第29話 まともな人間への第一歩
(子供の声……どこかで、聞いたことがあるような)
ともすれば吹き飛ばされてしまいそうな風に抗いながら、クレメンテはうっすらと目を開けた。
泣いている者がいれば手を差し伸べる、それがクレメンテの正義。
しかし今はそれ以上に、聞こえてくる声の主が気になる。
自分はきっとこの相手を知っているからだ。知っているのに思い出せない。こんなことは滅多にないのに、と不思議な思いで開いたクレメンテの目に映ったのは、地面も空も右も左も、果ての見えないのっぺりとした薄茶色の空間である。
形あるものと言えば、目の前にある今にも崩れそうな民家がひとつ、それだけ。
「これは――ひょっとして」
頭のどこかが既視感を訴え、クレメンテは緩やかに目を見開く。
これは、自分の生家ではないだろうか?
幼いころ、教会に身を捧げる前に住んでいた家。
最近はまったく思い出すこともなかった家。
「ということは、この中にわたしの家族が居るのですね」
改めてつぶやいてみると、胸からどっと愛があふれてきた。
ここがアレシュの言うとおりの自分の過去であるのなら、とっくに神の国へ旅立ってしまったであろう家族に会うことができるのかもしれない。
自分を生んでくれたひと。育ててくれたひと。
共にあってくれたひと。関わってくれたひと。
そのひとたちともう一度会える!
アレシュの思惑はともあれ、再会は喜び以外のなにものでもない。クレメンテは優しげな美貌を輝かんばかりの笑みで満たして、生家の扉を力いっぱい内側へと押し開いた。
「みなさん……」
にこやかに言いった瞬間、嫌な臭いの煙が肺に入りこんでくる。
あまりの刺激臭に何度か咳きこみ、少々涙目になってクレメンテは室内を見やった。
辺りはひどく暗い。
平炉で燃える小さな火以外には明かりもない、空気の澱んだ狭い家であった。
家の中には汚れと悪徳がぎゅっと凝縮されている。
食べかすと埃と何とも知れぬ液体が泥と化して堆積する土間。湿った藁にボロ布をかけただけの寝台。
一部屋に大家族のすべてが住んでいるせいで、獣のような悪臭がする。
粗末な平炉では、胸元の緩みきった服を着た女が、長柄の匙で鍋の中身を混ぜていた。女の目は死んだ魚のそれで、頬も服も土で汚れているせいで元の肌の色がわからない。
土間の泥の上にはさらに汚れた子供たちが何人も土間に転がって、もぞもぞと虫みたいに蠢いている。
彼らは誰も、扉を開けたクレメンテに反応しなかった。
見えていないのか、反応する元気もないのか。両方かもしれない。
反射的に吐き気を覚える者も多いであろう光景に、クレメンテは少し困ったように目を細める。
そういえば、こんなふうだった。
忘れていたけれど、これが自分の家。亡国の都会の貧困層。
そして自分は――そう。この、足下で転がっている子供のひとりだ。
「……君、立ちなさい」
クレメンテは大きさから自分らしき子どもを見つけ、静かに声をかける。
しばらくすると、幼いクレメンテ少年はのろのろと顔をあげた。ぎょっとするほどに痩せた顔の中で、瞳ばかりがきらきらと大きく青い。トカゲみたいな顔だ。
彼は、長身のクレメンテの顔をじっと見つめて訊ねた。
「どうして、立つの?」
「それは」
わずかにためらってから、クレメンテは囁く。
「――歩いて、逃げるためです。ここにいると、危ないから」
クレメンテの言葉に少年が応えようとしたとき、その襟首を父親らしき男がつかんだ。
「……おい。うるせぇ。独り言は、駄目だ」
寝ぼけているような、くぐもった声。
あらゆる感情が死んだ声に、クレメンテ少年はたちまち悲鳴をあげた。
「ごめんなさいごめんなさいお父さん、もうしません、もうしません、返事しかしません、喋りません、動きません、静かにします、家に居る間は寝てます!」
「何度も言った。何度も言ったのに、お前は聞かねえ。客と喋るな。俺たちとだけ喋れ。返事だけだ。うるせえんだから」
父親はぼそぼそと言いながらクレメンテ少年の襟首を掴み、平炉の熱い灰の中に突っこんであった火箸を取った。
母親が鍋をかき回す片手間に、だるそうにクレメンテ少年の上衣をまくりあげる。
少年の白い背中にはいくつもの、羽をもいだかのような火傷の痕が走っていた。
あー、あー、あー、と、クレメンテ少年が激しく泣きわめき始める。
床に転がった兄弟たちは、うるさそうに耳を塞ぐ。
あー、あー、あー。
さっき聞こえていたのは、この声だ。
自分の、泣く声。
(そういえば、そうでしたね。わたしは、昔、泣いてばかりで)
クレメンテは小さく吐く。
ずっと忘れていたけれど、思い出した。
自分の両親はこういう人間だった。
彼らにとって子供たちは彼らの憂さ晴らしの種でしかなかった。自分はさんざん死ぬような目に遭わされた挙げ句の果てに、はした金で革のなめし業の奉公に出されたのだ。
強い薬品を使うなめし業の奉公人が、無事に成人する率は恐ろしく低い。
あっという間に手からは爪が消え、片目がつぶれた。このままでは死ぬ、と確信した自分は、ある日命からがら教会に逃げこんだのだ。
そこでも死にかけの子どもは歓迎されなかったけれど、クレメンテは生き残るためになんでもやった。信仰心を見せるために自分の体を傷つけるのもいとわなかった。親の仕打ちと奉公先の仕打ちであちこち痛覚が消えていたから、正直軽いものだった。
そうして自分を受け入れさせたあとは、猛烈に祈った。
自分はあんな両親のようにならないように、己から邪悪を追い出すために、あらゆることをした。愛がほしかった。誰もくれなかった愛を、神ならばくれるのだという話だったから、どんなことをしてでもその愛を手に入れようとした。愛だ。愛だ。愛が欲しい。愛する者にのみ愛が与えられるのなら、あらゆるものを愛そうと思った。すべては愛のためだ。愛。自分の体をなるべく大きな袋にして、愛をぱんぱんにつめてやるのだ。
(だから、今のわたしの心には、愛以外の感情がろくにないんだ)
クレメンテは途方に暮れて、小さく笑う。
背中がうずく。
クレメンテには神の愛を得る才能があった。神は惜しみなく与えてくれた。おかげでやけどの痕は消え、爪は生え、信者から献上された目は自分の目のようにものを見るようになった。
だから、ね。
大丈夫ですよ。
ぜーんぶ、いずれ、よくなりますから。
クレメンテは泣きわめく幼い自分を見下ろしてにっこり笑った。そうして、穏やかな笑みを父親のほうへ向ける。
火箸を持った手首を掴むと、過去の父は初めてクレメンテをまともに見つめた。その目が大きく開かれ、彼の体はわずかに震える。
「あんた……どこの司祭さんだ? おかしいな。いつから、ここにいる?」
「ついさっき。もしくは、ずっとあなたの横に居ましたよ」
穏やかに微笑み、クレメンテは内心アレシュの技に舌を巻く。
彼の言う通り、これは過去の記憶ではないようだ。クレメンテは実際に自分の過去におり、過去の家族と相対している。
こんな世界を揺るがすような香水が一個人の持ち物だとは、と戦くのと同時に、クレメンテの心のどこかは希望でわくわくしていた。
(またとない機会をいただいてしまいました。両親はわたしが奉公に行っている間に死んだはず。まともに感謝の言葉も伝えられなかった。もちろん、神の教えも)
「さあ、お母さん。あなたもわたしの手を取ってください」
「ひっ!!」
クレメンテが空いた手で母の手首をつかむと、母は跳び上がりそうに驚いた。
クレメンテは気にせず、体中にあふれる愛を感じて集中する。
さあ、祈ろう。神と共に祈ろう。
今、自分が過去の両親に伝えたい言葉。伝えたい気持ち。
全部残らず届きますように!
心の底から祈りながら、クレメンテは両親に向かって笑いかける。
「わたしは、あなたたちを許します」
両親はびくりと震えてクレメンテを見た。
ふたりとも、邪悪で、ひねていて、いじけきった顔だった。
昔は怖いだけだったが、今ならこのひとたちを受け入れられる。
神の後ろ盾を得た今、自分に恐ろしいものなどひとつもない。だから大丈夫だ。
彼らに同情できる。
彼らを愛せる。
彼らはきっと善良さを学ぶ機会がなかったのだ。
ならば百塔街の連中よりよほどたちがいいではないか。
自分は今こそ本当にこのひとたちを許そう。
愛そう。感謝しよう。大好きだ。わたしの命。わたしの両親。
わたしの――
「ラウレンティス様」
かすれ声に名を呼ばれ、クレメンテは優しく父の顔を見た。
そして、思いがけない光景にぎょっとした。
(なんだ、これは。これは……)
さっきまで醜悪そのものだった父の顔が、急にすっきりしてしまっている。
しかもその変化はクレメンテの眼前でまだ続いていた。
顔の皺がぬるぬると伸びていき、不摂生で土気色だった顔色は徐々に白くなっていく。澱んだ瞳は情熱と信仰に輝き始め、表情は一度も見たこともないほど凛々しくなってクレメンテを見つめる。
(まさか――奇跡!?)
慌てて母のほうを見ると、まったく見覚えのない、いかにもつましく美しい女がクレメンテに尊敬のまなざしを向けてきた。
「ラウレンティス様――ありがとうございます。ありがとうございます。今、私たちにも神の声が届きました。あなたは神の使いなのですね? 私たちを改心させるために遣わされたのですね。なんでしょう……この、感じたことのない温かな気持ち」
「愛というのはこういうものなんですな。なんか、一度も感じたことのない感じです。でも、今あなたに手を握られてわかりました。これが、奇跡ってやつなんですな」
繰り返される感謝の言葉。親が言うはずのない言葉。
激しい混乱を覚えつつも、クレメンテはどうにか落ち着こうとする。
何が両親に起こったのかは、冷静になれば大体検討はつく。奇跡だ。クレメンテの猛烈な愛の心が紙のもとへと届き、奇跡が起こったのだ。
愛と善を知らない両親の心に、信仰が芽吹いた。
それだけではおさまらず、奇跡はあふれて両親の姿をも輝かしく変えてしまった。百年に一度、千年に一度の奇跡。神の大盤振る舞い。すごいことだ。素晴らしいことだ。これは――
「あなた、父さんと母さんに何、したの」
いきなり暗い声に思考を邪魔され、クレメンテは息を呑む。
見下ろすと、幼いクレメンテ少年と目があった。少年の燃えるような暗い瞳には、明らかな敵意がぎらついている。
殺してやる。
そう言われている気がする。
クレメンテは笑おうとして、自分の顔がこわばっていることに気づく。
反射的に両親の手を放し、数歩後ろへさがった。
両親は残念そうに声を上げ、敬虔に手を組み合わせてクレメンテに祈りを捧げ始めた。
それを見たクレメンテ少年は、大きな目に涙をいっぱいに溜めて叫ぶ。
「こんなの父さんと母さんじゃない! ふたりを返してよ! 人殺し!」
昔の自分の叫びに横っ面を張り飛ばされ、クレメンテは大きくよろめいた。
息が苦しい。どうなっているんだ。
自分は間違ったことなどしなかった。だから奇跡が起こった。なのに、どうして昔の自分はこんなに怒っているんだ。
この、美しい男女は、確かに自分の両親で――
「ちがう」
ぽつり、と勝手に言葉が唇から零れる。
クレメンテは軽く目を瞠ってその場に突っ立った。
違う。違う。
これはただの強制的な改造だ。
アレシュが異界とこちらの世界を混ぜて変な人形を作り出したのと、ほとんど同じだ。相手の頭に無理やりあり得ない信仰を植え付けて、すべて組み替えてしまった。こんなのは自分の両親ではない。自分の両親は人間のクズだった。ほんとうにどうしようもない人間だった。
だが、それが本物の両親だったのだ。
クレメンテは彼らを最後まで愛していて、愛されたいと望んでいて、死にそうな目に遭いながらも本気で彼らを憎もうとはしなかった。
好きだったから。どうしても、好きだったから。
(母上。父上)
……本物の両親は、もうどこにもいない。
わたしは両親を殺した。
今までだってそうだ。素晴らしいことと信じて、強制的な奇跡で人々を洗脳し続けてきた自分は、生きた聖者などではない。
ただのひと殺しだ。
クレメンテが真実を悟ったとき、硝子が割れるような高い音が辺りに響く。
急に全身が寒く、重くなって、クレメンテはついにその場にくずおれた。
まるで冷たい夜を千夜も歩き通してきたかのようで、気力も体力も萎えきっていた。もう、すべてがどうでもいい。
しかし、汚い土間に転がる前に、闇のような腕が彼を抱き留める。
誰だ、と問う必要はなかった。
のろのろと顔をあおのけると、真っ赤な瞳と視線があう。
どんなところにあってもぞっとするほど美しい、アレシュの顔が微笑んでいる。
「真実を見てきた顔をしているね」
美しい顔で、彼が囁く。
美しい。彼の美しさは、夜の美しさ。
豊潤な、夜の。光に惑わされぬ、命の香りをまとって、彼は言う。
「おめでとう。これで、ただの人間に一歩近づいた」
クレメンテは何も返せなかった。
ただの人間。
その、砂を噛むような響き。
悲しいのか苦しいのかもわからないまま、憔悴しきったクレメンテの瞳から、ほろりと涙が落ちる。
床に落ちた涙は、金剛石にも真珠にも変わらなかった。
――クレメンテの信仰心が揺らぎ、神の意志が彼から遠ざかった証拠であった。
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