第24話 百塔街の掟


「アレシュ! そいつの言うことを聞くな! 目を覚ませ、アレシュ!」


「……っ……ミラン」


 はじかれたように目を開け、息を吸いこむ。

 おかしなところに空気が入って、盛大に咳きこんだ。ひどいめまいと頭痛がする。

 でも、意識は戻った。

 過去の幻影は目の前から消え、アレシュは二千年前に作られた浄水槽の底で、クレメンテによって祭壇の上に押しつけられている自分に気づく。


「――すべて、思い出したのですね?」


 すぐ近くに、まだクレメンテの顔がある。彼はまだ悲しい目をしている。

 アレシュは改めて、彼の目を見つめ返した。

 一瞬まぶたが痙攣したが、それ以上の異常はなかった。心は衝撃でぼうっとしているが、多分、正気だ。

 さっきみた――みさせられた、生々しい夢の中身も覚えている。


「思い出したよ。……どうやら、僕は『無能』じゃないらしいね」


 心とは少し遠いところで、アレシュの口は勝手にいつもの調子で減らず口をたたいていた。

 そんなアレシュに、クレメンテが泣きそうな顔で囁く。


「神は、わたしにもあなたの記憶を見せてくださいました。あなたのお父さまは、本来人間と交わる可能性などない高位の魔物と交わったのでしょう。本来ならばそのような組み合わせでは子など生まれない。ですが、お母さまはどうにかしてあなたを生みたかった。そのためにあなたに禁忌の力を与えたのです。

 それは、人間界と魔界を混ぜ合わせる力。それぞれの世界に満ちる力そのものを騙して、入り交じらせる力。


 あなたのその力が、サーシャさんをとてつもない化け物に変えたんだ」


 悲しみに満ちた声が、アレシュの心をどすん、と突き刺す。

 愛こそすべて。

 サーシャはよくそう歌っていた。アレシュの母はアレシュの父を愛していたのだ。そして、アレシュのことも。

 その愛が、アレシュに異形の力を背負わせた。

 そして、その力が、サーシャを、ひとではないものにした。


「アレシュ・フォン・ヴェツェラ。あなたの力は世界を原初の混沌に戻しかねない。人間にも、神々にも、そして――魔界の住人にとっても、害悪でしかあり得ない。わたしにもあなたは救えない。あなたに安らかな眠りはありません。……あるのは消滅のみ」


 まだアレシュの心が自分の衝撃の大きさすら認識できないうちに、クレメンテは己の拳に口づけた。

 敬虔な祈りの気配と共に、拳は淡い光を帯びる。

 これも神の奇跡なのだろう。彼の神はいつでも彼の傍らに居る。

 アレシュは、どうだろう?

 彼に異形の力を与えた母は魔界へ帰り、追い求めていた昔の友達は、もういない。

『混ざってしまった』サーシャの成れの果ては――そうだった、多分、カルラが処理してくれたのではなかったか。

 アレシュはずっとずっと夢をみていた。自分は無能なんだ、誰も傷つけられないんだという夢を。穏やかな幽霊なんて、アレシュが作り出した都合のいい幻だった。本当にサーシャの幽霊なんてものが存在するなら、きっともっと凶悪なものだったろう。アレシュを恨んで、憎んで、引き裂こうとしてきただろう。


 ……悲しい。


「何が消滅だ、ばかめ! 俺を見ろ、クレメンテ・デ・ラウレンティス!」


 アレシュが強大な悲しみに襟首をつかまれているところへ、思わぬところから思わぬ人間の声がかかった。

 ミラン、とアレシュがぼんやり思ったのと前後して、ミランが空中回廊から飛び降りてくる。そして、勢いを殺せずに床に転がった。


「つぅ……いたたたた……っ!」


 苦鳴をかみ殺しながら、ミランは一回転して起き上がる。

 あいかわらず、いまひとつ体捌きが甘い男だ。


「去りなさい、悪しき呪いを負った符術師よ」


 一方のクレメンテは、アレシュの襟を引きずったまま、奇跡のように鋭い蹴りを放った。鈍重い装備などものともしない速度に、ミランは見事、こめかみに重い打撃を食らって横へすっとぶ。

 ミランはそのまま盛大に床を転がり、ぱしゃん、と水音を立てて水の壁へ顔をつっこんだ。


「ミラン……! お前、何しに来た……!」


 あまりにいつも通りのミランの様子に、アレシュは思わず叫んだ。

 クレメンテがミランから視線を外し、アレシュのほうを向く。

 次の瞬間、アレシュの目の前で派手に星が散った。


「……!」


 息が止まりそうになり、あっという間に膝が崩れる。

 額にクレメンテの頭突きを食らったのだ、と気づく前に、アレシュの体はモザイクタイルの床に転がった。

 続いて、脇腹に装飾過多の長靴のつま先が食いこむ。

 ぱきん、といやに乾いた音が体中に響き、どっと冷たい汗が噴き出す。


(こいつ……靴にも、金属仕込んでる)


 あまりの痛みに、身じろぐことすらできなくなった。

 かすかにあえぐ。それだけで痛い。とにかく痛い。汗が止まらない。苦しい。

 クレメンテとミランの会話が遠く聞こえる。


「――っ、おい、俺の弟分に何をしてくれるのだ、貴様は!」


「あなたには善良さの欠片がある。しかし今は彼に同情すべきときではない。彼の存在は誰の得にもなりません。下がりなさい」


「ふ。得だと? ばかばかしい! 俺が見かけ上の損得で動くような者に見えたか? 貴様はさっき言っていたな。アレシュは神にも、ひとにも、魔界の住人にも忌まれると。いいではないか。だからこそ、アレシュはこの街の象徴なのだ!」


「象徴? 彼が?」


「そのとおり!! 俺は五年前、実際に奴のやったことを見た。あんなのは初めてだった。誰かに口外したことはないが、どこからかアレシュの正体についての情報は漏れているだろう。そういう街なのだ、ここは。

 だが、俺はもちろん、この街の住人は誰もがアレシュの存在を許してきた。――なぜだと思う?」


(……なんの話だ、一体)


 ミランの言いようが引っかかり、アレシュは彼を見ようと視線を動かした。

 その拍子に、自分が手にしているアマリエが視界に入る。

 正確に言えば、アマリエだと思って、祭壇の中から引きずり戻したもの。

『それ』の大体の輪郭をとらえた時点で、全身が総毛立った。


(これは……!)


 アレシュの白い片手に握られているのは、混沌だった。

 アマリエをいったんばらばらにして、でたらめにくっつけなおし、さらに植物とも海産物ともつかない極彩色の水玉模様の断片や、妙につるりとしたバネや大量の釘を差し込み、さらにむちゃくちゃに混ぜたようなしろもの。

 あまりの無秩序ゆえに生理的嫌悪感を絶妙に刺激する塊は、生き物みたいに蠢きながらゆるゆると姿を変え続けていた。

 これが、自分の『人間界と魔界を混ぜる』力がもたらしたものか。

 サーシャもこんなものになったのか、と思うと、吐き気が喉もとまでせりあがってくる。こんなものを見せつけられて、未だに正気で居るミランが理解できない。

 それともあの男も、とうに狂っているのだろうか?

 混乱するアレシュの頭上で、クレメンテはなおも悲しげにミランに告げた。


「人々が彼を放置したのは、恐怖からでしょう。彼を滅ぼすのは実に難しいと思います。でも、わたしなら……」


「ちっがーう!! ばかかお前は!」


 力一杯ミランが叫んだので、アレシュは今度こそぎょっとして顔を上げる。

 クレメンテと対峙したミランは、血のにじんだ顔で妙に堂々と言い放った。


「アレシュはありとあらゆる世界の決まりを破る存在かもしれんが、百塔街の掟だけは守っていた。だから文句を言われなかっただけだ! 義務を果たしさえすれば、あとは好き勝手やればいい、それがこの百塔街。その象徴こそが、アレシュだ!」


(どんな理屈なんだ、それは……!)


 適当なことを自信たっぷり言い切るミランに、アレシュは頭をかかえたくなる。

 本当に、ばかなんじゃないのか。いや、確実に、ばかだ!

 今すぐ殴ってやりたい、そんな気持ちがアレシュの弱った心と体を奮い立たせた。

 少しだけ気が楽になったのを感じ、アレシュはゆっくりと息を吸う。

 すると案の定、痛みが全身に回って目の前が一瞬真っ白になる。

 けれど、どうにか。……少しなら、動けそうな気もした。

 そこへ、クレメンテの声が響く。


「あなたたちはことの重大性がわかっていないのです。わたしは神の使い。この街から世界を壊すわけにはいきません。

 神よ。偉大なる、ゼクスト・ヴェルトよ! わたしに力を!」


 声が途切れるか途切れないかのうちに、クレメンテの全身を光が覆った。

 視界が真っ白に塗りつぶされるのとほとんど同時に、アレシュは片手に握っていたもの――かつてアマリエであったかもしれないもの――を、クレメンテめがけて投げつける。 


「――……っ!」


 クレメンテは飛来するものの気配に気づいたのか、はっとして振り返った。

 彼はそのままクレメンテもなく『それ』をはらいのけようとしたが、『それ』は、じゅう、と何かが焼けるような音を立ててクレメンテの籠手に貼りついてしまう。

 そのうえ、その場で音もなく四散した!


「なんですか、これは! っ、あ……まさか……!」


 クレメンテは初めてあからさまに顔色を変え、動揺を示してよろめく。


「これは……おい、アレシュ! どういうことだ!」


 ミランが目を瞠って訊いてくるが、アレシュもそれに答えている余裕はない。

 四散した『それ』の欠片はクレメンテの頬や腕に貼りつき、じわじわと火傷じみた赤い傷を広げているところだ。

 クレメンテは必死にはがそうとしているが、かつてアマリエだったものに触れた途端に彼の皮膚は引きつれ、ねじ曲がり、皮膚自体が何か別の形でも表そうかとでもいうように蠢きはじめている。


(おそらくは、僕の力が――人形に残っていたんだ。僕の力は、神界と魔界をすら、混ぜるんだ!)


 クレメンテがひるんでいる隙に、アレシュが叫ぶ。


「ルドヴィーク、祭壇の蓋を閉じてくれ!」


 ルドヴィークがはじかれたように顔を上げ、アレシュを見つめて一瞬ためらう。

 それはそうだろう。彼のアマリエはとんでもないものに変質してしまった。

 だめか、と思ったろころへ、急に紫色の巨大な影が落ちてきた。

 派手な金属音を立てて祭壇の上へ着地したのは、巨大な蜘蛛と蟹の中間のような姿のカルラの使い魔だ。

 その背には、カルラ自身もたたずんでいる。

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