第6章 それでもあなたを赦します

第26話 そして、何も変わらない日々

 懐かしい夢をみた。

 棺桶からこぼれ落ちる、枯れた白薔薇みたいな匂いの夢。

 誰かが優しい声で歌っている。


 ――歌っているのは、誰?


 つんと澄ました父親を引き裂いて笑う母さんなのか、溶け崩れてしまったサーシャなのか、それとも、寂しく死んでいった歌うたいの女なのか。

 高く、低く、不安なくらいに不安定で、浴場で歌っているみたいにわんわん響く。誰の声かはわからないが、歌っているのは『愛こそすべて』だ。

 愛こそすべて。

 愛がなりゃ、生きていけない。

 そうやって歌いながら、結局みんなひとりで死んだ。

 悲しいな。

 みんな弱くて、みんな悲しい。


 僕と同じだ。


 そう思ったとき、アレシュは泥のような眠りから覚醒した。


(……僕の部屋)


 重たい瞼で瞬きながら、徐々に鮮明になってくる視界を確かめる。

 赤地に金糸でびっしり刺繍を施した壁紙、そこにかかった装飾過多な鏡や細密画の数々。埃かぶった安楽椅子や円卓、三つの衣装箪笥と二つの帽子掛け、曇った硝子がはまった陳列ケースには山ほどの時計と装飾品。

 それらの家具の上に、くまなく脱ぎ散らかされた衣装が引っかかっている。

 重い緑のカーテンを引いた窓からは、真っ赤な空が垣間見えた。

 すっかり見飽きた、寝台から見る自分の部屋の光景。

 いきなり返ってきた日常に、今がいつで、気絶する前何をしていたのかがよくわからなくなりそうだ。アレシュはおそるおそる寝台から体を起こした。


「い、て、いててて……」


 震え上がるような痛みが全身を襲い、アレシュは小さくうめいて縮こまる。

 短い息を重ねて痛みをやりすごし、おそるおそるシャツの胸を開けてみると、クレメンテに蹴られて出来た傷の上に包帯らしきものが巻かれていた。

 音からして、多分肋骨が折れたのだろう。

 だとしたら包帯なんか気休めだ。カルラが色んな禁制品を鍋で煮て、あらゆる痛みをふっとばす魔女薬を作ってくれないかな……と思ったところで、気絶する前のもろもろがどっと生々しく蘇ってきた。


(みんなはどうなった? 上水施設は? クレメンテは、ちゃんと死んだのか)


 焦りとも恐怖ともつかないものに背を押され、飛び起きかけて痛みにうめく。

 

「あいたたたた……本当に、勘弁してほしいよ……。僕は痛みに弱いんだ」


 情けないことを言いながらどうにか寝台から降り、椅子の背に引っかかっていた上着を肩にかけて廊下に出た。もどかしいほどのろい歩調で広い屋敷を抜け、サルーンにやってくる。

 そこでは見慣れた家具たちが、いつもと変わらず埃をかぶって沈黙している。

 数だけある椅子やソファは、すべて空っぽ。

 ひどく静かだ。


「……みんな、帰った? それとも……」


 小さくつぶやき、アレシュはどさりとひとりがけのソファに身を沈めた。

 稲妻のように全身を痛みが突き抜け、どっと汗がにじむ。

 悲鳴をあげたいと思ったが、聞いている人間もいないと思うと声を出すのが面倒だった。黙って痛みをやり過ごしていると、辺りの静寂が身にしみる。


(僕が無事だっていうことは、百塔街の平和は守られたんだろう。カルラやルドヴィークは殺しても死ぬような人間じゃない。きっとみんな、家に帰ったんだ。元々、クレメンテを倒すために集まっただけだったから。ミランとハナは……)


 ミランとハナが顔を出さないのはちょっと納得がいかないな、と思いかけて、アレシュは思わず吹きだしてしまった。


「あ……いたたた、た、は、ははは……ばかみたいだ……。なんでまだ、あいつらがそばに居て当然みたいな顔してるんだ。とんだ、化け物なのに。ねえ……サーシャ」


 その名を呼ぶと、ますます笑えた。

 彼を、サーシャを殺したのは自分なのに。

 苦痛に弱く、寂しさに弱く、気づくと誰かを頼っている自分。

 異形の能力を持つ自分に、そんな資格はない。

 もっと厳しくあるべきだった。力ある者ならばもっと背筋を正し、己を律し、理性的に力のふるい所を考えるべきだった。なのに自分は心で泣きわめいて、表で笑って、ただ怠惰に過ごすばかりで。


 仲間だと思っていた『使徒』たちは、本当は何を考えていたのだろう?

 誰もがアレシュの本当の力を知っていた。知って、黙っていた。

 一体なんのためだ?

 監視か?

 力を探るためか?

 もしくは、ただの哀れみか?

 

 出来れば哀れみ以外だったならよかったな、と思い、アレシュは深くため息を吐く。ソファの背もたれに頬を預けて薄いまぶたを閉じると、体が泥のように感じられた。小さい頃はよくこんな気分になったものだ。

 どこまでも疲れていて、心も体も全部溶かして、消えていきたかった。


(本当に消えられたら、誰にも迷惑なんかかけなかったのに)


 ぼんやりと考えるアレシュの耳に、遠くで開く扉の音が響く。

 ――まさか、エーアール派か。

 ぎょっとして耳を澄ますと、聞き間違えようのない威勢のいい声が聞こえてくる。


「アレシュ! いるか、アレシュ!」


「……? ミラン……?」


 びっくりして目を開けると、玄関広間を突っ切ったミランがアレシュに気づかず通り過ぎたところだった。

 彼の後ろには、ちょこちょことハナが付き従っている。


「……ハナ。どうしてお前、帰ってきたんだ? 僕に愛想を尽かしたんじゃないのか」


 アレシュが唖然として声をかけると、ハナはすぐに彼に気づいて足を止めた。


「……どうして……?」


 彼女は思いきり不機嫌そうな顔になり、両手に持っていた買い物籠を円卓にたたきつける。


「ご主人様は、本当に、いつまで経っても、最高にばかですね! 一回死にかけてもばかなんだから多分一生ばかなんでしょう。もう遠慮することはありません、いっそ永遠に生きて恥をさらしてください!! 大体水だけで七日間も寝てたっていうのに、どうして起きた途端に勝手に動き回れるんです!?」


 まくしたてるハナに、アレシュは何度か瞬いた。

 完全に、いつも調子だ。


「――あれから、七日も経ったのか。……ひとりで寂しくなかったか? ハナ」


 少々ぎこちなくいつもの返事をすると、ハナの顔は無表情のまま、雰囲気だけぱあっと明るくなった。


「私のことはどうでもいいんです。私はご主人様みたいに無駄に繊細で儚くて夢見がちでか弱かったりしませんから健全健康に生きています。別にひとりじゃありませんでしたし」


 明るい口調でがなりたて、ハナはじろりとミランを睨む。

 行きすぎたミランはやっと足早に戻ってきたところで、新聞片手に満面の笑みを見せていた。


「アレシュ、そこだったか! もう動いても大丈夫なのか? さすがに若いな!」


「歳なんか大して変わらないだろ。……おい、よせ、新聞でつんつんするな!」


「ふはははは、ここかー? ここかー、折れたのは!」


「同じところを粉砕骨折させますよミラン。負傷したこのばか……もとい、ご主人様に苦痛を与えていいのは私だけです。これ以上やるようなら、私があなたを殺します。死に方くらいは多少選ばせてさしあげますが、結果はどちらにしろ死のみですよ」


 ハナは本気の殺気をにじませてミランの足を蹴るが、今日のミランは動じなかった。

 無駄に堂々とした笑顔でたたずみ、爽やかな笑顔をハナに向ける。


「ハナさん、落ち着いてください。これだけ騒げるようなら大丈夫、アレシュはあと半月もしたら普通に歩けるようになります。それより新聞ですよ、新聞! そーら、アレシュ、見てみろ! お前のことが載ってるぞ」


 後半はアレシュに向けて言い、ミランは手にしていた新聞をつきつけてきた。

 アレシュは顔をしかめて首を後ろへ引き、どうにか紙面に焦点をあわせる。


 質の悪い紙の上には、やけっぱちのように巨大な見出しが躍っていた。

『深淵の使徒、ふたたび』という見出しの下には、崩れ果てた浄水施設と、その瓦礫の上に押された巨大な獣の足跡が細かなペン画で描き出されている。

 アレシュは受け取った新聞をしばし眺めたのち、ゆっくりと言う。


「深淵の使徒……僕たちのこと、か」


「そうだ。我々以外の百塔街の住民の抵抗活動も、すべて『使徒』の仕業ということになっているがな。そのへんは、怪我をしてまで頑張ったぶん、多少のおまけがついたと思え。表だって名誉を受けるのはお前だ。ほら、ここにちゃんと名前が出ている」


 ミランが指したところを見ると、なるほど、『深淵の使徒は、伝説の調香師、アレシュ・フォン・ヴェツェラとその館に集う者たちで構成されていた』とある。

 活字になった途端に見慣れない雰囲気をかもしだす自分の名前を見つめ、アレシュはわずかに首を傾げた。

 あまりにも虚を突かれたため、何をどう感じていいのかすらわからない。

 とりあえず、アレシュは記事を指で弾いて言った。


「色々間違った記事だな。まず『伝説の調香師』っていうのがまずい。僕は『伝説の無職』だよ。これじゃ調香の依頼が舞いこみかねないじゃないか」


「いいではないか、この際いい機会だから無職は卒業しろ! 昔は自己流でやっていたのだろう? 真面目にやれば、きっと出来る。さあ、これからは忙しくなるぞ! 調香師として、そして使徒として、この街の奴らもやっとお前のことを認めるようになる。お前の、真の実力と統率力を評価することになるのだ!」


「『アレシュの腹心は天才符術士ミランである。彼の伝説は彼の幼少期に遡り……』以下延々とお前の賛辞が続くが、ひょっとしなくてもこの記事を新聞社に売りこんだの、お前か? ミラン」


 試しに聞いてみると、ミランは天井を仰いだまま鼻歌を歌い始めた。

 もはや芸術的なまでに、嘘をごまかせない男だ。

 追求するのも面倒になり、アレシュは小さくため息を吐いて話を進めた。


「記事によると、上水施設は僕の呼んだ客人が踏み潰したんだな? カルラとルドヴィークも無事とあるけど、今はどうしてる?」


「貴様の呼んだ魔界の住人は香水の効果が切れるまで大暴れして、凍死を免れた教会兵もほとんど片付いた。施設が壊れたせいで街は少々水不足だが、広場ごとに井戸もあるし、何せ今回は事情が事情だ。特に不満は聞かん。

 カルラは祭壇を元通り閉じるのに、あれからつきっきりだ。本来なら何百年もかかるものを七日で終わらせると気合いを入れていたぞ。ルドヴィークは組織のお守りだ。街に残っていた教会兵のほとんどは葬儀屋が片づけたからな」


 なぜか誇らしげなミランの報告に、アレシュは心の底からほっとする。体から変な緊張が抜け、心臓の辺りが淡く温かみを帯びてくる気がした。その温かみはゆるゆると全身に流れ出し、痛みをわずかながら軽くしてくれる。

 アレシュは自然と子どもっぽく微笑み、ソファの背もたれにもたれかかった。


「大した活躍だ。みんな、すごいな」


「他人事か? 貴様こそ、あんな人間離れした技を使っておきながら」


 揺らがぬ笑顔のミランに、いつもなら『当たり前じゃないか、この僕だよ』などと答えるアレシュだが、今日は喉に言葉が詰まってしまった。

 様々な記憶が脳内で渦を巻き、どこから話せばいいのかさっぱりわからなくなって、しまいにはめまいがしてきたので、アレシュは話を逸らすことにした。


「……それより、お前は大丈夫なのか。怪我とか、そういったものは?」


「俺か? 俺は例の呪いのおかげでな。見てのとおりだ」


 大げさに胸を張るミランをじろりと見上げ、アレシュは彼を指で招く。


「そうか。下僕、こっちへ寄れ。もうちょっと。そう、身をかがめて」


「ん? なんだ、いつもは『あっちへ行け』ばかりなのに。珍しいな」


 怪訝そうに言いつつも寄ってくるミランに手を伸べ、アレシュは彼の外套をがばっと左右へ開いた。ものすごい冷気が流れ出して一瞬眼前が曇り、アレシュは顔をしかめる。

 当のミランは野太い悲鳴をあげてアレシュの手をふりほどくと、大きく後ろ跳びさがって叫んだ。


「おおおおおお!! おおおおおお前、な、なんなのだ突然! 俺を脱がせて、どっ、どどど、どどどどどどういうつもりだ!」


「そうですよ、ご主人様!! 脱がせたり脱がされたり、そういう行為はせめて女性相手にしてください!」


 さっきまでおとなしく成り行きを眺めていたハナが、色をなくして騒ぎに加わる。

 アレシュは痛みを堪えて咳きこみながら、軽く片手を振った。


「こんなこと女性にはしないよ……失礼だろ。怪我でも隠していたら嫌だと思ったんだけど、平気そうだね。ならいいんだ。でも、ミラン。お前はもうちょっと自分を大事にしろ。お前は僕を助ける必要なんかなかった。……五年前も、七日前も」


 なるべくこともなげに、言えた――と、思う。

 

 呪われたミラン。呪いが解けない限り不死ではないかと言われているミラン。

 それでも、アレシュの力が加われば一体どうなるかわからない。

 この街では、おせっかいは毒だ。持ち主を殺す、即効性の毒。

 さっきは彼が来てくれて、正直ほっとはした。でも、いつまでも甘えていてはいけないと思う。この街で長生きしたいのなら、ミランはもっと……。

 

 そこまで考えたところで、パァン!! と派手な音がサルーンに響いた。


「…………?」


 数秒後。

 わずかに痛む頬を押さえて、アレシュはきょとんとしている。

 見上げると、ミランが猛禽の瞳でアレシュを見下ろしていた。

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