第2話#少女

雨の日だった。ひとりの"売り子"が上等の"商品"を路地裏から連れてきた。鼻筋がすうっとしていて、右目の下には泣きぼくろ、2つの瞳は黒々と潤っていて丸く、唇は、ぴたりと閉じて、薄く血が滲んでいてもふよふよと柔らかそうな、綺麗な弧を描いた桃色だった。売り子本人も良い仕事をした、という自覚はあったのだろうが、売り子は単独では仕入れができたとしても取引先を見つけることは困難になるため、取引先を見つけると言う役まわりをしている"店屋"が、正しくはその売り子が所属していた店屋の主が、とても良い反応をした。

「これが、コイン1枚で?」

こくこくと若い売り子が頷き返す。

「良い。善すぎるくらいに。」

売り子の裾近くに佇み、睨むわけでも微笑む訳でもない顔で、少女は主を見つめかえしている。

「名前は?」

主が売り子へ訪ねると、売り子は首をふる。

「名前を聞いても、声が出ないんです。掠れたー、酒焼けをひどくひどくしたみたいな声なら僅かに出るみたいですけど。」

「親は?」

今度も売り子は首を振る。

「買ったんだろう?じゃあ親と話をしたんじゃないか?」

これにも、売り子は首を振る。

「この子、路地裏で、私の、水無都屋の、マントを見た途端飛び出して来たんです。ペンとノートに"私のこと、買ってください"って書いてあって。お父さんとお母さんは?って聞いたら、今寝てるって言うんですよ。」

今度来るから、って言ったんですけどねー。

売り子は苦い顔だ。

「で?」

「どうしても、ってついてくるから、でもコインを払わなくちゃいけないんだよって言ったんですよ。」

少女は身じろぎさえしない。

「そうしたら、コインは家に置いて来るからと。そう言うので。」

「この子に渡して、置いてきてもらってから来たのか?」

はい、と売り子が頷く。

「安すぎる買い物だな。」

主はそう呟いた。

「これから、どうしますか?」

「取り敢えず色々聞いてみるさ。筆談はできるんだろう?ご苦労だった。あとで部屋に誰か寄越すかもしれない。」

売り子は、はぁ、と気の抜けたような返事をした。

「この子についてよく知るのは今のところお前だ。行き詰まったら誰かを寄越す。」

いいね?

主の問いに売り子はこくりと頷いて部屋を出た。

「さて。嬢さん。質問に答えてくれる?筆談でね?」

その主の質問に、少女はこくりと首を縦に振った。


***ーーー***


路地裏の家は、冷たかった。暖房もAIもいなかった。空いているのか空いていないかもよくわからないような酒の瓶がごろごろ転がっており、それが両親の荒んだこころを表しているようで少女は好きだった。唯一、好きだった。何物にも執着を見せなくなった両親にはそれが至極お似合いのように思えたし、自分の虚しさが可視化されるような心地で、嫌ではなかった。それでも、少し前、隣の男の子が売られて行った"水無都屋"のマントを見たら、動かずにはいられなかった。急すぎる転居にも、変わり果てた両親の世話も、酒ばかりのおつかいも、家の金品の管理も、頑張ったし疲れたからもういいや、と思った。まだ少女の家庭が健全であった頃、"水無都屋"や"いぶき処"など「人身売買」の大きな店に売られて行く子は不幸な子なのだと両親は口を揃えて言っていたことを少女ははっきりと覚えている。それが何を意味するのかはわからずじまいであるから少し身が怯んだ。しかし、このまま、冷たい路地なのか家なのかわからない、華やかな世界からまるきり無視されたところで死にたくはないと少女はノートとペンを持って"水無都屋"のマントを羽織った人物の前に飛び出た。僅かにその人物の目が見開かれるのがわかり、路地裏の子どもは見慣れているだろうにどうしてだろうと、一瞬少女は不安を感じたが無視をきめこんだ。

声が出ないこと、自ら"買って"と言っていることでいくらか渋られたは渋られたものの、コインを渡され、それを家と呼べるかどうかも怪しい所へ置いてでてきたところで手をひかれ、安心した。

起きて、少女が居なくなっていることに少女の両親が気づくかどうかさえ怪しいし、金品は棚の中を漁れば何れ見つかる。その金品があるうちは酒も切れないだろうし暫くは酒屋が(それも本当にツケができない間だけだろうが)無人ドローンぐらいは寄越してくれるだろう。助けてくれた近所の人たちには挨拶できないままだったことを悔やみながら、少女はてくてくと歩いた。

暫く歩いて、おそらく水無都屋の店にたどり着き、会話を聞くに自分がこれからこの店の主に会うのだと解ったところで少女は初めて自分の体の震えを自覚した。ああ怖いのだと、自分は怯えきっているのだと、そう分かったところで何かが変わるわけでもないし、後悔があるかと言われれば、なかった。これが何の震えか。体の芯から震えが、寒さで震えるそれとよく似たように波の如く体が波打つ。

「…こわい?」

隣の女性が自分に対してそう話かけてくる。

ペンとノートは、置いてきていいよおばちゃん持ってるから、と言われて置いてきてしまったため、取り敢えず首を傾げた。

「そっか、わかんないよね。」

少女はそれに対して首を縦にふった。

またふい、と顔を反らしてしまった女性に対しては少女は特に何も言わなかった(声は出ないので、裾をひっぱったりはしなかった、と言うべきか)。おとなが、顔を反らしたり話をそらしたりするときは、何か痛みを伴う傷がその近くにあるのだと少女は路地の上で知っていた。

女性が耳もとの黒いイヤホンを弄り、一言二言胸もとのマイクに囁いたところで手を伸ばされた。

「さ、行こっか。」

だいじょうぶ、怖いひとじゃないから。

甘いような、苦いような声がそう言った。"大丈夫"は信じていいときとわるいときがあった。家の中が崩れるまでの両親の「大丈夫」は絶対的肯定の意味だった。それ以降の「大丈夫」はけっして信じてはならない"大丈夫"だったけれど。

こくり、と頷いたがその、伸ばされた手を、少女は掴めなかった。否、意思を持って掴まなかった、のかもしれない。

そのまま、冷たい廊下を歩いた。裸足で汚れて傷だらけだった足は、着いて直ぐに温かい布とミストのようなもので綺麗にされて馴染まない靴を履いていた。

"靴が馴染まない"という感覚は少女にとってひどく懐かしかった。

かぽかぽ、と音をたてながらあるいて、1歩先を行く女性が立ち止まったところで立ち止まる。ぴっ、と電子音が聞こえて少女が上を見ると黒い、その昔それこそ少女の家にもいたようなAIの顔があった。

"ニンショウコード、klxn64トソノタヒトリ、ジョウソウブヨリシジアリ。ショウニンシマシタ。オハイリクダサイ。"

ただ、幾分少女が知っている声よりも機械らしい、冷たい声をしていた。

音をたてずに開いた自動ドアを、女性の後に続いてくぐる。

「名前は?」

そう尋ねられ、声が出ないのだという意味を込めて頭をふれば、女性が経緯を説明しだしたため、その後は頭の上で交わされる会話をただぼーっと少女は聞いているだけだった。

確かに、その主は怖そうな人間ではないようだった。ただ少し、話し方が鼻につくというか、無駄に洒落ているというか、そんな印象を受けはしたが。

「買い物」が「善すぎる」と言っていることに、まさか、と少女は訝しく思っていた。自分の姿なぞいつまじまじ見たのかもわからない(まじまじ見る気質でもないのかも知れないが)のに、何を評価して「善すぎる」と言われているのかもよくわからない。しかし考えるに、直ぐ見てとれるところで"良い"と言ってもらえるような所と言えば顔かスタイルか。何せ、部屋に入ってすぐ「善すぎる」なぞと言っているのだから。ただ、どちらも、自分で少女が胸をはれると思っているものではない。

そんなことを少女がぐるぐる考えていると、唐突に目の前の男性の顔が少女の方へ向けられた。

「さて。嬢さん、質問に答えてくれる?筆談でね?」

勿論、の意味を込めて少女は頷いた。どうなるかわからない。怖がるより先に、この人の言うことを聞いておけ。本能の奥底でそう指令が下された気がした。


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