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 居酒屋を出たあと、遥香が店の表で「ごちそうさまでした」と別れを告げるより早く、弘貴は「夜遅いから家まで送る」とタクシーを呼び止めてしまった。


 タクシーのドアが目の前で開くと、結構ですとは言いづらくなり、遥香は弘貴と同じタクシーに乗り込んだ。


「家はどのあたり?」


「えっと、隣の駅の……」


 さすがに一人暮らしのマンションの前まで送ってもらうわけにもいかず、遥香は家の近所の公園の名前を告げる。


 タクシーが走り出すと、弘貴が腕時計で時間を確認した。


「明日も仕事なのに、遅くまでごめんね」


「いえ、全然……」


 遅いというけれど、まだ時刻は十一時前だ。びっくりするほど遅いわけじゃない。


 遥香が首を横に振ると、弘貴はホッと息を吐いた。


「楽しくてつい時間を忘れちゃったよ」


 楽しいと言ってくれたが、遥香は何一つ気の利いたことを言えなかった。むしろ退屈だったのではないかと、ちらっと弘貴を見上げる。


 弘貴はアルコールが入ってほんのりと赤くなった顔で遥香を見つめていた。


 視線があって、遥香が慌てて顔を下に向けると、弘貴がくすりと笑う声が聞こえた。


「秋月さんて、可愛いね」


「――え?」


 遥香は耳を疑った。思わず顔を上げて訊き返すと、弘貴はにっこり微笑んで、


「なんか、小動物みたいで」


「しょ、小動物……?」


「あ、悪い意味じゃないよ。癒されるというか……」


 遥香は頬に熱がたまっていくのを感じた。タクシーの中が暗くてよかったと思う。明るかったら、真っ赤になった顔を、ばっちり見られただろうから。


 遥香が赤くなった顔を隠すためにうつむいていると、遥香の右手に、そっと弘貴の手が重なった。ビクッとするが、手が握られてしまって振りほどけない。


 遥香は困った顔で、弘貴に握られた右手に視線を落とした。


「秋月さん、日曜日、暇かな?」


「え?」


「どこか行かない?」


 遥香は瞠目どうもくした。


 遥香にびっくりした視線を向けられても、女性を誘いなれているのか、弘貴はまったく動じた様子はなかった。


「例えば、そうだな、映画とか。見たい映画とかない?」


 訊ねられても、驚いて思考回路が一時停止した遥香は何も言えなかった。固まってしまった遥香を見て、弘貴がまた笑う。


「ああ、やっぱり、可愛いね」


 弘貴は可愛いと言うが、遥香の何がそんなに可愛いのか、さっぱりわからなかった。


 自分の顔が可愛いわけでも、もちろん美人でもないことは、遥香が一番よく知っている。


 遥香が混乱して黙ったままでいるのをいいことに、弘貴は上機嫌で続けた。


「確か先週上映された映画が面白いって聞いたよ。でもアクション映画だからあんまり好きじゃないかな? なんとなく、イメージだけど、秋月さんって恋愛ものやファンタジー映画が好きそうだよね」


 まったくその通りだ。なぜ会ったばかりで、遥香の映画の趣味がわかるのだろう。


「恋愛映画だったら、確か邦画で何かあったような……」


「あ、あのっ」


 このままだったら、なし崩しに日曜日に一緒に映画を見に行くことになりそうで、遥香は慌てて口を挟んだ。


「わ、わたし、日曜日は、予定があって……」


「え、そうなの?」


 途端、弘貴が残念そうな表情を浮かべた。


 日曜日に予定があるなんて、もちろん嘘だ。ちょっぴり後ろめたさを感じながら、遥香はこくこくと頷く。


「じゃあ……」


 弘貴が何かを言いかけたが、タイミングのいいことにタクシーが目的地の公園に到着し、遥香はホッと胸をなでおろした。


「送っていただき、ありがとうございました」


 さすがにお金も払わずに堂々とタクシーを降りるわけにもいかず、財布を取り出そうとすると、弘貴に片手で制される。「でも……」と遥香は言いかけたが、弘貴が目の前で清算をはじめて、遥香は「ん?」と首を傾げた。


 弘貴に肩を押されるようにタクシーから降りると、なぜか弘貴まで降りてくる。


(あれ?)


 不思議に思っている間にタクシーが走り去り、公園前で遥香は立ち尽くした。


 なんで一緒に降りるんだろう、と無言で弘貴を見上げると、彼は何も言わずに微笑んで、


「それで、映画だけど、日曜日がだめなら土曜日はどうかな」


「……」


 当然のようにタクシーの中での会話の続きをはじめる弘貴に、遥香は少しあきれた。


(……押し、強い人?)


 どうやら一度言い出したら引かないタイプの人間らしい。


 遥香は困って、弘貴に押し切られる前に何かうまくかわす方法はないかと考える。


 きっと、普通の女の子なら、弘貴のようなイケメンでハイスペックな男性に誘われたら、喜んで誘いに乗るのだろう。


 しかし、遥香はどうしても弘貴のようなタイプの男性とは、必要以上にお近づきになりたくはないのだ。


 男性経験のあまりない遥香は、必死で男性をかわす方法を考えに考え、ふといい方法を思いついた。


 スマートフォンを片手に、上映中の映画情報まで検索しはじめた弘貴を止めるべく、拳を握りしめて口を開く。


「あの、八城係長!」


「んー?」


 弘貴はスマートフォンの画面に視線を落としたまま返事をする。


 このままだと見る映画まで決められて、強制的に土曜日に映画館に連行されると遥香は慌てた。


「わたしお付き合いしている人がいるんです! だから行けません!」


 慌てていたせいか、まくしたてるような言い方になったが、弘貴の耳にはきちんと理解されたようだ。


 驚いたように顔を上げ、遥香を見下ろしてくる。


「……今、なんて言ったの?」


 何をそんなに驚いているのだろう。ほとんど茫然としているような弘貴の様子に、遥香の方は内心首をひねりながら、繰り返す。


「だから、お付き合いしている人……」


「嘘だよね?」


「ほんとです!」


 嘘だけど。どうして嘘とばれるんだろうと、バクバクいう心臓の上を抑えて、遥香は嘘を重ねた。


「さ、最近、お付き合いしはじめたんです。だから……」


「ふぅん」


 弘貴はふと真顔になると、スマートフォンをスーツのポケットにおさめた。


「彼氏いるの」


「は、はい」


「最近って? いつ?」


「に、二週間くらい……?」


「くらい?」


「は、はっきりとは覚えてなくて。多分、それくらい……」


 遥香は嘘が苦手だ。これだけ挙動不審きょどうふしんになっていたらばれるかもしれないと戦々恐々せんせんきょうきょうとして、遥香は後ずさりながら弘貴を見上げた。


「……ふぅん、彼氏、ね」


 弘貴が一歩遥香との距離を詰める。


 遥香もその分後ずさった。


 なんだかよくわからないが、弘貴が怖い。


 遥香が後ずされば後ずさるほど弘貴はその距離を詰めてくる。


 それでも怖くて後ろに下がっていると、ふと、弘貴が口の端を持ち上げて笑った。


 どうしたのだろうと思いながら遥香がもう一歩後ろに下がったとき、何かが足にあたって、カクン、片方の膝が折れる。


「きゃ……っ」


 公園と道路の段差にヒールが引っかかったのだと気づいた時には後ろに倒れこみそうになっていて、衝撃を覚悟して目をきつくつむっていると、左腕がつかまれて引き寄せられた。


 目を開いた時には弘貴に抱き留められていて、遥香は細く息を呑む。


 遥香を至近距離で覗き込む弘貴は、笑っていたが、目が笑っていなかった。


「君は、俺以外の男と、付き合ってるの?」


 低い声でささやかれる。


 背筋がぞくっとして、遥香が弘貴の腕から逃れようと身をよじったときだった――


「許さないよ、そんなこと」


「―――!」



 ――強引に上を向かされたかと思えば、次の瞬間、遥香は弘貴に唇を奪われていた。

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