第24話 弓の稽古



 次の日、ミノスは剣の稽古の時間になると、紫色の布でくるんだ弓を持ってマーティスと共にやって来た。

 弓を見たアンセルはみるみる青ざめていき、心には不安が広がっていった。


「今日は剣の稽古はお休みにして、弓の稽古をしましょう。

 まずは弓を手に取り、矢を番えずに弓を引く動作を練習するところから始めましょうか」

 そう言ったミノスの表情は、いつになく柔らかだった。


 ミノスはアンセルの青ざめた顔を見ながら、紫色の布をゆっくりとほどいた。

 かつての弓の勇者が使っていた弓を見た途端、アンセルの心臓はドクンドクンと音を立てた。アンセルを苦しめ、思考を奪おうとするかのようだった。だんだん頭が痛くなってくると、フラフラした頭で弓にも埋め込まれている赤い宝石のようなものを見た。


 アンセルの心臓がさらに激しい音を立てた。

 彼の表情は険しくなっていき、両腕が震え出した。だんだん息苦しくなっていくと、その息苦しさはアンセルの自由を奪い、全てを真っ黒な色へと変える黒い感情となっていった。


 彼は「忌々しい」と思った。

 何かを、誰かを、忌々しいと思ったことは、アンセルは今まで一度もなかった。

 けれど今確かにアンセルの心の中に強く芽生えた感情だった。その感情を生み出している黒い感情は、黒い渦となった。全てを飲み込む渦だ。

 黒い渦は、猛烈な勢いとなって暴れ出した。既に黒い渦がアンセルを支配できるほどに大きくなっていることを、アンセルは気付いていなかったのだ。

「忌々しい」という感情は全てを飲み込み、激しい怒りと憎しみが心を覆い尽くした。


(こんな愚かな弓など二度と使えないように真っ二つに折ってしまわなければならない)

 と、アンセルは思うようになった。怒りで両腕をワナワナと震えさせていると、誰かがそっとアンセルの腕に触れた。

 心を落ち着かせるような爽やかな香りを漂わせながら、心地よい声でアンセルに語りかけたのだった。


「美しい弓です。素晴らしい木で作られたのだと思います。

 希望に溢れたアンセル様に相応しい弓です。

 仲間とアンセル様を、守ってくれるでしょう」

 と、声の主が言った。

 

(美しい…?

 見てくれだけ立派な…愚かな弓ではないか!)

 彼はそう思いながら、その声の主を睨みつけた。


「大丈夫ですよ。恐れることはありません。

 アンセル様、僕も共に戦います。

 僕は遠い所から見ているのではなく、共に立ち向かいましょう」

 と、マーティスは言った。睨みつけられても怯むことなく、マーティスはアンセルを真っ直ぐ見ながら微笑みかけた。


 アンセルは自分を見つめる琥珀色の瞳を見ていると、何らかの魔術にでもかかったかのように、怒りと憎しみの感情が少しずつ和らいでいくのを感じた。

 マーティスはアンセルの手を取ると、自らの両手の中に優しく包み込んだ。その温かさは、アンセルの中に沸き立っていた黒い感情をかき消そうとするかのようだった。


 アンセルはマーティスの瞳を見つめたまま、心に溜まった悪い感情を吐き出そうと息を吐いた。新しい空気を吸い込み、心を落ち着かせてから、また弓を見た。

 その弓は、確かに美しかった。

 しなやかな木で作られたM字に屈曲した頑丈な短弓は、勇者が持つのに相応しい武器だった。

 以前は気付かなかったが、弓にも水面のような模様が刻まれ、その水面を漂うように沢山の文字が細かく刻まれていた。


 何処かで見たことのある模様と文字だと思った。

 アンセルは腰に下げていた剣を鞘から抜き、輝く剣身を眺めた。それは、同じものだった。水面の模様も刻まれている文字も、同じものだった。


(同じものが…剣と弓に刻まれている。

 ということは、魔王討伐の為に特別な「何か」が施されているのだろうか?

 だから…この剣には、とてつもない力があるとでも?

 この文字は、どういう意味なのだろう?)

 アンセルは不思議に思いながら剣身を見つめていた。


「アンセル様、弓を手に取られてはどうですか?

 弓とは良いものです。

 心を落ち着かせ、心を鍛えてくれます」

 ミノスがそう言うと、アンセルはハッとして顔を上げた。

 

「えっ?あぁ…」

 アンセルは剣を鞘に戻すと、また頭が痛くなってきた。先程と同じ感覚を覚えると、またあの黒い渦に飲み込まれそうになった。


「早く…しないと…」

 と、アンセルは呟いた。


 弓に手を伸ばしたが、アンセルの右腕は小刻みに震えた。指先から腕に向かって、少しずつ熱を帯び始めた。

 アンセルは額から汗を流し、体は鉛のように重たくなっていき、黒い渦に屈服するかのように崩れ落ちそうになった。

 体は思い通りに動かなくなり、全く別の者の体のように思えた。


「アンセル様」

 マーティスが優しい声で、その名を呼んだ。


「大丈夫です。急ぐ必要などありません。

 僕たちが、お側におります。

 何時間でも、共に戦いましょう」

 マーティスがそう言うと、アンセルは腕を震わせながら頷いた。


 マーティスは震えているアンセルの腕に触れると、何らかの魔術を唱え、自らと戦う力を与えた。右腕の熱が徐々に引いていくと体は少し軽くなり、アンセルはようやく口を開くことが出来た。


「あり…がとう」

 と、アンセルは言った。


(そうだ、マーティスの言う通りだ。

 ただの…弓じゃないか。

 何を恐れているんだ…全て、かつての魔王の話だ…)

 アンセルはそう自分に言い聞かせてから、また弓に手を近づけていった。


 けれど弓に手を近づけるほどに、電流のようなものが体を駆け巡っていった。痛みはどんどん強くなっていき、凄まじい痛みで思わず目を閉じると、心の中の黒い渦がさらに大きくなった。

 ぴたりと側について離れない黒い影となり、ついにアンセルを覆い尽くした。


『苦しいだろう?そんなに苦しまなくてもいいんだよ。

 こんなものがなくても剣だけで戦える。

 かつての魔王の片目を射抜いた弓を、今の魔王であるキサマが使うなんて馬鹿げている』

 と、至極真っ当に聞こえることを囁いた。


『弓は、必要ない。

 そんは愚かな弓は、真っ二つに折ってしまえばいい』

 その囁きは、どんどん大きく強くなっていった。


 目を閉じていると、その言葉通りに動かなくてはならないと思った。その黒い影が発する言葉は、何よりも力があり、正しいと思えた。

 あまりの強さに引き摺り込まれそうになったが、寸前のところでアンセルは踏み止まって目を開けた。

 今まで乗り越えてきた鍛錬の数々を思い出したのだった。

 ひどく魅力的に聞こえる囁きに、アンセルは抗うことを選んだ。


(何の意味をない武器を、ミノスさんが俺に渡すはずがない。

 今までの鍛錬の全てに意味があった。

 最初は苦痛でしかなかった全ての鍛錬が、俺の力となり、弱かった俺をここまで強くしてくれたんだ。

 それなのに、俺は逃げるのか?以前に、戻りたいのか?

 この囁きは、きっと光の当たらない部分…俺の弱さなのだろう。黒い影に…俺は…負けたくない)

 と、アンセルは自分に言い聞かせた。


「これで片目を…『かのお方』は…。

 なら俺も…いや…俺は…『かのお方』は…』

 アンセルは大量の汗を流しながら、黒い影と戦い始めた。


「漆黒の体に美しい金色の瞳、誇り高く、気高い御方でした。

 アンセル様は、漆黒の髪に美しい金色の瞳、仲間を思い、強い心を持った御方です。

 アンセル様は、アンセル様です。

 私たちの魔王は、アンセル様でございます」

 と、ミノスは力強い声で言った。


 アンセルはその言葉を聞くと、その黒い影を打ち負かそうとするかのように雄叫びを上げた。凄まじい痛みと戦いながら、時間をかけて少しずつ腕を動かしていった。

 何分…いや、何十分かかったのか分からない。もしかしたら一時間以上の時が流れていたのかもしれない。

 その間、ミノスとマーティスは、アンセルと共に戦い続けた。黙ったままアンセルを見守り、側にいることで勇気づけたのだった。

 そうしてアンセルは叫び声を上げながら、震える腕でようやく弓を掴んだ。


 ついに自分と仲間を守る為の武器を手に取ったのだった。


 しかし、その黒い影もまた見ているだけではなかった。

 アンセルの心臓が破裂しそうなほどに激しく揺れ動き、弓を持つ腕が捻じ曲がったかのようにあらゆる方向へと動いた。

 それでもアンセルが弓を離さないでいると、燃え上がりそうなほどに両腕が熱くなっていった。 

 まるで紅蓮の炎に焼かれているかのようだった。


 さらに頭がクラクラとして、立っているのも難しくなった。

 恐ろしい何かが動き出す音がすると、その隙間から何かが這い出してきた。それが一体何なのかはアンセルには分からなかったが、目の前は真っ暗な闇となった。

 全てを圧倒し戦慄させるような何者かが現れると、小さなアンセルを掴んで、奈落の底に突き落としたのだった。

 奈落の底は恐ろしく、力の全てを弱めた。

 そのまま小さく蹲ってさえいれば、全ての苦しみから解放され、何もかもが救われるのだとアンセルに思わせようとしていた。


 けれど、アンセルは以前のような男ではなかった。

 奈落の底から這い出そうと、薄れゆく意識の中で、自らの口の中を噛み締めた。顔は苦痛で歪んだが、痛みによって目を覚まし、自分を取り戻そうとしたのだった。


 すると思い通りにならないアンセルを罰するかのように、弓を持つ両腕にさらなる激痛が走った。

 アンセルは呻き声を上げたが、その激痛に屈するまいと弓を強く握り締めた。

 

(この弓を…何があっても離さない。

 仲間と…俺を守ってくれる弓を。

 この得体の知れない力に…抗う為にも…)

 アンセルが強くそう思うと、口の端から血が流れ落ちた。


 血は床の上にポトンという音を立てて落ちた。

 その音を聞いたアンセルが闇からかえってくると、その目には赤い色が見えた。赤い血の色がどんどん広がっていき、広場の床は血まみれとなったのだった。


 するとアンセルの目に、この広場が「かつての20階層」として見えるようになった。

 マーティスの魔術で感じた、激しい憎しみを思い出すと、それに血の色と臭いが絡み合っていった。

 口から血を流しただけなのに、その目に映る自らの体は血にまみれていた。体中が斬り裂かれて、至る所から血を流していたのだ。

 やがて来るかもしれない残酷な現実を、少しずつ心に思い描かせるように。


『キサマでは、何も守れない。何もかもが血にまみれる。

 今のキサマのように』

 と、黒い影は囁きかけた。


 マーティスは白き杖を握りながら、血走った目で口から血を流しているアンセルを見つめた。彼の腕がワナワナと動き出すと、マーティスは白き杖を掲げようとしたが、それをミノスが止めた。アンセルは自らの力でまだ戦えると、ミノスは思ったのだった。

 ミノスが頷くと、マーティスは掲げた杖を下ろして、アンセルを見守った。


「アンセル様、大丈夫です。

 アンセル様は、何度も試練を乗り越えました。

 今こそ乗り越えられると確信したので、弓の稽古を始めたのです。

 アンセル様、その手で、仲間を救うのです」

 と、ミノスは言った。

 

 アンセルは息を荒げながら弓を握ったまま頷くと、ミノスはアンセルの後ろに立って震えている腕を掴んだ。


「自信を、お持ち下さい。アンセル様は強くなりました。

 これまで積み重ねてきた日々が、それを証明するでしょう。

 さぁ、私の言う通りにして下さい。

 背筋を伸ばし、足と足の間隔を肩幅と同じくらいの広さに開いて下さい。

 ゆっくりで構いません。

 足は、ほぼ平行に…ええ、いい調子です。

 右手を弦にかけ、両方の拳を均等な高さにし、ほぼ水平になるようにして下さい。肩の力を抜いて、顔を上げて、前方に狙う的があると想像して下さい。

 腕だけで引き合うのではなく、胸の筋肉と背中の筋肉を使って体全体で引くように。

 ゆっくりで、大丈夫です。

 今のアンセル様になら出来ます」

 ミノスはそう言ったが、アンセルは今にも意識を失ってしまいそうだった。


(俺に出来ると…本当にそう思っているのだろうか?

 弓を持っているだけで、こんなにも苦しいのに。

 これほどの痛みは…かつて…どこかで…。

 いや…今は、余計な事は考えるな。この時に、集中するんだ。前回は、弓を持って帰られた。あの時の俺には無理だと判断したから。

 ならば、今回は…出来るのだろう。

 そうだ…俺はやらなければならない!どんなに苦しくとも!)

 

 アンセルは痛みに耐えながら、弓を引いた。それは何ともない動作だったが、とても長い時間がかかっていた。

 弓を引いたアンセルが、口の中に溜まった血を飲み込むと、ソレは体の中にドロドロと流れ込んでいった。強烈な血の感覚が、弱りきったアンセルを襲うと、ヘナヘナと崩れ落ちていった。


「アンセル様、頑張りましたね。

 矢は番えてはいませんが、弓を引くことが出来ました。

 素晴らしいです、大きな一歩です」

 ミノスはそう言ったが、アンセルは全ての力を使い果たしたかのように憔悴しきっていた。


 弓を握り引くことが出来たが、彼の中で、何かが変わろうとしていた。

 ミノスは肩で息をしているアンセルを見ると、同じようにその場に座り込んだ。


「当分の間、弓は私が預かっておきます。

 私と一緒に弓の稽古をする時以外は、弓を持たないほうがいいでしょう。弓を持たなくとも今の動作を繰り返したり、弓を引く自分の姿を想像するようにして下さい。

 弓の手入れは、今まで通り私がしておきます」 

 ミノスはそう言ってから、アンセルの背中を撫でた。

 

「アンセル様、今日はゆっくりと休んでください。

 眠ることは、大切ですから。体を休めて、疲労を回復しましょう。

 よろしくお願いします」

 ミノスはそう言うと立ち上がり、弓を持って広場を出て行った。


 アンセルは動くこともなく、口から血を流したまま座り込んでいた。

 マーティスはアンセルの隣に静かに座ると、アンセルの頬に触れた。流れる血で、その手が赤く染まったが、マーティスは魔術で口内の傷を治し続けた。


 けれど、アンセルの目にマーティスは映らなかった。


「アンセル様、血は止まりましたよ。

 本当に、よく頑張りました」

 マーティスもそう言ったが、アンセルはただ頷いただけだった。


 夜になると、アンセルの両腕にはまた激痛が走った。一睡も出来ずに、ベッドの上で激しくのたうち回っていたのだった。






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