第11話

 電波障害音のような雨音が耳につく。どこからか空気を震わす低い轟き――雷か。

 陽乃子が藤緒貴祐に連れられて再び地下の部屋へ降りて行き、ドアの閉まる音がすると、拳銃を持った長い顔の男は、床上に転がる幸夜に向かってもう一度銃口を向けた。

「――急所を狙ったはずなんだがな。まだ息があるとは」

 黒い小型の自動拳銃。銃身にちらっと “AUSTLIA” の文字が見えた。銃器には詳しくないが、少なくとも十五発以上は連発できるだろう。

「答えろ。牟田をどうした」

「牟田……? ああ、あいつか……」

 俺が知りたいくらいだ、と幸夜は内心呟く。


 先刻――幸夜たちの乗ったミニバンは、高速を降りたあと観光地としてひらけた町中を抜けて、山裾を走る県道から分岐した一本の私道の入り口に到着した。目的地は、そこから上がった山の中腹付近にある。

 しかし、先ほど藤緒貴祐が言及した通り、鬱蒼と樹々が生い茂る私道の入り口には真新しいゲートが設けてあり、車両の進入は不可能であった。ミニバン一台がやっと通れるほどの細い私道に、無理矢理はめ込んだ感のある頑丈な鉄柵は手動では開けられず、どうやらリモコン操作で開閉する仕様らしい。ただ、高さはあるが有刺鉄線の類はなく、人が乗り越えることは可能と見えた。

 そこで、幸夜と柾紀が先発隊として私道へ入ることになった。リリコと信孝、天宮晃平はミニバンで待機組だ。

 鉄柵を乗り越え、雨の中を徒歩で上ること約十五分。私道の先に平たく開けた敷地の奥、忽然と姿を現した三角屋根のログハウス風家屋。

 山の斜面を背に建てられた高床の木造建築は見るからに新築で、敷地の隅には木の杭やブルーシートなどが置かれたままになっている。部外者を拒む門や柵の施工はこれからなのか、容易に侵入できたことは助かったが、幸夜と柾紀は不可解に顔を見合わせたものだ。

 ――二十年以上も前に中原真梨子が住んでいた場所、と聞いていたのだが。

 それはさて置き、まずは柾紀とともにロッジの中の様子をうかがい、運よく鍵のかかっていなかった玄関から侵入し、中にいた牟田という男をスタンガンで気絶させることに成功した。

 ところが、男の懐から地下部屋の鍵を手に入れたまではよかったのだが、幸夜が陽乃子のいる地下へ、柾紀が気絶した男の処置へと別れてからは、ダダ滑りに上手くいかなかった。

 なぜか陽乃子はまともに歩けぬほど発熱しており、牟田を引きずって外へ出た柾紀はどこまで行ったのか通信も途絶え、弁護士の画策も空しく藤緒貴祐は戻ってきてしまい、銃弾は避けきれず。

 はなから、すべてこちらの思い通りに事が運ぶとは思ってはいないが、ここまで想定外が続くと何やら運を試されているような心地になってくる。

 とにかく今は、目の前の凶器をどうにかして――


 幸夜は肋骨を押さえながらゆっくりと身を起こした。手の平が粘つくのは仕込んでおいたフェイクの血糊を流したせいだ。掠っただけではここまで出ない。

 宇辺野がギョッとしたように数歩下がって拳銃を構え直す。幸夜が起き上がれるとは思っていなかったのだろう。

「……牟田……康治、だっけ。あの大男、元自衛官なんだってな。陸上自衛隊一等陸士。六年前、ギャンブルによる借金を抱え、取り立て屋を暴行、重傷を負わせて逮捕――んで、懲戒免職」

「貴様……」

 拳銃を構える男の目元がひくりと痙攣した。

 幸夜はフンと鼻で笑って床に座ったまま見上げる。

「……あんたも似たようなもんだろ? 宇辺野幹彦――

 今度は男の顔全体が大きく痙攣した。まずはボディブロー。信孝が一晩かけて掘り出してきた秘匿情報だ。

「厚労省管轄の国家公務員さまが、よもや民間企業の運転手兼ボディガードとはね。――アレだろ? 、ってやつ。さすがにじゃマズいもんな。でも再就職できてよかったじゃん。病院に収容されなかったの?」

「黙れ」

 拳銃を握る両手がブルブルと震え出した。落ちくぼんだ両眼は充血し、干からびた顔の皮膚全体が細かく痙攣している。男は定まらない照準を絞るように、一歩、また一歩と近づいてきた。――もうひと押し。

「あの副社長さん、殺しを命じるくらいだから金払いはいいんだろ? でもってあんたは金が必要。顔を見ればわかるんだよ。――

 男の顔にある狂気が一気に増した。

「黙れと言っているのが――、」

 飛びかかって額に銃口を突きつけられる寸前、幸夜はすかさずポケットから出した小さなスプレーを宇辺野の顔に噴射した。OCガス――いわゆる護身用の催涙スプレーだ。

 うめき声を上げて仰け反る宇辺野から拳銃を叩き落そうと手首をつかんだ瞬間、大きく銃声が鳴ってキッチンのガラス窓が割れた。揉みあう幸夜の側胸部に激痛が走り、拮抗する力が傾いて銃口がじりじりと幸夜に近づく。渾身の力で相手の腹部を大きく蹴って離れ、幸夜は舌打ちをしつつひとまず玄関ドアに向かって走る。

 粘つく血糊のせいで手元が狂いスプレーの噴射口がわずかにズレた。催涙剤を当てられたのは宇辺野の顔面の半分か。案の定、片目を押さえた宇辺野は悪態を吐きながら追ってくる。まともに食らわすことができれば奴の視界を完全に潰せたのに。――凶器を封じそこねた。

 ドアの外に出るなり痛いくらいの雨粒が全身を叩いた。時刻は正午前後のはずだが、山の樹々に囲まれた敷地内は土砂降りのせいもあって薄暗く視界も悪い。だが家屋の中――狭い空間よりはマシだ。

 玄関ポーチから下へ続く階段を跳ね降りて、目の前に横づけしてあった黒のベンツの向こう側へ滑り込む。遠くに雷鳴。轟く雨音に交じって宇辺野の叫び声。

「――貴、様……っ、待て――、」

 濡れた衣服が重く冷たく幸夜の体力を奪う。肋骨には焼けた鉄串が刺さっているような痛み。最悪だ。

「――出てこい……っ!」

 銃声が鳴った。もう一発。車両のウィンドウ越しに覗けば、宇辺野は顔半分を手で押さえつつ階段の上から闇雲にぶっ放している。催涙剤のダメージはそれなりにあるのか、痛みに耐えられぬ様子で膝をついたのが見えた。今なら隙をついてあの拳銃を――、

 ――と、幸夜のすぐそばで金属の弾ける音がして慌てて首をひっこめる。

 ……くそジャンキーめ。

『――幸、夜』

 かすかなノイズ、ブツブツと途切れる声。咄嗟に左耳を押さえる。

 ワイヤレスイヤホンから『幸夜』ともう一度聞こえて、幸夜は襟元の小型トランシーバーのボタンを押した。

「柾紀か。今どこに――」

 パッと白く閃光が走り、数秒後に巨大な打楽器を打つような雷鳴。雨音がうるさくてトランシーバーの音が聞き取れない。だいたいこの小型機器は防水仕様なのか。これだけ雨滴にさらされているのだ、まともに作動しているかどうかも疑わしい。

「――柾紀、――柾紀? 聞こえるか?」

 雑音と化すノイズ、再び発砲音、車体を掠る銃弾、もはや意味を成さない狂った喚き声。

 なんだか無性に可笑おかしくなってきた。映画やドラマじゃあるまいし、民間の探偵ごときにこの進退窮まる状況をどう突破しろと? あり得なさ過ぎて笑える。

「――ここだ! 幸夜!」

 今度ははっきりとした肉声。首を伸ばすと、幸夜から見てロッジの右手にある小屋――ガレージ兼物置らしく、大型の四輪駆動車が一台停まっている――大きく開いた木戸の陰から柾紀が叫んでいる。

 宇辺野はガレージ小屋にいる柾紀に気づいていない。ここで幸夜が飛び出し柾紀のもとに走れば、宇辺野に気づかれ共倒れになる可能性もある。どうしたものか。

 逡巡する幸夜に、柾紀が片手を上げて “待て” の合図をした。――マジか。

 気違いじみた悪態が聞こえて、幸夜はウィンドウから様子をうかがう。どうやらようやく弾丸が尽きたらしい。

 ホッとしたのも一瞬、宇辺野が胸内から取り出したのは新たな弾倉。装着する間に柾紀が駆け出し幸夜のもとに滑り込む、と同時に連続発砲。

 ニッと笑んだずぶ濡れの筋肉ダルマは幸夜以上に泥だらけだ。

「どこに行ってたんだよ」

「すまねぇ。失神しているあいつをロッジの裏手にでも転がしておこうと思ってな。引きずって出たはいいが、縛りつけている最中に目を覚ましやがった」

「あのスタンガン、輸入ものをさらに改造したって言ってたよな」

 昨今、護身用にも悪用にも使われるスタンガンだが、実は国内に流通する製品のほとんどが、相手を気絶させるほどの威力はないらしい。せいぜい電流放電による強烈な痛みで、一時的に動きを止めるのが関の山だという。

 しかし、柾紀の持参したスタンガンは米国メーカー製の高電圧。それをさらにいじり、人体への後遺症が残らないギリギリのレベルに調整した――と、柾紀自身が得意げに語っていたのだが。

「改造は得意だが実際に使うのは初めてなんだよ。当てどころが甘かったのか、あの男が頑丈すぎたのか……とにかく、目を覚ましたあいつと揉み合いになって、もう一度スタンガンを当てようとしたら、うっかり掠っちまった」

 高威力の武器は時として諸刃の剣となる。辛くも牟田に電流を当てたはいいが、同時に自身の手も掠ってしまい、あまりの痛さに足を滑らせ転倒。頭部を地面に強打し、そのままスコンと意識を落としてしまったという。

 何分経ったのか、気づけば何やら物騒な発砲音と狂乱の叫び。柾紀のそばで昏倒していた牟田を今度こそしっかりと後ろ手に縛り上げ、軒下にあるプロパンガスのボンベに括りつけて、ロッジの裏手からガレージに回り込んだ――のだそうだ。


「――クズがッ……ゴミがッ……くそっ……出てこいッ――!」

 またもや立て続けに銃声が連発して、柾紀はうへぇと首をすくめた。

「――嬢ちゃんは?」

「まだあの中。藤緒貴祐と一緒だ」

 幸夜は脇下を押さえて顔をしかめた。手についた血糊はこの雨でとっくに流れていたが、傷から染み出す新たな血が幸夜の手を汚す。柾紀が目を見張った。

「撃たれたのか」

「掠っただけだ」

 また稲妻が光って耳をつんざく雷鳴が轟いた。大きな雷雲がすぐ頭上にある。

 宇辺野は完全に正気を失っているのか、ベンツめがけて撃ちまくるばかり。柾紀の頭上のウィンドウが粉々に砕けた。

 この高級セダン車、宇辺野が離れにあるガレージ小屋へ入れなかったのは、雇い主を雨に濡らさないためだったのかもしれないが、幸夜が身を隠したばかりに今や穴だらけ、ウィンドウは砕け落ちて酷い有様だ。そのうちガソリンタンクに引火して、幸夜たちもろとも吹き飛ばされるかもしれない。

「ナニして怒らせたんだ?」

「催涙スプレーだよ。でも片目しか潰せなかった。どうする?」

 柾紀は大きな手で顔を拭って、迷彩柄ジャンパーの懐を探った。

「あんまし使いたくはねぇが……」

 腹に巻いた工具ベルトから取り出したのは、宇辺野の持つ拳銃と似たような黒い小型拳銃。まさか牟田が持っていたものを拝借してきたのかと思いきや、柾紀は「いいや、あいつは持ってなかった。これは俺ンのだ」と首を振る。

「エアガン?」

「エアガン、だ」

 何が違うのか、主張する柾紀は身を低くしたままベンツの後方に移動し、バンパーの陰から反撃し始めた。

 あとから聞いたところ、柾紀が持参した銃はエアソフトガンの中でも電動ハンドガンと呼ばれるものらしく、プラスティック製のBB弾ではあるが出力はなかなかのもので、ものによっては軍や警察の訓練用に使用されることもあるという。

 しかし所詮は遊戯用、しかも土砂降りという悪天候。雨音の中に聞こえる空気の抜けるような発砲音はまるで頼りなく、幸夜の眼には雨滴が当たりBB弾の軌道が落ちるさままでくっきりと見える。

「――くっそっ、当たんねぇ!」

「練習しとけよ」

 玄関前にいる宇辺野と、ベンツの裏側に隠れる幸夜たちの間の距離は約十メートル弱。十分射程圏内だが、実弾を放つ本物には到底及ばない。

「そっちから回り込め!」

 叫んだ幸夜は、柾紀と逆側――ベンツのフロント側から走り出る。

 奇声とともに銃弾が唸り、ヘッドライトが弾け飛んだ。顔半分を手で覆ったまま、宇辺野は「死ねぇぇっ!」と幸夜を狙い――、急にくぐもった叫びを上げた。

「――当たった! 今だ!」

 柾紀が雄叫びを上げて飛び出した。うずくまる宇辺野に駆け寄り、取り出したスタンガンを首元に突き出す。一瞬、ビンと硬直した宇辺野はそのままぐにゃりと崩れ落ちた。

 幸夜は玄関ポーチに落ちた拳銃を拾い、柾紀は宇辺野を後ろ手に拘束して大きく肩を落とす。

「ようやく片付いたぜ。だーいぶ時間がかかっちまった」

「非戦闘タイプの俺たちにしては上出来だろ」

「残るはラスボスだな」

 疲弊しきった様子で取り出した煙草に火を点けようとする柾紀。

「休んでるヒマはねーぞ」

 拳銃を投げつけ、走った痛みに顔をしかめた。

「リリコたちを呼ぶ。ゲートを開けてやろう」



 * * *



「――君はとても素直でいい子だな」

 陽乃子を広いベッドに寝かせた藤緒貴祐は、目を細めて陽乃子の頭を撫でた。

「だが、念のためだ。洗脳が解けるまで辛抱しておくれ」

 と言いながら、サイドテーブルの引き出しを開けて取り出したのは、青い色のバンドのようなもの。

「真梨子の時はいいものがなくて、ずいぶんと手首が傷ついてしまったんだ。でもこれなら大丈夫、介護用の拘束バンドだからね」

 小さく笑って貴祐は、陽乃子の手首にクッション性のある幅広のサポーターのようなものを巻き、その上から長く細めのバンドを通してベッドサイドの柵に固定した。もう片方も同じように。

「暴れなければ痛くないはずだ……真梨子はね、君よりもっと深刻だったんだ。ここへ連れ戻してからもしばらくは大変だった……浄化するのに苦労した」

 陽乃子の両手を極めて優しく緩やかに拘束した貴祐は、満足げに陽乃子の髪を指先ですくい、もてあそぶ。

「写真で見た時は長かったのに、切ってしまったんだね。残念だな、これからは伸ばすといい。……真梨子の髪とそっくりだ……絹糸のように艶やかだね」

 すべてされるがまま、陽乃子は両眼を固く閉じて奥歯を喰いしばっていた。でなければ悲鳴が漏れそうだ。両手を拘束されたことではない。陽乃子の目の前で幸夜が撃たれたことによる恐怖である。

 鼓膜を突き刺す発砲音、痙攣する身体、苦悶の表情、流れ出た鮮血……人間の身体からあんなに血が流れ出ているのを見たのは初めてだ。

 ――初めて……? いや、違う……アスファルトに横たわった……動かない身体……血と土で汚れた……


 冷たくて湿った指が、陽乃子の頬を撫でた。

「こんなに震えて……大丈夫だ。君が気にすることはない。君をかどわかそうとしたあの男が悪いのだ。忘れてしまうといい。あと始末は宇辺野がやってくれる。跡形もなく、綺麗に、何事もなかったようにね。……そうだ、この部屋の鍵は新しいものに変えなければならないな」

 貴祐は独り言ちながら、スーツの上着を脱いでネクタイも外し、丸テーブルと対に置いてある木製の椅子をベッド脇に据えて腰かけた。甲斐甲斐しく掛け布団を整えて、ベッドサイドの柵越しに陽乃子の頬を撫でる。

「ここは静かで居心地がいいだろう? この地下部屋の防音壁は特別念入りにしつらえたんだ。誰にも邪魔をされたくないからね。前に真梨子をここへ連れて帰った時は十分な準備ができず、ずいぶんと不自由な思いをさせてしまった……だから今度こそ、快適な環境で過ごしてもらたいと思ってね」

 そこでふと顔を上げて、貴祐は首を傾げた。

「しかしやはり、かすかな振動は伝わるな……ここまで激しい雨は私も初めてだ。山の天気は激情型というが、まったくその通りだね。照る時も降る時も容赦ない……まぁ、自然の摂理に文句を言っても仕方あるまいがね。……いや、心配には及ばないよ。外観は簡易な木造建築に見えるだろうが、耐火性、耐震性ともに優れた安全設計だ。これくらいの豪雨で雨漏りすることもない」

 貴祐は不可解なほど上機嫌に語り続ける。おののく陽乃子は、ただただ喉奥の痙攣を必死にこらえるしかない。そうしていないと、辛うじて保っている自分の意識が細かく砕け散ってしまいそうな気がした。

「ここは私と真梨子の思い出の場所なんだ。なのに、以前ここにあった山荘は、父が勝手に取り壊し、土地も売却してしまってね……十年以上も前の話だ。けれど君の存在を知って、私はすぐにこの土地を買い戻し、新しく建て直すことに決めた。父には内緒でね。私と真梨子が過ごしたこの場所を、ぜひ君に見てもらいたかったんだ。施工を急がせた甲斐があったな。君をこうしてここに迎えて……もう一度ここから、

 それから貴祐は、まるで寝物語を聞かせるかのごとく、どこか陶然と懐かし気に “真梨子” を語り始めた。


 出会ったのは貴祐が小学六年生の頃。藤緒家本宅の離れにある古い土蔵に、ひっそりと隔絶されて暮らしている少女の存在を、偶然に知ってしまったこと。

 まだ五、六歳の幼い少女は真梨子という名で、どういうわけか学校にも通わせてもらえず、土蔵の中に幽閉されていたこと。けれど貴祐は、真梨子の無垢な可愛らしさ、清らかさに魅入られ、父や母の目を盗み、彼女のために本や文具やお菓子を持って行ってあげたこと。

 しかし、秘密の逢瀬は長く続かず母に見つかり、真梨子がなじられののしられ、それが父に伝わり、土蔵には新しい錠がかかって会いに行けなくなったこと。

 さらにその数日後、真梨子は土蔵から出され、父によってどこか別の場所へ移されてしまったこと。


「そのあと、真梨子が父の愛人の子だと知ったんだよ。母は知っていたらしくてね、もともと精神的に弱く不安定だったのが、ますますおかしくなって……父に裏切られた母は、息子の私だけが心の拠り所だったのだろう。私に対する過保護ぶりはさらに度を超すようになった。今思えば……あの頃、私が長いこと悩まされた酷い喘息の発作は、もしかしたら母に対するアレルギー反応だったのかもしれないな」

 いや、母のことはどうでもいいんだ、と笑んだ貴祐は、それでも私は真梨子を忘れることはなかったんだよ、と誇らしげに言った。


 中学から高校に進んでも、貴祐は土蔵で出会った少女のことが忘れられず、大学に進学して、ついに自らの手で捜し出そうと決意した。その頃、大学に通いながら父の秘書について仕事を手伝っていた貴祐は、密かに父の周辺を探り、真梨子に関する情報を捜し続けた。

 しかし、何事に関しても抜け目のない父は、真梨子に関するすべてを巧みに隠匿しており、貴祐は何の情報も得られないまま歯噛みする日々を送った。

 ところが大学四年生となったある日、父宛の手紙の中に何となく気になる封書を見つけた。封筒の宛名書きは達者な毛筆だが、差出人が記載されていない。それに消印が、藤緒家に縁もゆかりもない他県の田舎町の郵便局であるのも気になった。しかも、帰宅した父がその封書を目にすると、さりげなく貴祐の目から隠すように懐へ入れたのである。

 その時、貴祐はピンときた。

「まさに天から啓示を受けたような心地だった。その手紙は真梨子に関係がある、と直感したんだ。消印の示す田舎町に真梨子がいるような気がしてね。それで私は真梨子を捜しに行った。大学も父の仕事の手伝いも休んで」

 貴祐は白々とした面をほんのりと紅潮させて語る。当時の昂奮が蘇ったように。


 ――捜索は思った以上に難航してね、数か月もかかってしまったが、私はついに真梨子を見つけたんだ……真梨子は山奥のこぢんまりとした山荘に一人で暮らしていた……うちの土蔵から出されたあと、ずっとここで暮らしていたというから驚いたよ……もっとも、世話をしてくれる人はいたようで、私が見た父宛の手紙は、その世話人からだったようなんだがね……

 十年ぶりに再会した真梨子はやはり美しかった……幼い頃の清らかさもそのままに、以前にも増して透き通るような光を放って……まるで天使のようだった……真梨子は私のことを覚えていた……歓迎してくれたんだ……

 ここでの暮らしは気に入っているようだった……自然に囲まれた環境で、花を育て、絵を描き、本を読み……月に一度くらいは町に降りて、美術館や図書館に行くと言っていた……

 それから私は、真梨子と一緒にここで暮らしたんだよ……彼女が作った料理を食べて、花に水をやり、一緒に本を読んで……真梨子と二人きりの、静かで穏やかな暮らし……あれは夢のようなひと時だった……


 言葉通り夢見心地の表情で、藤緒貴祐は “真梨子” を語る。

 滔々と流れる貴祐の話は、しかし陽乃子の頭にほとんど入っていなかった。

 歯を食いしばり拳を固く握っていても、身体中の震えが止まらない。

 脳裏に焼きついた先ほどの光景も、すぐそばで平然と語り続ける藤緒貴祐も、何もかもが恐ろしくて堪らなかった。

 一度、左耳に入れたワイヤレスイヤホンから途切れ途切れのノイズが聞こえて、その隙間に幸夜の声が聞こえたような気がした。咄嗟に左耳を枕に押しつけたが、壊れたような雑音が二、三度聞こえたきり、何も音がしなくなった。

 幸夜はどうなったのか、まさかあのまま、死んでしまったなんてことは――


『――陽乃子。陽乃子? 聞こえるか?』

 ガガッと雑音に交じって、幸夜の声が聞こえた。

 陽乃子は思わず息を止める。幻聴ではない。ノイズ交じりだが、その声はかなりクリアで近い。

『聞こえていても声は上げるな。さっきお前のポケットに防犯ブザーを入れただろ? 俺の声が聞こえているなら、その防犯ブザーを軽く指先で叩け。もし拘束されて手が動かせないなら、咳払いしろ』

 まるで今の陽乃子を見ているかのような指示だ。苦しそうでも痛そうでもない、いつもの少しぶっきらぼうな口調。幸夜は無事なのだ。

 音が漏れていないかと心配になったが、貴祐はまったく気づいていない様子で、これから外に花壇をこしらえるつもりだ、あの頃のようにたくさんの花を育てよう、と語っている。

 陽乃子は震えながら長く細く息を吐き出し、吸って、小さく二回、咳をした。

「……ん? 喉が痛いのかい? 湿度は適度に保たれているはずだが……あとで抗生物質を処方してもらおう。熱もまだ高いようだね……」

 陽乃子の額に手を当てる貴祐。その一方で幸夜の声が、

『わかった。――ああ、ちょっと待て……天宮さん、あんたからも一言――』

 と、ガサガサ音がして、

『――陽乃子? 聞こえるか? 熱があるのか? 大丈夫か? 何かされていないか? 必ずそこから助け出すからな!』

 聞いたことのある声……誰だか思い出す前に、

『――ヒノちゃん! 聞こえる? 待ってて! 絶対に助けるから!』

 リリコの声だ。その後ろで小さく『ヒノコ! ヒノコ!』と呼んでいるのは信孝。

 またノイズが入って『よし嬢ちゃん』と、柾紀の野太い声がした。

『今からこの家の主電源を落とす。真っ暗になると思うが、嬢ちゃんはそのまま動くなよ。いいな』

 陽乃子の目にじわりと涙が滲んだ。恐怖ではない、何か別のものが込み上げてまた震える。その震えを抑えるように目を閉じて、陽乃子はもう一度ケホケホと二回咳をした。


「ああ……つい思い出話が長くなってしまったようだ。今は君の身体の回復を第一に考えるべきだったね」

 心配そうに覗き込んだ貴祐が、ふと何か思いついたように「そうだ」と声を上げた。

「元気になったら君にいいものを見せてあげよう。私が記録した真梨子の最後の一枚なんだが……」

 と言って部屋を見渡し、

「――そうか、鞄は上に置きっぱなしだったな。誰にも盗られないよう、常に持ち歩いているんだよ。それを見せてあげよう。きっと君も喜ぶはずだ。真梨子の――、」


 ――と、そこで柾紀が言った通り照明が消えて、目の前が真っ暗になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る