第2話 屈辱的ですが受け入れてさしあげてもよろしくてよ
というわけであれよあれよという間に結婚式である。
ゲルハルディーナは真っ白なウエディングドレスを着て大聖堂の扉の前にいた。
白いドレスは見事なものであった。ふんだんにあしらわれたレースは繊細でどれも工芸品として一級だ。コルセットの下、腰元からふわりと広がる形をしていて、裾は大人の歩幅三つ分続いている。散らされているのは無数の小さな真珠のビーズだ。開いた胸元では母が嫁いできた時に身につけていたというダイヤモンドのネックレスが輝いている。高く結い上げられた髪も今は白いレースのヴェールに覆われていた。
だがゲルハルディーナは浮かなかった。
今日を最後に自分はこの王都を去る。そして国境沿いの辺境伯領に行かされる。王都から辺境伯領の城までは馬車で一週間くらいだろうか。遠い、遠すぎる、そんなことでは王都で重大事件が起こった時情報がすぐに入ってこないだろう。
父は本気で自分を宮廷から遠ざける気なのだ。
隣に立つゲルハルトが、心配そうな表情でゲルハルディーナの顔を覗き込んだ。
「姉上、お加減がよろしくないのですか?」
ブロンドの髪は緩く波打ち、大きな二重のまぶたにはエメラルドの瞳が埋め込まれている。肌は白く滑らかで、若い男性特有の脂ぎった感じはない。
ゲルハルディーナとよく似たこの美しい青年はゲルハルディーナの双子の弟でこの国の次期国王ゲルハルトである。
似ているのは顔だけだ。中身はまるで正反対だった。
剣術を好み、馬術をたしなんだゲルハルディーナ。絵画を好み、音楽をたしなんだゲルハルト。
討論を好み、相手を論破することに全力を懸けてきたゲルハルディーナ。談笑を好み、相手の話を聞くことに全力を懸けてきたゲルハルト。
この国を拡大することに野心を燃やし女王たらんことを目指してきたゲルハルディーナ。現在の領地の安定に甘んじ「姉上が男でしたら僕も安心だったのですが」と微笑むゲルハルト。
ところが残念ながらこの姉弟の場合親は性別が逆であったらよかったのになどとは言わない。ゲルハルディーナの方が男だったらあちこちと戦争になって国が破産する、ゲルハルトによる平和な統治がよかろう、ゲルハルトが男でよかった、などとのたまったのである。
今日、ゲルハルトはゲルハルディーナとともにヴァージンロードを歩くことになっている。ちなみに父は大聖堂の中の高座で待っている。
「アンスガルは、少しぶっきらぼうなところはありますが、根はとても優しい男ですよ。けして恐ろしい男ではありません」
夫の細かい人となりなどといったどうでもいいことを案じているわけではない。
「分かっているのですか、ゲルハルト」
きっと睨みつける。
「わたくしが嫁ぐということは、あなたが一人でこの国を切り盛りせねばならぬということです。わたくしがあなたを守ってさしあげることはもうできなくなるのですよ。あなたこそ不安ではないのですか」
問い掛けると、ゲルハルトは一瞬呼吸を止めた。だが次の時には微笑んでみせた。その笑みは優しく穏やかであり、ゲルハルディーナの目には少し弱々しくも映った。
「大丈夫です、姉上。ゲルハルトはきっと立派にやってみせます。今まで苦労ばかりかけてきましたが、明日からはきちんとやりますよ」
「さようですか」
「それに、アンスガルが義理の兄になってくれるのもとても心強いです。アンスガルは騎士の中の騎士ですから。誰よりも義の人です。しかも辺境伯として立派に務めてくださって彼が国境に移って以来この国が異民族の侵攻に晒されたことはありません、実力もある人なのです」
それを聞いて、ゲルハルディーナははっと気づいた。
そう、アンスガルは父の一番の忠臣なのである。ゲルハルディーナにとっては恐るべき敵であり、いずれは調略せねばならない相手であった。それがたかだか結婚するくらいで味方につけられるというのは良いことではないか。最小の労力で最大の利益を生み出すべきだ。なんなら最強の国境騎士団の頭領であるアンスガルをそそのかして王を倒してもいいのである――というのは大袈裟でさすがのゲルハルディーナも王女である以上王家の転覆は望んでいないが、父の圧政が終わった後、ゲルハルトが王になってからは分からない。
パイプオルガンの音色が響き始めた。ゲルハルトが「行きましょう」と言った。侍従たちが大聖堂の重い扉を開けた。
大聖堂の中には大勢の人が詰めかけていた。王族一同、貴族の家の当主一同。大商人、豪農の有力者、各国来賓。そして国境騎士団の幹部の面々である。
中央に敷かれた赤いカーペットの果て、祭壇前に、国境騎士団の礼装に身を包んだ背の高い男が立っていた。黒い髪を撫でつけた、筋骨たくましい背中が見える。
辺境伯アンスガルだ。
いざ挑もうではないか。
ゲルハルディーナはゲルハルトの腕を取って歩き出そうとした。ゲルハルトが小声で「待ってください」と言いながらついてきた。いけない、さすがに今日という日はしおらしく花嫁らしいところを見せなければならない。ゲルハルトと歩調を合わせ、ゆっくりカーペットを踏み締める。
やがてアンスガルの隣に立った。
アンスガルは一瞬ゲルハルディーナの顔を見た。そしてすぐ、前に向き直った。
騎士の中の騎士、と謳われるわりには甘い顔立ちの男だ。年はゲルハルディーナより六つ上のはずだが、少々童顔でまだ若々しい。にこりともしない愛想のなさではあるものの、まっすぐ前を向いたアイスブルーの瞳は穏やかで、わずかな優しさも滲んでいる気がする。
この男が我が夫君となるのか。
やってやろうではないか。この男を足掛かりに、辺境伯領から王都に進撃するのだ。
「――誓いますか?」
「誓います」
アンスガルを観察するので頭がいっぱいで神父が喋り出したのに気づいていなかった。彼が誓いの言葉を述べてからちらりとゲルハルディーナの顔を見たことではっとした。
「新婦ゲルハルディーナ」
「わたくしですかっ?」
声を裏返してしまった。
その途端だった。
隣から吹き出す息の音が聞こえてきた。
隣に立つ男を睨みつけた。
アンスガルは唇を引き結んで正面を見ていた。ゲルハルディーナの顔は見ていなかった。見まいとしているようだった。引き結んだ唇が笑いを堪えているように見える。
悔しい。
だが、落ち着くのだ。これからいくらでもぎゃふんと言わせてやる機会はある。この男を踏み台にして自分はのし上がっていくのである。今ぐらいはいい思いをさせてやってもいい。
自分は可愛く美しい花嫁だ。アンスガルはこの世で一番幸せな男である。これ以上のことがあろうか!
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