第53話 絶望 上


 それから一行はほとんど休むことなくダンジョンを目指した。暗くなると歩みを止めて夕食を食べ、夜空を見上げながら楽しい話をするのだった。

 しかしフィオンは会話には入らず、月を眺めながら物思いに耽っていた。「国王を断罪する」と言った時のアーロンの瞳を思い出していた。


(あれは本気だった。ヤバい男だとは思っていたが、完全に狂っている。憎い相手を殺すまでは怒りが収まらない、死ぬほど殺したい相手を思い浮かべている時の瞳だった。

 俺が一番よく知っている…俺と同じ瞳なのだから。

 しかし、本当に、アーロンを信じていいのだろうか?)

 フィオンは輝く夜空を見上げた。月は半分に近くなり、勇者と魔法使いを見下ろしているようだった。


「俺、少し散歩してくるわ」

 フィオンはそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。


「危ないわよ。もう真っ暗なんだし、何が潜んでいるのか分からないんだから」

 エマは止めたが、フィオンは座ろうとはしなかった。


「大丈夫だよ。星は美しく輝いているし、危険もないだろう。すぐに戻ってくるからさ」

 フィオンはいつになく真剣な顔で言った。


「しょうがない男ね…」

 その顔を見たエマは伸ばしかけた手を引っ込めた。

 やれやれといった顔をしながら、フィオンに向かってヒラヒラと手を振ったのだった。


 フィオンは小さく笑うと槍を握り、月明かりに照らされながら歩き出した。

 エマは心配そうに見送り、アーロンはただ見つめているばかりだった。





「フィオンさん、僕もいいですか?」

 と、リアムが言った。


 柔らかい草の上で寝転びながら、フィオンは満点の星と月を見ていた。よほど集中していたのだろうか。フィオンはリアムの気配に全く気付かずに、その声を聞くとビクッと体を震わせた。


「なんだ…リアムか…」


「いけないことだと思いながら、後ろを歩いて来たんです。星が綺麗ですね」

 リアムは黒い瞳を輝かせながら言った。


「隣、座れよ」

 フィオンはリアムの顔を見ながら言った。



 月の優しい光が、彼等を照らした。フィオンは何も喋らず、ただ夜空を見つめているだけだった。

 夜風がリアムの頬を優しく撫でると、リアムは寝転がっているフィオンを見つめた。


「何を考えているんですか?」

 と、リアムが言った。


「ただ…夜空を眺めている。あまりに綺麗だから、見惚れていた。ソニオにいる時よりも月が大きくて、星も喜んでいるみたいだ。この森が…綺麗だからかな。

 もう少ししたら…戻るか…」

 フィオンの声には力がなく、月と星を見る茶色の瞳は悲しげだった。


「あの…僕…前から聞きたかったことがあるんです。

 いいでしょうか?」

 と、リアムがおずおずと言った。


「なんだ?」


「フィオンさんの…旅の目的って…何ですか?」

 と、リアムは小さな声で言った。


「それなら白の教会で話しただろう?

 国の平和を守るのが騎士の隊長である俺の使命であり、この戦いでさらに武勲をあげて、女にモテたいからだ。

 何故、そんなことを聞く?」

 フィオンは不思議な顔をしながらリアムを見つめた。


 リアムもフィオンを真っ直ぐに見つめると、少しモゾモゾしながら口を開いた。


「あの…あの時は…お城の人たちがいたからでしょう?

 ごめんなさい。分かったような口を聞いて。

 ソニオで騎士であり続けることは辛くないですか?

 僕には…その…フィオンさんの背中が苦しんでいるように見えるんです。いつか壊れちゃうんじゃないかと…心配になる時があるんです。

 背中にのしかかる黒い影が見えるからでしょうか?僕の魔力のせいなのか…時々…見えてしまうんです。

 だから怖がられて…心を勝手に読んでるんじゃないのかって責められたりしたこともありました。

 僕はそんなつもりじゃないんですが…」

 リアムが下を向きながら言うと、フィオンはその沈んだ顔を見つめた。


「心配してくれてるんだな。本当に優しいな。

 だからなのか…お前を見てると思い出す…いつからだろう…俺の大事な大事な…」

 フィオンはたまらずに声に出していたが、その言葉を飲み込むと彼を見下ろす月を見つめた。


「月はこんなに美しいのに、どうして地上はこんなにも汚れているんだろうな…。

 あの言葉も、本当だ。

 俺は女が好きだ。感謝している。女は綺麗で、欲しい言葉をくれる。抱き締めさせてくれて…俺を癒してくれる。嫌なことを全部忘れさせてくれる。

 それで、俺は生きることが出来る。信じていたような夢の騎士になろうと思える。

 女の子は守ってあげたくなるから。いや、ちがうな…守れなかったからこそ、そうしたい。「ありがとう」って言われるだけで、槍を振るう力になるからさ。

 こんなに汚れきった男の手でも…そう…空に輝く光のように…美しい…夢を見ることが出来るから」

 フィオンは体を起こすと、真っ赤な血で染まった手を見ながら苦々しそうに笑った。


「もしかしたら…他にも理由があるのかな?

 あるとしたら、俺はクリスタルを見たい。

 この目で、美しい輝きを見たい。クリスタルが何を見、何を語ってくれるのか。

 リアムは魔物が怖いか?」


「僕は分からないです。見たことも…ありませんから」

 と、リアムは下を向いたまま答えた。


「そうか…そうだったな」

 フィオンはそう言うと、リアムを見つめた。リアムの黒い髪が、風に吹かれて揺れていた。


「リアム…少しの間だけ抱き寄せてもいいかな?」

 と、フィオンは言った。


「いい…ですよ。フィオンさんなら」

 リアムが驚きながら答えると、フィオンはリアムの肩をそっと抱き寄せた。力強い腕なのに優しく、愛しい者を抱き寄せるかのようなだった。


「おかしいよな…。

 髪の毛も瞳も年も…何もかもがリアムとはちがうのに。リアムといると、失った時間を取り戻せたような気がするんだ。

 一緒に過ごせたかもしれない時間を。

 もうたまらないんだ。あの頃に戻れたような気がして…たまらない気持ちになる。

 俺が、お前を殺したのに。

 この旅の間は、本当に楽しかった。昔に戻れたような気がした。こんなに穏やかな気持ちで過ごせたのは、何年ぶりだろう。

 俺に夢を見させてくれて、本当にありがとう。

 この手で守りたかった。守るって約束したのに。

 だからこそ、お前に酷いことをする奴等を、俺は絶対に許せない。殺したくなる…」

 フィオンはリアムの肩を抱き寄せたまま夜空に輝く星を眺めた。まだこの世界を、あの星々のように輝かしいものだと信じていた頃を思い出した。

 そして無残に打ち砕かれ、絶望の中に突き落とされた、その時を思い出していった。


 過去に思いを馳せる度に、フィオンの瞳が狂気と絶望に染まる。優しさや綺麗さなど、何の意味もないと思い知らされる。

 正義の言葉も行動も、圧倒的な力を持つ男のたった一言で、たった一つの署名で、簡単に滅ぼされてしまうのだ。


 それが、この国の現実だった。

 フィオンが生まれた村は、辺境にある小さな小さな村だった。あれは秋の収穫を迎える頃、木々が赤く色づく、とても美しい日のことだった。



 *



 あの日から、俺の地獄がはじまった。

 そして…俺は、その地獄の中で生きている。


 叔父さんに連れられて泊まりがけで町に野菜を売りに行った日に、全てが変わってしまった。俺は小さい時から並外れた力があったから、町で美味い飯を食べさせてもらう代わりに、荷物持ちとして重宝されていた。

 あの日が来るまでは、どこにでもいる幸せな少年だった。両親から愛されて、可愛い弟もいた。


 町からの帰り道、村の方角から黒い煙が立ち上っているが見えた。その煙は不気味な色をしていて、風が吹くと鼻がもげるような臭いを漂わせてきた。嗅いだことのない臭いだった。

 叔父さんは悲鳴を上げると、荷物を投げ捨てて大慌てで村へと走り出した。俺も心臓をバクバクと震わせながら、後ろから追いかけて行った。


 地獄のような光景が広がっていた。ドラゴンの炎で焼かれたかのように村は焼け焦げていた。至る所から火がまだちらつき、沢山の死体が転がっていた。

 家は無茶苦茶に壊され、畑は踏み荒らされ、人間の肉の焼ける悪臭で頭がおかしくなりそうだった。

 見上げた空には、恐ろしい鳥が空を埋め尽くすように旋回し、人間と家畜の肉を食らおうと大きな鳴き声を上げていた。


 死が、支配していた。


 昨日まで平和だったのに、一体何が起こったのか分からなかった。頭の中は真っ白で、ガタガタと震えることしか出来なかった。

 叔父さんは口を開けながら、自分の家のあった方向にフラフラと歩いて行き、二度と帰ってこなかった。もともと心臓が弱かったこともあり、家族も家も何もかもを無くしたショックで死んでしまったのだった。



 独り残された俺は、放心状態で歩き続けた。何度も吐き続け、これ以上何も出なくなるまで吐いていた。胃酸の臭いが、口の中を埋め尽くすほどだった。悪臭は酷くなるばかりで、頭はクラクラして鼻が曲がりそうだった。

 臭いだけではなく、俺の目に映るのは恐ろしい人間の部位だった。地面には、首や足、腕と胴体も転がっていた。

 顔は焼け焦げ或は半焼けになっていたから判別出来ないが、俺が知っている人たちなのだから心臓が震えるばかりだった。

 ついに歩けなくなって尻餅をつくと、地面についた手が、グチョッと音を立てて何かを潰したのだった。

 恐る恐る手を見ると、俺が潰したのは人間から出ている臓器だった。獣に喰い荒らされたのだろうか。口をぽっかりと開けて目を剥いている誰かも分からない死体を見ていると、隣の家のよく遊んでくれた人の顔を思い出した。


 その人の中身が、飛び散っている。

 その瞬間、俺は意識を失った。


 どれくらいの間、意識を失っていたのかは分からない。目を開けると、辺りは少し暗くなっていた。

 俺は息を荒げながら、地面に横たわる死体を一つずつ確認していった。

 炎に焼かれてボロボロになって縮んでいる、もうすっかり人間なのか分からない人たちを、この目に焼き付けた。

 焼き付けなければならないと思った。

 焼けただれ苦しみ抜いて死んでいった者たちの嘆きを。昨日は笑っていた者たちが、こんなに無残に死んでいる。

「この恐ろしい光景を心に刻み込め」と、誰かに命令されたかのように。

 

 俺が泣き声を上げると、突然、前方から物音がした。ヨタヨタと歩いて行くと、家屋の下敷きになりながら必死で動こうとしている男を見つけた。

 慌てて駆け寄ったが、その顔はあまりに不気味で助けようとした手を引っ込めてしまった。

 顔の半分は押し潰されていて、知っている人のはずなのに、誰なのか全く分からなかった。

 人間とは思えない形相が怖かった。しばらく立ちすくんでいたが、冷たい風が俺の目を覚まさせ、大急ぎで家屋の板をどけたのだった。


 すると男は最後の力を振り絞り、痕が残るほどの強い力で俺の腕を掴んだのだった。


「騎士が…」

 その一言だけを残して、死んでいった。声と手には激しい憎しみが込もっていて「恨みを晴らしてくれ」と言われたかのようだった。


(騎士がやったのか?

 助けにきたけど、間に合わなかったのか?

 ゲベートの騎士がやったのか?)

 少年には訳が分からなかった。この村の近くでゲベートと戦になっていると両親が話をしていたのを思い出すぐらいだった。



 それから俺はまたフラフラと歩き出した。家があったと思われる場所にようやく辿り着くと、死体が2つ重なり合うようにして焼け焦げていた。

 判別は出来なかったけれど、俺には分かった。

 両親だった。下で死んでいるのが母で、その上で胴体が切断されているのが父だった。父は母を守ろうとするかのように死んでいた。

 しかし弟の死体はどこを探しても見つからなかった。弟が見つからなかった。

 俺は地面に突っ伏して、地面を叩きながら泣き叫んでいた。


 日がとっぷりと暮れると、恐ろしい獣の鳴き声が聞こえてきた。焼け焦げた肉でも喰わないよりかはマシなのだろう。

 獣が来て肉を貪りだす姿を見る前に、俺は町に向かってトボトボと歩き出した。死体を埋めることさえ出来なかった。

 そう…俺は泣き叫ぶだけで、何も出来なかった。

 どうやって町まで歩いたのかは覚えていない。目の前は闇のように真っ暗で、行き方なんて一人では全く分からないのに、何かに導かれるように足は動いていた。


 夜が明ける頃に町に着いたが、素性も知れず紹介状もない少年を雇ってくれるような店はなかった。

 だから、盗みや日雇いの仕事をしながら食いつないだ。


 俺の村に酷いことをした奴等に、いつか復讐してやる。

 それを命令し実行した奴の首を、この手で切り落として、弟を見つけ出す。それだけを胸に刻んで、歯を食いしばりながら生き抜いた。


(ゲベートの騎士団がやったんだ

 ソニオの騎士団が駆けつけたけど、間に合わなかった)

 と、俺は本気で思っていた。


 少年だった俺は、現実というものが分かっていなかった。

 自国の騎士団がどういうものなのか、辺境の村で平和に暮らしていた俺は何も知らずに愚かな夢を見ていたのだった。




 そんなある日、雨に降られながらトボトボと歩いていた俺は、町の真ん中で「兵士募集」の立て札を見た。

 このまま盗みを続けるのは嫌だったし、力仕事は数が減ってきていたので、俺は雨に打たれながら救いの光を見たような気がした。

 体はさらに大きくなっていて喧嘩も強かった俺は、なんなく合格した。嬉しかった。

 兵士になれば、今よりいい暮らしが出来るし、いつの日かゲベートの騎士団に復讐が出来る。俺の願いが聞き届けられたかのように感じたのだった。


 しかし、現実は残酷だった。

 俺が合格した兵士というのは、実際には兵士ではなかった。兵士よりもさらに下の末端兵と蔑まれる存在だった。

 使い捨ての道具。切り捨てられるトカゲの尻尾のような存在。さらに騎士と兵士が苛立ちをぶつける対象であり、戦で見捨てられ犠牲になる存在でもある。

 さらにトカゲの尻尾とは違って、切っても切っても次から次へと生えてくる。戦はいくらでも起こり、生命がけで親は子供を守って死んで、子供だけが生き残る。自らの身を守る術もない子供だけが。

 騎士と兵士は生きる望みをなんとか繋ごうと兵士になった少年の目が絶望に染まるのを楽しみ、ソレを肴に酒を飲んでいた。

 そうだ…自分よりも下の者を作ることで、奴等は憂さ晴らしをし、死んでいく姿を見て楽しんでいた。

 吐け口を、より弱い者に求めた。

 俺たちのような者がいる限り、自分はまだ「上」だと思える。積りに積もった苛立ちをぶつけられる相手がいる。死ねば死ぬほど、自分たちは生きていることを実感できる。

 だから、俺たちは人間じゃない。

 入隊の時にもらった金と引き換えに、奴等の使い捨ての道具になった。どうせすぐに死ぬんだから…あの金が人一人の生命の値段だったのだ。


 一番恐ろしかったのが、何の武器も防具ももらえずに戦に連れて行かれて、騎士と兵士が死なないように飛んでくる矢が減るまで、矢面に立たされることだった。

 どうせ死んでいく奴等に防具など必要ない。

 それを用意する金が勿体ないし、そんな金があるのなら別のことに使う方が意味があるのだろう。

 自らの防具を新調し、酒と女を買うことのほうが…少年の生命よりもはるかに意味がある。

 俺は矢が飛んでくる度に、隣で死んでいる喋ったこともある少年の死体を盾がわりにして生き残った。

 自分が生き残るのに必死だった。

 矢の攻撃が終わると、大人の男たちが剣を振りかざしながら向かってきた。気が狂いそうなほどの恐怖だった。恐ろしくて恐ろしくて堪らない。

 しかし、死ねない。こんなところで、まだ死ねない。

(俺は復讐しなければならないんだから!)

 その思いだけを胸に全力で逃げ回り、血を流して死んでいる死体から防具を剥ぎ取り武器を奪った。

 どうせ最後に金目のモノは奪い取るんだから、身ぐるみ剥がせるのは慣れたものだった。

 時には死体に紛れて息を殺し、死んでいるフリをして、戦が終わるのを待った。そんな日々だった。


「真実」が分かったのは、それからすぐのことだった。

 戦が終わっても俺が所属していた部隊は王都には戻らずに、戦場近くの小さな小さな村に押し寄せた。


 隊長は村長を呼び出すと、目の前に跪かせた。


「お前たちの村を、ゲベートから守ってやったぞ。激しい戦に勝利した俺たちは非常に疲れている。

 お前たちを守る為に、戦い抜いたのだからな。兵は傷つき、食料もつき、体もクタクタだ。俺たちは、精も根も尽き果てた。全て、お前たちの為にな。

 感謝の気持ちをもって、俺たちをもてなせ」

 隊長は残酷な薄笑いを浮かべながら言い、村長はガタガタと震えるだけで何も答えなかった。


 馬に乗った屈強な男が武器を持ちながら自分を見下ろしている。さらに男は、自国の騎士団の隊長である。その言葉に従うしかないのだから。


「おい、答えろ!

 お前たちの村を、救ってやったんだろうが!

 今度はお前たちが、俺たちの役に立たないとな!光栄に思うがいい!」

 と、隊長は大声で言い放った。


 それが合図だったのだろう。馬から降りた騎士は逃げ惑う女を捕まえ、兵士は村の金と食料を求めて走り出した。


 隊長が女を決めると、騎士は他の女に群がって両手両足を押さえつけた。ゲラゲラと笑いながら助けを求める女に見せつけるように輪姦す順番を決めてから、服を剥ぎ取り荒々しく犯し始めた。

 屈強な男に組み敷かれると何の抵抗も出来ない女を。殺されないよう願いながら震えているしか出来ない女を。女を守るはずの騎士が、女を犯していた。

 

「たす…け…」

「いた……い」

「や…やめっ…殴らないで…」


 俺は泣き続ける女の声から耳を塞ぎ、目と口を閉じることしか出来なかった。俺には、何も、出来なかった。


 兵士は犯されている女を横目に見ながら、騎士全員が射精してから輪姦ってくる順番を思い、下半身をすでに興奮させていた。興奮しながら家の窓ガラスを割り、玄関の扉を破壊して、武器を持たない村人に襲いかかっていった。


「やめろ!何をするんだ!」

「ここには何もありません!」

「お願いします!やめてください!」

 叫び声と人が殺される音は、ほぼ同時だった。

 金と食料を奪い取る為に、次々と壊して殺していくのだった。


 国民を守るはずの騎士団が、貧しい村から略奪し、家を壊し土地を踏み荒らし、村人を暴行して殺していく。嫌がる女を、寄ってたかって犯している。


(なんだこれ…?

 一体なんなんだこれは…?)

 次第に、俺はこの村に故郷を重ねていった。


 陵辱される女に、母親と友達だった女の子を重ねた。

 壊されていく家に、俺の家を重ねた。

 斬られていく村人に、父親と遊んでくれた男たちを重ねた。

 奪われていく食料に、村の畑と倉庫を重ねた。


 その後、騎士の皮をかぶった獣たちは散々輪姦して心を失くした女と、身を隠していた子供を引き摺り出し、奴隷商に売り払うことにした。

 ついに我慢の限界を超えて、村の男たちが農具を手に取って走って行くと、騎士は虫ケラを殺すかのように嬲り殺したのだった。


 はじめから殺すつもりだったんだ…と俺には分かった。

 自分の大切な家族や恋人が酷いことをされる姿を男たちに見せつけて、それでも生きる為に我慢するしかない男たちを見て楽しんでいたのだった。


 奴隷商がやって来ると、俺は親の名を呼んだり声にならない叫び声を上げる子供を売る手伝いをさせられた。

 弟と同じ背丈、弟と同じ年齢。

 俺は弟を引きずりながら幌馬車に放り込んでいった。

 俺が少年を売ったんだ。俺が弟を売ったんだ。

 俺が真っ青な顔をしてガタガタと震えていると、青白い顔をした奴隷商の男が近づいてきた。


「売られた女は性奴隷となり、性病になって死ぬ。

 売られた少年は男娼か奴隷として、地獄を見て死ぬ。

 お前は、そうならなくてよかったな。

 男に、掘られるんだぜ。地獄だろう?」

 奴隷商の男は俺を見ながらニタニタと笑い出したのだった。


 全てが終わると、兵士が村に火を放った。

 平和に暮らしていた人間が無惨に殺され、動かない一つ一つの死体に火がついていった。

 大切な家は崩れ落ち、あの時と同じ肉の焼ける悪臭が漂った。何もかもが、同じだった。


 この蛮行は、ゲベートの所業として報告された。

 隣国のせいにして、全てを焼き、訴える者が出ないように村人全員を始末したのだった。


(ああ…こういうことだったんだ。

 こういうことが、俺の村に起こったのか。

 だから、弟は見つからなかったのか。

 ずっと見つけたかった。生きていても死んでいても見つけることが夢だった。

 しかし、もう見つけたくない…もう間に合わない。

 ボロボロにされて死んでいった弟の最期の姿を見たくない)

 肉の焼ける臭いを嗅ぎながら、俺は拳を握り締めた。



「お前は兄貴なんだから、弟を守ってやれよ。これは、父さんとの約束だ。約束は守るもんなんだぞ」

 父さんは真面目な顔で俺の頭を撫でながら言ったが、俺は父さんとした約束を守れなかった。



(母さん…ごめんなさい

 痛かったでしょう。怖かったでしょう…本当にごめんなさい。こんな奴等に…こんな奴等に!

 これが、俺が守れなかった者たちの最期なのだろう。俺に力がない為に、救えなかった者たちの最期なんだ。

 こんなに苦しんで死んでいったなんて…さぞ恨みに思っただろう。

 こんな風に蹂躙されていたなんて…抵抗すら出来ずに殺されるしかなかったなんて…。

 そして、俺だけが生き残った。俺だけが…俺だけが、今もこうして生きている。

 こんなクソみたいな世界に、神がいるというのならば教えてくれよ…。

 なぜ俺を生かした?

 なぜ俺がいる時じゃなかった?

 なぜ俺だけが生きている!

 そして、俺はソレをした騎士団にいる…)

 俺が拳を握り締めていると、目を剥いたままの死体が俺をじっと見つめてきた。



(そうか…俺がするんだな。

 それが、俺の役割なんだろう。

 クソ共を殺し尽くすのが、俺の役割なんだろう。だから、俺はこうしてココにいるんだ。

 ならば、俺は何としても生き残らなければならない。力がなければ殺される。必ず、隊長にまで上り詰めなければならない。

 そして、地獄に叩き落としてやる。必ず復讐してやる。狂った騎士団を殲滅させてやろう。

 俺から大切な者を奪った奴、これから奪う奴、全員この手で殺してやる。殺さねば、この国では何も守れない。

 この国に救いはない。救う立場にある者がコンナコトヲしているんだから。奴等がいる限り、永遠に続いていく。

 この腐った騎士団を、俺の手で終わらせてやる。その為になんとしても力をつけてやる。

 同じに…いや、それ以上にならなければ…絶対的な武力がなければ、この国では復讐は出来ない。

 力がなければ、殺られるだけだ)

 そう固く決意すると、俺の中で何かが狂っていく音がした。


 俺は力と体をさらに大きくする為に、汚ない残飯ですらも食い漁った。なんとしても騎士になれる体を作らねばならなかったから、食って寝るしかなかった。

 憎しみを糧にしながら生き、どんなに殴られ蹴られようとも歯を食いしばりながら耐え抜いた。


 やがて兵士になると、ソニオの騎士団で最凶と恐れられていた隊長の部隊に入ろうと頼み込みにいった。

 兵士たちは生意気な俺を見て、殴る蹴るの暴行を働いたが、それでも気を失わなかった俺を見て、隊長は俺の髪の毛を引っ張り上げた。


「俺が飼う兵士の数は決めている。

 俺の部隊に入りたいのなら、今お前を殴った兵士の首を一つ取ってこい。それが俺が思ったとおりの男の首で、その死に顔で俺を興奮させることが出来れば考えてやる。お前が戦場でどんな活躍が出来るのかを証明してこい。

 ただ…俺の期待にそえなければ、俺自らお前を痛めつける。死にたくなるほどにな…。半殺しにしてから生皮をはいで、死肉は喰わない獣の前に放り投げてやるからな。生きたまま喰われてこい。

 それくらいの覚悟で、俺のところに来たんだろう?」

 と、隊長は囁いた。


 俺は一番屈強な兵士を選んで背後から忍び寄り、玉を思いっきり蹴り上げてから喉元を引き裂いた。顔を何度も突き刺し誰にも判別出来ないぐらいにし、耳だけは傷一つつけずに首を斬り落とすと、血を滴らせながら隊長のもとに持って行った。


「何故、ライアンにした?」

 と、隊長は言った。


「この男が、一番強いからです。

 この男を殺すことで、俺の力を証明しました」


「何故、俺の部隊に入りたい?」

 隊長はゾッとするような笑みを浮かべながら言った。


「俺は兵士で終わりたくありません。もっともっと上にいきたい。もっともっと人を殺したい」


「お前が今いる部隊なら女を抱けるぞ。お前に輪姦ってくる頃には、精液まみれの女だがな。そんな女なんぞ、抱きたくないか?他の男の白濁液垂れ流してる膣や口に、お前の一物を突っ込むのは嫌か?

 俺の部隊なら女も殺す。皆殺しにする」

 隊長は恐ろしい瞳で、俺を見据えながら言った。


「俺は殺戮で興奮するんです。

 隊長の部隊でなら俺は本領を発揮出来ます。必ずお役に立ってみせます。

 誰よりも多く殺してみせます」

 俺はギラギラ光る恐ろしい瞳を見つめながら言った。


 男たちの玩具にされてから性奴隷として売られるぐらいなら、殺してあげた方がいいと俺は心底思っていた。

 今の俺では助けてあげられない。

 体を犯されて心も殺されるぐらいならば、いっそ心臓を刺してあげた方がいい。死ぬまで地獄をみるぐらいなら、殺してあげた方がいいと思っていた。


 隊長は俺の目を見据え、俺が長時間目を晒さなかったことで首を縦に振った。

 だが、その目は、俺の本心をとうに分かっていた。

 無言で俺を見据えた目は、どんな言葉よりもはるかに隊長への恐怖を植え付けた。

 宣言した以上、より多くの者を殺さねば、俺の生命はないと悟った。それが、この隊長の部隊に入るということだった。



 この隊長は、なにより殺戮が好きだ。殺戮で興奮する殺戮部隊だ。人間のどこを刺突すれば、簡単に死ぬのかを熟知していた。熟知していたからこそ、その部分は刺さなかった。

 縛り上げられた男たちが苦しみ、死ねない苦痛で顔を歪ませて絶望の叫び声を上げる姿を、数えきれないぐらい見ることになった。


 俺も生き残る為に、多くの人間を殺した。

 すると隊長は次第に俺に捕虜を殺させ、ソレを見て楽しむようになった。


「お前の髪と同じように、この男の体とお前の体を血で染め上げろ。それを見るだけで、他の奴等も恐怖を感じる。

 赤い赤い戦鬼のように、その体を血で染め上げるんだ。

 お前だけにしかまとえない鎧をまとえ」

 と、隊長は言った。


 俺はその言葉に従った。残虐に殺せば殺すほどに隊長は喜び、俺も今殺している男が人間だと思わずにすんだ。

「人間」だと思ったら、この手が止まってしまう。

 毎日毎日体から血の臭いが消えなくなるほどに血を浴び続けると、同じ部隊の男たちが少し距離をおくようになった。


 戦場に出る日は、隊長と騎士の剣捌きと槍捌きを見続けた。

 どうやって攻撃するのか、どうやって防御するのか、どうやって相手を恐怖に陥れるのか、誰からも教えて貰えないから見て盗むしかなかった。盗んで真似して、盗んで真似してを繰り返した。繰り返し体にたたき込み、習得出来ると新たな技を取り入れていった。

 さらに隊長が戦場に現れただけで、敵が恐れ慄く威圧感の出し方も学びとった。盗めるだけ盗みとった。


 そんな事を繰り返していると、兵士が俺を見る目が恐怖の対象を見る目に変わったことに気付いた。

 顔色一つ変えずに人を殺せるようになったからなのか、どんな殺し方でも命令通りに遂行するからなのか、その両方なのだろうか。俺自身分からなくなるほどに、感覚は麻痺していった。


 数年後には、殺し以外の仕事も手伝わせてもらえるようになった。隊長が何故か俺を育て始めた。まるで命令でもされたかのように育て始めたのだった。

 独特の戦術、勝ち戦にする為の潮時、圧倒的な武力を保持する為に金をどうやって得ているのか、どういう奴等と繋がっているのかを知ると、騎士と商人の持ちつ持たれつの関係を知った。

 そして他の部隊が、どの辺りの連中と繋がっているのかを頭に叩き込んだ。いずれ隊長となった時に、他の部隊の武力を削ぐ為に、資金源を断ち関わっている誰を殺せばいいのかを頭に叩き込んだのだった。そうすれば騎士団の力を弱めることが出来るのだから。



 そうして、俺は生き抜いた。人殺しと汚い仕事を何度も何度も繰り返し、ようやく騎士になり隊長にまで上り詰めたのだった。

 復讐の為といいながら、俺も結局は同じ獣になり下がった。夜に一人きりで夜風を感じながら月を見ていると、美しい月明かりが罪深さを教えてくれる。

 どんなに言い訳しようが、それは事実だった。

 その事実から逃れたくて、俺は日に日に女の体に溺れていった。女の体にすがって嬌声と絶頂に浸り、女の体の温もりに癒されている間は、何もかもを忘れることが出来た。

 だから、いろんな女を抱いた。そうする事でしか、自分を保てなくなっていた。心は荒みきっていて、何もかもを忘れさせてくれるセックスに依存していたのだろう。



 そんなある日、高級な封筒が俺の元に届いた。

 他の隊長連中が目の色を変えながら口説いている貴族の女からの手紙だった。手紙に書かれていた時刻が近づくと、正装をしてからその貴族の女の屋敷へと向かった。

 空は赤く染まろうとしていた。

 立派な屋敷に着くと、執事に案内されるがままに女の待つ部屋に向かった。部屋に入るとすぐにドアは閉められ、俺と窓の外を見ている女だけになった。


 振り返った女は、想像以上だった。

 男を惑わせ男が全てを賭けたくなるほどの美貌の女が青色のドレスを身にまとい、大きな窓に背を向けながら俺を見つめてきた。

 魅惑的とは、この女の為にあるような言葉に思えた。

 大きな窓から見える赤やけの空が、女の美しさと陶器のような肌をより際立たせた。繊細なレースからのぞく胸元に、俺は生唾を飲み込んだ。

 長くて綺麗な髪は艶やかで、今すぐにでも触れたくなる衝動を理性でなんとか押し殺した。

 そんな俺の様子を見ると、女は悩ましげな眼差しを送った。薔薇の花のような気品をたたえながら、俺に近づいてきた。普段なら、簡単に誘いに乗っただろう。

 けれど、この女は違った。

 この女が俺に近づくほどに、簡単に触れてはいけない女だと感じた。美しすぎる肢体は危険性を孕み、相応の覚悟がなければ触れてはならないと感じさせた。


 女は、俺の名を呼んだ。その声は高飛車で、野蛮な騎士を見下すような声色だった。

 女は、俺のことを調べ尽くしていた。それゆえに、俺が好きな青をまとっていたのだった。


(なんだ…そういうことか…)

 と、俺も理解した。


 こんな女の思い通りにいかせるのは癪に障ったから、背中を向けて、すぐに部屋から出て行こうとした。

 すると、女は俺を呼び止めた。女は俺の部隊のことをよく調べていた。

 凱旋したばかりなのに、また大きな戦に送り出されようとしていることを女の口から聞かされた。疲れ切った隊員の心と体に大きな痛手となることは分かりきっていた。


 俺の顔色が変わると、女は口に手をあてて微笑んだ。艶やかな唇を指でなぞると、その細くて綺麗な指が俺の胸を撫でつけた。


 俺が女を見下ろすと、女は魅惑的な身体を密着させ、美しい指を徐々に下へと這わせていき、しなやかな指を絡ませた。慣れているようにも感じたが、女の指は少しだけ震えていた。


 男の理性を狂わせるような女の香りに襲われ、男を虜にする妖艶な瞳が俺を見つめた。


(散々遊んできた報いなのかもな…)

 と、俺は思った。


 ここまできて貴族の女にイイヨウに使われる。

 俺を飼い慣らそうとする女の言われるがままに条件を飲むしかないことに、男と隊長の両方のプライドはズタズタにされたように感じた。

 ようやく隊長にまで上り詰めたのに、言いなりになるしかなかった。惨めで情けなくて悔しくて、腸が煮え返りそうになった。


 しかし不思議なことに、安堵もしていた。これで自分自身にようやくブレーキをかけられる。何より、隊員を守れる。

 上手くこの女を利用すれば、俺自身も守れるのだから。

 それほどまでに、この女の人脈の深さと力は魅力的だった。


 それに、こんな貴族の女なんて美しいだけのただの人形なんだから、俺がどうこう思うわけがない。

 俺を見下す目をし、計算高くて高慢で面倒で可愛げのない女なのだから。

 俺が、こんな女を愛するはずがない。

 俺はこの女が描いているであろう夢の騎士を見事に演じ、俺の復讐が終われば捨ててやろう。

 これくらいの女が丁度いい。

 その時まで、夢を見させてやる。

 真実なんて何も知らずに、ただ綺麗なものだけを見てきたから、こんなにも綺麗なんだろう。

 この女には、虫唾が走る。 

 だから女が囁いた「約束」という言葉に頷いて、足元に惨めに跪き、細くて美しい手を取って口付けをした。


 月の光だけが差し込むベッドの上で、両腕の中に優しく包み込み、ゆっくりと時間をかけて執拗に愛撫を繰り返した。

 女の口から何度も何度も懇願させ、激しく陥落させてから、その魅惑的な身体に俺を深く刻み込ませた。


(俺を飼い慣らすつもりだろうが、逆にお前を飼い慣らしてやる)

 その時は、確かにそう思っていた。


 だが、そうはならなかった。

 この女と過ごす時間が、さらに俺を苦しめることになった。

 だから勇者として旅に出ると決まった時、俺はまたもや安堵した。

 ようやく、ようやく…離れられる。

 今まで、こんな風に思うことすらなかった。


 女の身体に触れながら、どこをどう感じているのかを探り当てては攻め、散々焦らして興奮させ、何度も痙攣させることで口から涎が流れ落ちるほど俺を求めさせた。

 押し付けながら揺さぶり、深さと体位を変えながら求め合い、ひたすら俺を感じて善がり続ける女を見て愉しんでいた。

 女が悦ぶ言葉を囁きながら、悶えきった表情で果てる姿を見るのがすきだった。

 身体だけが繋がり締め付けられることで、その瞬間だけは満たされた。それだけを、繰り返してきた。

 それがよりにもよって、こんな女から思い知らされるなんて。考えが、甘かった。


 この女は、想像以上だった。


 同じ時を過ごす度に、気丈さの裏にひた隠しにしていた弱さに触れ、俺を気遣う優しさを心地よいと思うようになった。

 心を癒すかのような温もりと麗しい唇から紡ぎ出される言葉に幸せを感じるようになった。

 こんな国で早くに夫を亡くし、家を守りながら生きるのはどんなに心細かったのだろう。

 それ故に、高慢にならざるをえなかった。弱さを見せれば、簡単に男たちに滅茶苦茶にされただろう。


 いつの間にか、俺に見せ始めた眼差しも姿が可愛くてたまらなくなった。

 だから俺の体中の傷跡をなぞる指先を、こんなにも大切に思うようになったのだろう。1人の男として、最期まで彼女を守り抜きたいなどと思ってしまった。


(どうして、今なんだろう?

 どうして、俺と彼女を出逢わせた?

 どうして、そんな姿を俺に見せた?

 どうして、俺の心をこんなにも揺らがせる?

 どうして、俺に優しい気持ちを抱かせる?)


 綺麗な女なら沢山抱いてきたのに…息が詰まりそうだ。

 俺を、そんな目で見ないで欲しい。いずれ逆賊となる俺では、幸せになんてしてやれない。彼女を幸せにする為に、槍をおくことなんて俺には出来ないのだから。

 もし失敗すれば、愛する者がどれほど恐ろしい目に遭うのか…それは俺が一番よく知っている。

 俺も、それをしてきたのだから。

 俺が愛せば、女は地獄をみる。だから、愛する女はつくらなかった。

 それなのに…どうして彼女を愛してしまったのだろう?

 だから彼女に触れる前に、自分に言い聞かせた。「愛していない」と囁いた。

 もしも、そうではなく…「愛してる」と言って、彼女を抱き締められたのなら、どんなに幸せだっただろう。

 どんなに愛しく思ってしまうのだろう。どんなに彼女と愛し合うことが出来るのだろう。

 心が満たされ、俺の全てが彼女だけで満たされる。他には何もいらないと思える。

 彼女に愛してると言えたのなら…どんなに幸せなのか…考えただけでも恐ろしかった。


 だから、嬉しかった。彼女から離れられることが嬉しかった。少し離れれば、感情をまたリセット出来る。リセットしなければならない。

 望みを果たす為に、俺は以前の自分に戻らなくてはならない。何も恐れない自分に…愛しい女性を知る前の自分に。


 騎士団を殲滅し、国王を断罪する。

 王政を終わらし、国民の手にこの国を返す。

 流れる水は腐らないように、新たな道を作る。

 そうすれば多くの者たちが身の危険を感じることなく、自由に幸せに暮らせるようになる。


 それに…この国が平和になれば、彼女はちゃんとした男を選べる。騎士から自分を守ってくれる男じゃなく、こんな血塗られた男の手ではなく、もっと貴族の女性に相応しい男性を。

 今度こそ…どうか幸せに…。

 それが、俺に出来る彼女への唯一の贈り物。

 俺が愛する女性に出来る全て。彼女が幸せに生きれる国にしてみせる。その笑顔が、曇ることのないように。


 俺は男としての自分に、何の望みも持ってはならない。

 彼女と2人で過ごす時間は夢なのだから…美しい夢の中を俺は彼女と共に歩めた。

 これ以上の幸せはない。

 絶望しかなかった俺の人生に幸せを与えてくれた唯一の女性なのだから。


 だから、俺はあるべき姿に戻らねばならない。

 俺が愛する者たちの為に、俺はなんとしても果たさねばならない。


 そうだ…俺だけが幸せになるなんて許されない。

 もう俺のような少年はつくらせない。これからの者たちに絶望の道を歩ませない。

 希望を持てる国にしてみせる。

「その為」に地獄の中を、生き抜いてきた。

 それが、この国の騎士の隊長である俺の責任、罪もない多くの人々を殺した俺の償い。


「その為」だけに、俺は生かされ、絶望の道を歩んできたのだから。

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