第5章 淋しいキノコは山より里を選ぶ

第1話

 それから、森居莉那はタクシーで自宅に帰された。

 極度に高まった恐怖からの急激な弛緩によりどこか虚ろな放心状態ではあったが、どうしてこのような災厄に見舞われたのかは、理解しているようであった。

 彼女を帰す際、亮が預かっていた(持ち去ってきた)バッグと汚れた服は本人に返し、もちろん鴨志田が預かっていた(バッグから抜き取った)携帯端末も返却した。加えて、汚してしまったお詫びとして試着したままの服はそのままプレゼントとし、さらにもう一着、新しい服一式が用意してあったのは、鴨志田の配慮である。

 それらの衣服代金、タクシー代金、その他諸々の経費はリリコ持ちだと言われて、一度はリリコも憤慨したが、不承不承納得したようだ。

 こうして、奇しくもここに揃った『サブロ探偵事務所』の調査員および雑用係および同居人一行は、それぞれが様々な感情を抱きつつ、奇妙な地下の店をあとにした。

 ちなみに使用させてもらった店『MiHi VinDiCTa』は、とある特殊な人々がつどい、特殊なやり方でコミュニケーションを図る、特殊な “クラブ” なのだと、タマコが教えてくれた。世の中には、陽乃子の知り得ないマイノリティな趣向を持つ人間がいるのだという。しかし、そこでどんな “クラブ活動” が行われているのかは、誰も陽乃子に教えてくれなかった。


 ミニバンはダニエラ通りの端にあるコインパーキングに停めてあるという。皆がぞろぞろと移動する中、リリコが「あ」と声を上げた。

「すっかり忘れてたけど、貫木の方はどうなったのかしら」

 すると、お馴染みの山高帽子を頭に乗せた鴨志田がひょいと振り返る。

「ああ、みなさんを待っている間に所長から連絡がありましたよ。幸夜くんの携帯が繋がらなかったので、蘇芳さんは所長の方へ連絡を入れたみたいですね」

「また……」

 一同の呆れた目が幸夜に向くが、当の本人は素知らぬ顔でいつものようにチョコ菓子を食べている。

「蘇芳さん曰く、粛清は滞りなく完了したとのことです。 “粛清” だなんて、物騒な言葉を使いますよね」

 アハハと軽い調子で笑った鴨志田は、胸の内ポケットからこれまたお馴染みの革手帳を取り出した。

「ええと。貫木という男、この街の人間ではないようですね。バックに何かついている様子もなく、典型的な流れチンピラの類だったようですよ。数名いた仲間もみんな雑魚ざこレベルだという話で」

 鴨志田は、ボールペンで紙面をトントンと叩く。

「売春や援助交際の斡旋で金を得ていたのは確かのようです。加えて恐喝。どちらかというと、女子高生と関係を持った中高年男性を脅す方がメインだったみたいですね。女子高生は御しやすい代わりに、親や教師が出てくるリスクも高いですから。逆に、ある程度の社会的ステイタスを持った中高年男性なら、恐喝の事実が露見しにくく、まとまった金が入りやすいと考えたのでしょう。一方で、餌食とする女子高生探しにも余念がなかったようです。世間知らずで、家庭や学校に少なからず鬱屈したものを抱えている女の子……森居莉那さんはそういった子を見つけて、言葉巧みに誘う役割を担っていたのでしょう。けれど彼女もまた、貫木という悪党の被害者だったようですから」

「被害者って……自業自得じゃないの。くだらない」

 すかさずリリコが断じれば、前を歩く柾紀も煙草をふかしながら頷く。

「たしかに。堕ちるきっかけにしちゃ、チンケな理由だったよな」


 なぜ森居莉那が貫木のような悪党とつるんでいたのか――彼女が泣く泣く白状した経緯は、皆が呆れるほどくだらない理由であった。

 それは――万引き。

 数か月前、森居莉那は参番街のファンシーショップにてネイルチップを万引きした。それを運悪く貫木に見られてしまい、バラされたくなければこれから紹介する男と “デート” しろ、と命じられたらしい。

 実は彼女、これまでも何度か細々したものをあちこちの店から盗んでは、それをさも購入したかのように装いSNSに上げるという大胆不敵な愚行を繰り返していたのである。それらの発覚を恐れた彼女は、貫木に従うしかなかったようだ。

 しかし、金儲けの駒であった森居莉那はいつしか、貫木と駒を繋ぐ “パイプライン” 役となっていた。彼女の方から貫木に協力を申し出たのか、それとも貫木が彼女の素質を見込み手先として使おうとしたのか……その辺は曖昧なままわからなかったが、いずれにしても、森居莉那が単なる可哀そうな “被害者” ではないことは、その場の皆が感じたことのようである。


 鴨志田は神妙な顔で革手帳のページをめくった。

「僕の方でも事前に少しだけ調べてみたのですが……あのお嬢さん、どうも家庭環境はよくないようですね。裕福な家庭でありながら、父親母親それぞれに愛人がいるようです」

「クラスメイトをおとしめる理由にはならないわ」

 リリコが鼻を鳴らして吐き捨てる。陽乃子の隣を歩くタマコがやるせない溜息を吐いた。

「やれやれ……やっぱり正規の調査員にゃ敵わないねぇ。結局あたしら、ナーンにもできなかったってことさ」

「そんなことはありませんよ。毎晩『バルドヴィーノ』のお仲間と、貫木の居場所を突き止めるためにたくさんの情報を集めてくれたじゃないですか。だからこそ、我々は最短で動くことができたんです」

 鴨志田の言葉に、タマコは「おや?」と片眉を上げる。

「どーしてあたしたちの集めた情報を知っているのさ」

「あ、いや、それは」

 ぎくりと強張る鴨志田。すぐにリリコがピンとくる。

「あ! ママにナニか仕込んだんでしょう! マサキ!」

 ズバリ指された柾紀は、頭だけ振り返って肩をすくめた。

「お前が帰って来なかったんだから仕方ねぇだろ。ママさんや嬢ちゃんに諜報役を頼むのも心許ねぇしよ」

「ナンだってっ?」

 今度はタマコがキィッと歯を剥く。

「と、ともかく、これで一件落着です。貫木も成敗されたことですし、今後、妹さんが売春を強要されることも、お金を要求されることもありません。森居莉那さんに関しましても、あの合成動画がかなり効いたはずです。万引きの件も吐露してしまいましたし、これ以上妹さんに関わってくることはないと思いますよ。被害に遭っていた他の女の子たちもこれで救われるでしょう」

「援交していた事実はなくならないけどね」

 リリコは苦い笑みだ。亮がリリコの肩を軽く叩いた。

「いい教訓になったと思えばいいじゃない。オイシイ話には裏があるってね。大事に至らなかっただけ儲けものだよ」

「その通りです。というわけで……リリコさん、戻ってきますよね?」

 問われたリリコはキュッと唇を結ぶ。

「……ボスが許してくれるかしら」

 ぽつりと呟いたリリコ。柾紀が紫煙を天に吐き出した。

「お前を手伝ってやれって言ったのはボスだぜ? ……まぁ、はっきりとそう言ったわけじゃねぇけど……」

「潔く素直に謝れば、今回の欠勤も “体調不良” 扱いくらいにはしてくれるかもしれませんよ」

 悪戯っぽく笑う鴨志田。リリコの驚いた顔がフッとほころんだ。

「有給扱いにしてくれないかしら」

「それはねぇな」

「ないですね」

 柾紀と鴨志田が突っ込み、リリコが頬を膨らませ、亮やタマコが楽し気に笑う。

 そこで、リリコが真顔になって足を止めた。

「あの、みんな、ありがとう……助かったわ。あんなやり方、アタシは思いつかなかった。ちょっとやりすぎかなって思ったりもしたけど。リョウもマサキも、イヤな役をやらせちゃってゴメンなさい」

 いつになくリリコが殊勝に頭を下げると、亮がにっこりと笑って首を振った。

「僕は楽しかったよ。でも僕より、今回は柾紀くんが主演男優賞なんじゃない?」

 矛先を向けられた柾紀は「おっ」と口にくわえた煙草を落としそうになった。

「俺より鴨さんに感謝しな。あのアパレルショップの店長にも、さっきの “クラブ” のオーナーにも、鴨さんが話をつけてくれたんだぜ」

「えっ? カモさんが?」

「あの店をかい?」

 素っ頓狂な声を上げたリリコとタマコが、すっと半眼になって鴨志田を見る。

「ごっ、誤解しないでください! あの “クラブ” は、知り合いを介して貸してもらっただけです! 僕とは縁もゆかりもありません! ……そ、それより、今回頑張ったのは信孝くんですよ。妹さんの動画を削除したり、小道具に使う合成動画を作成したりで、連日睡眠時間を削って作業してくれたんですから」

 すると、柾紀の隣で大人しくしていたマスクとサングラスの少年がぴょこんと跳ねた。

「べ、別に……ボクは、幸夜さんに言われた通りやっただけだし……」

 ほんのりと耳を赤く染めて、信孝はもごもごと言う。柾紀が笑って信孝の頭に手を置いた。

「んだな。今回のシナリオは全部、幸夜が考えたようなもんだからな」

 我関せずで小箱からチョコ菓子を摘まんでいた幸夜は、リリコと目が合うと途端に顎を大きく上げる。

「ああ、オレを敬え。オレにかしずけ。そしてみつげ」

「ナンなのよアンタはっ! そこはケンソンしなさいよ! ツンデレてみなさいよ!」


 笑い声、突っ込む声、たしなめる声……賑やかで楽し気な声が人気のない寂しい裏通りに響き渡る。

 再び歩き出した一行に並んで歩を進めながら、陽乃子はやっと “元に戻った” 感覚を覚えた。目の前の光景は、毎朝一堂会する食卓の光景と同じだ。騒がしくて賑やかで自由で勝手で、温かい。

 隣のタマコを見上げようとした時、ツキンとこめかみに痛みが走った。

 今夜はいつも以上に繁華街を歩き回り、視覚から入った顔情報は膨大だったはずだ。けれど、その割には痛みが小さい気がする。脳を圧迫する膨張感もたった今実感したところだ。普段なら、耐え切れない痛みにうずくまっている頃合いなのに。それなりの耐性ができてきたのだろうか。

 そっとこめかみをさすったところで、タマコが「痛むのかい?」と覗き込む。――と、その逆方向から何かがズィッと差し出された。

 チョコ菓子の小箱だ。見上げると幸夜が小さく顎をしゃくった。

 いいのだろうか。陽乃子が小箱を受け取ると、幸夜は両手をポケットに突っ込んでしまう。まだ中にはチョコ菓子がたくさん残っているようだ。いいのだろうか。

 タマコがニマニマしながら「紙と鉛筆が車の中にあるだろうさ」と言った。コインパーキングはもう目の前だ。


「柾紀くーん、僕も駅前の二輪駐車場まで乗せてもらえる?」

「亮くんは診療所に戻るんですか?」

「――ねぇリョウ? 注射器のアレ、ホントになんだったの?」

「あれね、難しく言うと低張複合電解質液といって……点滴で使われる栄養剤みたいなものだよ。最初はただの水でも入れておこうかな、と思ったんだけどね、幸夜ってば本当に打ちかねないから」

「言えてる。ユキヤの顔、めちゃくちゃサイコパスだったもの。――あ、そーだ、ユーリさんのとこにもお礼の電話、入れとかなきゃ」

 皆がわいわいと騒めきながら駐車してあるミニバンに乗り込もうとした時――、

「――おぁぁっっ! マジか!」

 運転席のドアに手をかけた柾紀が突然叫んだ。驚いた皆が何事かと柾紀を見て、柾紀の視線の先を見る。

 ――右前輪のタイヤに深々と突き刺さる太い釘。

「うっそ、釘? なんで」

「これ、明らかに故意だね」

「いい度胸してんじゃねぇか……」

 柾紀の側頭部に刈られた蔓草文様がぴくぴくと脈打った。

「交換するしかありませんね……スペアタイヤは乗せていますか?」

「ああ、換えるのは造作もねぇけどよ……くっそ、駐車料金払っちまったぜ」

「出してから交換する? 手伝うよ」

 十台分ほど駐車できるコインパーキングには、ミニバンの他に二台の車両が駐車されている。けれど、繁華街から離れているせいか周囲は人通りもなく車もやってくる気配がない。よって、パーキング内で交換しても迷惑にはならないだろうと判断された。

 柾紀はスーツの上着を脱いでワイシャツの袖をまくり、鴨志田と亮はミニバン後方のバックドアに向かう。他の者たちはしばらくその辺で待機となった。

「まったく……どこのどいつだい? こんなイタズラするヤツは……あんたたち、こっちで待っておいで。――ユキちゃん! どこへ行くんだい?」

 ふらりとコインパーキングから出て行く幸夜は、振り返らぬまま「コンビニ」と言って去って行く。タマコは頭を振り振り溜息を吐いた。

「まったくあの子は……、……ん? ノブちゃん?」

 信孝が精算機の頭上を見上げている。タマコが「どうかしたのい?」と訊くと、信孝は「カメラ」と呟いた。

「犯人はこの防犯カメラに気づかなかったのかな」

 信孝が見上げているのは《P 24H》と表示された電光看板が上部に設置された電信柱である。よく見ると、その電光看板のすぐ下に小型防犯カメラが備え付けられており、角度的に見て、コインパーキング全体が録画範囲となっているようだ。

「映っている可能性は高いんじゃないかい?」

 タマコがつけまつ毛をパチパチさせると、信孝はすぐ傍の縁石に腰かけて、背負っていたリュックバッグからノートパソコンを取り出した。

「調べてみるよ。顔を隠している可能性も高いけど」

 信孝はサングラスを前頭部に上げてキーボードを操作し始めた。タマコと陽乃子は何となく邪魔にならないよう、信孝から少し離れた場所に移動する。すると、ほどなくしてリリコがブラブラと近寄ってきた。さっきまでタイヤ交換作業を興味深そうに覗き込んでいたのだが。

「ジャマだって。失礼しちゃうわ」

 プンと唇を尖らせるリリコにタマコが防犯カメラの存在を説明した。リリコは横目で信孝の方を見やり、気乗りしなさそうに肩をすくめる。

「その辺をウロつく酔っ払いの仕業なんじゃない? ま、正体が判明したら四輪セットで弁償させましょ」

 ――その時である。

「――助けて……っ」

 掠れた叫び声とともにタマコの服が背後から引っ張られた。驚いて振り返ったタマコはさらにその目を見開く。

「――あ、あんた……」

「……しぃっ……! お、追われてるの……! 助けて!」

 何かに怯えるように声を潜め身を縮めて、その女性――大滝可南子はタマコに縋りつくばかりだ。しかも――、

「いったいナンだってそんな……」

 ショートボブの黒髪は乱れ、着ているサイケデリックな柄の服は襟元が大きく開いてボタンが取れており、肩口の縫い目も裂けて糸がほつれている。足元を見ると片方のパンプスしか履いていない。

 肩を大きく上下させる大滝可南子は、背後をちらちらと気にしながら喘ぐように言う。

「友だちと飲んでたら……ガラの悪い奴らに絡まれて、ヤバいところに連れ込まれそうになって……一発殴ってやったらメチャクチャ怒って追いかけてきて」

「呆れた。自業自得じゃないの」

 リリコが侮蔑しきった目を向けた。前回会った時のひと悶着はしっかり覚えているようだ。

 しかし可南子はタマコの大きな身体にしがみつき、潤んだ瞳で訴えた。

「お、お願い……逃げる時に、友だちが転んでケガして、動けないの。すぐ近くに隠れてる。あたしも足を捻ったみたいで、どうしようもなくて……お願い、助けて」

 タマコはどうしたもんかとリリコを見るが、リリコは不快な表情で唇を引き結ぶばかり。

「タ、タクシー拾えるところまででいいから……お願い」

 ヒクッと可南子の喉が引きつった。口元を抑えて肩を震わせている。

 タマコはハァ、と盛大な溜息を吐いた。

「仕方ないね」

「マーマ」

 リリコが目でとがめる。けれどタマコは「どうせもうしばらくかかるだろ」と、パーキング内でタイヤ交換作業を進める三人の方を見やった。ここからでは車体の向こう側にいる三人は見えず、彼らも大滝可南子の登場には気づいていないようだ。

「困ってるヤツを放ってはおけないよ。それがいけ好かないヤツでもさ。……案内しとくれ」

「あ、ありがとう」

 可南子は鼻を啜って、化粧の崩れた顔をグイと拭った。

「こっち」と誘導する可南子が軽く片足を引きずるのを見て、タマコが彼女に肩を貸す。二人はコインパーキングを離れ、雑居ビルの狭間に向かい遠ざかっていった。

 そんな二人を見送っていたリリコ。ムッと唇をへの字にしていたが、突如ダンッと大きく足を踏み鳴らした。

「も、もう!」

 陽乃子に向き直り、両肩に手を置く。

「ヒノちゃん、ここで待ってて。ウロウロしちゃダメよ? すぐ戻ってくるから」

 陽乃子がこくりと頷くや否や、リリコは小走りで二人のあとを追った。そして、三人の姿は完全に見えなくなった。

 陽乃子は、少し離れた縁石に腰かける信孝を見る。一心不乱にパソコンのキーボードを叩いている彼の目は画面から一瞬たりとも逸れることがない。

 信孝の集中力は、幸夜でさえ一目置くほど並外れているのだそうだ。陽乃子は時おり彼の部屋へ夜食を持っていくことがあるが、出てくることも声を返されることもほとんどない。タマコたちが言うには、作業に集中していると誰が声をかけてもそんな調子なのだという。ゆえにきっと、大滝可南子の登場には気づいていないのだろう。


「鴨さーん、そこにクロスレンチ入ってねぇかー?」

「えーと、L字型ならありますけどー」

 車の方から声が聞こえる。タイヤ交換組も作業に没頭しているようだ。

 陽乃子はそっとこめかみをさすった。先ほどより少し、脳内の圧迫感が増している。ふと、手に持ったままだった小箱に気づき、そっと開けてみた。コロコロと現れるキノコ型のチョコレート菓子。そういえば、幸夜とリリコに初めて出会った時、幸夜はこのキノコ型チョコ菓子を持っていた。陽乃子とぶつかった拍子に全部、アスファルトの上へ飛び散ってしまったけれど。

 キノコを一つ口に入れて噛み砕くと、瞬く間にチョコレートの甘さが口内に広がる。ビスケットの香ばしさと歯ごたえが小気味いい。心なしか、圧迫された頭の痛みが和らぐような気もする。

 もう一つ。また一つ。

 ゆっくりとチョコ菓子を味わいながら、陽乃子はもう一度、タマコたちが消えた薄暗い小路に目をやった。

 それにしても――、と思う。

 近づいてくる気配も足音も、まったく気づかなかった。

 あの大滝可南子という女性は、本当にあの小路からやってきたのだろうか。



   * * *



 コンビニエンスストアから出た幸夜は、さっそく買ったばかりの小箱を開封し、箱の中から一粒のチョコ菓子を摘まんで口に放り込む。サクッとしたクッキー生地に絡まる甘いミルクチョコレートの味わい。たまらない。やはり自分は、どちらかというとキノコよりタケノコの方が好みだ。

 そろそろタイヤ交換も終える頃かと、もと来た道をコインパーキング方面に向けて戻りかけた時、見慣れた姿が二つ、キョロキョロと辺りを見回しながらやってくるのが目に入った。わざわざ呼びに来たのか。

「――タイヤ交換、済んだのか」

 声をかけると、タマコとリリコは目に見えて驚いた。どうやら幸夜を捜しに来たのではないらしい。タマコのどぎつい化粧顔が途方に暮れている。

「ユキちゃん! この辺で大滝可南子を見なかったかい?」

「ダレそれ」

 冷たく返すと、タマコとリリコは興奮した雌鶏のごとく説明し出した。

 寿々久の、偽家政婦の、と聞いてようやく名の音と字面が一致する。あの喰えない女、自称『リベンジ屋』……そして先日、タマコたちと揉めた――、

 モグモグとチョコ菓子を咀嚼する幸夜に、タマコとリリコは大滝可南子が突然現れて助けを求めてきた経緯を口々にまくし立てた。

 ……友人と飲んでいた最中、ヤバい奴らに絡まれて逃げてきたらしい……その道中に友だちが怪我をしてしまい動けないでいるらしい……可南子自身も足を捻ったらしくびっこを引いていて……タクシーが拾える場所まで手を貸して欲しいと頼まれた……要約するとそんなところだ。

 しかし、最後のオチはいただけない。

「――その大滝可南子が消えちまったんだよ!」

「消えた……?」

 二人によると、大滝可南子に案内されたのは小さな雑居ビルだった。『鍼灸・指圧』という看板が掲げられた狭い入口から二階の店舗へ上がるようになっており、一階の間取りはほぼぶち抜きの駐車場となっている。そこに駐車された軽トラックと軽ワゴンの奥に友だちは隠れているはずだ、と大滝可南子は言った。

 しかし、いざタマコとリリコが車二台の後方へ入り込むと、そこには誰もいない。照明はなく暗かったとはいえ、隠れている人の姿くらい目に留まるはずだ。念のため駐車してある車の下部も覗いてみたが、もちろんどこにも人の姿はない。

 困惑した二人が「いないよ」と声をかけると返事がない。気づけば、すぐ傍にいたはずの大滝可南子の姿が忽然と消えていたのである。


「やっぱり、追いかけてきた奴らにとっ捕まったんじゃ……」

「でも、アタシたちがあの女から離れたのってほんの一、二分よ? 連れ去られたような気配も感じなかったし」

 唇と尖らせたリリコは「……ねぇママ、やっぱりおかしいわよ」と腕を組んで何やら考え込んだ。

「あの女、『友だちと飲んでて』って言ったわよね……でも、お酒の匂いがしなかったわ……」

「そ、そんなに飲んでなかったんじゃないのかい……?」

 タマコは狼狽うろたえるばかり。らちが明かない。

 幸夜がもう一つタケノコを口に入れた時、その手にぽつりと水滴が落ちた。見上げると頬にも感じる雨滴。幸夜は足早に歩き出した。

「戻ろーぜ」

 ――イヤな予感がする。


 コインパーキングに戻ると、ミニバンの後方で頭を突き合わせていた鴨志田と信孝が幸夜たちに気づいた。

「――ああ、皆さん。降ってきましたね。もう終わりますよ。今、信孝くんがあそこにある防犯カメラを解析してくれたところです。見てください、若い男性のようですが、サングラスにマスク、フードを被り完全に顔を隠していて――、」

「あいつは?」

 幸夜は信孝のノートパソコンには目もくれず開口一番に問う。問いつつも、すでに彼女がこの場にいないことを悟った。リリコとタマコが「――ヒノちゃん? ヒノちゃん!」とパーキング周辺を捜し出す。

「陽乃子さんですか? さっきまであそこに……」

 困惑する鴨志田の後ろから、亮が「え? いないの?」と顔を出した。

「陽乃子ちゃん、さっき一度、紙と鉛筆をもらいに来たんだよ。それで車にあったやつを渡してあげたら、あの車止めポールに腰かけて描いてたんだ」

「僕もその姿を見ました」

 亮が精算機とは逆側になるパーキングの隅を指し示すと、鴨志田も頷いて同意する。幸夜が大股に逆U字型の車止めポールがある場所に向かうと、すぐ下の縁石の向こう側に――まるでわざと残した痕跡のように――折り畳んだ数枚の紙と鉛筆がバインダーと一緒に置いてあった。頭上には外灯。陽乃子がここで描いていたことは間違いない。開いた紙面全部にざっと目を通したが、紙にはびっしりと “顔” が描かれているだけで、顔以外に描かれているものはなかった。

 追ってきた亮と鴨志田、信孝が幸夜の手元にある紙を見て怪訝に顔を曇らせた。

「でも、ボクが解析終わった時、ここにヒノコはいなかったよ。てっきりタマコたちと一緒だと思ってた」

 信孝の証言に鴨志田と亮が不可解な面持ちで顔を見合わせる。今や雨はパラパラと間断なく降っており、顔だらけの紙に滴が落ちる。

 そこへタマコとリリコが息を切らして駆け戻ってきた。

「見当たらないよ。……ったくあの子は。あたしらを追いかけてすれ違っちまったのかね」

「ここにいてって言い聞かせたのに。あの子、スマホも持ってないのに」

 唇を噛むリリコ。ようやく作業を終えたらしい柾紀もやって来て、汚れた軍手を外しながら苦い顔を見せた。

「つーか、お前らは今までどこに行ってたんだよ?」

 それに対し、タマコとリリコがもう一度かしましく説明し始める中、幸夜はゆっくりとタケノコを口に運んだ。緩慢な動作に反し、脳内で弾ける目まぐるしい高速フラッシュ。

 ……タイヤに突き刺さった釘……突然現れて突然消えた大滝可南子……防犯カメラに映った若い男……

 ――ヤラれた、と思った。

 まんまと仕掛けられていたのだ。ここにいるメンバーの注意を


「柾紀、アイツに持たせた防犯ブザー。GPSも組み込ませてあるんだったな」

「あ、ああ……忘れてたぜ。ノブ、探せるか?」

 大きく頷いた信孝は、その場に胡坐をかいてすぐさまノートパソコンを操作する。雨滴から守るように皆がその頭上を取り囲み、タマコがつけまつ毛をバチバチ瞬いた。

「あ! あれかい? あのタマゴ!」

「タマゴ……?」

 首を傾げるリリコにタマコが説明すれば、「ヒノちゃんにまで」と柾紀を睨む。

「いや、今夜はお前らをあちこち歩かせるつもりだったからよ、嬢ちゃんが迷子にならねぇようにだな……」

 そこで信孝が早くも「出たよ」と顔を上げた。

「移動してるね……この速さは車だと思う。伍番街、カルメン通りを直進中」

「車……?」

「先に帰った……わけ、ないわよね」

 リリコの手が無意識にタマコの袖を掴んだ。

 誰も防犯ブザーの音を聞いていない。つまり陽乃子はということ。のか、のか。

「とりあえず追おうぜ」

 幸夜の声で、皆が我に返ったように動き始めた。ミニバンに乗り込み柾紀が手早く発進させる。

 助手席には信孝が座った。パソコンの画面でGPS反応を追っている。

 最後部座席の、幸夜の隣に座った亮が神妙な顔で呟いた。

「誰かが陽乃子ちゃんを、連れ出した……?」

 幸夜は指の関節に歯を当てて窓に光る雨滴を眺めた。

 もしそうなら、かなり早い段階から陽乃子は尾行され、幸夜たちの行動は完全に読まれていたことになる。奸智に長けた用意周到さといい、わずかな隙を突いた巧妙さといい、只者ではない。

 しかも、陽乃子は声も上げずブザーも鳴らさず連れ去られた。その意味するところは――、


「弐番街に入ったよ。ガイヤ通り三丁目交差点を左折……クロノス通りを直進」

 信孝のナビに、幸夜の脳内の端っこが反応する。

「クロノス通り……?」

「変だな、ノイズがひどくて音声が入ってこない。――あ、停まった。住所は……四丁目二十八番地、中栖田ビル前」

「……マジか」

 漠然と予測していたこととはいえ、ここまで見事に符合すると逆に疑心が頭をもたげる。

「心当たりあるの?」

 心配そうに問うてくる亮。幸夜は脳底に落ちてきた一枚の名刺を、意志の力で弾き飛ばした。

「――そのビルの五階に、津和野の探偵事務所がある」

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