試した。どれも薄い知識では伯爵の目からは逃れることができないものだった。
けれど彼は明確に答えた。伯爵の目に驚きの色が浮かぶと、さらに時代と産地を答えた。絵画については巨匠自身を知っているかのような知識を披露し、詩も諳んじた。その男が伯爵に向ける眼差しには計り知れない知識の深さが感じられた。
伯爵は知らなかった事まで教えられるはめになった。だが彼の言葉の調子は全く嫌味がなく伯爵の知識欲をくすぐり、彼の知識の深さに魅了されるようになった。
周りで会話を聞いていた他の貴族の男達も、感動のあまりに深いため息をついた。
そして、最後には他の貴族に対して面目が立つように伯爵を立てたのだった。
最も貴族達が驚いたのは、伯爵令嬢が彼にピアノを演奏するように頼んだ時であった。音楽についての知識も素晴らしく、その麗しい指先からどのような音色が紡ぎ出されるのかと、令嬢達は胸を高鳴らせていた。
彼女達は彼が何を弾くのかを予想して、彼と踊る事ができる相手を決めようとしていた。彼は伯爵令嬢に手を取られ、真っ黒なグランドピアノに向かわされて椅子に座った。
皆が一斉に目を注ぐと、彼は目を閉じて一呼吸置いてから、聞いたこともない美しい調べを奏でた。
静まり返り、まるで時が止まったようであった。
「おおっ!これは!なんとしたことか!」
しばらくすると、白い髪と整えられた髭を生やした老人が稲妻に打たれたかのように叫び声を上げた。賢人のような風貌をした老人が大きな声を出すのを初めて聞いた貴族達は驚きながら老人を見た。大声を上げた貴族は公爵であった。
年輪を刻んだ額の下の目は輝きに満ち、喜びにあふれていた。
《最後の聖職者》が奏でた音色
神によって選ばれたる高潔な者しか奏でることが許されない音色であった。
「この御方を陛下に紹介せねばならない!
我々のような者が独占していい御方ではない!」
公爵は涙を流しながら言った。
その男は、王と謁見することとなった。
公爵は興奮した顔で、老体とは思えない颯爽とした足取りでその男と共に玉座の間に入って行った。
雷が鳴り響き、雨が嵐のように降り注ぐ冷たい午後だった。
その男は王の前に進んで行った。
王は玉座の間の1番奥、5段の踏段のついた壇の真ん中の立派な真っ赤な椅子に深々と座っていた。王はその男の方は見もせずに、窓の方ばかり見ていた。
次第に雨があられ混じりに窓に吹き付け、雷も激しく鳴り響き出した。灰色に広がる不穏な冷たさは、その場にいるただ1人をのぞく全ての者達を不安な気持ちにさせた。
王は雷の音に恐れを抱き、チラチラと窓を見ながら、このような日に会う事になったその男を不気味に感じ始めた。
(こんな日に、どこの馬の骨かも分からん下賤な男と会う事になろうとは…老いぼれの言葉など信用できぬわ!)
王はそう思いながら、その男を見下ろした。
その男は、紫のマントを被っていた。
その色が、さらに王を不快にさせたのだった。
(高貴な紫を我が前で纏うとは恐れを知らぬ、うつけ者よ。
そのマントの下に、どのような下賤な顔を隠しているのか。
金貨を渡せば、下賤な顔がすぐに涎を垂らして喜ぶであろう。
高貴な者だと称賛している公爵の前で、道化の本性をあらわしてやろうか…。
このような男が、我が前にいること自体が不愉快だ。
身分もわきまえずに、ノコノコやってくるとはな。
すぐに追い返してくれようぞ!)
下を向いているその男を、王は忌々しい目で見つめた。
周りの騎士達も油断なく素性のしれぬ男を見張り、炯炯たる視線を送っていた。
王は尊大な声で、その男に声をかけた。
その男が微動だにせずにいると、王の目にはありありと怒りの色が浮かび始めた。王は玉座から目をギラッと光らせながら、その男を睨みつけた。
玉座の間は、物音一つしなかった。
やがて、その男は勿体ぶったようにゆっくりと顔を上げた。顔は上げたが、王には顔が見えなかった。
顔形は紫のマントですっかり覆われたまま、見えるのは微笑みを浮かべた口元だけだった。
だが、その口元が艶めくように美しい。
王は彼の口元に気付くと、食い入るように見つめた。
その変化を、マントに隠された鋭い目は見逃さなかった。
ついに、その男は沈黙を破った。
紫のマントを取り去ると、王は思わず息を呑んだ。
この世のものとは思えないほどの美貌だった。王が自慢にしている王妃の美貌でさえ霞んでしまった。
王は自分を見つめる漆黒の瞳に、一瞬で魅せられたのだった。
(そうだ…貴族連中も口を揃えて褒め称えていた…。
何を警戒する必要がある…)
王は警戒心を驚くほどゆるめてしまった。
騎士達も欲深い王とその男を見比べ、その男から放たれる威厳に息を呑んで目を見張った。自分達の主君がいかに愚かで粗暴で傲慢なのかを思い知らされ、心から忠誠を尽くして仕えたいのは目の前のような男だと思わずにはいられなかった。
「お前の…名は…なんと申す?」
王は上擦った声で聞いた。
「ユリウスと申します。」
その男は落ち着いた声で答えた。
その名は、真実の名ではなかった。
目の前の男に本来の名で呼ばれることすらも穢らわしいと思い、偽りの名を言ったのだった。
ユリウスの麗しい声を聞くと、王はすっかり夢見心地になっていた。
王が言葉を失っていると、ユリウスは穏やかな微笑みを浮かべながら口を開いた。
その微笑みのなんと艶やかなこと…王の心をさらに昂らせた。
「この素晴らしき日に空が淀んでいるとは、私は悲しくてなりません。
この空を、王のご威光のように輝かせてみせましょう。
そして私からの贈り物として、空に7色に輝く宝石をかけてみせましょう。」
と、ユリウスは言った。
ユリウスは穏やかに微笑んでから、立ち上がった。
彼の背丈は王が想像していたよりもずっと高く、また歩く姿も気品に溢れて優雅であった。
玉座の間でありながら、今現れたばかりの男がまるで王のように振る舞い始めた。
しかし騎士達も黙ったまま一言も口を利かずに、ユリウスがバルコニーに近づくと、一礼をしてから窓を大きく開けた。
ユリウスが一歩外に踏み出した。
雷が鳴り響く嵐のような天気であったにもかかわらず、途端に雨風が止んだのだった。
「どうぞ、こちらに。」
ユリウスは落ち着いた声で言いながら、驚きのあまりに口を大きく開けている王を見た。
王はフラフラとした足取りで、ユリウスの後を追いバルコニーに進み出た。側近も騎士も貴族もバルコニーに出た。
雨風は止んだが、王達は不安な目で淀んでいる空を見つめた。
ユリウスは漆黒の瞳を閉じて、両手を大きく掲げた。
空に響くように詠唱をすると、淀んでいた空が澄み渡り始め、雲の隙間から微かに光が射しこんだ。
光はユリウスだけを照らし、鮮やかな色の虹が空にはっきりとかかった。虹すらもユリウスを輝かせる景色となった。
雲の隙間からユリウスだけに注がれる光と虹を見た王と全ての者達は目が眩んで、その場にヘナヘナと崩れ落ちた。
この瞬間、全てが逆転した。
「貴方は…貴方様は……」
王の目には驚きの色が浮かび、神々しい光の前では立ち上がることすらもできなかった。王が跪いたままの格好で、目の前に立つ男を見上げていた。
「私は魔法使いでございます。
導きし者として、あらたに神より遣わされたのです。
さぁ、お立ちください。
新たな道を歩みましょう。」
ユリウスは跪いたままの王を立ったまま見下ろした。
「まさか…そんなはずは…神がもう一度我等の為に…それほどまでの御慈悲を下さるなんて…。
では神は…全てをお許しになられたという事なのでしょうか?」
と、王はつい口に出していた。
「許される?
それは一体どういう事なのでしょうか?
私は神から導くようにとの言葉を頂いて、この地に来たのです。」
「おお…なんと!なんと!
やはり神は最初につくられた我々を愛しておられたのですね!
お許しになられていたとは…もう一度我等を導いてくださる御方を遣わして下さるとは。なんと…神よ!神よ!
一体どうやって…貴方様は地上にこられたのですか?」
と、王は聞いた。
王はユリウスが以前の事を何も知らずに、神によって人間を「光の道」に導く者として、あらたに遣わされた魔法使いと理解した。
ユリウスは一言も許したなどとは言わなかったが、王は目の前の光と力に目が眩んで、自らの望むように言葉を解釈したのだった。
「私は光を伝ってきたのでございます。
王よ、ご覧ください。」
ユリウスはそう言うと、空に向かって右手を上げた。
そして歌うように詠唱をした。
雲の切れ間から光が漏れ、光線の柱が放射状に地上へと燦々と降り注ぎ始めたのだ。やがて雲も淀んだ景色も完全に消え去り、地上は光で満たされた。
ユリウスの背後で光が輝き、まるで神の如き者のような神々しさを与えたのだった。
王は光があまりにも眩しすぎて、その場に小さくなってひれ伏した。そしてガタガタと震えながらも、なんとか顔を上げて輝くユリウスを見上げた。
「先程の光の柱は…」
王は震える声で言った。
「天使の梯子でございます。
あの梯子を伝って、私は降りてきたのです。」
と、ユリウスは言った。
王は目を細めて、ユリウスがまとう光を見た。
ユリウスに対する全ての疑念は、光によって消え去っていった。
ユリウスの言葉は全て真実であり尊く、決して彼を手放してはならないと強く思った。
ユリウスが一歩跪いたままの王に近寄ると、光はさらなら煌めきを放った。けばけばしいほどの豪華な宝石で着飾った王を嘲笑うように、真の美しさとはなんなのかを貴族と騎士に見せつけた。
この瞬間、ただ1人の男に跪く王こそ、道化であった。
けれど、王はユリウスの美しさに息を呑むばかりであった。
その強欲な音が、静まり返るバルコニーに響き渡った。
王は長い間立ち上がる事すらもできずに、神々しい姿を見ながら目に涙を浮かべた。
「ユリウス様…」
王は何度も何度も名を呼び続けた。
空はアクアマリンのように澄み渡り、白い鳥が空を飛び交い、美しい鳴き声を上げた。輝く陽の光は大地に燦々と降り注ぎ続け、さわやかな空気が流れ、はるか遠くの白の教会の鐘が鳴り響く音が聞こえた。
鐘の音が、ユリウスが選ばれたる者である事を証明すると、全ての者達は強い感嘆の声を上げたのだった。
ユリウスは宮廷魔法使いとなった。
彼は王の全ての問いに明確に答えた。
彼は賢明で、合理的で、どのような者も彼の前では頷くだけであった。彼は城の中での支配力を強めていった。
神によって遣わされた男の強すぎる光を前にして冷静でいられる者は、城には1人もいなかった。
まるで何年も前から城にいたかのような地位を数日で築いた。
王は側にユリウスだけを置くようになり、ユリウスの言葉が王の心を支配していった。
心をとろかすような魔力に満ちた声に耳を傾けていると、なにをおいても優先しなければならないように思えた。
速やかに彼の言う事を聞いて微笑んでもらう事が王にとっても喜びであり、それほどまでに心酔していた。
それに世界に1人しかいない男が、オラリオンから出て行くような事があってはならないと王は感じていた。
聖なる泉の大部分が位置するオラリオンは神の寵愛を受けているのだろう。もしかすると彼の力を使えば、世界をこの手にできるかもしれないという野心も抱き始めた。
そして、王は東の塔の鍵を握りしめた。
ユリウスに言われるがままに、微かな香りのする東の塔に案内することとなったのだった。
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