第3話

「……ねぇ、どうしてボクの部屋なの」

 キータッチの音を軽快に鳴らしながら、不平そうな声が言った。

「仕方ねぇだろ? 事務所したやリビングじゃボスに見つかっちまう」

 豪快に麺をすする音を立てながら、シレッとした声が返る。

「だからって、ボクの部屋じゃなくてもいいじゃない」

「仕方ねぇだろ? 俺の部屋はヤニくせぇって、幸夜が言うんだからよ」

「ボクの部屋にもカップラーメンの匂いがつくよね?」

「仕方ねぇだろ? ママさんが部屋に籠って出てこねぇんだからよ」

 答えながらも遠慮ない勢いでカップ麺をすする柾紀。信孝は露骨に顔をしかめて幸夜に助けを求めるような目を向けるが、こちらも他人様ひとさまのベッドの上に厚かましく横たわっている身である。信孝は諦めたように息を吐いてパソコンへ向き直った。

「だいたい、ママさんが食事を作らねぇなんて前代未聞だぜ? 雪でも降るんじゃねぇか?」

「そう? 前に一回、お気に入りのイケメン俳優が結婚しちゃったって、ショック受けて作らなかったことあったでしょ」

 幾分投げやりな調子で信孝が答えると、柾紀は「ああ、そうだっけか」と鼻をすすった。

「そーいや、腹くだして便所から出られねぇつって、作らなかった時もあったな」

「あと、録画していたドラマを消されたって怒って、作らなかったこともあったよ」

「あれは誰も消してねぇよ。たまたまその時間、どっかの配電線のトラブルで停電になっただけだろ? 運が悪かったんだ。……な? 幸夜」

 振られるが、幸夜は目を閉じたままスルーだ。心底どうでもいい。

 昨夜――というか今日の明け方――佐武朗が出て行ったあと、タマコは「今度という今度はほとほと愛想が尽きたよ!」と泣き喚きながら自室に駆け戻ったきり、昼を過ぎても出てこないという。

 ここでの炊事はタマコと柾紀が担当である。タマコがいなくとも柾紀が勝手に作ればいいようなものだが、食材の管理がどうたらこうたら……と言って結局作らずじまい。本日の朝食は “各自自由” となったようだ。要は、柾紀も料理などする気にならないのだろう。


 ――と、部屋のドアが軽くノックされて、

「あ、いたいた。鴨さーん、ここにみんないるよー」

 亮が顔をのぞかせた。そのあとから鴨志田も入ってくる。

「――お疲れさまです。いやー、雨がだいぶ激しくなってきましたよ」

「下で一緒になったんだ。……陽乃子ちゃんを捜すこと、佐武朗さんに却下されたって本当?」

 亮と鴨志田は、柾紀にならってフローリング床の上へ座った。二人とも、その衣服に拭いきれていない滴を付着させている。雨は今や土砂降りらしい。

 柾紀が食べ終わったカップ麺の容器を脇に押しやりながら、目で信孝の方を指し示した。

「却下されたからって放っておくわけにもいかねぇしよ。とりあえずあれから、幸夜とノブがコインパーキング周辺にある監カメをしらみ潰しに調べた。残念ながら、嬢ちゃんが実際に連れ去られた場面はどのカメラにも映っていねぇ。ただ一つだけ、あのコインパーキングの2ブロック裏に入った小路から不審な二台の車両が出てきたところを映していた監カメがあった。初めに黒のセダン、間をおいて出てきたもう一台が白のセダンだ。車種やナンバーは暗くて画像を見ただけじゃわからねぇが、白の方が津和野の車だとすると、黒い方に嬢ちゃんが乗せられていた可能性は高い」

「では、ナンバーがわかれば車の所有者を特定できますね」

 鴨志田が期待に満ちた声を上げると、柾紀はワークパンツのポケットから煙草の箱を出して、思い直したように床へ置いた。

「今、ノブが画像解析にかけてる。わりぃな、ノブにも仮眠を取らせてたから、さっき始めたばっかだ」

「そっか、みんな昨日は貫徹だったもんね。鴨さんは自宅に帰ったの?」

 亮が覗き込むと、鴨志田は困ったように笑む。

「さすがに奥さんが心配しますからね。亮くんはあれから今までずっと、診療所にいたんですか?」

「当直を代わってもらったことが院長先生にバレて居残り残業。でも僕は徹夜に慣れてるから。リリちゃんとママさんは?」

「リリコは、世話になったママさんのお仲間たちやアパレルショップの店長さんにお礼と事後報告をしてくるってよ。でもたぶんそれは口実で、本当はダニエラ通り付近の聞き込みに行ってるんだと思うぜ。嬢ちゃんのことが心配で居ても立ってもいられねぇんだろ。――で、ママさんは……ストライキ中だ」

 柾紀がカップ麺の空き容器に目を向ければ、二人は「なるほど」と訳知り顔で頷く。

 その時、パソコンに向かっていた信孝が「――どうかな。これが限界かも」と声を上げた。柾紀が立ち上がって画面を覗き込む。

「判別できれば上出来だ。――幸夜ぁ、津和野の事務所の下に停まってたやつ、ナンバーは?」

 柾紀の問いに幸夜は目を閉じたまま、地域名から分類番号、平仮名、一連指定番号、車検の年月まで、すべてを答える。

「サンキュ。これで白は津和野の車で決まりだな。黒の方は……」

「ナンバーはこれ。でも車の中の様子までは無理だね。誰かが後部座席に乗っているのはわかるけど、それがヒノコかどうかは判別できない」

「暗すぎるな。そのうえ窓がスモーク加工されてりゃ仕方ねぇよ。このナンバー、調べられるか?」

「よゆー」

「わりぃな。念のため白の方も頼む」

「りょーかい。管理先は……自動車検査登録事務所、でいいのかな」

 そう言いつつ信孝の手指がさらに高速で動き、画面には次々とウィンドウが開かれ、無数の数字と記号が生き物のように増殖していく。首を伸ばしてその様子を見ていた亮が、ふと鴨志田に顔を寄せ「もしかして……」と小声で問うと、鴨志田は神妙な顔で頷いた。

「車両のナンバーから所有者を割り出すには、運輸支局や自動車検査登録事務所といった機関に、登録事項証明書というのを請求しなければなりません。以前は所有者以外の人間でも割と容易に請求出来たんですが、今はストーカー犯罪防止や個人情報保護といった観点からだいぶ面倒になったんです。陽乃子さんが連れ去られたという物的証拠はありませんし、事情を説明しても信用してもらえるかどうかわかりませんので……」

「緊急事態だ。手段は選んでいられねぇさ」

 信孝の傍でパソコン画面を見ながら柾紀も言う。亮は「へぇ」と感心したように笑った。

「ちょっと意外。みんなが佐武朗さんに逆らってまで、陽乃子ちゃんを捜すことに尽力するなんて」

「ボスの暴君っぷりにはだいぶ慣れたつもりだったけどな、さすがに今回だけは従えねぇよ。ママさんじゃねぇが、同じ釜の飯を食った仲だぜ。危ねぇヤツが絡んでんならなおさら、放っておけねぇだろ」

 柾紀がトライバル文様のたくましい上腕を組み、鴨志田も力強く頷いた。

「前回の調査報告書はきっちり仕上げて所長のデスクに提出しておきましたからね。ママさん同様、次の調査はストライキする覚悟ですよ。それに……妙な胸騒ぎがしてなりません。津和野の言った通りになってしまいました。――『あの小娘に関わるな、権頭もそう命じるはずだ』……しかも、警察に届けることさえしないとなると……所長は我々の知らない、陽乃子さんに関する何かを知っておられるんじゃないでしょうか」

 さすがは鴨志田。佐武朗と最も長く仕事をしてきただけのことはある。幸夜と同じく、何かを察したようだ。

 しかし、洞察力に長けているのは他にもいたようで――

「ボスはともかく……、なぁ、幸夜。亮もだ。お前ら、嬢ちゃんに関することで何か知ってることがあるんだろ。言えよ」

 デスクに寄り掛かったまま、柾紀が不穏な目で見下ろしている。亮はその色味の薄い瞳をパチパチと瞬いた。

「え、幸夜、みんなに言ってなかったの?」

「んー」

 ベッドに横たわったまま、幸夜はメンドクセーヨと同義の唸り声を上げる。亮は「まったくもう……」と呆れた溜息を吐いた。

「別に秘密にしていたわけじゃないよ。たまたま僕の仕事方面から仕入れた情報を、幸夜に伝えておいただけで」

 そう言って亮は、前にカフェバー『久童』で幸夜に話した内容を、大まかに説明し始めた。

 ――壱番街で起きたドラッグ常用者の暴走車事故、その騒然たる混乱の中、現場に居合わせたタクシー二台からそれぞれ、怪しい言動の男一名と制服を着た少女一名が姿を消したらしいこと。

 一方、少女の連れだったと思われる男性――名は牛久間うしくま充雄みつお――は、いなくなった少女を捜しつつも軽傷で病院に搬送されたが、始終挙動不審な様子が見られ、彼もいつの間にかその場からいなくなっていたこと。

 その牛久間充雄は不二生会傘下の正琳堂病院に勤める医者であったが、一年前に飲酒運転で人身事故を起こして医業停止処分を受けた上に病院からも解雇されていたこと。

 そして驚くことに数日前、牛久間充雄は拳銃自殺してしまっていたこと――

 大方話し終わる頃には、鴨志田と柾紀の表情が不可解一色に染まっていた。

「え……では、その姿を消したという制服の少女が陽乃子さんだったと……? その牛久間充雄という男と陽乃子さんは、いったいどういった……?」

 唖然と目を見張る鴨志田。その隣に柾紀も座り直し、難しい顔で顎をさする。

「鴨さん。前にリリコが言ってたんだけどよ……嬢ちゃん、『人を捜している』って言ってたんだよな?」

「はい、そうです。確かに言っていました。誰だかは聞きませんでしたが……」

「なんか釈然としねぇな……嬢ちゃんは、んだぜ……?」

 皆が巨大迷路に迷い込んだような顔になった時、ひときわ強いキータッチ音が鳴って信孝が振り向く。

「所有者、わかったよ。白のセダンは名義人が津和野彰、住所は弐番街の事務所になってる。黒のセダンの方は……名義が法人だね。株式会社不二生薬品――、」

 亮がパッカリと口を開けた。

「うそ……不二生薬品って、今説明した不二生会のバックについてる製薬会社だよ……」

「……はぁ?」

 ――その時、軽快なノック音。鴨志田が慌てて「はい」と答えると勢いよくドアが開く。

「――見つけた! みんなこんな所にいたのね!」

 タオルを手にしたリリコが入ってきた。こちらもだいぶ濡れネズミだ。信孝の顔がますます嫌そうに歪んだ。

「おかえりなさい。どうでした? 何か有益な目撃情報は」

 鴨志田がリリコのためにスペースを詰めながら問うと、リリコは疲れ切った顔で床に座り込んだ。

「なーんにも出てこないわ。もともとあの辺は人通りも少ないし、期待はしてなかったけど。……でもね、さっき車庫に車を入れようとしてたらヘンな男を見たの」

「変な男……?」

「薄いグレーのジャンパーを着て黒のニット帽を被った男。雨の中、傘もささずにサブロ館を見上げてるから怪しいと思って。車から降りて追ったけどまんまと逃げられたわ」

「車庫上の防カメに映ってるか?」

 柾紀が訊くと、リリコは「どうかしら」と首を傾ける。

「車庫前の道路の対面に電柱があるでしょ? あそこから見てたの。あの男が車庫に近づいてないなら映ってないわよね」

「そうだな……」

「――リリコ」

 突然声を上げた幸夜に、その場の皆がギョッと振り向いた。幸夜の身体はベッドの上に起き上がり、脳内には保留していた記憶が引き出されている。

「あいつの私物、全部見せてほしいんだけど」

「あいつって、ヒノちゃんの? いいけど……全部って、服とか下着とかも?」

 胡乱な目を向けるリリコに、幸夜は盛大な舌打ちをかましてベッドから降りた。

「 “鍵” を捜したいんだよ」


 ―― “鍵” とは、以前、スズヒサ時計の創業記念式典会場にて、帰り際に陽乃子が見知らぬ男――薄い鼠色の上着と黒のニット帽を身につけた謎の男――から受け取っていたアレである。

 小さな鍵の形状と緑色のキーホルダーに記された “ラッガレイジ” の文字から、幸夜はどこかのコインロッカーのものではないかと推測していた。

 陽乃子が今もあの鍵を肌身離さず持っているとすれば、もしくはすでにあの鍵を使ってしまっていたらこの家の中にはないだろうが、一応捜してみる価値はある。あの鍵が、文字通りの “カギ” になるような気がしてならない。

 他のメンバーを信孝の部屋に残し、幸夜とリリコはリリコの部屋へ向かった。

 そして結果から言うと、鍵はたやすく見つかった。


「――ヒノちゃんてばまるで物欲がないんだもの。アタシが買ってきた服や下着なんかを除けば、これだけがヒノちゃんの私物よ」

 そう言ってリリコが示したのは、部屋の片隅に置いてある布製のトートバッグである。最初に出会った時、陽乃子が持っていた唯一の荷物だ。

 中に入っていたのはスケッチブックにノート三冊、『似顔絵描きます』とマジックで書かれた画用紙はスケッチブックから切り取ったものだろう。それに、革製のペンケースとチョコレート菓子の小箱。

 まずペンケースを取り出して開けてみたが、十数本の鉛筆が入っているだけで他には何もない。ペンケース自体は、汚れてはいるがかなり上質なものだとわかった。

 次にチョコ菓子の箱を取り出そうとした時、不意に、陽乃子と二度目に会った時のことを思い出した。怪しい追跡者から逃れるため入り込んだ古い雑居ビルの階段の踊り場で、幸夜は空になったチョコ菓子の小箱を陽乃子の持っていたトートバッグに押し込んだ覚えがある。要は、ゴミ箱代わりにしただけだ。

 まさかあの時の空箱か、と訝しみながら小箱を手に取った瞬間、空箱ではない重さを感じる。開けてみると、そこにはいくつかの雑多なものが、秘密の宝箱よろしく詰め込まれていた。

 折りたたまれた一万円札、千円札が数枚ずつと小銭が少々、小さな黒猫のモチーフと鈴がついたストラップ、ピンクゴールドに光る七、八センチの筒状の小物(リリコによるとリップスティックなのだそうだ)、小さく八つ折りにされた白い紙。そして目的の鍵は、小箱の底にひっそりと横たわっていた。

 幸夜が緑色のキーホルダーがついた鍵を取り出すと、横からリリコが手を伸ばし黒猫のストラップを摘まみ上げる。

「これ、アタシがヒノちゃんにあげたの。ヒノちゃんっぽいなーと思って。でもあの子ってばスマホを持ってないし、付けるところがなかったのね……あ、このリップも。ヒノちゃんに合う色だと思ってあげたんだけど、ぜんぜん使ってくれる気配なくて。こんなところにしまってたのね」

 しみじみと感慨深くストラップやリップスティックを手に取るリリコを無視して、幸夜は折りたたまれた数枚の白い紙を広げた。その瞬間、幸夜の表情が怪訝に曇る。

 それはコピー用紙にプリントアウトされた三枚の資料――幸夜も目にしたことのあるリストアップ表だった。スズヒサ時計の、創業記念式典招待客の。

「ガマ口は……あ、そっか、ヒノちゃんが持って行ってたんだっけ。じゃあ、あの写真もガマ口の中かしら」

 開いた紙面を眺める幸夜に構わず、リリコがベッドや鏡台のあたりをキョロキョロと見回している。

「写真……?」

 半ば上の空で問い返すと、リリコは「そう」と頷いた。

「ヒノちゃんがよく眺めてた、パパとママの写真」



 陽乃子の私物探索を終えた幸夜とリリコは、『陽乃子ちゃん捜索本部』――亮が勝手にそう名付けた――となる信孝の部屋へ戻った。しかしその一時間後、信孝の部屋にたむろっていた調査員たちは、渋々と地下の本拠地へ移動することになる。

 気を利かせた鴨志田が全員分のコーヒーを淹れてきた際、リリコの不注意でカップ一杯分を床にひっくり返し、ついに信孝がキレたためである。

 幸い、地下事務所に佐武朗の姿はなく、亮だけは再び診療所に出勤していったが、調査員たちは鬼の居ぬ間の何とやら、とばかりに意気揚々と、陽乃子捜索の糸口を手繰り寄せ続けた。

 しかし、一本、また一本と手繰り寄せた糸から得られた釣果はどうにも理解しがたいものばかりで、次第に一同の顔は焦燥と困惑の色に染まり、夜が更ける頃には完全に捜索の手を止めてしまった。

 佐武朗が事務所に戻ってきたのは、そんな頃合いである。


「……どうあっても、俺の指示には従わないようだな」

 車庫に通じる地下口から入ってきた佐武朗は、室内の様子を見渡して不機嫌丸出しの低い声音で言った。今まで調査員たちが何をしていたのか、一目で察したらしい。

 一方の調査員たちは――相変わらずだらりと横になり、チョコ菓子を摘まむ幸夜を除いて――皆が各々、口元を引き結んだまま難しい顔で考え込んでいたところだ。佐武朗の帰館に驚くより、救いを求めるような表情になったのは仕方ないことである。

 リリコが耐えかねたように、所長デスクに座った佐武朗のもとへ飛んでいった。

「――ねぇ、ヒノちゃんのこと、何か知ってるんでしょ? これってどういうことなの?」

 リリコは手に持っていた黒く長い筒状のものを佐武朗に向かって突きつける。

 鴨志田も柾紀も、リリコに続いて所長デスクに集まった。

「所長。隠していることがあるなら全部話してください。これがはっきりしない限り、我々は次の依頼なんて受けられません」

「嬢ちゃんの名は “?」

 柾紀がデスクに置いたタブレット端末画面には、セーラーカラーの制服を着た長い黒髪の少女の画像がある。先刻、信孝に侵入ハックさせたデータベースから拝借してきた画像だ。

 佐武朗の眉間のしわがさらに深くなった。どうやらこうなることは想定していたらしく、その顔に驚きや狼狽は微塵もないが、佐武朗は佐武朗でだいぶ疲弊しているように見える。煩わしそうに息を吐き、胸の内ポケットから煙草の箱を取り出した――その時。

「ふぉっふぉっ」

 気の抜けるような笑い声と、階段を降りてくる小さな足音。

「なんじゃ、ずいぶんと空気が重苦しいの。さては行き詰ったか。サブロ探偵事務所の辞書に “不可能” の文字はないと思うておったが」

 地上階に通じる階段からゆっくりと降りてきたのは、白顎髭の小柄な老人。淡茶色の長着に薄鼠色の紗の羽織、その背にくくった長い白髪を垂らしている。

「ゲッ、爺さん……!」

「ご隠居……」

 皆が唖然と目を見張る中、その老翁――権頭弥曽介やそすけは黒鼻緒の雪駄を軽く鳴らして地下の事務所に降り立った。

「相変わらず、ここはゴミ溜めのようじゃな。法度はっとに “整理整頓” のくだりを入れておかんかったのがまずかったんかの。これ幸夜。またそんな甘ったるい菓子ばかり食いおって。糖尿になっても知らんぞぃ。――おお少年。狼狽うろたえんでもよい。この弥曽介はお主の敵でないぞ」

 顔を隠そうと慌てふためく信孝に声をかけつつ、弥曽介は手にある長杖で長椅子にだらしなく伸びる幸夜の足を小突く。

 佐武朗は露骨に嫌な顔をした。弥曽介の来訪は想定外だったらしい。

「何しに来たんですか」

 これ以上の厄介事は御免だと言わんばかりの口調に、老翁は肩を揺すって笑った。

「なぁに、ちょいと暇つぶしがてらにな。なんせスーちゃんが、何某とかいうエテ公の後始末に忙しくて遊んでくれなんだ。そんな折、タマコがうちに来おってな。――タマコ。降りてこんかい」

 階段の上方に向かって弥曽介がよく通る声を張り上げる。すると、上からふわふわしたスリッパが現れ、タマコがおずおずとした足取りで降りてきた。

 身なりも化粧もいつも通りのケバケバしさで整えているが、その目元は腫れてますます妖怪じみている。佐武朗への直訴が叶わなかったタマコは、こうなったら奥の手をと考え、ご隠居の助けを乞いに出かけて行ったのであろう。しかしタマコにしては上出来だ。佐武朗の意思をくつがえすことのできる人物は権頭弥曽介をおいて他にない。

 じっとり恨みがましい目をした妖怪タマコは、佐武朗と目が合った途端にフンッ!と顔を背けた。佐武朗はいよいよもってウンザリ顔だ。


「話は聞いたぞぃ。例の娘っ子の行方を捜しておるのじゃろう? わしも協力を惜しまん。是が非でも捜し出してやるべきじゃ」

「俺は反対です」

「では、反対する理由を皆に説明せぃ。それが道理というものじゃ。それに、その口に反してお前が単身動いていることは知っておるぞ。今までどこで何をしておった」

 佐武朗がグッと詰まり歯の隙間から「クソじじい」と絞り出した。対する弥曽介は「今さらじゃて」と心底楽しげだ。

 幸夜の口端がニヤリと上がる。弥曽介と絡むのは勘弁だが、弥曽介にやり込められる佐武朗を見るのは小気味がいい。

 佐武朗はギリと歯噛みしたまま一同を見渡し、飛びかかる寸前の野獣のような形相で言った。

「どこまで調べたんだ。調査経過を報告しろ。俺の話はそのあとだ」


 代表して鴨志田が説明した、これまでに調査してわかったことは、おおよそ以下の通りである。

 例のコインパーキング付近から走り去った二台の車両のうち、陽乃子を乗せていると思われる黒のセダンは、そのナンバーから不二生薬品名義の車両であると判明。幸夜と信孝がその足取りを追うべく、できるだけ多くの監視カメラを解析したところ、伍番街から壱番街に抜けた同ナンバーの黒セダンが、そのあと街道を北上したところまでは突き止めた。しかし、その先から他県に入れば監視カメラの数が極端に減る。それ以上はオービス(速度違反自動取締装置)にでも引っ掛からない限りわからず、この線の調査はひとまず中断せざるを得なかった。

 一方リリコと柾紀は幸夜の指示で、陽乃子の私物の中から見つけた小さな鍵の正体について調べた。

 鍵には “ラッガレイジ” と記された緑色のプラスティックキーホルダーがついており、どこかのコインロッカーの鍵だと思われる。試しに柾紀が “ラッガレイジ” を検索してみると、駅の南口――伍番街側にある不動産の隣に店舗を構えた、長期間専用ロッカーハウスであることを突き止めた。

 そのロッカーハウスとは、コインランドリーのような屋内に大小さまざまな大きさのロッカーが備えられており、最短一週間から最長一か月まで保管が可能な荷物預り所なのだという。

 果たして、リリコと柾紀が出向いて “ラッガレイジ” のロッカーから回収してきた物は、大きな紙袋一つに学生鞄が一つ。ちなみにロッカーの使用開始日はひと月ほど前となっており、あと数日で保管期間が切れるというところだったらしい。

 鴨志田は所長デスクの上に、柾紀たちが回収してきた手提げ付きの紙袋と学生鞄、中に入っていたものをすべて丁寧な手つきで並べていった。タグが付いたままの未使用らしき女性用衣類が数着と濃紺色のセーラー型の制服が一式。リリコがその横に黒い革製の長い筒を置いた。

「その学生鞄の中に入ってたのが、これよ」

 仏頂面の佐武朗が手を伸ばし革筒の蓋を引き抜く。そして中から引き出したのは、丸められた上質の厚紙である。

昌華しょうか学園女子高等科の卒業証書。記された名は―― “”」

 佐武朗は眉根ひとつ動かさず、無表情に広げた証書を眺めた。

「信孝くんに調べてもらいました。昌華学園……幼稚園から大学までの一貫教育が徹底された歴史ある私立学園で、皇室関係者や著名人も多く卒業しています。その中の女子高等科のデータベースにアクセスしたところ、中原陽乃子という女子生徒は確かに、前年度の卒業生の中に存在しておりました」

 鴨志田は、デスク上のタブレット端末画面をもう一度指し示した。

「これ……陽乃子さんですよね」

 制服を着た少女の胸像は長い黒髪を胸下まで伸ばしているが、その顔は誰がどう見ても陽乃子である。

 デスク脇から画面を覗き込んだタマコがショックで愕然と顎を落とした。

「ヒノちゃんが、あたしらにウソを吐いてたっていうのかい……?」

「ほぅ、名を偽ったとな……お前たちの浮かない顔は、それが故か」

 用意してもらった椅子に腰かけた弥曽介がフームと低い唸り声をあげ、一同は沈んだ面持ちで口を噤む。

 佐武朗は卒業証書を元通りに丸めて革筒に入れ込み、蓋をしてから無造作に置いた。

「他には」

 むっつりと低くせついた佐武朗に、鴨志田が慌てて革の手帳をめくる。


  “天宮陽乃子” なのか “中原陽乃子” なのかはひとまず保留しておき、鴨志田は昌華学園女子高等科のデータベースから拝借した画像を持って、とあるタクシー会社に向かった。

 二か月前の、壱番街で起きたドラッグ常用者の暴走車事故の際、当時現場に居合わせたという少女は、果たして陽乃子だったのかどうかを確かめておきたかったからである。

 ベテラン調査員である鴨志田の聞き込み調査は、本職の警察関係者を唸らせるほどの手腕を持つ。彼はほどなくして例の運転手を突き止め、制服を着た少女の胸像写真を見せて確認したところ、この少女で間違いないという証言が取れた。つまり、暴走車事故の騒動に紛れて忽然と消えた少女は、陽乃子であることが証明されたのである。


「亮くんによると、陽乃子さんが肋骨を骨折していた理由は、この事故による衝撃に加え、さらにリリコさんとの衝突が重なってしまったからではないか、とのことです。調べたところ、壱番街の暴走車事故は昌華学園女子高等科の卒業式の日と同じ日でした。どうして他県の女子高で卒業式を終えた陽乃子さんがこの街にいたのか、また一緒にタクシーに乗っていた牛久間充雄という医者とどういった関係なのか……その辺りはまだわかっておりません」

 鴨志田がやるせなさそうに首を振ると、柾紀がトライバル模様の太い腕を組んで続ける。

「でも、何らかの繋がりがあるってのは確かなんだと思うぜ。牛久間充雄は不二生会傘下の正琳堂病院に勤めていた。不二生会は不二生薬品の医療法人だ。そして、不二生薬品の重役車に乗った何者かに嬢ちゃんは連れて行かれた……これが偶然のわけねぇ」

「不二生薬品の社長藤緒ふじお徳馬とくま氏は現在72歳、副社長の藤緒貴祐たかひろ氏が46歳。貴祐氏については結婚歴がなく独身です。例えばですが……、もし仮に陽乃子さんが藤緒貴祐氏の実子であるとすれば、婚外子となります」

 ギョッと目を見開いたのはタマコとリリコだ。しかし佐武朗はフンと冷笑するのみである。

「ずいぶんと強引な推論だな」

「考えられる可能性を挙げているだけです」

 言い切った鴨志田は、自分のデスクの上に置いてあった三枚の紙を、佐武朗に差し出した。

「陽乃子さんの私物の中から出てきました。折りたたんでしまってあったそうです。所長もご存じの通り、これはうちで作成した資料です。信孝くんによると、何日か前にこの事務所を掃除した際、陽乃子さんに手伝ってもらって要らない資料はすべてシュレッダーにかけて破棄したとのこと。このスズヒサの記念式典の招待客リストも用済み資料の中に入っていました。おそらく、その時に陽乃子さんがこっそり抜き取ったのでしょう。――ここに、不二生薬品の社長と副社長の名があります」

 鴨志田は、一番上の紙面の中ほどを指さして佐武朗を見据えた。

「陽乃子さんは以前『人を捜している』と言っていました。陽乃子さんが捜していたのは藤緒徳間氏か貴祐氏、もしくは両方だった……そう考えるのも、強引でしょうか」

「俺もそれに賛成だ。スズヒサの式典の時、嬢ちゃんが妙にウロチョロしていた理由にも説明がつく。あの式典会場で、嬢ちゃんが捜していた人物を見かけたとしたら」

 柾紀の言葉を遮るように、横からリリコが「アタシは違うと思うわ」と声を上げた。

「さっき、この藤緒社長と副社長の顔を画像で見たけど、どっちもヒノちゃんのパパじゃないわ。アタシ、写真を見たからわかるもの」

「お前はいったん、マルコとシンデレラから離れろ」

 柾紀が呆れたようになだめるが、リリコはキッと目を剥いてハスキーな声を張り上げる。

「だって、未成年の子が家を出て日銭稼ぎながら捜していた人なのよ? どういう事情があったかはわからないけどよっぽどのことでしょう? そうまでして逢いたい人なら、式典で見かけた時に駆け寄って飛びついたっていいし、アタシやママに一言教えてくれてもいいじゃない。でもヒノちゃんはナニも言わなかった。アタシにはどうしても、ヒノちゃんがこの二人に逢いたがっていたとは思えないわ」

 しかし鴨志田は眉を下げ、気の毒そうな目をリリコに向けた。

「式典会場で見かけただけでは確信が持てなかったのかもしれません。陽乃子さんはカメラ・アイなんです。名前は知らぬまま、顔だけ記憶している人物を捜していたとも考えられます。陽乃子さんがこの資料を手にしたのは式典が終わったあと……この資料で、捜し人の名前を調べようとしたのかもしれません。一方で、陽乃子さんを連れ去った車両が不二生薬品の重役車と判明しています。もし、 “陽乃子さんを連れて行った人物” = “陽乃子さんの捜し人” であったなら……非常に言いにくいことですが、陽乃子さんは無理矢理連れ去られたわけではなく、自ら望んで同行したという可能性も――、」

「――バカなことを言うんじゃないよ!」

 すかさずタマコが抗議の叫びをあげた。

「あたしにゃわかる! あの子はムリヤリ連れてかれたんだ! あの子はああ見えて義理堅い子なんだよ! 捜していた人が迎えに来たんなら、あたしらに一言断ってから行くはずなんだ! それがなかったってことは、突然ムリヤリ連れて行かれちまったに違いないんだっ!」

 キィキィ声でまくし立てるタマコに、柾紀と鴨志田は同情心を露わにした。

「ママさんの気持ちはわかるがな」

「そう考えると辻褄が合うことも確かなんです」

「ツジツマなんて知るもんかいっ! あの子に危険が迫ってるのは間違いないんだっ!」

「まぁまぁ、双方落ち着けぃ」

 のんびりと弥曽介が制した。顎の白いヤギ髭を撫でつつ老公は「お前たちが調べ上げたことはそこまでかな?」と訊く。鴨志田は無念そうに頷いた。

「藤緒社長の本宅は北町の高級住宅街、副社長の自宅マンションは湾岸エリアの新町にあります。どちらも黒のセダンが向かった先とは方向が異なりますが、念のため、幸夜くんと信孝くんに双方の自宅とその付近の監視カメラを解析してもらいました。ですが、陽乃子さんが連れ込まれた形跡はどちらもまったくありません。それどころか、藤緒社長も副社長も三日前に自宅を出たきり帰宅しておらず、そのあとの所在がまったく掴めません。とりあえず明朝、壱番街にある不二生薬品本社まで出向いてみようかと考えていたところで……つまるところ、謎が深まるばかりで陽乃子さんの行方はまるでわかっていない、といった情けない現状です」

「そうか。ならば次はお主の番じゃな、佐武朗」

 どこかからかうような口調でうながされて、佐武朗の眉間にこれ以上ないくらいの溝が刻まれる。

「あくまでも俺は反対です」

 先ほどのセリフをもう一度繰り返し、佐武朗は不機嫌な目で所長デスクに集まる調査員たちを見渡した。

「俺が知っている、お前たちの知らない事実は、大きく分けて三つある」






【用語解説】

★オービス

 速度違反自動取締装置。道路を走行する車両の速度違反を自動的に記録・取り締まるスピード測定器。

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