第4話 クリスタル
「すみません、お待たせしましたぁ」
リリィは息を切らしながら、アンセルのもとまで戻って来た。階層主達に急いで伝えてくれたせいか、長い髪は乱れて額からは艶やかな汗が流れ落ちていた。翼は次第に元気がなくなっていき、アンセルの目の前で着地すると床にペタリと座り込んだ。
「お伝えしてきました。
皆様、集合時刻に広場に来られます」
「リリィ、ありがとう」
アンセルはそう言うと、座り込んだままのリリィを横抱きにして抱き上げた。リリィの大きな琥珀色の瞳が戸惑いの色を浮かべて頬は赤く染まった。尻尾もピクッと震えると、男の腕の中で小さく縮こまった。
「ごめん!疲れてるのかと思って…。床よりも椅子に座らせた方がいいのかなと思ったから。
嫌なら、おろすけど」
と、アンセルは慌てながら言った。
(そうだ…リリィも女の子なんだよな。
妹みたいに思ってたから、何も言わずに抱き上げてしまったけど、一言言うべきだったよな)
アンセルはそう反省しながらも、リリィの赤く染まった頬を見ると、急に彼女を「女の子」として意識してしまいドキドキし始めた。
「いいえ、嫌じゃないです!このまま連れて行って下さい…その…せっかくなんで」
と、リリィは照れながら言った。
「そっか…分かった」
「ありがとうございます。
それに疲れてないですよ。アンセルさまが、やる気を出してくれたのが嬉しいです!」
と、リリィは無邪気に笑いながら言った。
(やる気…)
事実だが、その言葉はアンセルの胸にグサリと突き刺さった。確かに寝てばかりいたのだがそう笑顔で言われると、アンセルは苦笑するしかなかった。
腕の中のリリィは柔らかくていい香りがした。
チラチラと自分を見る視線を感じると、アンセルは緊張してしまい足がもつれそうになった。
リリィを椅子にそっと座らせると、アンセルは妙な気持ちを落ち着かせようと咳払いをした。
「では、リリィが見た事を教えて欲しい」
と、アンセルは言った。
リリィは頷くと、水晶玉で見た事を詳細に話した。アンセルはリリィが話し終えるまで、一言も喋らずに聞いていた。
聞くほどに様々な疑問が浮かび、人間の理不尽さに憤りを感じるのだった。
アンセルは水晶玉に映る勇者の姿を眺めながら腕組みをした。
(よく分からない歌は、誰が作ったんだろう?どうしてダンジョンの話を持ち出したのだろう?
ダンジョンに施された封印は強力で、誰かが外に出たとは考えられない。
それにクリスタルに変化があれば、何らかの異変が起こっているはずだ。ここは何一つとして変わっていない。
クリスタルは…大丈夫だ。
クリスタルは…クリスタルは…)
アンセルはクリスタルのことを考え出すと、心がひどく掻き乱されていくのだった。
クリスタルは眩しすぎる光に包まれていて、その美しさは見る者を魅了する。あまりに眩しすぎる光は心の奥底に眠る欲望を呼び覚まし、黒々した渦が男を飲み込もうとするのだった。
「俺…念のために…クリスタルを見てこようと思う。
封印の部屋に…行ってくるよ」
と、アンセルは震えた声で言った。
アンセルの瞳に異様な影がチラチラと浮かんだのをリリィは見ると、小刻みに震えているアンセルの腕をギュッと掴んだ。
「リリィも、一緒に行きます」
リリィはアンセルの顔を見ながらそう言うと、優しく微笑んだ。アンセルは彼女の顔が目に飛び込んでくると、気持ちが落ち着いていき、腕の震えも少しずつおさまっていった。
「ありがとう。そうだったな…。
誰かと一緒じゃないと…俺はあの部屋に入れないんだった…助かるよ」
アンセルは心底ホッとしながら言うと、リリィは鍵を持っているミノスのもとへと向かった。
リリィが鍵を持って戻って来ると、アンセルは椅子から立ち上がった。
そして、ゆっくりと歩き出した。かつての魔王を封印したクリスタルがある「封印の部屋」へと…不思議な力に導かれるように。
地中につくられたダンジョンは、20階層で出来ていた。
階層ごとに階段で上り降りをするのだが、とても複雑なつくりになっていた。
封印の部屋へと続く廊下は薄暗くて途中何度か折れ曲がり、やがて下り坂になり、突然あらわれる数段の階段を下りてからアーチをくぐり、また階段を下りた先には冷たい廊下が続いていた。
その先の行き止まりには、大きな石の扉があった。石の扉の向こうこそが、ダンジョン深層部クリスタルに封印された「かつての魔王」が眠る部屋だった。
石の扉の前に立つと、アンセルはひどく気持ちが落ち込んで引き返したいという思いに駆られた。
それは数年前の出来事を思い出したからだった。
19階層主のミノタウロスであるミノスが、アンセルを連れて初めて封印の部屋に行った日のことだった。
今のように石の扉の前に立つと、アンセルは初めてクリスタルを見れることに少し興奮していた。ミノスはクリスタルをアンセルになかなか見せようとはしなかったのだった。
部屋の中は美しい光で溢れて強大な力で満ちているとアンセルは思っていたので、早く扉を開けたくて堪らなかった。
「アンセル様、気を引き締めて下さい。
かつての魔王が、この部屋の中のクリスタルに封印されています」
ミノスは興奮し切ったアンセルを諌めるかのような口調で言った。
秘密の宝箱を開けるかのようなフワフラした気持ちでいたアンセルは慌てて姿勢を正した。
ミノスが鍵を回して、ゆっくりと石の扉を開けると、地響きのような恐ろしい音が上がり、彼等は静かに部屋の中へと入って行った。
「こちらが『かのお方』の力の結晶です。
クリスタルの封印は、私達が守り抜かねばなりません。
いずれアンセル様は私よりも強くなられます。アンセル様が、クリスタルの封印を守るのです」
ミノスは重々しい口調で言ったが、それは新たな魔王である者には届いていなかった。
アンセルは一目見ただけで、壁に埋め込まれたクリスタルにすっかり心を奪われていた。
神々しいほどに燦然と輝き、7色の光を発しながら目の前の男に「真の美しさ」とはいかなるものであるのかを知らしめた。圧倒的な力をもって、平伏させようとしていたのだった。
光に魅せられたアンセルは自分がちっぽけな存在であるかのように感じた。
偉大なるクリスタルを封印から解き放ち、自分の持っている力の全てを今すぐに差し出した方がいいのではないかとさえ思った。
そうすればクリスタルはさらなる輝きを放ち、この世界を飲み込んで、新たな美しい光で照らしてくれるのではないかと妙な事を考えるようになっていた。
「アンセル様、クリスタルは壁に埋め込まれ、目には見えない強力な魔法陣が施されています。
強力な魔法ですので、クリスタルに触れてはなりません。その身を燃やし尽くすほどに危険です。
かつては壁の奥深くに埋められて見ることも出来ませんでしたが、徐々に崩れていき今の状態になったのです。
クリスタルがこれ以上動き出さないように、私達が守り続けなければなりません。
クリスタルの封印が解かれるようなことはあってはならないのです」
と、ミノスは言った。
その言葉を聞いたアンセルは激しい怒りを覚えた。ミノスが何も知らない愚か者のように思えてならなかった。
クリスタルを封印から解き放たねばならないというオカシナ使命感に駆られたアンセルは勢いよく飛びつこうとしたが、ミノスが細い腕を強い力で掴んだ。
この時、アンセルはミノスを初めて睨みつけた。
その瞳は異様な光を宿し、クリスタルに近づくことを阻む者に対する敵意の色が浮かんでいた。
その瞳を見たミノスは恐れを抱いたが、もう遅かった。
時を間違えたと後悔したが、時計の針はもう元には戻らない。
これ以上クリスタルの光に触れるのは危険だとミノスは判断すると、アンセルの細い腕を握り締めたまま大きな声を出した。
「さぁ、この部屋を出ましょう。
クリスタルは美しいですが、これ以上長居をするものではありません」
しかしアンセルは返事をせず、動き出そうともしなかった。
「アンセル様、戻りましょう」
ミノスはそう言うと、アンセルを引き摺るようにして封印の部屋から連れ出した。アンセルは抵抗したがミノスの力の方が強く、地響きのような音を上げながら石の扉は閉まったのだった。
「この部屋には、アンセル様だけで入ってはなりません」
ミノスは鍵をかけながら強い口調で言った。
ガチャリと鍵のかかる音がして石の扉が彼等を引き離すと、アンセルはようやく我に返ることが出来た。
頭がガンガンして眩暈を覚えたが、それ以上に燦然とした輝きが、男の脳裏に焼きついていた。
それは、圧倒的な光だった。
アンセルは光を忘れることが出来ず、その光に触れたいと思い、クリスタルのことばかり考えるようになった。
しかし鍵は手元にないので、どんなに欲しても、クリスタルを見ることすら出来ない。アンセルが頼んだところで、ミノスが渡してくれるはずもない。誰かと一緒に入ったところで、クリスタルに触れることが出来ないのなら意味がない。
どうやってもあの輝きに触れることが出来ないと思うと、食事が喉を通らなくなり、次第に何も手につかなくなった。
心にぽっかりと穴が空き、ベッドの上でのたうち回るほどに渇望し、夢にまで見るようになった。
クリスタルをこの手にしなければ渇きが癒えることはなく、狂おしさのあまり死んでしまうのではないかとさえ思うようになっていた。
「少しだけなら…少しだけなら…」
アンセルはそう呟きながら、ヘナヘナと膝をついた。
眩いばかりの光の魅力に取り憑かれた男は、石の扉の前で何度もグルグルと歩き回っていた。
しばしの間、アンセルは自分と戦っていたのだが、ついに敗北すると冷たい石の扉に手を触れた。
手を触れると満ち足りた気持ちになり、ミノスの言葉はドロドロと溶けていった。
石の扉を開けようとしたが、鍵は持っていないので石の扉が動くことはなかった。
アンセルはまるで助けを求めるかのように石の扉を見つめながら弱々しく触れた。恭しく跪くと、深々と頭を下げながら目を閉じた。
「どうか…お願い…です。お会いしたいのです」と、魔王でありながら臣下のように呟いていた。
すると、不思議な事が起こった。
心地よい風を感じて目を開けると、アンセルは眩い光の世界の中にいた。その光の世界で、目には見えない何者かがアンセルの腕を掴んで立たせた。
驚きのあまり口をモゴモゴと動かすと、左手が勝手に動きだして今度は石の扉に力強く触れた。
漆黒の髪が風に揺れて靡くと、沸き起こるような力を感じ、右手を掲げて威厳に満ちた声を出した。
そして彼は石の扉をゆっくりと押したのだった。
すると、石の扉はたやすく開いた。
不思議な力に導かれるように足を踏み入れると、逃さぬとばかりに恐ろしい音を上げながら石の扉は閉まったのだった。
その音を聞いても、アンセルは何一つとして不思議に思うことはなかった。その目に映るのは、燦然とした光を放つクリスタルだけだった。
その美しさに心を奪われ、圧倒的な輝きを放つ光に深い溜息をつくばかりだった。
畏怖の念を抱きながら、震える足で一歩一歩近づいて行くと、7色の光はさらなる煌めきを放った。
その光は、薄暗い部屋を明るく照らした。暗い世界を照らす、真実の光のように感じた。
アンセルは喜びを感じながら手を伸ばしたが、強力な魔法陣によって阻まれて触れることすら出来なかった。
紅蓮の炎に焼かれたような痛みを感じたが、アンセルはそれ以上に激しい怒りを感じていた。
彼は憤怒の念に駆られながら大声を上げ、クリスタルを救出しようと魔法陣の中に両腕を突っ込んだ。両腕は瞬く間に燃え上がり、皮膚が爛れ落ちて骨が見え始めた。
だが彼は恐ろしい形相で腕を突っ込んだまま、口をモゴモゴと動かし続け、ついに魔法陣からクリスタルを引き摺り出すことに成功した。
彼は狂人のような笑い声を上げた。
瀕死の重傷のはずなのだが、全く気にもせず禍々しい光を放ち始めたクリスタルを抱き寄せた。
その光はどんどん大きくなると爛れた両腕を包み込み、次第にアンセルを飲み込もうとした。
一方、魔法陣を破ったことによる轟音はダンジョン中に響き渡っていた。
中でも19階層が激しく揺れ動くと、ミノスの脳裏にアンセルの顔が浮かんで背筋に冷たいものが走った。何人かの屈強なミノタウロスを連れ、ミノスは封印の部屋へと走って行った。
石の扉の鍵は手元にしっかりとあるのだが、ミノスは封印の部屋の中に「誰かがいる」と分かると恐れ慄いた。
急いで鍵を開けて部屋に入ると、禍々しい光に飲まれようとしているアンセルの姿が見えた。
ミノスは大声を上げた。
クリスタルから引き離そうとしたが、既に正気を失っているアンセルは暴れるばかりだった。
何人かのミノタウロスがアンセルを押さえつけてミノスがクリスタルを取り上げると、アンセルは弱々しい声を上げながら気絶したのだった。
すると禍々しい光は急に消えてしまい、いつもの美しい光を放つクリスタルに戻ったのだった。
ミノスはクリスタルがアンセルに対して、思いもよらない行動に出たことに底知れぬ恐怖と不安を感じた。
ミノスに対しては何の反応もせずに、ただ神々しい光を放つだけだった。
ミノスは他のミノタウロスに命じて、18階層の魔術師であるマーティスを呼びに行かせた。
魔術を施したガラスケースを新たに作らせると、クリスタルを中に入れ、しっかりとガラスケースの蓋を閉じさせたのだった。
アンセルの両腕の再生治療は、マーティスの魔術によって半年以上も行われることになった。
その治療は激痛を伴い、アンセルは何度も何度も意識を失ったのだった。
*
アンセルがクリスタルを見るのはそれ以来だった。
「他にも…誰かお呼びしましょうか?」
と、リリィが言った。
石の扉の前に立つアンセルの顔は真っ青で、両腕は痛みを思い出したせいなのかガタガタと震えていた。
「いや、大丈夫だよ。
もう…オカシクなったりしないから」
アンセルは自分に言い聞かせるように言った。
(大丈夫だ。俺はオカシクなったりしない。
今は…そんな場合じゃない)
アンセルは心の中で何度もそう繰り返しながら、震える手で鍵を回した。
アンセルは恐る恐る石の扉を開けて部屋に入った。薄暗い部屋の中には木のテーブルがあり、その上には光を放つガラスケースが置かれていた。
クリスタルはあの頃と何一つとして変わらない。そればかりか、さらに美しくなったようだった。
アンセルがヨロヨロと近づいて行くと、強い光が発せられて薄暗い部屋を明るく照らした。
アンセルがガラスケースに触れると美しい光は徐々に禍々しいものとなり、再びアンセルを包み込もうとした。
「いけません!アンセルさま!」
と、リリィは叫んだ。あろうことかアンセルはガラスケースを壊そうとしていたのだった。
アンセルは自らが恐ろしくなった。彼の体はあつくなり、両腕からは燃え上がるような力を感じた。
「出よう」
アンセルはリリィの手を握ると、クリスタルに背を向けて逃げるように部屋から出た。
石の扉を閉めて、素早く鍵をかけた。
これ以上あの部屋にいたら恐ろしい思いに支配されて、もう二度と戻ってこれないように感じたのだった。
アンセルは一刻も早くクリスタルから離れる為に、廊下を早足で歩き出した。
「アンセルさま…額から汗が…大丈夫ですか?」
と、リリィは不安そうな目をしながら言った。
「大丈夫だよ…ありがとう。
クリスタルは何一つとして変わっていなかった。傷一つ、ついていない。何かが…這い出すなどありえない。
形も、色も、あの美しさも…変わらない。
外の世界の異変とは……関係がない」
アンセルは小さな声でそう言ったが、血も凍りそうなほどの恐ろしい力を感じとった体は激しく震えていたのだった。
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