第5章 善意の迷宮
第21話 善意の迷宮へ降下する
百塔街に上水道が最初に作られたのは、はるか二千年以上も昔のこと。
二千年前といったらもちろん百塔街ができる前だし、その前身であった呪われた国ができるよりもさらに前。はるか古王国時代の設備ということになる。
だからといって機能が劣っているわけではない。百塔街の地中に張り巡らされた当時の水道は傾きだけで遠くの川から水を運んで浄水までしてのけるしろもので、今も充分現役である。
そして今、その浄水施設はかつてないほどのひとにあふれていた。
「我らが神、偉大なる、ゼクスト・ヴェルト神よ! 今、我々の世界への扉を開き、この穢れた水を清き神の慈愛へと変え給え。この街に浸みたる呪いを、その根から浄化され給え!」
ひとりの教会兵の声を合図に、浄水槽に集まった兵士たちの歌がうねるように盛り上がった。湿った空気が震え、その震えが巨大な地下水槽の水面へと伝わり、わんわんと反響する。
そう、そこはまさしく地下宮殿じみた空間であった。
高い円蓋を支える柱が林立した荘厳な大広間。その床が残らず青い水で満たされている。こここそ二千年前に作られた浄水槽だ。水槽は階段状になっており、奥へ行くにつれて浄化される仕組みとなっている。
どこか神秘さえ感じさせるその場所を、ぐるりと囲む空中回廊。
整備用に作られたであろうその場所に、今はぎっしりと教会兵の姿があった。
数で言えば、二百人近く。
一糸乱れぬ様子で歌を歌い続ける教会兵たちの間で、ふと、何事かが囁き交わされる。
「何? ラウレンティス様が来られない?」
「ああ。今、あちこちで同時に仲間が行方不明になってる。百塔街側の大規模な反抗が始まっているのかもしれない。猊下はそちらを直接確かめるそうだ」
「大規模な反抗――ついにきたか。では、儀式のほうは」
「先に始めているように、と」
そうか、と派手な礼服を着た士官がうなずき、眼下の水面を見やった。
ゆれる水面の下、モザイクタイルを貼った水底には、なんと聖ミクラーシュ教会にあった純銀の祭壇が移設されている。
恐ろしい重量を持つ祭壇を、地下水路を使ってこっそりここまで運ぶ――それだけで途方もない手間だが、彼らの信仰心と義務感は見事面倒な作業をやってのけた。
もちろん、街の目立つところをクレメンテや教会兵たちが練り歩くことで、この地味な作業の目くらましになっていたのも間違いない。
(祭壇を扉として神界と浄水槽を繫ぎ、百塔街全体の水を聖水とし、あらゆる呪いを浄化する。失敗は、ゆるされんな)
士官は緊張で乾いた唇をしめし、高らかに声をあげる。
「さあ、今こそ扉が開かれるとき。第七の門よ、我らの前に開かれよ!」
「開かれよ!」
教会兵たちが唱和するとびりびりと水面が震え、振動が水を伝わっていく。わずかな時間で祭壇まで震えが到達すると、ずるり、と祭壇の蓋がずれたのがわかった。
――もう少し。あと少し。すでに術は完成している。
目に見える成果に元気づけられ、ますます歌声は高まり、不協和音を含んだ音が浄水施設をいっぱいに満たし、これ以上はどんな音の入る隙間もないと思われたとき――変化は起こった。
いきなり、なんのきっかけもなく水に亀裂が走る。
そう。水が割れたのだ。
これぞ、エーアール派のみがなし得る奇跡。
水は祭壇の真上でまっぷたつに割れ、あっという間に複雑なモザイクタイルの床が、銀の祭壇が、大気に触れる。
かき分けられた水は祭壇の左右でぷるぷると震えながらそびえ立つ。
その間に、祭壇の蓋はさらに、ずる、とずれた。
(よし、成功だ。もう少し……もう少しで、扉が開く)
奇跡は確かに起こっている。
士官はなおさら緊張して拳を握り、自分も声を出して奇跡を呼ぶ歌を歌い始めた。奇跡。それは、呪術と鏡写しの技。すなわち、呪術は魔界の力を引き出し、奇跡は神の力を引き出す。
百塔街の住人には『出不精』とされる神だが、この人数が命を賭けて喚べば、必ず答えてくれる。何しろここには、クレメンテがいるのだ。
神の寵児、奇跡を衣のようにまとう男。
彼のことを思えば、教会兵たちの心は安らぐ。彼らは全てを忘れ始める。百塔街にいるという恐怖を。呪術師たちへの恨みを。奇跡を成功させなければという焦りを。成功したい、誰かに目に物を見せたいという欲を。
あらゆる欲が消えたのちの安らぎは彼らの声を安定させ、その歌詞と節によって神界の扉を叩き続ける。
さあ、開いて。
扉を開いて、こちらへおいでになってください。
ここはあなたのいるべき場所。
あなたの世界の前庭。
みずみずしい祈りを感じに、是非散歩にいらしてください。
神よ――私たちは、ここにいます。
歌い続けているうちに、不意に新たな旋律が教会兵たちの歌に加わった。
ぞわり、と快楽の気配が兵士たちの背筋を這う。
ああ、なんという、不愉快で愉快なこの感覚!
誰かが歌っている。何かが歌っている。
自分たちの声とけっして和することのない、しかし異様に美しい歌が入り交じってくる。圧倒される。引きずられる。自分たちの輪郭があやふやになっていく。
(繋がった、か? 神はいらしたのか? ああ……どこかから、花の匂いがする)
士官はうっとりと鼻をうごめかせる。
楽園を思わせる花のにおいは、嗅げばかぐほど多幸感に包まれる。
生々しく、みずみずしい甘い香り。その香りの中からくすくすと乙女の声が響いてくる。麗しの乙女たち。彼女たちは腕にかけた籠から、花びらを零して回っている。まん丸な庭園の真ん中に立つ乙女。
その中の一人が士官をしっと見つめる。
彼女の目は艶やかで透明で、まるで飴玉のよう。彼女は囁く。
――私、あなたが好き。
――指の先からかじって、何もかも、食べてしまいたいくらい。
――食べてもいい? あなたを、甘い痛みで満たしてもいい?
小鳥のような囁きに脳髄をじん、と揺さぶられながら、士官はふと妙な気分になった。
(……おかしい。神がもたらす恍惚にしては、あまりに俗っぽい)
「おや、気づきましたか」
「……っ……!」
不意に耳元で囁かれ、士官はとっさに振り返る。
すると、目の前には信じがたい光景が広がっていた。
「これは……!」
二百名に近い教会兵たち、さっきまで直立不動で神を喚ぶ歌を歌っていた者たちのほとんどが、その場にうずくまり、もしくは呆然と突っ立ち、あらぬ方を眺めてぶるぶると震えている。
歌はとうに途絶え、神の気配はすっかりと薄まってしまっていた。
(祭壇は!!)
絶望的な思いで浄水槽の底を見下ろすと、ふたつに割れた水と、うっすらと開いた祭壇はそのままだ。ほっとしたのもつかの間、大気に漂う甘い香りに、士官は顔をゆがめる。
「……呪術師だな?」
押し殺した声で囁いて士官が振り返ると、うずくまって泣き続ける教会兵たちをかきわけて立つ、見知らぬ男女の姿があった。
背丈も性別も格好もばらばらの五人の真ん中で、漆黒の男が告げる。
「ごきげんよう、紳士のみなさん。
パルファン・ヴェツェラ七十五番。『七乙女の円環庭園』は、お気に召しましたでしょうか? この香水が司るもの、それは快楽。快楽とはそもそも凶暴なものです。その凶暴さに恐れをなしたあなた方の心の奥でひそやかに惨殺され、墓の下に埋葬された快楽を呼び覚ますのがこの香水の役目。
……とはいえ、あなたは快楽にひたりきれなかったようですね。臆病な方だ、もったいない」
喜劇役者のような派手な抑揚をつけて語る、世にも美しい男。
これは果たして、現実だろうか?
それとも、快楽の幻想の続きなのだろうか。
士官はしばらくぽかんと男を見つめていたが、やがて全身を怒りに震わせた。
「貴様、よりによって、神職である我々に快楽の夢を見せるとは!! 実に、実に呪術師らしいやり口だな! んっ……!?」
怒声を放ちながら歩み寄ろうとするものの、上手く体が動かない。かろうじて動くのは顔面と舌のみ、という硬直ぶりだ。
これも香水の力なのだろうか。だとしたら、すさまじすぎる。
彼は必死に舌だけを動かし、叫んだ。
「貴様……! 貴様は、一体、何者だ……!」
血を吐くような声に、アレシュは思わず破顔した。
「いいね。僕らの登場にふさわしい、端役の台詞だ。いいかい、じゃあ、始めるよ?」
気さくに言い置いたのち、アレシュは美しい指をそっと自分の心臓の位置へと載せて囁いた。
「偉大なる神に仕えるお方に覚えていただくほどではありませんが、わざわざ訊ねられれば名乗らないわけにもいきますまい。
僕の名は、アレシュ・フォン・ヴェツェラ。この街の優しい悪夢。
こちらは千年を渡る魔女、カルラ・クロム=ガラス。
魔界の司書、ハナ。
微笑みの埋葬者、ルドヴィーク・ザトペック。
そしておまけの僕の下僕、氷結の道化、ミラン・マハティ。
――我々はこの街の闇を守る者。『深淵の使徒』ですよ」
「使徒……だと……?」
深淵の使徒。
三百年前の悪夢の名を、士官は呆然と囁いた。
一方アレシュの横ではミランが難しい顔で文句をつけている。
「おい、アレシュ。なんだ今の『氷結の道化』というのは。他と比べてひどくないか?」
「的確このうえないじゃないか。大体下僕の札はろくに役に立たないんだから、他に前面に押し出すところがないんだよ」
「わたしは気に入りましたよ、アレシュの言葉選びはまさに宝石のごとく、です。
それはさておき、作業を急ぎましょう。教会兵たちは戦闘不能とはいえ、祭壇は開きかけですぞ。あれが開けば神界への門が開く。神の力を利用するエーアール派の力は強化され、我々の戦いには支障が出ましょう。
特に、体に受けた呪いを利用して戦っておる者にとっては致命的です。力の源が、まるごと浄化されてしまう可能性もある」
ルドヴィークの言うとおり、香水を風に乗せるためにぎりぎりまで待ったせいもあって、祭壇の蓋はもう拳が入るくらいに開いている。
門を開かせないためには、あの蓋を閉じてしまうことが急務だった。
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