第69話 腹痛

 冒険者ギルドで刃こぼれの限度見本を確認していると、青い顔をしたスターレットがやってきた。

 よく見ると顔だけではなく、体全体から辛さがにじみ出ている。

 若干前かがみになりながら、そろそろとこちらにやってきた。


「アルト、お願いがあるの…………」


「体調が悪そうだけど大丈夫?」


「お願いってそのことなんだけど、お腹が痛いの治せるかな?」


 スターレットは辛そうにお腹をさする。

 俺は医者ではないが、作業標準書を使って診察をすることが出来る。

 怪我なら回復魔法だし、病気なら体内の精霊のバランスの調整が必要になるので、そのどちらをすればよいのかを診察することにした。


「ひとまず応接室に行こうか。ここで服を脱ぐのは無理だよね?」


「うん。でも、怪我じゃないんだけど」


「いや、俺が診察するよ。怪我をした記憶が無いだけで、寝ている間に何処かにぶつかった可能性だってあるしね」


 そういうとスターレットはまるで薄紅の秋の実のように顔を赤く染めた。

 お腹を見せるのが恥ずかしいのかな?

 冒険の途中であれば恥などと言ってられないが、ここは冒険者ギルドの中だ。

 スターレットに裸になってもらうのには、他人の目がないところに行きたい。

 誰だって自分の恋人の裸を他人の目に晒したくはないよね。

 一部、そういった事を好む人たちがいるのも知ってはいるけど。


 応接室に入るとドアに鍵をかける。

 ラッキースケベ防止のためだ。

 ついでにロックの魔法で物理的な解錠だけではドアが開かないようにする。

 なにせここは冒険者ギルドだ。

 解錠を得意とする冒険者がゴロゴロしている。

 悪戯心がムクムクと育つやつが居ないとも限らない。


「アルト、ロックの魔法まで使うの?」


「どんな奴が覗きに来るかわからないからね」


「心配しすぎだよ」


 そう言ってスターレットは笑った。

 そうは言われても、シルビアみたいに露出の高い格好ではないので、普段他人の目に触れない腹部を見せたくはない。

 あれ、ひょっとして俺って独占欲が強いのかな?


「心配し過ぎかどうかはおいといて、お腹を見せてもらえるかな?」


 独占欲の強さについての考えを振り払い、スターレットの診察を始めることにした。

 スターレットはシャツをまくってお腹を見せてくれる。

 見たところ外傷はない。


「あのね、実は買ってから三日経った串焼きが残っていたから食べたの。そんなこと恥ずかしくてみんなのいるところじゃ言えないじゃない」


 とスターレットは蚊の鳴くような声で教えてくれた。

 顔を赤く染めて恥ずかしがっていたのは、お腹を見せる事の羞恥心ではなくて、腐った肉をもったいなくて食べた事を言えなかったからだったか。


「原因は腐敗の精霊が体の精霊バランスを崩したことだね。精霊魔法で腐敗の精霊を消し去るから、ちょっとだけ動かないでね」


 俺はそう言うと、精霊魔法を使ってスターレットの体内にいる腐敗の精霊を消した。

 腐敗の精霊は体内に入ると下痢や腹痛を起こす効果を発揮する。

 そうなってしまうと、彼らが消滅するのを待つか、今回のように精霊魔法で無理矢理消すかとなる。

 予防対策として、先に発酵の精霊を体内にとり込んでおくというのがあるが、これは腸内環境を整えるのと似ているな。

 ついでなので、発酵の精霊を呼び出してスターレットの体内に入ってもらった。

 これでしばらくは体調も良い状態が続くだろう。


「お腹が痛いのが治った」


「これからは腐っていそうなものは食べないことだね。どうしてもっていうのなら少しだけにしておくこと。これは毒を含んだ食べ物でも言えることだけど、致死量とは言わないけど大量に摂取したら体調をくずすことがあるから、少しずつ摂取して様子をみるんだよ」


 そう言ったが、これはなにも食べ物に限った事ではない。

 品質管理においてどこまでが良品なのかわからないものというのが出てくる。

 例えば傷だ。

 図面に傷無き事と書いてしまうと、小さな傷でも不良品となってしまう。

 そして、小さな傷というのは本当に傷といっていいのだろうかと悩むレベルのものまである。

 1マイクロメートルであっても傷は傷なのだが、じゃあそれを目視で確認できるかと言われると難しい。

 ミリで言ったら0.001ミリを目視確認出来る人は中々いないと思うぞ。

 というのがあるので、多くの場合は『有害な傷無き事』などという曖昧な表現になる。

 勿論、製品によっては傷の深さや長さを指定しているものもあるので、全てがそうだという訳ではない。

 さらに言えば、傷無き事という表現もある。


 さて、そんな有害な傷無き事という表現に対して、実際の生産現場では日々傷のついた製品が生産されている。

 それをどこまで良品として扱うのかというのが非常に難しい。

 傷のあるものを一度顧客と限度見本として取り交わし、限度見本よりも少しだけ酷い傷が出てきた場合に限度見本の見直しをするといった方法がある。

 ただ、聞いたら不良って言われちゃうかなっていうものもあって、それは傷の具合だけではなくて客先の品質担当者の性格によったりもする。

 そうなると、聞けば出荷できなくなるし、傷といっても使用上は問題ないとなれば、品管の判断としては出荷してしまえとなる。

 ただし、いきなり酷いものを出荷する訳ではなくて、軽いものから徐々に出荷していき、クレームが来なければもっと酷い傷のついた製品を出荷していくというやり方である。

 このやり方のきもは少しずつ悪いのを出荷していくという事にある。

 0か100かであれば気が付いてしまうが、50か51ならば気が付く人は少ない。

 数値はマイクロメートルなので、ミリで考えるのであれば1/1000となる。

 傷の0.1ミリといえばかなり目立つ。

 全く傷がないのと、0.1ミリの傷というのは誰が見てもわかるものだ。

 この辺の感覚は製造業でないと伝わりにくいかもしれないが。


 そんなわけで、どこまでが使えるのかを試すのには、少しずつというのが定石なのだ。

 決して褒められたやり方ではないが、現実にはこうしたことが少なからずある。


「お腹が痛いのが治ったから、これからご飯でも食べに行かない?」


 すっかり体調の回復したスターレットが屈託のない笑顔で誘ってきた。

 その仕草に小さな子供に対するような感情が芽生える。

 子供を育てた経験はないが、よく言えば純真や天衣無縫という事なのだが、悪く言えば少しは考えろっていう事だろうか。

 お腹が痛いのが治ったから即食事とかねえ。


「仕事が終わったからかな」


 流石に仕事中に恋人と食事に行くわけにはいかない。

 いや、何度か抜け出しているからスターレットにもそういう感覚が生まれてしまったのかもしれないが、本来であれば仕事中に職場を抜け出すのはまずい。

 スターレットは納得したようで、それ以上の誘いをしてくることはなかった。


「しょうがないわね。アルトの仕事が終わるまで洗濯でもしていようかな。洗濯ばさみっていうのを貰ったからね」


「洗濯ばさみ?」


 洗濯ばさみはこの世界には存在しない。

 ばね鋼がないからだ。

 不思議そうな顔をしているとスターレットが身振り手振りで洗濯ばさみの形を教えてくれる。


「こんな形で洗濯した服を挟むんだよ。挟んだまま離さないから風が吹いても落ちないし、わざわざ袖に紐を通して干す必要もないから便利なんだ」


 指でじゃんけんのちょきを作って、開いたり閉じたりしてみせる。

 まあ、俺の知っている洗濯ばさみで間違いないな。

 動きからしてばね鋼が使われているのは間違いなさそうだ。

 そして、ばね鋼が使われているのであればつくったのはあいつか?


 黒衣の男の顔が浮かんだ。

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