第5話 階層主
アンセルは部屋に戻ると、ドアを後ろ手でしっかりと閉めた。静かな部屋にガチャリという音が響くと、クリスタルからようやく逃れられたような気がして胸を撫で下ろした。
ドアにもたれかかって深く息を吐いていたのだが、ドアの隙間から冷気を感じて身震いした。壁一枚で逃れられるはずもなく、もはや以前のような穏やかな場所などないように思えた。
途端に何か恐ろしいものを背負っているかのように、体は重たくなって立っていられなくなった。壁に手をつきながらヨロヨロと歩き、崩れ落ちるように椅子に座った。
ひどい汗をかきながら頭を抱え、現実から目を逸らすようにアンセルは目を閉じた。
(封印の部屋なんて…行くんじゃなかった)
アンセルはひどく後悔し、心の中で何度もそう繰り返した。
そうしている間にも、時間は刻一刻と過ぎていった。
時計の針が進む音が異様に耳に響いてくると、さらに心は重たくなっていった。暗闇の中にいるかのように何の考えも浮かばずに、焦りを感じるばかりだった。
細い体は極度の緊張と混乱で震え出し、指先から温もりが奪われていった。
戦う準備など何もしていなかったし、そもそも戦ったことなど一度もなかった。強力な封印が施されたダンジョンの中で、ずっと平和に幸せに生きていけるのだと思っていた。
当たり前の日常が、ある日音を立てて崩れていくなど、考えることもなかった。
ダンジョンを守るという魔王としての決断など、今のアンセルに出来るはずもなかった。
(もう…勇者は…出発したんだ。もうすぐ…ここに来るだろう。今更…何が出来る?こんな俺に…一体…何が出来るというのだろう…)
アンセルは自嘲した。屈強な勇者を思い出しながら、薄目を開けて、自らの細い腕を見ると深く溜息をついた。
その細い腕では、何も押し返すことなど出来はしない。鍛え上げられた腕を手にすることなど、今からでは不可能だろう。
そう…何の鍛錬もすることなく何も差し出すこともなく、力を得られる方法があるとするのならば魔法ぐらいだが、アンセルはそもそも魔法使いではない。
望みはないように思えた。
そのままの姿勢で、また目を閉じて両手を握り締めた。助けを乞うように、祈りを捧げているようだった。
けれど祈っても祈っても、祈りは届きはしない。
神はドラゴンにはそっぽを向き、決心をすぐに忘れ、祈るだけしか出来ない男を険しい瞳で見下ろしているだろう。
空腹も手伝ってか、アンセルは目眩を覚えた。
グルグルと頭が回っていくと、水晶玉で見た勇者が脳裏で暴れ始めた。
強力なはずのダンジョンの封印は簡単に破られ、勇者は逃げ惑う魔物を捕まえては殺戮の限りを尽くした。
今まで汗水をたらしながら築き上げてきたものが無惨に破壊されて美しい色を失い、灰色で覆われている。
アンセルの心臓は激しく震えて、悲痛な叫び声を上げた。
すると祈りを叶えようとするかのように、灰色の世界を切り裂く眩い光が射し込んできた。
それは、クリスタルの光だった。
その力は健在だった。さらに力を増したかもしれない。
あの時のように勇者と戦ってくれるだろう。今度は勇者の方が、クリスタルの光に圧倒されて逃げていくかもしれない。
絶望の中で見出した光は禍々しくも恐ろしくもなく、この難局を乗り切る為の唯一の光のようだった。
アンセルは目を閉じたままガバッと立ち上がった。喉はカラカラに乾き、何とかして縋りつこうと細い腕を伸ばした。
しかし掴んだのは眩いばかりの光ではなく、温もりのある小さな手だった。
「アンセルさま、リリィはここにいますよ」
その声を聞いたアンセルは、ようやく目を開けた。目の前にいるのはリリィであり、自分に向けられている優しい眼差しが目に入った。
「俺は…一体何を…?ここは…?」
と、アンセルは呟くように言った。彼女の手の温もりで、冷たくなっていた手が少しずつ温かくなっていくのを感じた。
「ここは、アンセルさまの部屋です。アンセルさまはリリィの手を握っているのです」
リリィはそう言うと、背伸びをしながらアンセルの頬にそっと触れた。
「アンセルさま、ほっぺも冷たくなっていますよ」
リリィはそう言うと、微笑みを浮かべた。
するとアンセルは驚き慌てながら彼女の手を離した。
一歩後ろに下がりながら真っ赤になった顔を見られないように右手で隠し、左手を激しく振った。
「ごめん、ごめん。なんか…ボッーとしてた」
と、アンセルは上擦った声で言った。
「アンセルさまがボッーとしているのは、いつもの事です」
リリィがクスクスと笑い出すと、明るい声が部屋いっぱいに広がっていった。その声を聞いていると、心に広がっていた暗闇が少しずつ引いていくのを感じた。
まるで朝日が昇るように、屈託のない笑顔はアンセルの心を救ってくれた。明るい光にかき消されるかのようにクリスタルの光は少しずつ小さくなっていった。
「そうだ!ちょっと待っててくださいね」
リリィは部屋から出ていくと、食事を持って戻ってきた。
「アンセルさま、温かい飲み物と食事です。朝から何も口にされていませんよ」
リリィがそう言うと、アンセルはテーブルに座った。
湯気を立てている温かい飲み物をゆっくりと口に含むと、冷え切っていた体が内側からも満たされていった。
柔らかいパンを口に運ぶと、たまらなく美味しくてあっという間に食べ切った。特別ではない、ありふれた日常が、かけがえのないものに感じた。
(リリィが、笑っている。穏やかな日常が、まだこのダンジョンには流れている)
アンセルは自らの目を覚まさせるように頬をパンッと叩いた。
(決心したんだろうが。
この当たり前だと思っていた日常を失いたくない。そう易々と勇者に屈するわけにはいかない。
まだ…時間はある)
アンセルはそう思い直すと、この穏やかな日常を守りたいと思い「戦うこと」に意識を傾けていった。
「リリィ、時間になったら教えてくれないか?」
「分かりました、アンセルさま」
リリィは笑顔を浮かべると、ペコリとお辞儀をしてから部屋を出て行った。
アンセルは水晶玉を手に取ると、勇者と魔法使いの姿をもう一度水晶玉に映した。
彼等の姿を、しばらく見つめていた。
頬杖をつきながら難しい顔をしていたのだが、おもむろに立ち上がると紙とペンを手に取り、考えを整理するように一心不乱に書き始めたのだった。
リリィが戻ってきた時には、アンセルは険しい表情をしながら腕組みをして紙を見つめていた。
「アンセルさま、お時間ですよ。
何かいい考えは、浮かびましたか?」
と、リリィは言った。
「ありがとう。もう…そんな時間か…行こうか。
そうだな…まぁ、なんとか…するよ」
アンセルは苦笑いをしながらそう言うと、水晶玉を持って広場へと歩き出したのだった。
※
階層主が集まっている広場の扉の前に立つと、アンセルは自らの心臓の音が聞こえるようだった。
その広場は、かつての魔王と勇者が戦った最終決戦の場所だった。紅蓮の炎が吹き荒れ夥しいほどの血が流れていた場所だったが、今はその面影すらもなく、床も壁もシミ一つないほどに綺麗でピカピカに磨き抜かれていた。
何かを決める時には広場で話し合われることになっていたが、今回のような急な呼び出しは初めてだった。ましてやダンジョンの安全と仲間の生命に関わる重大な話をするのも初めてだった。
アンセルが広場の扉に手を触れると、重厚な扉がさらに重たく感じた。扉を開けると広場はしんと静まり返っていて、階層主は既に集まっていた。
彼等は一斉に立ち上がったが、アンセルに向けられた顔は半分がソワソワしていて、半分が厳しい表情をしていた。
厳しい表情をしていたのは、19階層主であるミノタウロスだった。名は、ミノスだ。
ミノスはダンジョンの中で最も長命で、銀髪に赤い瞳、牛のような立派な二本の角が頭の左右から伸びていた。見た目は初老だが、年齢を感じさせないほど筋肉隆々の体をしていた。アンセルにとっては父親のような存在だった。
ミノスと同様に厳しい表情をしていたのは、18階層主である魔術師だった。名は、マーティスだ。
輝くばかりの金髪に琥珀色の瞳、スラリとした長身のたいそう美しい男だった。マーティスはミノスの次に長命なのだが、その姿は若々しく人間でいうところの青年のようだった。
切れ長の瞳には深い知識が感じられ、彼の手元には魔術を施す白き杖があった。アンセルを弟のように可愛がり、アンセルも兄のように慕っていた。
一方、ソワソワしていたのは、16階層主であるオーガだった。名は、オルガだ。
豊かな茶色の髪に茶色の瞳、無精髭を生やし、頭には太い角が一本生えていた。柔和な顔つきをしていて少し臆病なところがあった。
味覚が優れているので料理長を務め、他のオーガと共に仲間に提供する料理を作っていた。
オルガと同様にソワソワしていたのは、17階層主のトロールだった。名は、トールだ。
2メートルを超える巨体に、瞳の色が右は赤色で左が銀色だった。筋肉質な体をしていて、その力は誰かを助ける為に使うという優しい性格をしていた。
並外れた力があるので土木工事を行い、仲間のトロールにも指導して快適な生活を守っていた。
アンセルは彼等の視線を感じると、ぎくしゃくした動きでテーブルへと進んでいき、心臓が飛び出しそうになりながら椅子の背もたれに触れた。
「急に呼び出して、すまなかった」
アンセルがそう言って椅子に腰を下ろすと、階層主達もゆっくりと椅子に座り、次のアンセルの言葉を待った。
しかしアンセルは深刻な表情で黙り込んでいるだけだった。何らかの予期せぬ事態によって心が苦しめられているというのは、誰の目にも明らかだった。
不安は伝染するかのように、トールとオルガは互いの顔を見合いながら体をソワソワと動かし始めた。あまりの静けさに、彼等が着ている服の揺れる音でさえも聞こえるのだった。
そんな彼等を見ていた男の1人が、ゆっくりと口を開いた。
「アンセル様、何かありましたか?」
と、マーティスは言った。
その言葉にアンセルはビクリと体を震わせてから、ゆっくりと顔を上げた。
「あ…その…」
アンセルの口はカラカラに乾いていて、それだけを言うのが精一杯だった。
マーティスは口元に微笑みを浮かべながらゆっくりと頷くと、アンセルは膝の上に置いていた両手をギュッと握り締めながら話し始めた。
「立ち向かわなければならない事態が…起こった。
俺達魔物を全滅させる為に、勇者と魔法使いがダンジョンに向かっている。
皆んなを呼んだのは、ダンジョンの危機にどう対処するべきかを考える必要があるからだ。
知恵と力を貸して欲しい」
アンセルはそう言うと、水晶玉に勇者と魔法使いの姿を映してみせた。
聖なる泉に異変が起こり疫病が流行し、その原因が魔物にあるとされていること等、彼が知っている全てを話した。
アンセルが話し終えると、床が少し揺れ広場の壁が軋むような音を上げ、一瞬だが照明が消えたかのように暗くなった。
ミノスの表情は険しくなり、赤い瞳には鋭い色が走った。マーティスの顔には心痛の色が走り、体をこわばらせた。
トールとオルガは身を震わせ、悲痛な叫び声を上げながら両手で顔を覆った。
「あぁ、なんということだ!なんと恐ろしい知らせなんでしょう!」
「そんな馬鹿な…明日が来ないかもしれないなんて…」
トールとオルガは口々に恐怖を口にし、今にも卒倒するのではないかと思われるほどに震えていた。
別の望みを抱くことは困難な事のように、嘆き悲しむばかりであった。
アンセルは広がり始める絶望を、どう打ち破れがいいのか分からなかった。彼が黙っているほどに恐怖の感情は強くなっていくばかりであったが、言葉が上手く出てこなかった。
アンセルは落ち着かない人のように右腕をしきりに触りながら、ただ外の世界の理不尽さを思い、悔しい気持ちで一杯になっているだけだった。
すると、マーティスは溜息混じりに口を開いた。
「そうですか。
僕も毎日このダンジョンに施された魔法を研究していますが、内部から破られた形跡はありません。
あの魔法は、とてつもなく強力です。
よくもまぁ、勇者といえども人間に施せたものです。
どうして、このような事になったのでしょうか。
誰かの企みか…いや、それとも…恐るべき力が働いているのか…。どうでしょうか?アンセル様」
「俺には分からない。ただ言えることは、俺達は何もしていないということだけだ。
外の世界の異変は、俺達のせいじゃない。俺達は、何もしていない。
けれど、このままだと魔物のせいにさせられたまま殺されてしまう」
と、アンセルは途方にくれた表情で言った。
「ひどい!こんな理不尽なことがあっていいのでしょうか?!
みんな…死んでしまう。あれ以来人間に一切迷惑をかけないように生きてきたというのに…なんで…こんな事に…。
恐ろしい勇者が来ると考えただけで、心臓が凍りついて死んでしまいそうですよ」
トールは悲しみの涙を流し、テーブルに突っ伏した。
「僕達はまだ死んではいません。
この先、何が待ち受けているにしても、希望は失ってはなりませんよ」
と、マーティスは厳しい表情で言った。
「そうだ…人間の中には、魔物のせいじゃないって知っている者もいるでしょう。
だって、魔物の姿など誰も見ていないでしょうから。その人間達が、声を上げてくれるかもしれない。そう祈りましょう!辿り着かないことを願いましょう!」
オルガは両手を合わせながら引きつった表情で言った。
「人間は、声など上げないでしょう。もしそうなら、勇者などはじめから出発していない。知っていると知っていないとに関わらず、国王はダンジョンに勇者を送り込み、他の人間も賛成したのです。
そう…国王の言葉を信じたのです。そこに、真実はないとしても。
それに勇者の力によって、懸念であった魔物がいなくなる。
たとえダンジョンの中で死んでいたとしても、死体が見つかれば安心します。さらに、その頃には、なんらかの答えが出ているかもしれない。
ダンジョンの封印は解かれ、勇者によって世界に平和が訪れる。世界を覆い尽くす闇が、ようやく取り除かれるのです。
勇者の歩む道は、ここに、しかありません」
と、マーティスは言った。
「でも…でも…そうだ。ダンジョンに施された強力な封印の魔法が守ってくれる。いくら勇者だからといって、封印の魔法が破れるわけはありません。
僕達は、安全です。
このまま息を殺しながらダンジョンに身を潜めてさえいればいいのです。
封印の魔法が守ってくれるでしょう!」
と、オルガは急に大きな声を上げた。
「オルガ、落ち着いて下さい。
そうではないでしょう。今までは、そうでした。
けれど、いつまでも、封印の魔法が守ってくれるとは限りませんよ。
時の流れで、何もかもが変化していくものです。勇者の中には、魔法使いがいます。あの陸橋を勇者と共に渡ることが出来るのならば、封印の魔法もどうなるか分かりません。
その時が来れば、終わりはやって来ます。この上ない、危険が迫っています。願うだけではなく、僕達は何か手立てを考えなければなりませんね。
希望はあまりないにしても。ねぇ?アンセル様」
と、マーティスは言った。
しかしアンセルは黙り込んだまま口を開こうとはしなかった。階層主の言葉を聞いて深い物思いに沈んでいるのか、また諦めという言葉が頭に浮かんでいるのか、目を下に向けたまま座っているのだった。
マーティスの言葉を聞いたオルガが啜り泣きを始め、それはまたトールにも広がり悲嘆は大きくなった。
オルガは嗚咽を漏らすと、また口を開いた。
「何もかもが…変化していくのならば…僕達が邪悪な魔物だという考えも変化するかもしれない。
今の僕達を見てもらえば…分かってもらえる…かもしれない」
すると、突然、ミノスは椅子を引いて立ち上がった。
広場には大きな音が響き、下を向いていたアンセルは驚いた顔しながら音のする方を見た。
「それは、無理でしょう。
過去は、変えることは出来ない。
死ぬまで、その罪を背負って生きなければならない。罪を犯したのですから。
忘れてはならないし、忘れるなど決してあってはならない。
罰を受けていないのであれば、なおさらです。
人間にとって、私達は、永遠に恐ろしい魔物なんですよ」
ミノスはそう言うと、厳しい光を湛えた瞳でアンセルを見つめたのだった。
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