第3話 こうなったら新プランに乗り換えようではありませんか
ゲルハルディーナはむしゃくしゃしていた。
式の最中、誓いの口づけの時に、アンスガルが口づけをしてこなかったからである。
正確には、した。ただし、唇に、ではない。唇同士を触れ合わせたと見せかけて彼はゲルハルディーナの頬に口づけをしたのである。
解せない。
こんなに可愛く綺麗で美しい花嫁を貰って唇を奪いたいと思わないとは何事だ。
しかし表向きはつつがなく式次第が執り行なわれ、あることを除いた他すべての行事が無事終了した。この間、ゲルハルディーナは不満を抑えて、新郎として、王の婿として忙しく立ち振る舞うアンスガルの邪魔をせず、おとなしく過ごしていた。
大聖堂での結婚式からはや一週間が過ぎた。
この一週間、ゲルハルディーナとアンスガルはずっと移動である。辺境伯領の城に帰るのだ。ゲルハルディーナはとうとう王都から引き離されたというわけだ。
長時間馬車に揺られてようやく辿り着いた城下町は想像の百倍くらい栄えていて、ゲルハルディーナはびっくりした。どうせ辺境の地だと思い込んでいたのだ。なかなかの都だ。だが、けしてアンスガルが内政でもそれなりの政治手腕を持っていると認めたわけではない。アンスガルには国境を守る騎士団の長として脳味噌まで筋肉の阿呆でいてもらった方がいい。
さて、城に到着した。いよいよ王都では行なわれなかった最後のイベント、もっとも重要なあの儀式が執り行なわれる。
初夜である。
アンスガルとゲルハルディーナはまだ一度も同衾していない。辺境伯領の城に設けられた二人の新しい寝室に辿り着いてから、という話になっていた。
今日とうとうその寝室に辿り着いた。
その時が来たのだ。
侍女たちに浴室で全身を念入りに洗わせ、お気に入りの香水を耳の後ろに軽く垂らして、透けそうなくらい薄く頼りない夜着を纏って、いざ出陣。
夫婦の新しい寝室、シンプルな臙脂色の天蓋のついたベッドに横たわって夫を待つ。
ややして、扉がノックされる音がした。さすがのゲルハルディーナも乙女の花が散るとあっては多少緊張するので、深呼吸をしてから「どうぞ」と答えた。
扉がゆっくり開けられた。
手燭を持った男が入ってくる。蝋燭の小さく柔らかな炎に照らされて現れたのはもちろんアンスガルである。昼間は撫でつけている黒い前髪を垂らしているので、雰囲気がいつもと少し違って見えた。
アンスガルが静かな落ち着いた足取りで歩み寄ってくる。男などもっとがつがつとしているものだと思っていたゲルハルディーナは驚いた。というよりがっかりした。自分ほどの美女なら彼もベッドに飛び込んでくるに違いないと思っていたのだ。それがこの優雅にも見える振る舞いは何事か。
ベッドの脇に据え付けられた棚に手燭を置いた。
そして、ベッドの上に片膝をついた。
ベッドが、ぎし、と鳴った。
いよいよだ。
唾を飲んだ。
ところが、だった。
「さぞやお疲れのことと存じます。今宵はもうゆるりと休まれたらよろしい」
そう言うと、彼はゲルハルディーナに背を向け、ベッドの半分に身を横たえたのである。
ゲルハルディーナには触れようとしない。近づこうともしない。広いベッドの上のことだ、二人の間には少し距離があった。
ゲルハルディーナはぶちりとキレた。
「ちょっと、あなた! その態度は何なのです!?」
アンスガルが首だけでこちらを振り向こうとする。その様子が憎らしく感じられてゲルハルディーナは思い切りその後頭部を叩いた。
「姫?」
「何ゆえそっぽを向くのです! 男ならばここで奮い立つべきでしょう!」
腹が立って仕方がない。自分は覚悟を決めてこのベッドの上で待っていたのである。それを踏みにじるとはどういう神経をしているのか。
「わたくしに何かご不満でもおありでしょうか?」
これほど可愛く綺麗で美しいのに、とまでは言わなかった。それを言ったらさすがに自分が阿呆である。だいたい言わなくても見れば分かるだろう。自分は可愛くて綺麗で美しいのだ。
「不満など」
アンスガルが上半身を起こした。
そしてふと、笑ってみせた。
意外な笑顔だった。優しく、甘くすらあって、普段は愛想のない彼からは想像もつかなかった笑顔だった。実は別人なのではないかと疑ってしまうほどだ。
ゲルハルディーナがまじまじと彼の顔を見つめていたところ、彼はすぐに笑みを消してしまった。いつものぶすっとした顔に戻る。
「先ほども申しましたが、姫は長旅でお疲れのものとお見受けします。ご無理はなさるな」
「このわたくしが、この程度の移動で無理など! 体力には自信がございましてよ」
「さりとて慣れぬ異郷の地にござれば、思うところもいろいろおありでしょう」
そう言われると言葉に詰まった。思うところはありまくりである。しかしそれを口に出してしまうのは大人の女性のすることではない。とはいえ言いたいことがあるのはそうなのでゲルハルディーナは何も言えずに黙った。
アンスガルがほんの少しだけ身を寄せてくる。口元こそ唇の端を持ち上げてはいなかったが、蝋燭の炎に照らされる瞳はなんとなく穏やかであった。
「自分たちは夫婦になったのです。これから先いくらでも時間はございましょう。なんぞ焦ることがありましょうか」
「焦ってなど――」
ゲルハルディーナは顔を背けた。
「ただ」
「ただ?」
「早く子が欲しいと思って」
アンスガルが「は?」と言って眉間にしわを寄せた。
言い方を間違えた。
「お家のため、お国のためです。わたくしはあなたに嫁いだ身として、この家の跡継ぎをお産みする覚悟で参りました。いかようにもなさいませ」
そして次期辺境伯を育て上げるのだ。もちろん、自分の都合のいいように、である。
ゲルハルディーナの新プランはこうだ。
まず、アンスガルを陥落させ、めろめろのべろべろにして自分に心酔させ、自分の言いなりにする。
次に、アンスガルの息子を産む。
それから、この息子も自分に対してめろめろのべろべろにする。
そして、アンスガルにこの息子を後継者として指名させる。
自分は次期辺境伯の母として絶大な権力と強大な国境騎士団を手に入れ、誰にも文句を言わせずこの地の統治者になる。
完璧である。
このプランの実現のためにはまずアンスガルに自分に溺れてもらわなければならない。愛していると言わせなければならないのである。その上で、自分に子種を授けてもらわなければならないのだ。自分は何が何でもアンスガルの子供を産んで母として実権を握るのだ。
「ほら! さあ! いくらでも! わたくしは受け入れることができます、お好きになさってください!」
「いや、寝なさい」
「は?」
「もう寝ろ」
アンスガルはガウンの上に着ていた上着を脱いだ。
そして、ゲルハルディーナの頭の上から包み込むように掛けた。
互いに顔が見えなくなった。
何が起こったのか分からず硬直していたところ、辺りが急に暗くなった。アンスガルが蝋燭の炎を消したのだ。
「…………」
ゲルハルディーナは上着を払い除けると、手探りでアンスガルの腕を探してつかんだ。大きな声を上げた。
「ちょっと! わたくしほどの美女に好きにしていいと言われて何とも思わないのですか!?」
「自分で言うか普通」
とうとう言ってしまった。これでは阿呆丸出しだ。ゲルハルディーナもさすがに真っ赤になった。だが暗い部屋の中なのでアンスガルに見られることはない。わざと大きく息を吐いて吸い、自分の心に静まれ、静まれと言い聞かせた。
「姫」
真っ暗な部屋の中、彼の声だけが響いた。その声は低いが、甘くまろやかだ。
「お急ぎになるな。時間はたくさんあります。互いに距離を近づけていく必要がございましょう」
それだけ言うと、黙った。
「……なん、何ですの」
自分たちの距離はそんなに遠いのか。
ベッドの端と端にいる。これがそのまま自分たちの距離なのか。
そう思うと、ゲルハルディーナは途端に寂しくなってきた。自分ほどの人間なら彼に愛してもらえるとばかり思い込んでいたのである。
「……まあ、別に、構いませんわ。好きになさって」
しゅんとしょげ返って、ゲルハルディーナも布団の中に潜り込んだ。
可愛がってくれていいのに。
しかしやはり疲れていたのだろう、それからほどなくしてゲルハルディーナは眠りに落ちてしまった。
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