第20話 未練と女装と甘い罠
それからしばらく後、昼近い百塔街の繁華街にて。
「ね、起きて? ほら。……今日は大事な用があるんじゃなかったの」
ふんわりと耳を撫でるような優しい声に、教会兵は低くうめいて寝返りを打った。頭がもうろうとしていて、思考がまとまらない。
――自分はどこにいるんだっけ?
今聞こえた声はきれいなアルトで、あまり聞き覚えがない。
娼館だろうか、とうっすら目を開けると、とんでもない美形と目があった。
まぶしすぎて何度か瞬き、おそるおそる声をかける。
「君は……誰だ?」
「化け物でも見たような目で見ないでよ。昨日のこと覚えてないの?」
どこまでも甘く言う相手は、おそろしいほど白くきめ細かな肌をしていた。
紫と黒のちゃちな生地にフリルをたっぷりよせた夜着をまとい、あまり質の良くない金髪を長く伸ばしているが、そんなものは大した問題ではない。
とにかく造形と肌の美しさがすさまじい。
それだけでふるいつきたくなるし、忠誠を誓いたくなる。
女の彫像じみて完璧な唇から顎にかけてを凝視しながら、教会兵はどうにか身体を起こした。途端に、ずきん、と鋭い痛みが頭を突き抜ける。
「い、つ、いててててて……」
「大丈夫? 飲み過ぎかしら。水か薬草酒か何か、用意しましょうか?」
少しも心配していない声音で女が言い、教会兵の額に手を当てた。
その手のあまりの冷たさに、教会兵の喉からはヒェッと情けない声が出る。彼はどうにか女の手を振り払い、かすれ声を絞り出した。
「何もいらん。それより――今は、何日の、何時だ? ここは、どこだ」
「ふぅん、全部忘れちゃったの? 色々効きすぎたかな。お仕事、大変なことになってないといいね?」
女は目を細めて笑い、現在の日時を口にする。
その唇の動きが、赤くなまめかしい虫みたいに教会兵の網膜に焼き付いてくる。集中出来ない頭で、教会兵は必死に今告げられた日時を復唱した。
そして、ぎょっとする。
「……! ばかな、俺は、どうして今こんなところにいるんだ……! 服はどこだ。いや、それより、ここは中央広場の時計塔からどれだけ離れてる!?」
やっと我に返った教会兵を見上げ、女はにんまりと笑みをゆがめた。
「服は枕元。時計塔は歩いて二十分くらいかかるけど――やっぱり地下水道へ入る道は、あそこにあるんだね」
「!? 貴様……」
今、こいつは何を言った?
教会兵は改めて女を見つめた。
女はどこまでも妖艶に微笑んで、安っぽい寝台脇にあった花瓶から薔薇を一輪つまみ出す。ひらりと手首を返して教会兵の眼前に突きつけられた薔薇からは、異様な匂いがした。
薔薇とはまったく違う――これは、夜の匂い。
そう認識した次の瞬間、教会兵の意識は恐ろしく深い眠りへと落ちこんでいく。
勢いよく寝台に昏倒した教会兵を見下ろし、女はふと笑みをなくした。
「やーれやれ。ほんとに不用心な奴に当たったな。もっと危ない駆け引きが楽しめるかと思ったのに」
そう言って、彼女は頭から金髪のかつらを引きずり下ろす。
かつらの下から現れたのは少し伸びすぎの黒い癖毛だ。白い肌に映える黒髪は不吉な鳥の羽の色、もしくは奈落の底の色。赤い瞳と相まって、金髪のときよりもはるかにその美貌を引き立ている。
ただし、かつらを取った途端に、その美は女性のものから男性のものへと変じていた。
「……で、終わったの?」
娼館の個室の隅から、今度は紛れもない女の声がする。
アレシュはぞんざいな女装姿のまま、軽やかな笑顔になって彼女のほうを振り返った。
「ああ。確かめたいことは確かめられたから満点さ。こいつは僕が適当にどこかに放りこんでおくよ。部屋と衣装を貸してくれてありがとう、ヴィエラ」
「いや、まあ、貸すのはいいんだけどさ。……てか、あんたが女装して男引きこむ意味がどこにもなくない? 誘惑して引きこんで薬盛ってって、それだけならあたしがやりゃよかったんじゃない?」
文句たらたらで一面に小花の刺繍が入ったカーテンを開けて出てきたのは、アレシュより少し年上であろう女だ。格好からして娼婦なのは間違いなかろうが、ただ単純な造形美ならアレシュのほうがより美しいのが皮肉というか、なんというか。
不機嫌な彼女に、アレシュは優美に寝台から立ち上がって笑いかける。
「ごめんね。でも、このほうが面白いだろ? 僕、見た目には自信あるんだ」
「面白がってるのはあんただけよ、この変態!!」
「変態かなあ。異性装は古来から紳士淑女の高尚なる趣味なんだよ。つまり紳士淑女は変態なのかもしれないね。それよりヴィエラ、さっき頼んだ件だけど――」
アレシュが続けようとすると、ヴィエラは怖い顔で彼を見上げてきた。
「ええ、覚えてるわよ。あんたは何ヶ月も完全放置してたあたしとよりを戻そうとかなんとかそういう事情で押しかけてきたわけじゃなくって、ただ単にお願いだけ聞いて欲しいわけなのよね。もちろん理解してるわよぉ。
一発殴っていい?」
「……悩むな。殴られるのは、あんまり好きじゃな……!」
アレシュが言い終える前に、問答無用で女の拳が風を切った。
拳はアレシュの顎に決まり、乾いたいい音と共に目の前に白い光の斑点が飛び散る。
「っ……い、いたたた……いい拳だね、魔界が見えたよ……むしろ神界かな」
アレシュはうめき、大いによろめく。
その体を、背後から誰かが抱き留めた。
「あらあらまあまあ、危ないわねえ」
困ったような女声はカルラのものだ。
さっきまでは影も形もなかった彼女の姿に、ヴィエラは思わず棒立ちになった。
「あ、あんた……一体、どこから……?」
「魔界とこの世界の隙間から、よ。いい、お嬢さん。この子を殴りたくなる気持ちはとーってもよくわかるけど、顔はもったいないわ、顔は。これじゃ彼の唯一の美点とも言える綺麗な顔が台無しよ。彼の顔は限りある資源なのよ」
「カルラ……それは、さすがに……」
文句を言おうとするものの、アレシュはまだ上手く舌が回らない。
アレシュがカルラにすがってめまいに耐えている間に、ヴィエラは魔女出現の衝撃から立ち直ったようだった。
むっとした表情を作り、腰に手を当ててそっぽを向く。
「何言ってんだか! 綺麗な顔だから殴って楽しんじゃない。せいせいしたわ! どうせあんたもアレシュの女なんでしょ? は~、腹立つ腹立つ! あとはなんだって? この部屋の真下を掘りたいんだっけ?」
「そうなんだ。ヴィエラ、これには重大で崇高な……」
「愛の告白以外なら黙ってて!! なんなの? あんた、あたしが若いうちから働いて働いて働いて、やっと持った自分の店の床板を、理由も言わずに引っぺがすわけ? あんたってほんとに勝手! 捨てたと思ったら可愛い顔で寄ってきて、まるで最高に可愛い猫みたい! どうせ駄目って言っても好きにするんでしょ? だったらなんだって好きにしたらいいじゃない!!」
長々と怒鳴った末に、ヴィエラは怒りで赤い顔のまま許可をくれた。
「……本当? ありがとう、ヴィエラ。愛してたよ」
アレシュはほんのり頬を染め、嬉しそうに笑う。
そんな顔はさっきとは打って変わって子どもっぽくて、ヴィエラはたちまち怒りとは別の感情で顔を真っ赤にした。
聞いていたカルラは、つんと口を尖らせる。
「うーん、さすがの口説きの技ね。ねえアレシュ、私、うらやましくなっちゃった。また私のことも口説いてくれない?」
「カルラ、話をややこしくしないでくれ」
アレシュがカルラに囁きかけた直後、娼館の玄関先で騒がしい気配が生まれた。その気配はあっという間にアレシュたちがいる部屋へと移動し、扉が開く。
最初に顔を出したのはミランだ。
「失礼しま……アレシュ。貴様というやつは……」
「ご主人様!! ご主人様は、本当にあいかわらずですね! 昔の恋人にべったり寄り添って……どうしてそんなにいやらしくて、か弱いんです!?」
うんざり顔で切り出しかけたミランの声を、ハナの澄んだ声が遮る。
やってきたミラン、ハナ、ルドヴィークの顔を確かめ、アレシュはカルラに寄りかかったままにっこり笑った。
「やあ、そろったね。こちらが僕の昔の恋人で、この娼館の主人のヴィエラ。で、こっちが今の僕の仲間たちだ。ハナ、無事でよかった。ミランに変なことはされなかった?」
するとハナは、むう、と黙ってしまい、代わりにミランが派手に声をあげた。
「俺がハナさんに一体何をするというのだ! 敵は教会兵だろうが。俺はハナさんに何度も助けてもらいつつ、しっかり教会兵どもを捕らえたぞ!! というか貴様、なんなのだ、その……扇情的なドレス姿は」
「結構可愛いだろ?」
「無駄に違和感がないので、なおさら激しく腹が立つ!」
本当に嫌そうに言い切るミランの横で、ルドヴィークが軽やかに笑う。
「はははは! アレシュ、あなたはどのような姿でも実に美しい。おそらくは魔界の底ですら。それはそうと、アレシュ。そして、クロム=ガラス女史。例の竜へと至る場所は、ここで間違いなかったのですかな?」
ルドヴィークの問いに、カルラは軽く片眼をつむった。
「ハナちゃんの書庫から手に入れた、二千年前の地図が本物なら大丈夫。つまり、絶対当たりってことよ。目当ての場所はこの部屋の真下にあるわ。娼館の主の許可はとれたし、あとは穴を掘るだけ、なんだけど。アレシュ……あなたは穴掘り、しないわよね?」
「しないというか、できないね。女性以外の重いものは持ち上げられない」
アレシュが素直に答えると、ヴィエラは高らかに鼻を鳴らし、ミランはげっそりとした顔になり、ハナはますますむっつり黙りこみ、ルドヴィークはうんうんとうなずき、カルラは笑みを輝かせてアレシュのほうへ片手を伸べた。
「じゃあ、代わりに手を出して」
手を一体どうするんだ、と思いつつも素直に差し出すと、カルラはいきなり、アレシュの指先に噛みついた。
「――っ……!」
痛みに震えるアレシュのことは一切気にせず、カルラは彼の皮膚を歯で切り裂く。
そして作った傷を床へ向けさせ、血の粒を娼館の絨毯へと滴らせた。
「おいしいご飯よ。出ておいで。私の猫ちゃん」
カルラが優しい声で囁くと、足下から、にゃあ、と答える声がする。
「あれっ、猫の声だ。床下にいるのかな」
相当な猫好きなのか、さっきまで眉間に皺を寄せていた娼婦のヴィエラがそわそわし始める。
カルラはそんな彼女を見やり、人差し指で軽く額をついた。
「ちょっと寝てなさい。そのほうがあなたの身のためよ」
「え……でも、私……」
何か答えようとしつつも、ヴィエラの目はみるみる眠そうになっていく。
彼女が床にくずおれるのと前後して、ばりばりと床がはがれる音が響いた。
直後、絨毯を突き破って、巨大な蟹の足みたいなものが出現する。
「――うむ。これは確かに、猫好きには向かない景色だな」
やけに感慨深く言うミランににっこりと笑いかけてから、カルラはアレシュに向き直った。
「私の使い魔、随分大きくなっちゃったでしょう? おかげで使うときには対価がいっぱい必要なんだけど、あなたの血はちょっぴりだけでも大喜びするの。ありがと、アレシュ」
礼を言ったカルラの笑顔には、どうも何か含みがあるようだ。
アレシュは痛む人差し指を唇に当て、苦笑して言う。
「君の役に立てるのはもちろん嬉しい。だけど、わざわざ噛みちぎらなくてもいいんじゃないか? 血が欲しいだけなら、ナイフででも切ればいいわけだし」
「そこは、ほら。愛と未練と嫌がらせよ」
カルラはしれっとして言い、あとは使い魔の制御に専念してしまった。
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