第2話

 弐番街は、ビジネス街として中核をなす壱番街に付随して発展した、この街有数の繁華街である。

 中軸となるガイヤ通りには大型百貨店や海外のハイブラント店、国内有名ブランドの旗艦店などが多く立ち並び、流通の最先端を誇る反面、格子状に区画分けされた裏通りに入れば、一世紀以上続く老舗の専門店や高級飲食店などが軒を連ね、その伝統と格式を暖簾に掲げている。

 また夜になるとその様相は一転、高級クラブや上層階級御用達のラウンジ、バーに煌びやかな光が灯り、最上質を求める人々が集って千金万金をはたく。

 夜の歓楽街で知られる伍番街と比べてその規模は劣るものの、時と場所によって見せる表情は多様多彩で、特に上層階級、ホワイトカラーと称される人々に多く重宝される魅惑的な界隈なのである。

 そんな弐番街の端に位置するクロノス通り、その一角に中栖田ビルはあった。五階建ての小規模な建物で、小さくはあるがモダンな外観の新しいビルである。

 到着した時、雨は本降りとなっていた。GPSの反応がしっかりとこの場所を指し示していることを再度確認し、亮と信孝、タマコは車内で待機、残り四名がビルに向かう。

 ビルのエントランス前に、白いセダン型の乗用車がこれ見よがしに停められていた。柾紀が車のボンネットに軽く手を当てて、太い眉をしかめる。エンジンを切ってからそれほど時間が経っていないという。

 最上階へはビル内のエレベーターで上がった。一階から四階までは他の会社や事務所で埋まっているらしい。五階について、エレベーターホールのすぐ右手に落ち着いたダークトーンの木目ドアがあり、掲げたプレートに金文字で『津和野探偵事務所』の名が刻まれている。先頭を切った鴨志田がノックをしようと拳を掲げた瞬間、ドアが中から開いた。

 ドアを開けたのは、丸い輪郭に細い目を持つ男。名は清珠――シンと呼ばれていた男である。今夜は幸夜と似たような全身黒づくしの恰好をしており、相変わらず何を考えているかわからない表情だ。けれど、黒のフード付きジャンパーを注視する幸夜に気づき、清珠の口元がほんのわずか笑んだ気がした。


「――ようこそ、我が『津和野探偵事務所』へ。『サブロ探偵事務所』の諸君」

 芝居がかった声の主――津和野が、部屋の奥に構える大きなデスクから立ち上がって出迎えた。光沢のある濃グレーの三つ揃えを隙なく着込み、髪もしっかり後ろに撫でつけてある。

「うそぉ、もう来ちゃったんだ。へぇー、やるね」

「あ、あんたっ……!」

 あっけらかんとした声にタマコとリリコが目を剥いた。中央に設えた応接セットのソファに悠々と腰かけた大滝可南子である。着ている派手な色合いの服は破れも乱れもなく、組んだ両脚の先には光る石を散りばめたパンプスが健在。つまり――、

「よくもダマしてくれたわね」

 リリコが歯軋りとともに唸った。可南子は指先の細い煙草から上がる紫煙越しに、挑発的な目で見返す。

「ダマされる方が悪いんだよ」

「ダマし慣れたヤツが言うセリフよね」

 リリコが睨みつければ、可南子はフンと鼻で嘲笑わらった。

「それで稼いできたからね。つーか、アンタだって全身詐欺みたいなもんじゃん」

「な……っ」

「控えろカンナ。地団駄くらい、思う存分踏ませてやれ」

 癇に障る憐れんだ口調で津和野が制し、これまた鼻につく大仰な素振りで両手を広げた。

「まぁまぁ諸君、かけたまえ。事務所を構えてまだ日が浅いものでね、大したおもてなしもできないが。――カンナ、そこをどけ」

 革張りの大きなソファに座っていた大滝可南子が気怠そうに立ち上がり、煙草を吸いつけながら大きなデスクの端に行儀悪く腰かけた。どうやらこの女、完全に津和野の仲間として取り込まれたようである。 “カンナ” と呼ばれていることから――それが本名かどうかは知らないが―― “大滝可南子” というのは偽名なのだろう。

 幸夜はそれとなく室内を見渡した。さして広くない部屋だが、揃えられた調度品は見栄っ張りの津和野らしく高価そうなものばかりだ。

 そして何となく予感していた通り、部屋の中に陽乃子の姿はなく、隠されている気配もない。部屋の左手奥にはもう一つドアがあるが、そこにも陽乃子はいないだろうと、幸夜の直感が告げていた。

 勧められた豪奢な応接セットにもちろん誰も座る気などなく、鴨志田が慎重に一歩前へ出た。

「単刀直入にお尋ねしたいことがあります。こちらに、天宮陽乃子さんというお嬢さんが来ているはずなのですが」

「天宮、陽乃子……はて」

 気取った足取りでデスクの前へ出てきながら、津和野の口端がぴくぴくと痙攣した。笑いをこらえるかのように。

「ここにそのようなお嬢さんはいないが?」

「とぼけんのも大概にしろよ? タイヤ一本おじゃんにするわ、姑息な茶番でダマくらかすわ、ずいぶんとナメた真似してくれたじゃねぇか」

 柾紀が凄むと同時に、デスク脇に控えていた清珠が静かに津和野のそばへ移動した。その細められた両眼は一直線、柾紀を捉えている。

 津和野は悪びれもせず大げさな身振りで肩をすくめた。

「諸君を不快にさせたことは謝ろう。だがこちらも仕事でね。事を荒立てずスマートに進めるのがプロフェッショナルというものだ」

「スマートに脅して連れてったのか」

「柾紀くん」

 鴨志田が柾紀を制して続けた。

「陽乃子さんには、GPS機能を搭載した防犯ブザーを持たせてありました。その反応を追って我々はここにたどり着いたのです。どんな理由があろうとも、我々の保護下にある未成年の少女を許可なく連れ去ったことはすなわち、誘拐もしくは略取と同じこと。公になればこの探偵事務所の名に傷がつきますぞ。戯れはよして、即刻彼女の身柄をお返し願いたい」

 きっぱりと強い口調で言い切った鴨志田だが、津和野は大きさの異なる両の眼を意地悪く細めて口端を上げた。

「戯れはどちらかな。いきなり人の事務所に押し入り、いもしない人間を出せと言いがかりをつけるなど……貴様らこそ、名誉棄損で訴えられる側だと思わないのか?」

「……警察を呼んでもいいんですよ」

「好きにすればいい。しょっ引かれるのは貴様らの方だ」

 対峙する鴨志田の目にわずかな困惑が浮かんだ。津和野の、どこまでも自信に満ちた尊大さが不可解なのだろう。

「あちらの部屋を確認させていただいても?」

 鴨志田が左手奥のドアを指し示すと、津和野はおどけた仕草で許可を出した。

 シンが無言のままドアの前まで行き、大きく開く。鴨志田が代表して赴き、部屋の中に入ったがほんの数十秒で出てきて、皆へ向かって大きく首を横に振った。デスクの端でククッと漏れる女の嘲笑。

 やはりな、と合点がいった幸夜は、両手をポケットに入れたままゆっくりと歩を進めて津和野の前に立った。清珠の底知れぬ視線が幸夜に刺さる。

「――防犯ブザー、持ってんなら返せ」

 背後で「あ」と誰かの小さな声。津和野は何かを推し量るように幸夜を見つめていたが、ついにニヤリと笑んで「シン」と呼びかける。清珠が音もなく動いてデスクに回り、下の引き出しから何かを取り出した。丸められた布生地……サイケデリックな柄のそれは女物のシャツらしい。清珠の手の上で開かれた布生地の中から白くて丸い小型機器が現れた。どうりでうまく音声が入って来なかったわけだ。

 受け取った幸夜は特に興味なくそれを眺めたのち、ジャンパーのポケットに突っ込んだ。

「……アイツから無理やり取り上げたのか」

「人聞きの悪いことを言うなよ、幸夜。お前たちに返してやろうと、んだ」

「こっの……外道野郎が……っ」

 ざわめく背後の一同を制するように、幸夜は「それで?」と続ける。

 即座に「うっそー」と上がる素っ頓狂な声。

「アンタたち、なぁんにも知らないの? あの子が――」

「黙ってろカンナ」

 煩わしそうに手を振った津和野は幸夜の肩に手を置いた。馴れ馴れしく優越を滲ませて。

「幸夜……お前も探偵の仕事をしているならわかるだろう? 依頼人の情報や依頼内容を他者へ漏らすわけにはいかない。守秘義務というやつだ」

「あんたの口から探偵の心得が聞けるとはな。おかげでマトが絞れたぜ。少なくとも、財力だけはトップクラスだってことだ」

 幸夜は邪険に津和野の手を振り払い背を向けた。

「――帰るぞ。ここにアイツはいない」

「幸夜」

 ドアに向かう幸夜の足を津和野が止めた。

「同業のよしみで一つだけ忠告しておいてやる。あの小娘のことは忘れろ」

 首だけ振り返ると、津和野は顔を歪めて笑んだ。

「俺は昔から、ある特殊な “臭い” に敏感でね。人間の内に渦巻く悪性の臭い、ってやつさ。妬みや怨み、邪念に妄執、鬱屈した狂気……つまるところ、は大体わかるんだよ。もな」

 何も言わず再びドアに向かって歩を進める幸夜に、津和野は言う。

「悪いことは言わない。この件から手を引け。あの小娘に関わるな」

 未だ腑に落ちないままの一同も幸夜に倣って部屋を出る。ドアが閉まる瞬間、まるで独りちるような津和野の声が届いた。

「――権頭もそう命じるだろうよ」



 虚しく手ぶらのまま退却した四人は、路駐してあるミニバンに戻った。

 駐車したままの車中、残っていた亮と信孝、タマコに鴨志田が事の経緯を説明する傍ら、不可解と屈辱がない交ぜになった叫びが飛び交う。

「――どういうこと? わけがわかんない! ヒノちゃんはどこに行っちゃったのっ?」

「くっそ! タイヤの弁償代、請求し損ねたぜ」

 津和野が見たらほくそ笑みそうな地団駄を盛大に踏むリリコと柾紀。手に持ったハンカチを食いちぎらんばかりのタマコが切羽詰まった形相で鴨志田に噛みついた。

「ホントにヒノちゃんはいなかったのかいっ? 奥にも部屋はあったんだろう? あの子は小っちゃいんだよ! どっかに押し込まれてたのを見逃したんじゃないのかいっ?」

「み、見逃すも何も、奥の部屋には家具一つ、段ボール箱一つさえもなかったんですよ。ガランとした空き部屋だったんです。トイレと洗面所はありましたが、そこにもいませんでした」

「そんなぁ……」

 ヨヨヨと泣き崩れるタマコの背を、鴨志田が申し訳なさそうになだめる。その後ろの席で亮が難しい顔をして呟いた。

「防犯ブザーだけが移動していたってことだよね……となると、陽乃子ちゃんは誰か別の人物によって、どこか別の場所に連れて行かれたってことか……いったい誰が……」

「アタシたち、ヒノちゃんがいないってわかってすぐにあの辺を捜したけど、怪しい人や車は見かけなかったわよ」

 すかさずリリコが反論し、鴨志田が「おそらく」と神妙な顔で言う。

「我々が気づいた時にはもう、あの場を去ったあとだったと考えられます。そして陽乃子さんは、防犯ブザーを鳴らす余裕もなかった……陽乃子さんが防犯ブザーを自ら津和野に手渡すはずがありませんからね。鳴らそうとしたところ、取り上げられたんだと思いますよ」

「そんでヤツは、GPSが内蔵されている可能性を逆に利用して、まんまと俺たちを陽動したんだな」

「津和野らしいやり口ですよ。我々に一泡吹かせたくて仕方がなかったのでしょう」

 苦々しい鴨志田の言葉に、車内の空気が痛恨に満ちた。鴨志田は力なく山高帽子を脱いで肩を落とす。

「もっと慎重を期すべきでした。昨日の夜、タマコさんとリリコさんは酔っぱらった大滝可南子とひと悶着ありましたよね? 僕たちは盗聴器の音声で聞いただけなんですが」

 そこで助手席の信孝が、ひょいと顔を出す。

「あの女、『この子、あの写真の子に――』って言ってた。あれって、ヒノコのことを見て言ったんだよね」

「……そうだったと、思う」

 グス、と鼻を啜ったタマコが肯定すると、鴨志田も大きく頷いて考え込んだ。

「津和野がどこぞの誰かから陽乃子さんの所在調査を依頼されていたとすると……タイミング良く、自分の部下がそれらしき少女を伍番街で見かけたということに……いや、待って下さい……先日のスズヒサの式典で、津和野は陽乃子さんに会っていますよね……その時点では、まだ依頼されていなかったということでしょうか……どちらにしても、以前から我々の周辺は探られていたに違いありません。そして昨日の悶着によって確信を持ち、早々に網を仕掛けられた、といったところでしょうか」

「つーことは、少なくとも今夜の俺たちの行動は、アイツらに監視されてたんだな。タイヤに穴あけたのも、ママさんとリリコに一芝居打ったのも、俺たちがどう動くかお見通しだったわけだ」

 煙草に火を点けた柾紀が吐き捨てるように言った。普段は鷹揚な気質の柾紀もさすがに腹の虫が収まらないようだ。

「陽乃子さんから皆の注意を逸らし、彼女が一人になる瞬間を狙っていたんです。陽乃子さんの一番近くにいた信孝くんが画像解析に集中していて異変に気づかなかったのも、彼らにとっては運が良かった……、――あ、いえいえ、信孝くんを責めているわけじゃありません。気づけなかったのは僕たちも同じです」

 鴨志田は慌ててフォローするが、信孝はひどくショックを受けた顔をして助手席の中に身を縮めた。亮が小さく唸って「それにしても」と続ける。

「敵ながらあっぱれな悪運の強さだよね。だって、幸夜がコンビニに行かなかったかもしれないし、ママさんとリリちゃんが大滝可南子のSOSに応じなかったかもしれないでしょう? そう考えるとさ」

「たしかに行き当りばったりな感は否めませんがね。もしかしたら、他にも二案、三案があったのかもしれません。要はほんの数分だけ、陽乃子さんが一人無防備な状態になればいいわけです。結果、そうなってしまったわけですし」

 重苦しい沈黙が訪れて、突然タマコがバシッと自分の太腿を叩いた。

「どこの誰だか知らないが、おかしいじゃないか! どうしてあたしらの目を掠めてヒノちゃんをさらっていくような真似をするんだい? ヒノちゃんに用があるなら、津和野なんかに頼まないで、サブちゃんを通して正面から会いにくりゃいいんだ!」

 妖怪じみた化粧顔が汗なのか涙なのか崩れ落ちて、今や正視に耐えられない形相だ。

 鴨志田が「もちろん、そうしなかった理由があるんですよ」と、表情を硬くする。

「嬢ちゃん……誰かに追われてたって、言ってたよな」

 柾紀が太い上腕をヘッドレストに回して振り返った。

 亮がちらりと幸夜に目を向け、柾紀は紫煙越しに眼をすがめる。

 タマコがまたグズグズと泣き出した。

「叫ぶこともできずブザーも鳴らせず……きっと脅されて、無理やり力づくで連れてかれたに違いないよ……可哀そうに……」

 ふと、リリコが「ねぇ」と眉根を寄せた。

「ヒノちゃんに関わるな、ってどういうこと? あの子がまるで犯罪者みたいな言い方してなかった?」

「あの子はそんな子じゃないよっ!」

 タマコがキィッと喚いてリリコが「わかってるわよ!」と返す。鴨志田がオロオロと二人を制した。

「二人とも落ち着いてください……あれは陽乃子さんのことを言ったんじゃありません」

「……帰ろーぜ」

 外灯の光を浴びて蠢く窓の雨滴を眺めていた幸夜は、気怠く声を上げた。こんなところに路駐したまま、車の中で話していても時間の無駄だ。

「帰って、あの辺の監カメを調べてみるしかねーだろ」

 ――期待はできねーけど。と、心中つけ加えて、幸夜は目を閉じる。


 たった一人、似顔絵を描き売りながらネットカフェに寝泊まりしていた陽乃子。

 初めて会った時も、二度目に会った時も、誰かに追われていたようだった。

 そんな彼女の所在調査を、津和野に依頼した人物がいる。それが陽乃子を追っていた人物と同一なのかどうかはまだわからないが、不本意ながら、津和野の言葉の最後の部分だけは信じられる気がした。

 ――その人物は相当、なのだ。

 七名を乗せたミニバンは、ようやく走りだした。

「もうこんな時間」

 腕時計に目を落とした亮が小さく呟く。静かに降り続ける雨のせいで辺りはまだ暗いが、そろそろ夜が明ける頃だ。

 闇に倦んだ夜が気まぐれに少女を一人かどわかし、光の届かない世界に閉じ込めてしまう――幸夜の頭の中で、そんな馬鹿げたイメージが浮かんでいた。



 診療所に戻らねばならないという亮を駅前の二輪駐輪場で降ろし、一同は沈鬱な空気を纏ったままサブロ館に帰ってきた。別宅に住む鴨志田も一緒に来たのは、最年長者として佐武朗に一切を報告せねばと考えたようだ。

 夜が明けたばかりのこの時刻、佐武朗を叩き起こすのも一興だな、と思っていた幸夜は、地下の車庫から事務所に入り、その興が叶わぬことを知る。

 所長デスクにはすでに佐武朗がいた。ワイシャツにスラックスという軽装だが、起きたばかりの雰囲気は微塵もない。蔓延する煙草の匂いとデスク上の灰皿に積もった吸殻の山。彼も徹夜だったのだ。

 ドア付近で皆が驚きたたらを踏む中、ぎろりと目を上げた佐武朗はいつも以上に不機嫌な顔で低声バスを張り上げる。

「依頼されていた浮気調査と素行調査の期限は今日までだ。調査報告書は仕上げたのか」

「所長! それどころではないんです、実は陽乃子さんが――」

 いち早く鴨志田がデスクに駆け寄り、陽乃子が姿を消した経緯を要領よく説明した。リリコの件が落着して帰宅途中、津和野にまんまと策を弄されたことから、津和野の事務所でのやり取りまで、すべてである。

 眉間のしわも深く険しい顔で聞いていた佐武朗はしばし黙したあと、彼には珍しく疲れを滲ませた声で低く唸った。

「――話はわかった。それより、依頼された調査の報告書を上げろ」

「いや……わかった、って……」

 皆に狼狽と動揺が走る。

「ちょっとボス! ヒノちゃんが連れて行かれちゃったのよ? 今すぐ捜さないと――、」

「依頼されていない調査にかまけている時間はないと、これまで何度も言ってきたはずだ。身内の尻拭いのため皆の労力を無駄に浪費させた挙句、さらにこれ以上の業務妨害をするつもりか。本気で解雇されたいようだな」

「そ、それは……悪いと思ってるわ……でも」

 たじろぐリリコをかばうようにして鴨志田が進み出る。

「所長、お言葉を返すようで恐縮ですが、我々の仲間が連れ去られたのですぞ? SOSを発する間もなく連れ去られたことを考えると、略取の可能性が非常に高いんです。これを放っておけと仰られるのですか? せめて警察に――」

 言いかけた言葉を遮るように「仲間」と低く呟いた佐武朗は、デスクに集まった一同を冷淡な視線で見渡した。

「わずかひと月の間にずいぶんと情が移ったものだな。だがあの娘は正規の調査員として雇ったわけではない。あくまでも臨時に雇った雑用係だ。いなくなったからといって、うちの調査活動に何ら支障をきたすものでもないだろう」

「調査に役立たねぇ人間はどこでどうなろうが知ったこっちゃねぇ……そういうことですかい」

 凄んだ声音を発したのは柾紀。その隣にいる信孝でさえ、苛烈な目で佐武朗を睨んでいる。

 しかし佐武朗はそれらの非難をものともせず、逆に射殺すような眼力で跳ね返した。

「事実を言ったまでだ。それに、これが誘拐や略取だという具体的な証拠は一つもないんだろう? 所在調査を依頼されただけだと津和野が主張するなら、警察に届けたところで動いてくれるとは思えんな。むしろ津和野の言う通り、名誉棄損で訴えられてもおかしくない」

「そんな――」

「――あの子は役に立ってたよ!」

 タマコが耐え切れずに叫んだ。泣き崩れた顔はおぞましいが、握った拳を震わせ、その目はいたって真剣である。

「サブちゃんの役に立たなくたって、あの子はみんなの役に立ってた! みんなが食べ終わった皿を洗って、みんなが散らかしたゴミを拾って、みんなのパンツだって文句ひとつ言わず洗った……サブちゃんがナンと言おうとあの子はあたしらの仲間だ! それなのにナンだいっ? あの子がさらわれたってのに、ヘリクツこねて見捨てるのかいっ?」

「ママ……」

「サブちゃんがあの子を預かるって決めたんじゃないか! 未成年の子を預かるってことは、預かったあたしらがその子を守ってやらなきゃならないってことだ! 証拠なんかなくても、あの子は間違いなく悪いヤツに連れ去られたんだよ! 今すぐ捜し出して悪いヤツから守ってやらなきゃいけないんだ!」

 タマコが佐武朗に立てつくのは滅多にないことで、鴨志田や柾紀はちょっとした称賛の目をタマコに向ける。だが佐武朗は怒りも驚きもまったく見せず、手元のノートパソコンを閉じた。

「預かったんじゃない、雇ったんだ」

 皆に言い聞かせるように、けれど不自然なほど抑揚を欠いた口調で。

「あの娘とは雇用契約を交わした。つまり、うちとは雇用関係以上のものはないということだ。従業員が行方不明になった場合、雇用者にできることは限られている。あの娘の親族ならともかく、身内でもない、赤の他人でしかないお前たちに、彼女を捜す義務も権利もない」

「契約とか義務とか権利とか、そういうことを言ってるんじゃ――、」

「この話は終わりだ。今日の昼までに報告書を上げろ。それが済んだら次の調査に入る。いいな」

 言い捨てて、佐武朗は立ち上がった。デスクチェアにかけていた背広を無造作に引っ掴み、車庫側の出入り口から足早に出て行ってしまう。

「――サブちゃんのヒトでなし!」

 自動ドアが閉まる寸前、タマコの叫びは果たして佐武朗の耳に届いたかどうか。

 一人、長椅子の上で静観していた幸夜は、ぼんやりと天井を仰いだ。

「……身内でもない……赤の……他人……」

 時として言葉は、発した本人でさえ気づかぬうちに、核心をつく情報を含有することがある。

 津和野に依頼し、陽乃子を連れ去ったは、陽乃子の身内、もしくはそれ相応に近しい人物――

 ――そして、のだ。






【用語解説】

略取りゃくしゅ

  脅迫や暴力を受けて連れ去られること。対して『誘拐』は脅迫や暴力を受けていない場合に使う。どちらも法律用語。ちなみに『拉致』は無理矢理連れ去られることの意であるが、法律用語ではない。

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