第10話

 何度目かに訪れた覚醒は、ドロリと重たい液体に拘束されているような心地であった。

 呼吸が苦しい。苦い粘液が口の中に張りついている。暑いのか寒いのかわからない皮膚感覚。

 あれから、熱はさらに上がった気がする。相変わらず真っ暗な視界の中に膨張と縮小を繰り返す異形の物体があり、耳奥では絶えずか細い高音が鳴っている。

 まとわりつく液体をかき分けるようにして、陽乃子はベッドに上体を起こした。

 

 手探りでテーブルライトを点けると、部屋の中には誰もいない。

 陽乃子のいるベッドはもと通り綺麗に整えられており、引っ張り出してきた衣服もすべて、もとあった場所に片付けられている。陽乃子が逃げようとしたことをわかっているのかいないのか、あの男は気味が悪いほど優しく甲斐甲斐しく、陽乃子を寝かせて介抱した。

 目を転じると、テーブルの上にペットボトルが二本と、白い小さなビニール袋が置いてある。ビニール袋に入っているのは薬だろう。解熱薬だという白い錠剤を飲まされたのは覚えているが、薬が効いたような感覚はまったくない。

 そういえば薬を飲まされてどのくらい経った頃だろう、陽乃子が夢とうつつはざまに揺られている時――、

『……タイミングが悪いな……本社に戻らねばならなくなった。もうしばらく待っておいで――』

 あの男は陽乃子を見下ろして、そう言っていなかったか。その辺りの記憶は曖昧にぼやけているので、もしかしたら夢だったのかもしれない。

 陽乃子はベッドサイドの柵につかまり、ギシギシと痛む脚を床に下ろした。視界がグワンと回るが耐えて立ち上がる。

 寝込んでいる場合ではないのだ――ずっと捜していた人物に会うことができたのだから。


 ――始まりは、今からふた月ほど前……卒業式が間近となったある日のこと。

 帰宅後、通学鞄を開けて、見覚えのない一通の手紙に気づいた。

 白い封筒に白い便箋。手書きの、やや癖のある文字。

《 あなたに会いたがっている人がいる。来たる卒業式の日。式終了後の帰り際、忘れ物をしたふりをして、事務局棟の裏にある通用門まで来てほしい 》

 いつどこで誰がその手紙を鞄に入れたのか、陽乃子はまったくわからなかった。けれど手紙を書いた人物より、手紙に人物の方に、陽乃子の意識は惹かれた。

 自分に会いたがっている人――いったい、誰。

 そんな人物はこれまで一人もいなかった。陽乃子はいつも独りだったから。

 周りにいる人々は皆、陽乃子とは別の世界に生きており、陽乃子はマジックミラー越しに他者を眺めているだけだった。あるいは、陽乃子だけが別次元の人間だったのか。いずれにせよ、自分は隔絶された存在であった。

 そんな自分に会いたいという人物がいる。いったい誰が……まさか。

 まさか、それは父と母なのではないか――仄かな期待を抱いてしまったのは、枯れ朽ちたはずの希望がわずかに残っていたからなのだろうか。

 陽乃子は、なぜ自分に父と母がいないのか、その明確な答えを知らない。五歳より以前の記憶が不鮮明で、その後の記憶もしばらくは熱に浮かされ混濁している。両親について詳しく教えてくれる人もいなかった。けれど陽乃子は何となく、両親はもうこの世にいないのだと感じていた。

 しかし、ここに来て陽乃子に会いたいという人がいる。他でもない女子高等科卒業式の日、陽乃子の節目の日に。

 手紙の文面を目にした時、陽乃子の四方を囲っているマジックミラーに小さな亀裂が入ったような気がしたのだ。

 果たして、陽乃子は手紙の指示通りにした。記憶にある限り、これまで陽乃子が定められた軌道から外れるような行動を起こしたことはない。送迎の運転手を巧く誤魔化せたことが、自分でも不思議でならなかった。

 通用門で陽乃子を待っていたのは、牛久間と名乗る中年の男性であった。全く面識のない人だったが、顔を見た時に情報の取り込み反応がなかったので、どこかで目にしたことがある人なのだろう。よくあることなので、特に気にしなかった。

 タクシーに乗せられ、連れてこられたのは見知らぬ大きな街。初めて見る高層ビル群や商業施設、行きかう車や人々の多さに驚いた。そんな中、牛久間なる男が始終、落ち着かない様子で脚を揺すっていたことを覚えている。

 途中、昼食を取るために街の一角へ立ち寄り、再び別のタクシーに乗ってさらに大きな通りを進んだ。次々と飛び込んでくる人々の顔にやがて陽乃子の脳内が情報過多となり、たまらず鞄からノートを取り出そうとした時だ。――突如前方から車が突っ込んできた。

 あの瞬間、ほんのコンマ数秒、陽乃子の目に飛び込んできた暴走車の運転手の顔――血走った眼、喰いしばる歯牙、剥き出しの醜悪な狂気――反射的に瞬きでインプットした刹那、まったく同じ形相の、、陽乃子の脳裏にフラッシュバックしたのだ。

 ――

 『――パパぁ……っ!』


 失くした記憶……ではない。

 その記憶は常にずっと、脳内の奥深いところにあった気がする。けれどどうしてか、その記憶の引き出しはひどく錆びついていて、長い間ずっと取り出すことができなかった。それが突然強い衝撃とともに飛び出した……そんな感覚だった。

 とはいえ、その時の陽乃子はすべてを思い出したわけではなかった。脳内でパッパと閃光のように弾ける画像がいくつもあるのは感知したが、それらを明確なビジョンとして捉えることができない。ただただ、恐怖の感覚に支配されて身動きさえままならなかった。タクシーから路上へまろび出た陽乃子は、事故の騒ぎなどまったく目に入らず、道路の片隅にうずくまって身体をおこりのように震わせていた。

 気づくと、一人の男性が陽乃子を心配そうに覗き込んでいた。

 初めて見る顔でないことはわかった。彼も、陽乃子を知っているようだった。そして彼は、陽乃子の伯父――陽乃子の父親の兄だと言って、携帯端末の画面にある写真を、陽乃子に見せた。

 写真に写っていたのは、幼女を抱いた男の人と、隣に寄り添う女の人。陽乃子の父と母なのだと、男の人は言った。

 陽乃子の記憶能力の特性上、一度目にした人の顔はその像が薄れることはない。なのに、画像の中にいる父と母の顔は、ぼやけた記憶の焦点ピントを合わせるために意識を凝らすという手間が必要で、それがもどかしかった。

 父と母……そして、父に抱かれている幼女は陽乃子なのだという。どこか現実味に欠ける反面、ひどく懐かしい気もする。

 魅入られたように写真を眺める陽乃子に、伯父だという男性が言った。

 ――『君は、 “天宮陽乃子” なんだ』

 その名を聞いた時、陽乃子の身体の奥に、ひと塊の小さな熱量のようなものが生まれた。

 ……そうだ、わたしは “中原陽乃子” じゃない、だ…… “あまみやひのこ” と平仮名で書けるようになった時、上手に書けたと褒めてくれたのは父と母ではなかったか……難しい “あ” の文字もちゃんと書けるなんてすごいと、これなら小学校へ行っても大丈夫だと、頭を撫でて褒めてくれたのは父と母ではなかったか……

 身体の奥に生まれた熱量がにわかにその質量を増した。それは、陽乃子の内側を侵蝕しながら、先ほどまでりついていた恐怖の感覚をあぶり焼いていく。膨れ上がった熱量は不思議なほど静かに形を変えて、たった一つの強い意志へと変化へんげした。

 ――


 そこから陽乃子は、大きな波に呑まれるようにして、気づくと新しい世界に生きていた。毎日が、驚きと発見の連続であった。

 街には多種多様な人々が溢れかえっており、それぞれが年齢も服も髪の色も様々で異なる。音も匂いも温度もごちゃ混ぜに入り混じって、人々が発する目に見えないエネルギーが絶えず陽乃子を圧倒する。誰も陽乃子の存在など気にも留めなかったが、それでも陽乃子は、彼らと同じ次元に存在していると感じることができた。これまで自分の周囲を取り囲んでいたマジックミラーが取り払われたような気がしたのだ。

 そして、生きるためにはお金が必要で、お金を得るためにはそれ相応の労役が必要だということも生身に学んだ。

 似顔絵を描いて金銭を稼ぐ日々は、楽ではなかったが嫌でもなかった。陽乃子の絵を見た人々が「すごいね」「上手だね」と声をかけてくれる。少なくともその時、人々の目にはたしかに陽乃子が映っているのだ。

 “生きる” ということを、生まれて初めて生々しく体感した日々であった。五感すべてがフルに刺激される新しい世界――

 そんな中でも、陽乃子は決して忘れることはなかった。

 ――あの “顔” を、捜さなければならない。



 陽乃子はベッドから離れて、クローゼットの中に掛けられたピンク色のパーカーを取り出した。小刻みに震える腕を伸ばしてパーカーを着込み、サイドテーブルの上に置いてあった紐付きガマ口を首から下げた。空気中に見えない針でも浮遊しているのだろうか、時おり肌が刺されるように痛む。

 ふらつきながら、陽乃子は部屋の壁際にある丸テーブルまで進んだ。テーブルにあるミネラルウォーターのペットボトルを手に取る。水滴に濡れたボトルはまだ冷たい。同じくテーブルに置いてある白いビニール袋を持って、陽乃子は床上にへたり込んだ。

 とにかく熱を下げなければならない。渾身の力でペットボトルの蓋を開けて一口飲んで、ビニール袋から長細い小箱を取り出す。小箱の中には真っ白い小さな錠剤が十錠ほど連なった包装シート。シートが二錠分空になっているのは、前に陽乃子が飲まされた分だろう。ということは、二錠飲めばいいのか、それとも、もう少し多めに飲んだ方が早く効果が表れるだろうか。

 表の透明なカバー部分を指で押すと、白い錠剤が裏のアルミシートを破って転がり出てきた。たったこれだけの動作が重労働だ。肩で息を吐き、もう一錠出そうとした時、突然部屋の照明が点いて――、

「――ストップ」

 聞こえるはずのない声が聞こえて陽乃子の肩が揺れた。振り返れば、ここに居るはずのない人が立っている。

「なに、その薬」

 真っ黒い服に真っ黒い髪、シンメトリーの顔立ち――幸夜が、ジャンパーのポケットに両手を突っ込んだまま近づいてくる。少し不機嫌そうに室内を見回しながら。

 幻だろうか。視界が薄っすらぼやけているので、幻かもしれない。

 幸夜は、ポッカリと口を開けている陽乃子に屈みこみ、その手にある錠剤シートを奪って表裏を注視する。

「解熱剤……?」

 錠剤シートをテーブルの上に放り投げて、幸夜は陽乃子の額に手を当てた。そのひんやりした感触はずいぶんと現実味がある。何度か瞬いても、目の前の幸夜は消えない。

「すっげー熱いな」

「……ど、して」

 掠れた声が出た。幸夜は眉根を寄せて、床上のペットボトルを手に取り蓋を開けて匂いを嗅ぐ。

「迎えに来たんだよ。帰るぞ」

 当然のように言い放つ幸夜の言葉は、陽乃子の意表を突いた。あれだけここから逃げ出したかったのに、今は自分に気づいたからだ。

「あの……帰、れません」

 小さく掠れた声が聞こえなかったのか、幸夜はペットボトルに蓋をし直して無造作にテーブルへ置き、陽乃子の全身をスキャンするように見る。

 ――と、いきなり陽乃子のパーカーのポケットに手を突っ込んだ。引き抜いたのはチョコ菓子の小箱。もう中身はほとんど残っていないはずだ。 

 幸夜は小箱を空けて手の平に出てきた三個のキノコ型チョコレートを一気に口へ放り込んだ。途端に歪む表情。

「んだよ……溶けて湿気しっけて、クソまずいな」

 忌々しそうに咀嚼し飲み込んだ彼は、空になった小箱を放り投げた。

「オレは今、イラついている。結局コンビニに寄れなかったからだ。――柾紀、柾紀。聞こえるか? 柾紀?」

 動けないでいる陽乃子に構わず、幸夜はフード付きジャンバーの襟元に手をやって、話し始めた。

「――チッ、あいつしくじったか……、――リリコ、聞こえるか? ――ああ、見つけた。無事だ。熱出してっけど。……そう、熱。ハツネツ。……キンキンうっせーよ……、――あ? ……マジで? んだよ、もうバレたのか。あの弁護士使えねーな……」

 よく見ると、襟元の内側に黒くて小さな丸いものが見えた。真ん中にボタンがついているそれは見たことがある。たしかスズヒサ時計の記念式典が行われたホテルで、給仕係に扮したリリコの蝶ネクタイについていた小型機器だ。

「――柾紀の応答がない。GPSは? ……わかった。こっちは何とかする……プランBだ。とりあえず、連絡するまでその場で待機。いいな」

 柾紀、リリコ……幸夜だけでなく、皆がここに来ているのだろうか。熱のせいか、思考が空回りしてきちんと考えることができない。

「おい、大丈夫か? 行くぞ。早く来い」

 床上にへたり込んだままの陽乃子に、幸夜は背を向けて屈んだ。負ぶされ、ということなのだろう。

 ――でも、わたしは……

 躊躇する陽乃子を見た幸夜は苦い顔をして、強引に陽乃子の腕を取り自身の肩にかけた。黒いジャンパーのあちこちが細かくキラキラと光っている。それが水滴だとわかった途端、陽乃子の身体が上方へ持ち上がった。

「――ま、こっちの都合通りにいくわけねーんだけど……想定外が多すぎて前途多難だぜ」

 陽乃子を軽々と背負い、幸夜は落ち着いた足取りで部屋のドアに向かう。そういえば、ドアが開いている。鍵がなければ開けられないドアを、幸夜はどうやって開けたのだろう。陽乃子が脱出できなかった牢檻を、幸夜は易々と抜けた。

 ドアの向こうは照明がなく、暗くて狭い階段が地上うえへと続く。頭上の淡い自然光に向かって、幸夜はゆっくりと上り始めた。

「お前さぁ」

 気怠そうな幸夜の声が身体越しに伝わる。

「オレたちの有能っぷりがまるでわかってねーよな」

 幸夜の動きに合わせて陽乃子の身体も揺れた。

「人捜しなんて “探偵” に頼めばよかっただろ」

 幸夜の髪が頬に触れる。どうして髪が濡れているのだろう。

「お前みたいなちっぽけなキノコが、一人で頑張ることじゃねーだろ」

 キノコ……と聞こえた。憮然とした幸夜の声がなぜか耳に心地よい。

 狭い階段を上りきったところで、また幸夜が「――あ? ナンだよ……」と煩わしそうな声を上げた。

 腰を落として陽乃子をそっと降ろし、襟元の小型機器に向かって話し始める。

「――ああ、わかった……あと十分ってところか……心配すんな、こっちは大丈夫だ……、いや、ダメだ、絶対に車から出すな。肝心な時にいてくれなきゃ困るんだよ……」

 陽乃子は床上にへたり込んだまま、にじんだ視界の中で何度も瞬いて辺りを見渡した。暗がりから出てきた一瞬は明るく感じたが、目が慣れると薄暗い。それでも、室内に誰もいないことはすぐにわかった。

 床も壁も柱も、木目が浮き出た木材でできた広い部屋だ。中央に大きな木製のテーブルがあり、柔らかそうな布地のソファが囲む。その奥の壁にあるのは暖炉だろう。

 部屋の左方にはカウンターを隔てたキッチンがあり、シンクの真上には窓。その窓の外は上部から水が滝のように流れ落ちている。幸夜の髪が濡れていた理由がわかった。外は雨なのだ。

 玄関やキッチンは広い居間とひと続きになっており、天井も高いのでかなり開放的だ。初めてここへ来たときは濃厚な木の香りを感じたのだが、今の陽乃子は嗅覚が利かない。

 通信を終えたらしい幸夜が小さく息を吐いた。

「さて、どーすっかな……ま、なんとかなるか」

 ブツブツと呟きながら、幸夜はジャンパーのポケットから何かを出して、それを陽乃子の桃色パーカーのポケットへ入れる。「あ」と口を開けて幸夜を見上げると、今度は陽乃子の左耳横の髪をかき上げ、耳の穴にヒヤリと冷たい小さな何かを入れた。

 この小型機器も知っている。記念式典の時にリリコが装着していた。

 耳に入れた小型イヤホンを隠すように陽乃子の髪を梳く幸夜が、ふと口を開く。

「お前……どーして藤緒貴祐を捜していた?」

 長い前髪の隙間から、陽乃子を見つめる切れ長の眼。

「……

 陽乃子は幸夜の発した言葉の音韻を、ゆっくりと繰り返した。

 ――復讐……

 それは初めて耳にする響きのような気もするし、ずっと心の奥底に隠し持っていた呪文のような気もする、不思議な言葉だ。

 “君は、天宮陽乃子なんだ” ――天宮晃平からその言葉を聞いた瞬間、陽乃子の身体の中心に湧き上がったあの熱量は、“復讐” という名をつけるべきものなのだろうか。

 けれど、陽乃子は復讐の仕方を知らず、その方法を考えたこともなかった。

 ただ陽乃子は――、

「どうしても、訊きたいことが、あったんです……」

 小さく呟くと、幸夜は驚いたように目を見張った。そして「これだからキノコは……」とよくわからないことを言って、陽乃子の頭に手を乗せた。

作戦プラン変更だ。もう少し耐えられるか」

 見上げる陽乃子を、幸夜は真っ直ぐ見据える。

「何が起きても心配するな。絶対にお前を『サブロ館』へ連れて帰る」

 その眼が、今まで見たことがないほど優しく思えたのは、熱のせいだろうか。


 幸夜に支えられて陽乃子がフラフラと立ち上がった時、玄関の木扉が大きな音を立てて勢いよく開いた。雨音と一緒に飛び込んできたのは――

「――動くな!」

 雨粒に濡れた馬のように長い顔の男。その手に黒い拳銃を構えている。

 いくら陽乃子が世間知らずでも、拳銃と呼ばれるものがどういった目的で使用されるのかくらいは知っている。知っていても、陽乃子の目にそれは玩具にしか見えなかった。凶器にしては小さくて、非現実的すぎる。

 しかし玩具ではない証拠に、幸夜が身を固くして陽乃子を背に隠した。

「やめろ。宇辺野」

 煩わしそうな声が馬顔男の背後から聞こえて、傘を差した痩身の男が玄関に入ってきた。大きな黒い蝙蝠傘の雨滴を振り落しながら畳み、それを無造作に玄関隅に立てかけると、銃を構えた馬顔男の後ろから数歩、前に進み出る。

「……つくづく、血の濃さには驚かされる。雑菌に侵されやすい血質というべきか……」

 物憂い口調で溜息を吐く上質なスーツを着た男性。黒革のビジネスバッグを持っている。血色の悪い平面的な顔立ちは、形成する線がどれも薄くて凹凸の浅い印象がある。

 身構えた幸夜が、背後にいる陽乃子ごと数歩下がった。

「あんたが不二生薬品の現副社長、藤緒貴祐か。――頭のイカれた殺人犯だって聞いたけど……イメージじゃねーな。そいつにらせたの?」

 幸夜が、ずいぶんと軽薄な声音を張り上げた。宇辺野が「撃ちます」と肩を怒らせて銃口を構えたまま大きく一歩前に出る。

「まぁ待て。床や壁が汚れるじゃないか。……と言っても、すでに汚されているがね」

 軽く片手で制して、藤緒貴祐は幸夜の泥に汚れたショートブーツを咎めるような目で見た。

 そしておもむろに革靴を脱ぎ、玄関の隅に揃えてあった革のスリッパに履き替え、悠々とした足取りで室内に入ってきた。こちらに銃口を向けたままの宇辺野が、じりじりと二、三歩進み出る。

 藤緒貴祐はしかし、幸夜と陽乃子の方には来ず、あたかもひと休みするような素振りで鞄を置いて、ソファに腰を下ろした。

「――つい小一時間ほど前、我が社の顧問弁護士から連絡があってね。以前、うちが関わった輸入薬に、副作用による重篤な健康被害が報告された……社長の帰国は早くても明朝になる、副社長には至急本社へお戻りいただきたい……とのことだった。たしかに、薬害訴訟にでもなれば事は面倒だ。見計らったような間の悪さに歯噛みしながらここを発ったのだが……どうも、気になってね。虫の知らせというやつかな。それで、信用のおける幹部に確認の連絡を入れてみたのだよ。するとどうだ――そんな事実はない、のだそうだ。実に興味深いじゃないか。朋永は私に嘘をついたのだ」

 深く背を預け、くつろいだ風に脚を組み、彼は天井に渡る太い木材の梁を眺める。

「なぜ朋永が、嘘をついて私を本社に呼び寄せたのか……考えられる理由は一つしかない。私を一時的にここから退去させたかったのだ。なぜ退去させたかったのか……私の居ぬ間に “彼女” を奪うつもりだったのだ……あの時のように」

 緩やかに静かに、何かを憂う口調。それがかえって不気味に聞こえる。

「まったく、ここまで不愉快になったのは久しぶりだ。監視でつけてあった牟田の携帯にはつながらない。雨はひどくなるばかりで、戻って来てみれば予想通り、毒性の強そうな雑菌が土足のまま潜り込んでいる。……これだから朋永は信用ならない。私は昔から、あの老獪な弁護士が大嫌いでね」

 苦笑を浮かべて軽く首を振った貴祐は、ソファに身を沈めたまま顔だけを幸夜に向けた。

「まぁ、いいだろう。朋永の画策は崩れた。つまるところそれは――父の目論見が瓦解したということだ。――君は警察関係者に見えないね。牟田をどこへやった? 不浄な侵入者は君だけかな?」

 貴祐は愛想よく問いかけ首を傾げる。幸夜は黙って貴祐を見据えたまま、おもむろにジャンパーのポケットに両手を突っ込んだ。宇辺野が肩を揺らして拳銃を握り直す。

「ここへ上がってくる私道の入り口にはゲートを設えてあるため不審車両は入れない……が、私が戻って来た時、ゲートに異常はなかった……となると、君はあの柵を乗り越えてここまで歩いてきたことになる……フム、雨の中ご苦労だったね。しかしまさか、君一人であの牟田をやっつけたとは思えないな。君の仲間はどこにいる?」

 幸夜が小さく鼻で笑った。そのまま一歩、一歩とショートブーツを鳴らしながら陽乃子から離れる。

「教えると思うか?」

「なるほど。確かに、素直に吐くとは思っていない。まぁ、どうでもよいことだ」

 興味がなくなったように、貴祐は幸夜から目を逸らした。

「――宇辺野。駆除していい」


 貴祐がひらりと片手を上げた瞬間、凄まじい破裂音、陽乃子の身体が反射的に跳ねた。――と同時に幸夜の身体も大きく痙攣した――ように見えたが気のせいだったのかもしれない。すでに幸夜は床の上に倒れていた。

「何度聞いても無粋な音だな。情緒の欠片もない」

 軽く耳を押さえた藤緒貴祐が、つまらなそうな顔で言う。

 陽乃子は全身がはりつけにされたかのように動けなかった。

 現実の光景とは思えない。銃声と同時に幸夜が倒れた――撃たれた。

 床の上に倒れた幸夜がグッとくぐもった呻き声を出して小さくもがく。身体の下からフローリングに染み出す赤い……血。

「やはり汚れた。さし当っての仮住まいとはいえ、ここは特別な場所だ。卑しい血で汚したくはなかったのだが」

 溜息とともにソファから立ち上がり、貴祐は片手を軽く振った。合図を受けた宇辺野が、拳銃を握ったまま靴を脱いで上がってくる。

「さぁ、殺菌消毒は彼に任せて、君はまだ眠っていなければいけない。熱が下がっていないのだからね」

 貴祐が「おいで」と陽乃子に手を差し伸べる。宇辺野がうずくまる幸夜を足先で小突いて、陽乃子の足が飛び出した。そのまま倒れた幸夜に覆いかぶさる。

「……何のつもりかね」

 抑揚のない声を発し、貴祐が近づいてくる。折り重なる幸夜と陽乃子のすぐ傍に立った。

「血は争えない、ということか……忌むべき雑菌に対して怖ろしく無防備だ。……真梨子もそうだった」

 見上げると、貴祐はのっぺりとした無表情で幸夜を見下ろしている。

 ――その顔、その眼。

 閃光のようにフラッシュするいくつかのビジョン――

 新たに飛び出した古い記憶――燃え盛る炎の中、振り返った顔は、


「厳重に匿われた無菌環境に育ったと聞いていたが……すでにいくらか洗脳されているようだね。君にもじっくりと教えなければならないようだ。おのが精神さえも蝕む雑菌の恐ろしさを。その毒性のむごたらしさを」

 貴祐がゆっくりとしゃがみこみ、陽乃子と目線の高さを合わせた。陽乃子は幸夜を庇ったまま、小刻みに鳴る歯を喰いしばって首を振る。

「でも大丈夫だ。今ならまだ間に合う。私がその毒素を浄化してあげよう。さぁ、おいで。その男から離れるんだ」

 大きく首を振り、陽乃子はますます強く幸夜の身体にしがみつく。

 ――血が出ている。こんなにたくさん。どうすれば、どうすれば――、

 貴祐は、激しく狼狽する陽乃子に顔を寄せ、不気味な囁き声で言った。

「君が離れないのなら、宇辺野はこの男にもう数発打ち込んで、とどめを刺さなければならないのだよ。私だってむやみにこの場所を汚したくはない。君が素直に私の言うことを聞くなら、このままこの男を解放してやってもいい。外に出しておけば、どこかに潜んでいる仲間が勝手に連れて帰るだろう。それとも、このままここで、この男が死んでいく様を見届けたいのかい?」

 ぎくりと、陽乃子の身体が強張った。

 床の上でくの字に丸くなる幸夜の身体は小さく上下している。意識があるのかないのか、顔を覗き込むと苦悶の表情がクッと歪んだ。

 陽乃子はガタガタと震えながら身を起こして、幸夜から離れた。

 ニンマリと笑んだ貴祐が、ふらつく陽乃子に手を貸して立ち上がらせる。

「いい子だ」

 窓の外に稲妻が走り、青白い光を受けた貴祐の顔はマネキンのようだった。

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