4
次の日の昼前。
遥香が部屋で本を読んでいると、侍女からクロードが来たと告げられた。
何の用だろうと思いながら、本をおいて、窓際の椅子から立ち上がり、自ら出迎えに部屋の扉まで歩いていく。
部屋の扉の前には、遥香以外の目があるからだろうか、人当たりのいい笑顔を浮かべたクロードの姿があった。だが、この顔が豹変することを知っている遥香は、表情を強張らせながらクロードに訊ねる。
「どうかなさったんですか?」
クロードは侍女たちに向かってちらりと視線を投げてから、
「昨日、城下町には行けませんでしたので、ご都合がよろしければご案内いただければと思いまして」
優しく丁寧な口調で、そう答える。
遥香は内心で眉をひそめた。ずいぶん徹底した猫かぶりだと思ったからだ。
「……残念ながら、城下町は、わたしもほとんど降りたことはありませんので、ご案内できることはないかと」
「そうなんですか」
途端、残念そうにクロードが肩を落とすと、早くもクロードの端正な顔立ちと甘い表情――猫かぶりの――に篭絡されたのか、侍女が慌てて口を挟んだ。
「リリー様、今、城下町で春の花祭りが催されているはずですので、そちらを見るだけでも充分に面白いかと思いますよ!」
すると、遥香が何かを言う前にクロードが顔を輝かせて答えた。
「そうなんですか、それはぜひ見てみたいですね!」
遥香は少し侍女を恨めしく思った。だが、彼女はよかれと思って言ったはずだし、まさか婚約者であるクロードを避けたいなどと遥香が思っていることなど知らないだろう。どこにも文句を言うことができず、遥香はこっそりため息をつく。
ここで遥香が断れば、提案した侍女がいたたまれないだろう。
遥香は視線を下に落とし、クロードに向けて返答した。
「それでは午後からにいたしましょう」
「ありがとうございます。それでは午後、お迎えに上がりますね」
クロードが笑う。だがほんの一瞬、クロードの双眸に意地悪な光が宿ったのを見逃さなかった遥香は、午後が憂鬱になってしまったのだった。
☆ ☆ ☆
そして午後――
クロードもシンプルな白シャツと黒いズボン姿である。それでも顔立ちが派手なので目立つだろうが、他国の王子が城下町を歩いているとは誰も思わないだろう。
一国の姫と王子を二人だけで出かけさせるわけにはいかないので、護衛の兵士が数名ついてくることになっているが、彼らは気を使ってか、離れたところから護衛するとのことなので、ほとんどクロードと二人きりのようなものだった。
よって、クロードははじめから、あっさりと猫かぶりを解いた。
「おい、もう少し華やかな装いはできなかったのか。なんだその、雨の日の空の色のようなワンピースは」
「目立つと困りますので……」
「目立つような顔立ちではないだろう」
相変わらず、言葉に容赦がない。
確かに、コレットやアリスのような美人ではないので、よほど派手なドレスを着て歩かない限り、それほど目立たないかもしれない。わかってはいるが、王女という立場上、気は遣わなくてはいけないのだ。万が一にも王女が来たとわかると、祭りが混乱する。それだけは避けたいのだから、その気持ちもわかってほしかった。
城下町の大広場に到着すると、周りは花祭りというだけあって、色とりどりの花で埋め尽くされ、歩くのもやっとなほどの人でにぎわっていた。
あまりの熱狂に、遥香が言葉を失って立ち尽くすと、クロードに腕を取られる。
「人が多い。はぐれると面倒だから、俺の手を離すな」
「あ、ありがとう、ございます……」
言葉はぶっきらぼうだが、意外な優しさに少し驚いていると、クロードに鼻で笑われた。
「とろいから、すぐにはぐれそうだもんな、お前」
やっぱり優しくない。
だが、確かにはぐれてしまいそうだと、遥香はクロードの手を握った。手を握った瞬間、クロードが一瞬だけ体を強張らせたような気がしたが、すぐに意地悪な顔で見下ろされたのでおそらく気のせいだろう。
「花祭りというだけあって、花ばかりだな」
「ええ。はじめてきましたが、どこも華やかで、とてもきれい」
「はじめて?」
「はい。……町には、めったに降りませんので」
「本当に箱入りで育ったんだな」
「そんなことは……」
おそらく、遥香が望めば、よほどのことでない限り、何をするのでも許可は下りていたはずだ。現に、コレットは城の外に出かけてはのびのびしているし、アリスは旅行好きで、侍女たちを連れて湖畔の別荘などによく出かけている。
遥香が出かけないのは、単に、遥香がそれを口に出さないからだった。遥香が望むことで、護衛を含め多くの人の手を煩わせてしまうのだから、めったな希望は出さない方がいいと思っている。
父王がそんな遥香のことを「内気だ」と言って心配していることを、遥香は知らなかった。
クロードに手を引かれながら、人込みを縫うようにして歩いていると、ふと、薄紫色の小さな花が、店頭に飾られているのを見つけて、遥香は足を止めた。
「どうした?」
クロードがすぐに気がついて、歩くのをやめてくれる。
「いえ、あの花が、きれいだったので……」
「近くで見るか?」
クロードが薄紫色の花が飾ってある方へ足を向けた。
薄紫色の花は、一つの花の大きさはコインくらいだが、密集して咲く種類の花のようで、一つの枝だけで小さなブーケを見ているような気になる。残念ながらこの店は食べ物を打っているようで、花は単なる飾りのため販売はしていないようだが、見ているだけで癒されるので、遥香はぼんやりと花を見つめていた。すると――
「ほら」
急に髪に触れられてびっくりして顔を上げると、花が三輪ばかりついた小枝を、クロードが遥香の頭に挿しているところだった。
遥香が目を丸くしていると、片手にジャガイモを揚げたものが入った紙袋を持ったクロードが、くいっと顎をしゃくった。
「これを買ったついでに、少しだけ分けてもらったんだ。気に入ったのだろう」
「あ……」
「ったく、俺が買い物しているのにも気が付かなかったのか。本当にとろい。よくそれで今まで生きてこられたものだな。ほら、ここにいては人の邪魔になる。端の方に寄るぞ」
ぐい、と手を引っ張られて遥香はたたらを踏んだ。クロードに引っ張られるまま広場の端まで移動した遥香は、髪に挿された花に手をやり、戸惑った視線をクロードに向けた。
広場の端は人が少なく、はぐれる心配がないため、クロードはつないだ手を離して、買ったばかりの紙袋を開けた。
「食うか?」
「え?」
遥香は思わず視線を彷徨わせて護衛を探した。城で用意されたもの以外、不用意に口に入れるなと教育されているからだ。
遥香の戸惑いに気がついたのか、クロードは鼻で笑って、揚げたてのジャガイモを一つ口に入れた。
「あっつ……! ほら、俺が食ったんだ。毒なんか入っちゃいないさ」
毒入りを疑っていたわけではないが、そこまで言われると断りようもなく、遥香はおずおずと紙袋の中に手を伸ばした。小芋を揚げたそれはまだ熱く、遥香は手に持ったジャガイモに息を吐きかけて冷ます。
小さく口をあけてジャガイモをかじると、バターと塩の味がほんのり感じられ、とても美味しかった。
「美味しい……」
素直に口元をほころばせていると、遥香の反応に満足したのか、クロードが二個目の芋に手を伸ばす。
「食べたいものを食べられないなんて、不自由なだけだろう。……熱っ」
クロードの言う通りかもしれない。だが遥香は、ここにいるクロードや、コレット、アリスたちのように、好きなことをする方法を知らないし、勇気もないのだ。
ジャガイモを食べ終わって、手についた油をハンカチでぬぐっていると、クロードが突然喉が渇いたと言い出した。塩味のきいたジャガイモをたくさん食べたせいだろう。
クロードは遥香の手をつかむと、めぼしい店に向かって歩きはじめる。
店で赤ワインを二つ購入すると、一つを遥香に押しつける。ワインの入ったコップは返却しなくてはいけないため、ワインをごくごくと飲みほすクロードを見やってから、そっとコップに口をつけた。
一口飲むと、体がカーッと暑くなってくる。
お酒はあまり得意ではないのだ。半分ほど飲んだところで、くらりとした眩暈を感じて、遥香はこれ以上はまずいと感じ取った。
コップに残った赤ワインをどうするか悩んでいると、自分のものはすべて飲み干したクロードに、そのコップを奪い取られた。
「もう飲まないのか?」
「はい。酔ってしまいそうなので……」
「これだけで?」
クロードはあきれたように言い、それからコップに無造作に口をつけた。あっと思ったときはすでにクロードが残った赤ワインを飲み干した後だった。
(わたしが、口をつけてたのに……)
遥香は少し恥ずかしくなって頬を染めた。今まで、自分の食べかけや飲みかけのものを誰かに口にされたことはない。
クロードは店にコップを返却すると、茜色に染まりはじめた空を見上げて、「そろそろ帰るか」とつぶやいた。
遥香はまた手を取られ、クロードについて歩き出す。
離れたところに止めてあった馬車に乗り込むと、ようやく手を離してもらえた。
「楽しかったか?」
向かいの席に腰を下ろしたクロードが訊ねた。
「楽し……?」
遥香は何げなく頭の薄紫の花に触れ、考え込んだ。
楽しかったのだろうか?
はじめて見た花祭りは盛況で、あふれんばかりの花の数々は見ていてきれいだった。だが、楽しかったのかと聞かれると、正直、よくわからなかった。
答えあぐねている遥香に、クロードは少し苛立ったように言った。
「楽しかったか楽しくなかったかもわからないのか。お前は人形か!」
吐き捨てるように言われて、遥香は反応を間違ってしまったことに気がついた。嘘でも「楽しかった」と言うべきだった。
「ごめんなさい」
遥香は慌てて謝ったが、それもいけなかったらしい。クロードはますます不機嫌そうな顔になった。
「何を言っても怒らない、愛想笑いばかりで本心から笑わない、そして、何をしたら楽しいのかもわからない? あきれる。誰かに作られた人形なのか、お前は」
遥香は口を引き結んだ。何を言われた怒らないわけでも、笑わないわけでもない。ただ、人に向かって感情を吐露するのが苦手なだけなのだ。それが、ほとんど初対面の相手ならなおのこと。
しかし、それを伝えたところで、クロードが理解するとも、彼の苛立ちが収まるとも思えなかった。
クロードは馬車の背もたれに肘をおくと、双眸を細めて吐き捨てた。
「つまらない女だな、お前」
遥香の心が急速に冷えた。薄紫の花に触れていた手を力なく下におろす。楽しかったのかそうでなかったのかはわからなかったが、さっきまで、少しだけ心が温かかった。ぶっきらぼうだったけれど、クロードがちょっとだけ優しかったから。それが、氷水の中に落とされたように冷たくなる。
こんなつまらない女を婚約者にあてがわれて、クロードは気に入らないのかもしれない。だが、遥香が望んだことではないのだ。遥香だって、願いが聞き届けられるのなら、もっと穏やかで優しい人と婚約したかった。
馬車が緩やかな石畳の道を上り、城に到着する。
馬車を降りると、クロードは途端に猫をかぶった。
にこやかな顔で「今日はありがとうございました」と言う彼を見上げて、遥香は小さな声で「こちらこそ、ありがとうございました」と返答する。
そのまま、小さく会釈をして、遥香は自分の部屋に急いだ。
部屋に入ると、少し疲れたから休むと侍女を外へ追い出して、着替えもせずにベッドに突っ伏す。
――お前は人形か!
――つまらない女だな、お前。
クロードの言葉が、棘のように心に突き刺さって抜けない。
自分がつまらない人間であることなんて、わざわざ指摘されなくとも、充分わかっている。
遥香は薄紫の花を髪から抜き取ると、それを床に放り投げた。
ぽろぽろと涙が零れ落ちていく。
遥香は枕を抱きしめると、顔をうずめた。
――クロード王子を骨抜きにしてめちゃくちゃ愛されて幸せになるのよ!
コレットの言葉が頭の中に蘇ってきて、遥香は首を横に振った。
「お姉様……、わたしには、無理よ……」
愛されることにも、愛することにも自信がない。
遥香はそのまま、涙が枯れるまで泣き続けた。
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