第28話 逆さ聖堂での邂逅

 百塔街の中央広場から延びる道をまっすぐに歩いて行くと、その奇妙な坂に出る。

 進むにつれて徐々に傾斜がきつくなり、ついには地面に対して直角になり、さらにそれ以上の角度にもなる石畳。

 呪いでひっくり返りかけた百塔街の、先端部分へ向かう坂だ。

 坂の両側にはしっかり根でも張ったかのような建築物がはりついているが、いくら百塔街でも真横や逆さになった家に住む者は居ない。

 坂を進めば進むほど、街は廃墟の様相を呈し始める。


『逆さ聖堂』とは、その坂の行き止まり、三角形をした百塔街の突端にある、完全にひっくりかえった聖堂のことである。


「……悲しい場所ですね。かつては温かな信仰の気持ちで満ちていた場所が、今はその信仰を辱める気持ちの象徴として残されているとは」


 がらんとした聖堂に、悲しげな声がかすかに尾を引いて響いた。

 逆さ聖堂の中はすべてが逆さまだ。

 はるか頭上にはモザイクで迷路を描いた床があり、壁には逆さまになった色硝子窓や半ば欠落した壁画、頭を下に壁に磔になった使徒の像などが見てとれる。

 今は床となった天井はすり鉢状になっており、天井画が少しも見えないほどのがらくたで埋まっていた。


 クレメンテはただひとり、そのがらくたの上に座っている。


 彼の姿は浄水施設に現れたときとほとんど変わらない。

 白い衣服は洗われなくとも汚れを知らず、金色の髪にも荒れた様子はない。

 確かに一度ミランの氷に閉じこめられたというのに、どこか怪我をした様子もない。これもまた、彼をとりまく奇跡のおかげだ。

 世界には、氷に閉じこめられても奇跡的に生を長らえる生物が居る。

 もちろんそれらの生物は人間よりもよほど単純な構造を持っていることがほとんどなのだが、クレメンテは細胞ひとつひとつに起こる奇跡でもって老いることすらやめた男である。今回も気が遠くなるような奇跡が重なって、彼の体はミランの冷気が緩むまで超低温に耐えきったのだ。


「神がある限りわたしは生き、生き続ける限り奇跡と信仰の道は続く」


 クレメンテは囁き、色硝子ごしの光に髪をきらめかせて首をもたげた。

 その顔の半分は以前のまま柔らかな美しさを保っているが、残りの半分はぞっとするような形状にねじ曲がり、焼けただれている。

 アレシュが投げつけたアマリエのせいだ。

 クレメンテを包む奇跡も、アレシュの「魔界と人間界」「人間界と神界」を混ぜる力には対抗する術をもたなかった。ゆがみが全身に広がるのを途中で止めるので、精一杯だったというところか。


 異形のものとなった顔で、それでも真摯にクレメンテは逆さ聖堂の一角を見つめる。

 彼の視線の先の薄闇からは、さっきから細い紫煙があがっていた。

 煙草の明かりがちかりと光り、薄闇に立つひとの襟飾りに反射する。

 漆黒の紳士装束に、悪趣味なまでの過剰装飾。

 アレシュ・フォン・ヴェツェラ。

 先ほどここへ到着した彼は、クレメンテと視線があうと目を細めて笑った。


「ごきげんよう、クレメンテ。ここに神はいないけど、深い夜の気配がするね。物憂く湿った夜の匂い――僕の好きな匂いだ」


「アレシュ。本当に来たんですね。ひとりですか?」


 問うたクレメンテの声は、どことなく以前と違う。

 青くきらめく瞳に宿る光も、以前のような純粋なきらめきとはどこか違って見える。以前の光がぽかんとした太陽の光なら、今の光は強い酒の表面に灯った炎のよう。信仰心と闘争心がないまぜになって、陶然とした光であった。


(随分とまあ、人間らしくなって。僕らに儀式をぶち壊されて、さすがの聖者も怒りを覚えたのかな?)


 いささか小気味よくは感じるものの、怒りの温度ではアレシュのほうも負けてはいない。こんな怒りは一体いつぶりだろう? そもそも自分は、今までまともな怒りを覚えたことなどなかったのかもしれない。

 それを、この男が目覚めさせた。

 あの、赤と黒の伝言で。

 アレシュは淡い興奮と共に足を進める。

 白い顔には妖艶な笑みを浮かべ、少しばかり度を越して優しい声で囁きかける。


「ひとりだよ。普段はあまりつるまないんだ。そのほうが気楽だし、分け前を払わなくてすむし、僕の思うところの美を完成させやすい。『使徒』結成前はずっとそんなふうにやってきた」


「わたしは逆です。教会に入ってからずっとみんなと一緒にいたので、ひとりで居る気分、というのを最近すっかり忘れていました。……孤独というのは、なんとも心細く、自由なものですね。こんなものに浸っていては、危うい方向へ流れるのもいかにもたやすいことでしょう」


 深く考えこむ風情で言いながら、クレメンテはぎこちなく立ち上がる。


「……さて。話し合いで改心していただければいいのですが、もうわたしたちは互いに言葉を尽くした。これ以上、わたしの話を聞いてくださる気もないのでしょうね?」


 この期に及んで平和ぶったクレメンテの言いように、アレシュの瞳が鮮やかな殺気を含む。

 台所で見た赤と黒が、目の前でチカチカする。

 ハナ。可愛いハナ。アレシュを愛してわざわざやってきたハナ。あのよどんだ瞳と、くるりと巻いたかわいい角。まずい料理と、まずいピアノ。あの子の血なんか見たことがない。見たいと思ったこともない。あの子は好き勝手下僕を踏みつけて、自分の後をくっついて回って、飽きたら全部を捨てて去るのが似合っていた。


 よりによってあの子に手を出したあげくに、何が改心だ。


 魔界の客任せなんかではなく、自分で相手の喉に食らいついてかみ殺してやりたい。死の間際でも同じことが言えるのかどうか、見ていてやりたい。

 そんなふうに思って、アレシュはほんのすかに笑った。

 今、自分は、自分以外の誰かのために、誰かを殺したいと思っている。


「僕はあなたの説教を聞きに来たわけじゃない。夕食がまだなんだが、あいにく僕に料理の腕はなくてね。ハナを、返してもらうよ」


 アレシュが低く囁くと、クレメンテの頬はふわりと赤くなった。

 彼はやけに嬉しそうに身を乗り出して言う。


「素敵だ……! 今、あなたからものすごい愛を感じましたよ、アレシュ! あなたは邪悪な存在ですが、ハナさんを愛する心はちゃんと持っているのですね。人界にも魔界にも拒否されるような化物でも、誰かを愛することはできる、素晴らしい! やはり愛こそすべてだ。愛こそが最強だ。愛はいい、何かを愛するひとを見るのは快楽だ、愛することなしでは生きていけない、わたしは全人類を、いや、この世界にある万物、万象を心の底から、力一杯愛しています。もちろん、あなたも!!」


「あなたは狂ってる、クレメンテ。僕はあなたを愛さないよ。永遠に」


 アレシュが冷徹に切り捨てると、クレメンテはかすかに眼球を震わせて歪んだ笑を浮かべた。


「そう、ですか。それは、寂しいな。教会兵たちも、あなたとあなたのお仲間にみんな殺されてしまったし。……愛するべき相手が減るのは、悲しい」


「だったら生き返らせたらいいじゃないか。あなたが最初に、聖ミクラーシュで死んだ教会兵の死体にしたように」


 思えばあれがすべての発端だった。

 あざ笑うアレシュに、クレメンテは驚いたように目を瞠った。


「聖ミクラーシュで……? アレシュ、あなたは何か勘違いしていらっしゃる。神界へ旅立った者を引き戻すなんて神への冒涜に等しい! そのようなことをしたら神のご加護が消えてしまいます。死者を歩かせるのは、古来死体を扱う呪術師のみですよ。聖ミクラーシュで死んだ同胞の死体は、わたしがくるころにはすっかり気配が消えていました」


(……何?)


 どきり、と心臓が高い音を立て、アレシュはわずかに息を呑む。

 嘘を吐いているのではないか、とじっと見つめ返してみるが、クレメンテの瞳は透明なままだ。

 そもそも彼には、嘘を言うという発想自体が欠けているような気もする。

 だとしたら、あの死体を歩かせたのは、誰だ?

 様々なひとの態度や言葉が高速でアレシュの頭の中を巡る。

 何度も何度も繰り返される記憶の中から、泡のようにいくつかの違和感が浮かび上がってくる感触がある。

 

 誰かが決定的な嘘を吐いていたのでは?

 自分はずっと異形と化したサーシャを見ないようにしていた。

 同様に、他にも見えていないものがあったのでは?


 ひょっとして――


「クレメンテ。ひょっとして、あなたは」


 アレシュが言いかけたとき、クレメンテは小さくため息を吐き、自分の籠手をした手に軽く口づけた。

 籠手が神の祝福で淡い光を帯びると、彼は片手の拳をアレシュのほうへと伸べる。


「アレシュ。浄水槽で言ったように、あなたに救いは訪れません。わたしとあなたでは、あまりにも立っている場所が違う。だからこうしてすべてがすれ違うのです。いくら言葉を交わしても寂しくなるだけだ。――戦いましょう」


 祈るような彼の言葉に、アレシュはきゅっと唇を噛む。

 そうだ、今は話し合いの時間ではない。まずは一対一で戦って、勝者のみが相手のこれ以上の言葉をかけることができる。

 一対一。

『無能』のアレシュと、『万能』のクレメンテでは、あまりにもアレシュが不利。

 ……しかし。


「そうだね。……だけど、僕の戦い方は、あなたほど単純じゃない。そろそろ、あなたにも見えるはずだ」


「何がです?」


 律儀に聞き返すクレメンテに、アレシュはかすかに笑って告げる。


「あなたの好みの匂いだといいんだけど。僕は長らく自分のことを『無能』だと思いこんできた。だけどあなたが親切心で、僕の能力と、僕の怒りを思い出させてくれたからね。ここに来る前に父さんの調香部屋にこもってきたんだよ」


「なるほど、素晴らしいことです。ですが、あなたが優雅に香水を撒く前に、わたしの拳はあなたに到達する」


「だろうと思ったから、あらかじめ撒いておいた」


 にいっと笑みを深め、アレシュは優美に腰を折って一礼する。


「ではご堪能ください。父さんと僕の久しぶりの合作。パルファン・ヴェツェラ十三番、改め『額縁の中の人生』。過去を呼び寄せる香り!」


「過去を。わたしがあなたの記憶を呼び戻したのに対抗したのですか? それ本当ならば素晴らしいですが、わたしの過去にやましいところなど……」


「そうじゃない。僕の香水は時間をだまして、巻き戻すのさ」


「時間を……だます?」


 クレメンテは目をまん丸にしてアレシュの言うことを聞いていた。あまりにも不思議な話で、殴りかかって中断するのをためらってしまう。

 そんな間にも、アレシュは音楽的な声で続ける。


「可能だよ。魔界と神界、ひとの世界はそれぞれに時の流れ方が少しずつ違う。これを複雑に行き来することで時間をずらし、君と僕は実際に君の過去を訪れるんだ。君の、記憶を甦らせる術よりすごいだろ?」


「……本当ならば凄まじい技ではありますが、やはり無駄としか思えません。あなたは何がしたいんです?」


 途方に暮れて問うクレメンテに、アレシュは笑みを果てしなく甘くした。


「君が信仰を得る前の世界に行って、君の信仰を打ち砕くのさ」


 糖蜜みたいに声が滴る。

 あっけにとられたクレメンテは、反射的に拳を作って叫んだ。


「愚かな! わたしは生まれたときから常に神の傍らにおります! わたしの信仰は永遠です!」


 叫んでいるうちに、いつの間にやら空気に充満していた香水の効果が発動する。

 ひとにはまったく感知できないところで、世界がずるりと地すべりを起こす。

 同時に、クレメンテとアレシュの視界が真っ白になった。

 何もない。何も見えない。

 ただの真っ白。

 ぽかんとした空間の中に、今度はいきなりものすごい風が吹き荒れ始める。

 音もなく吹き荒れる猛烈な風に抗い、クレメンテは必死にその場に立ち続ける。

 負けない。負けるわけがない。こんなものは下劣な幻術だ。

 そうやって自分に言い聞かせながら、クレメンテは心の端っこに疑念が引っかかっているのにも気づいた。


 そういえば、自分はいつから信仰に目覚めたのだろうか。

 そのことを、もう随分長く考えていない。

 ……なぜ?


 風の向こうからは誰かの話し声と、懐かしい歌声と――幼い子供の、泣く声がした。

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