6.「道」の人生論的理解(2)

 『老子』の中には、一読しただけでは、ン?と、首をひねる箇所もでてきます。

 たとえば・・・・・・


【学ぶことをすっかりやめたなら、思いわずらうこともなくなる】[P73]


 まるで学問を否定しているかのように感じられますが、そういうことではなく、学問すること、学ぶことはすなわち分別することであって、その分別することが、分別された世界に人の心をつなぎ留め、惑わされ、そうなってしまうが故に、囚われ人となり、欲望に憑りつかれてしまう、という程度のことを言っているに過ぎません。


 具体的に言いましょうか。

 たとえば、賢さとか、学力って何なんでしょう。

 実際のところ、よくわかりませんよね。

 でも、テストの点数とか、偏差値とか、そういったもので世間は数値化し、可視化しています。

 これが、分別する、ということです。

 で、それは根本的には仮のもの、ある一面的な指標でしかないはずのものなのに、分別してしまった結果、逆に、その分別にとらわれてしまい、偏差値=学力、を絶対視してしまうようになります。

 偏差値の高い人が賢い、と思うようになります。

 そして、たとえば偏差値の高い大学に行く人を尊敬したり、褒めたり、また、そういう人が賢いと思い、就職に有利になったりします。

 そうなると、人は偏差値の高い大学へ行こうとするようになるでしょう。

 で、そのような大学へ入りたいという欲望が生まれることになります。

 これが、分別することの落とし穴、です。


 繰り返します。

 学ぶということは、一つ一つ分別をつけていくことです。

 が、分別をつけることによって、逆に、迷い(と欲望)の世界へ落ち込んでいってしまうわけですね。


 つまり、『老子』が言っていることは、学ぶな! ということではなく、分別の世界に落ち込むな! ということです。

 むしろ、前回にお話ししたとおり、


 1(道)⇒2(分別)

 2(分別)⇒1(道)


 の往復運動が大切なのです。

 学ぶことも必要です、が、2へ行ったっきりにならないことが肝要なのです。


 さて、ここで「道」の人生論的理解をまとめておきましょう。


 何よりまずは「道」に沿った生き方をすること。


 具体的には、


(1)足るを知ること、


 足るを知るが故に、


(2)争わないこと、


 ほしいほしい、もっとほしいと思えば、誰かと争うことになりますね。


 そして、争わない方法としては、


(3)謙虚でいること、


 が推奨されます。


 たとえば【自分のしたことを鼻にかけて自慢するものは、何ごとも成功せず、自分の才能を誇って尊大にかまえるものは、長つづきはしない】[P81]なんて述べられています。


 そして、


(4)分別の世界に惑わされないこと、


 が大切ということになります。


 学ぶ、ということは、知識を「外」へ求めることです。

 「外」というのは、本だったり先生だったり学校だったり、いろいろですね。

 『老子』ではこう述べられています。

 【外から学ぶことをきっぱりとやめ、くよくよと思いわずらうのをやめよ】[P71]と。


 どういうことかと言いますと。「道」を知るに、「外」に学ぶ必要はない、ということです。

 繰り返しになりますが、「外」に学びを求めても、分別に囚われてしまい、逆に、迷い(欲望)の世界に浸かるだけです。

 そうではなく、この世界は「道」の〈はたらき〉に満ち満ちていることを知ること、感じること。そしてその〈はたらき〉は当然、私たち自身の〈はたらき〉でもある、つまり、私たちもまた「道」の〈はたらき〉を分有しており、「道」の〈はたらき〉と共に生かされていることを感じることが大切だ、ということです。

 ものすごく簡単な言い換えをしますと、「道」をマクロコスモス、私たち一人一人をミクロコスモスだとするなら、


 マクロコスモス=ミクロコスモス


 であることを知ること、が、肝要なのです。

 

 じつはコレ、インド哲学や密教でいうところの、梵我一如、と近似です。

 

 まさに東洋思想の特徴、とも言えますね。


 また、「外」に求めなくとも、自ら(の内=ミクロコスモス)に求めることで、「道=マクロコスモス」が体得される、という考え方は、禅、の思想とも近似です。とりわけ臨済宗を拓いた臨済義玄の言行録『臨済録』では、繰り返し「外」に求めるな、「内」に求めよ、といった言葉がでてきます。

 

 ちなみに禅については、いずれ稿を改めて述べてみたいと思っています。

 

 『老子』では、次のように述べられます。


【戸口から一歩も出ないでいて、世界のすべてのことが知られ、窓から外をのぞきもしないでいて、自然界の法則がよくわかる。外に出かけることが遠ければ遠いほど、知ることはますます少なくなっていくものだ。それゆえ「道」と一体になった聖人は出歩かないでいてすべてを知り、見ないでいてすべてをはっきりとわきまえ、何もしないでいてすべてを成しとげる】[P151] 



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