第4話

 佐武朗は取り出した煙草の箱から一本引き抜き、火を点けてから「まず一つ目」と紫煙交じりに吐き出した。

「――ちょうどひと月前、とある依頼を受けた。行方不明になっている少女を捜し出して欲しい、という所在調査だ」

「ひと月前……? 我々はそんな依頼、受けておりませんが……」

 鴨志田が怪訝な表情で首を傾げれば、佐武朗は然もあらんと重く頷く。

「お前たちには話していない。というより、話す必要がなくなった。依頼を受けたその日に、当の少女は見つかった。他でもない、だ」

「――え、それって……」

 皆が目を見張り顔を見合わせる。

「ヒノちゃんのこと……?」

「さすがの俺も目を疑った。依頼されたばかりの所在調査の対象者が目の前でうずくまっているんだからな。ちなみに調査対象者の名は “中原陽乃子” だと聞かされていた。あの娘が持っていた荷物を調べて出てきたものにも――」

 そう言って煙草を口にくわえたまま、佐武朗はデスク脇に置いた革製の鞄から何かを取り出した。デスクの上に置かれたのは――

「昌華学園女子高等科の生徒手帳…… “中原陽乃子” とあります。顔写真は……この写真と同じですね」

 鴨志田が比較するまでもなく、その生徒手帳に添付された顔写真が陽乃子であることは誰の目にも明らかである。

 ――幸夜の予想通りだ。やはり、佐武朗が持っていた。

 幸夜はずっと、ネットカフェに寝泊まりしていたというわりに、陽乃子が年齢確認できるものを一つも所持していないらしいことが解せなかった。昨今、ああいった施設は規制が厳しくなり、特に十八歳未満は保護者同伴であっても深夜の利用ができない。どう見ても十八歳以上に見えない陽乃子はなおさら、年齢が確認できる身分証明書の提示を求められたはずだ。

 しかし、陽乃子の私物の中にそれらしいものはなかった。失くした、あるいは初めから持っていない、という可能性も考えられなくはなかったが、幸夜の中で大きく引っ掛かっていたのは、陽乃子がサブロ館に住むと決まった当初、佐武朗が彼女のトートバッグとガマ口を預かっていたという点だ。

 佐武朗なら必ず彼女の荷物を検めるだろう。その際何らかの理由で、身分証明書の類を抜き取ったのではないか……そんな気がしていた。

 とはいえ、まさか陽乃子の所在調査を依頼されていたとは想定外だ。だったら最初から話しておけよ、と腹立たしく思う。知っていればここまで面倒をかけずに済んだはずだ。

 そう内心で歯噛みしつつ、幸夜は皆の背後から手帳を見る。

 最近では個人情報保護の理由で、生徒手帳や学生証などに記載される情報は最小限となっているところが多いと聞くが、この学校の手帳には生徒の顔写真の他、生年月日までもが記載されており、一応の身分証明書にはなったのだろう。すでに卒業している学校の生徒手帳を提示する時点で少なからず怪しまれそうなものだが、その辺は例のネットカフェの場所柄と、個人経営ゆえの管理の緩さが幸いしたのだろうか。

 ――と、幸夜は記載された生年月日に違和を覚えた。

 この八つの数字からすると確かに陽乃子の年齢は現在十九歳であり、偽っていない。しかしあの卒業証書が示す通り、今年の春に高等科を卒業したのなら、普通はなのだが――、


「それから俺は、診療所で聞いたお前たちの話も含めて、事の次第をすぐに依頼主へ報告した」

「――その依頼主って、誰」

 後ろから問うた幸夜に、佐武朗と弥曽介以外の皆がギョッと振り向いた。長椅子の上で寝転がっていたはずの幸夜がすぐ背後にいるとは思わなかったのだろう。

 幸夜が手近な椅子を引き寄せ背面座りになると、佐武朗はデスク上の灰皿に煙草の灰を弾き、渋い顔のままもう一度吸い付けた。

「俺が直接やり取りしたのは、偕正法律事務所の朋永弁護士だ」

「最大手の法律事務所ですね。多くの大企業をクライアントに持っていると聞きます」

「不二生薬品もそのうちの一つだ。長年、朋永弁護士が企業法務全般を任されている。そして朋永弁護士は、不二生薬品の社長である藤緒徳馬の代理人だ」

 佐武朗は「つまり」と目を上げる。

「真の依頼主は藤緒徳馬社長――あの娘の行方を捜していたのは藤緒社長だ。これはあとになってわかったことだが、あの娘はもともと藤緒社長の保護下にあったようだな。生活を共にしていたわけではないようだが」

「藤緒徳馬社長の保護下……? いったいどういう……」

 狐に摘ままれたような表情になったのは鴨志田だけではない。皆が困惑に首を傾げる中、目を細めた弥曽介が口を開く。

「で、捜していた娘がいとも簡単に見つかったわけじゃが、あちら様はなんと?」

 問われた佐武朗は、心底不愉快そうに顔をしかめて短くなった煙草を灰皿の上で押しつぶした。

「驚きもせず、まるで既知の事実だったかのように『ご苦労様です』と言われましたよ。挙句に『依頼を追加します。そのまましばらく彼女をそちらで預かっていただきたい』――と」

「なるほどね。当然、断ったんだろ?」

 幸夜が口を挟むと、佐武朗は噛みつきそうな口調で唸った。

「当たり前だ。探偵の仕事じゃない。しかし朋永弁護士は、過去にうちが手掛けた調査において、非常手段として使った非合法な手をいくつか並べたて、探偵業を続けたければ引き受けてもらうしかないと言ってきた。おそらく所在調査を依頼する際、事前にうちの事務所について詳細に調べ上げていたんだろう。結局、引き受けざるを得なくなった」

「すごぉい、ボスを脅すなんて」

「なかなかの猛者じゃの」

 リリコが素っ頓狂に感嘆し、弥曽介が楽し気に顎髭をうごめかす。幸夜は鼻で笑ってやった。

「こいつが脅されて折れるタマかよ。どーせ、その報酬が桁外れだったんだろ」

「ああ、史上最高額だったな」

 悪びれもせず、佐武朗は煙草の箱からもう一本を引き抜く。

 そこでリリコが思案気に腕を組んだ。

「でもおかしいわよね……ヒノちゃんを捜していながら、居場所がわかった途端に預かってくれ、だなんて。まるでヒノちゃんをかくまってくれって言ってるような……」

「お前にしてはいいところを突く。前代未聞の依頼は多額の報酬に加え、不可解な条件付きだった。『彼女の存在は外部に漏らさぬよう徹底すること、彼女に関する詮索は一切しないこと、彼女の身の安全を最優先にすること』――理由はわからんが、あの娘は一時的にここへ隠されたんだろう」

 皆の困惑はますます深まるばかりだ。お忍びで来日した海外の皇女じゃあるまいし、あの貧相なか細い少女は一体、何者だというのか。

 しかし弥曽介だけは、悪戯っ子のように丸めた瞳で佐武朗を見上げた。

「お前がその条件を大人しく呑むわけがなかろうな。当然、裏であの娘の素性を調べておったのじゃろう?」

「受動的に巻き込まれるのは性に合いませんのでね」

 当たり前だと言わんばかりの顔で、佐武朗は再び煙草に火を点けた。「――二つ目だ」


「 “中原陽乃子” という名の少女を預かったはずなのに、当の本人は “天宮陽乃子” だと名乗った。嘘を吐いているようにも見えなかったんでな、そこに何かあると踏んで、ひとまず藤緒家の周辺に天宮という姓の者がいるかどうか調べてみた。結果、天宮という人物は見つからなかったが、ひょんなことから “中原” は見つかった。ずいぶん昔の……四十年以上も前の話になるが、藤緒徳馬には妾――今でいう愛人だな――がいたことがわかった。中原睦子むつこという芸者だ」

「中原……じゃ、じゃあ……」

 にわかに一同が騒めく。佐武朗は重々しく頷いた。

「結論から言うと、中原睦子は三十五年前に病死している。睦子が芸者をしていた頃の知り合い筋を辿ってようやく、彼女が徳馬氏との間に娘を一人産んだという事実を掴んだ。名は “真梨子” だそうだ」

「妾の娘が “中原真梨子” ……つーことは、それが嬢ちゃんの母親ってことに……」

 柾紀が言いかけるが、佐武朗は「早まるな」と制した。

「おかしなことに、中原真梨子に関するデータがまるで出てこない。中原睦子の血縁はほぼ皆無だ。母の睦子が死亡した当時、真梨子は五、六歳だったはずだが、そのあと誰とどこでどう暮らしていたのか、睦子周辺の中に知る者はいなかった。藤緒家が密かに引き取った可能性も考えて調べたが、藤緒徳馬は真梨子を認知しておらず、藤緒家の親戚縁者の中にも該当する少女を引き取った形跡はない。認可されていない児童施設にでも預けられていれば調べようがないしな。結局 “中原” の線はここで行き詰った。三十五年も前……しかも藤緒家当主の妾の話となれば、詳細を知っている者は極めて少ない」

 そこで、フームと唸った弥曽介が佐武朗を見上げた。

「藤緒徳馬の奥方は」

「重度の認知症で施設に入院中です。とても話が聞ける状態ではありませんね」

「戸籍はどうじゃ」

 そう言って老公の目が、皆の隙間から頭を覗かせる目出し帽に向いた。視線を受けた信孝はビクッと揺れて狼狽うろたえる。探偵は通常、当人に無断で戸籍を調べることができないのである――非合法な手段を使わない限り。

「本気で我々にあの娘を捜させる気ですか。それがどれだけ不毛で危険なことか、貴方は承知しているはずだ」

 佐武朗の低声が怒りを帯びている。しかし、弥曽介はどこかとぼけたような口調で「三つ目を聞こうかの」と返すのみ。佐武朗は忌々しそうに紫煙を吐き出した。


「お前たちは、あの娘を連れ去った人物が藤緒の関係者だと推測したようだが、少なくとも藤緒親子は実行していない。なぜなら、社長副社長共々三日前から渡米中だからだ。不二生薬品の上層部数名しか知らない極秘の海外出張とのことで、おそらく今、不二生薬品本社を探ったところで両氏の居所を知っている者はいないだろう」

 この言葉で一同に愕然とした空気が流れた。

 手繰り寄せた糸口の大半が藤緒親子を指し示していたのである。目星をつけた人物が日本にいなかったとなれば、ますます五里霧中になるばかりだ。

 しかし鴨志田はすぐにハッと顔を上げた。

「実行犯でなくても、首謀者である可能性は高いと思います。専属の秘書なり部下なり、彼らの手足として動く人間もいるのでは?」

 毅然と言い返した鴨志田だが、佐武朗はそれに答えず、煙草の吸殻を灰皿に押しつぶした。

「――俺の話はここまでだ。もう一度言う。この件に関してうちはお役御免となった。調査から完全に手を引くと同時に、 “中原陽乃子” に関わったすべての者に緘口令を敷け、というのが藤緒社長の意向らしい。俺もその意向に大賛成だ」

「そんな」

「ちょっと待って下さい」

 抗議の声を、佐武朗は鋭い視線で制した。

「――いいか、事実はどうであれ、表向き藤緒社長の実子は藤緒貴祐ただ一人のみだ。その息子は未だ独身で当然子はいない。すなわち、藤緒社長に。過去に愛人がいたとしても、その愛人が子を産んでいたとしても、その存在は公になるどころか噂にさえ上がることはなかった。その意味するところは一つしかない。不貞の事実は完全に揉み消され、揉み消すだけの力が藤緒社長にあるということだ」

 デスクに両肘をついて指を組み、佐武朗は断固とした口調で続ける。

「中原睦子は故人。彼女に産ませた一人娘真梨子の消息は不明。中原陽乃子が中原真梨子の娘だという証拠はないに等しい。たとえあったとしても俺たちが手に入れることはできない。手に入れる寸前で朋永弁護士が抹消してしまうだろう。それができるから、あのやり手弁護士は長年、藤緒徳馬の傍についているんだ。俺たちがあの娘を捜索するということは、藤緒徳馬のタブーに首を突っ込むということと同義――それをあの朋永弁護士が許すと思うのか」

 ぎろりとした目で見渡されて一同に返す言葉はない。弥曽介の目が興味深そうに見守る中、一人考え込んでいた鴨志田がふと「わかってきましたよ……」と呟く。

「陽乃子さんがこの街にやって来た理由はまだ判明していませんが、陽乃子さんが何者かに追われていたことは確かなんです。しかしそれは藤緒徳馬氏ではありません。なぜなら、徳馬氏は陽乃子さんをかくまうよう我々に依頼しており、つまりそれは、陽乃子さんを捕らえようとする追手から彼女を守るためだと考えられます。では、誰が陽乃子さんを追っていたのか……」

 佐武朗の咎める視線にも気づかず、鴨志田は宙を見据えて熟考する。

「そもそも、藤緒徳馬氏の実孫である陽乃子さんの存在が公になっていないということは、その事実がことさら注意深く隠されてきたということ……にも関わらず彼女の存在を知り、その身柄を捕らえるべく画策する者がいたということですよね……しかも、陽乃子さんの身柄がうちのような民間の探偵事務所に預けられたことからして、徳馬氏は相当切羽詰まっていたように思われます……陽乃子さんと一緒にいた牛久間充雄が突然自殺していて、陽乃子さんを連れ出すのに津和野が使われた……津和野の言葉を裏書きするようで不本意ですが、この件の首謀者は相当危険な人物であると見て間違いない……」

 ぶつぶつと自分に言い聞かせるように鴨志田は思考を辿っている。佐武朗が口を開きかけたが、幸夜はそれを遮った。

「なぁ、佐武朗は陽乃子が連れ去られたってこと、知ってたよな――俺たちがここに帰ってくる前に。誰から聞いた? その朋永っていう弁護士?」

 幸夜の言葉に佐武朗が一瞬グッと詰まり、それを見た鴨志田がなるほどとばかりに頷いた。

「ということは……少なくとも朋永弁護士は、連れ去られた事態だけは早々に把握できた、ということになりますね……」

「だな。つまり陽乃子を連れ去った首謀者は……朋永弁護士のわりと身近にいて、津和野が納得するだけの口止め料を支払える財力を持っていて、さらに、朋永弁護士を出し抜けるくらいの狡猾さを持っている……そういうヤツだ」

 リリコとタマコが勢い込んで身を乗り出す。

「それ、ダレなのよ?」

「わかってるんならとっとと捕まえにお行きよ!」

 佐武朗の周囲に禍々しい黒炎が揺らぎ始めた。

「――いい加減にしろ。うちはすでに契約を切られたんだ。依頼されていない調査はご法度だと何度言ったら――」

 ふぉっふぉと、弥曽介が肩を揺すって笑った。

「お役御免を言い渡されて素直に引き下がるなど、おおよそお前らしくないではないか。サブロ探偵事務所の所長は、もっと矜持が高かったように思っておったがの」

 からかうような声音に、佐武朗は仁王像のような目を剥いた。

「この件に首を突っ込んでもろくなことがないと知っているからです。それがどれだけ危険であるか貴方もご存じのはずだ」

「不二生薬品、か」

「それを承知でうちの者たちを関わらせたいのなら、まずはこいつらに説明してやるのが道理なのでは?」

 皮肉を交えて振られた弥曽介は、「ふぉっふぉ、こりゃ一本とられたわぃ」と笑い、「わしだって大したことは知らんぞぃ」と椅子の上で居住まいを正した。


「鴨さんや。不二生薬品について、どれだけ調べておるか」

 皆が注目する中、弥曽介は鴨志田を見上げる。鴨志田は慌てて手元の革製手帳をめくった。

「ええとですね……不二生薬品、創業は明治二十五年……製薬会社は老舗企業が多いですね……本社はこの街の壱番街、魚水うおみず通りにあります。三十年ほど前には抗生物質の自社開発製品で著しい利益を上げたこともあったようですが、今は特に売れ筋の新薬を開発するわけでもなく、細々と一般消費者向けの医薬品を製造販売しているようです。関連事業は不二生ケミカル工業、不二生バイオテックなど合計四社、他に不二生会傘下の医療施設、福祉施設などが少々。けれどそちらはあくまでも医療法人ですからね、本社の純利益は毎年横ばいといったところでしょうか……国内売上高は現在上位十位にも入っておりません」 

「フム……要するに、パッとしない会社、ということじゃな」

 目を細めた弥曽介は、ゆっくりとした仕草で顎髭を撫でた。

「昔は『くすり九層くそうばい』と言うてな、原価一割の利益九割……薬売りの儲け具合を揶揄したもんじゃが、今の時代はまるで違うの。新しい薬やワクチンとやらを作るのに莫大な金がいるそうじゃ」

「日本では社会保障費が国の財政を圧迫していることもあって、薬の値段がどんどん引き下げられているのが現状です。後発薬――ジェネリック医薬品と呼ばれるものですね――の普及が増える一方で、製薬メーカーは自社開発の資本金不足に陥り……日本の新薬開発が先進国の中でも遅れていると言われるのは、こうした背景も原因の一つでしょう」

 鴨志田が同調すると、弥曽介は大きく頷いて皆を見渡した。

「そこでじゃ。新しい薬を作りたいがそれに必要な金がない……となれば、企業はどうするかな」

 と問われても、大半は首を傾げる者ばかりだ。鴨志田が幾分自信なさそうに答える。

「資本強化のための企業再編や合併でしょうか。実際、国内トップクラスの大手製薬会社には合併や経営統合を繰り返して大きくなった例がたくさんあります。それでも、海外のメガファーマーにはまだまだ足元にも及ばないようですが」

「そうじゃな。さて、不二生薬品の話に戻るが……あの会社は昔から一匹狼みたいなところがあっての。大手からの合併や買収交渉には決して応じず、どこにも取り込まれることなく生き延びておる。これといった切り札を持たぬまま、勝ちもせず負けもせず……力なき者はより大きな力を持つ者に淘汰されるこの時世に、不可思議なものじゃ」

 のんびりと語る弥曽介に、鴨志田は眉尻を下げて考え込む。

「確かに製薬業界は今、中小クラスの製薬企業がどんどん大手に吸収されている変動期ではありますが……不二生薬品は老舗企業ということで金融機関からの信用度が高いのでしょうか……実際、数は少ないものの、自社開発の医薬品は途絶えることがないようですし……」

 そこで佐武朗が苛立ったように口を挟んだ。

「不二生薬品の自社開発製薬は、どういうわけか海外企業の製薬と酷似しているそうだ。しかも新薬は、厚労省の最終認可が他社のものに比べて格段に速い、という妬みの声もある。政府は真っ向から否定しているがな」

「それはまさか……いや、でも……」

 鴨志田の眉尻はますます下がり、弥曽介が楽し気に肩を揺すった。

「ふぉっふぉっ、だーいぶ難しい話になってきおったの。タマコとリリヒコがポカンじゃ」

 口を半開きにしていたリリコがハッと我に返って「んもぅ! その呼び方やめてよ!」と抗議する。弥曽介は再び声を上げて笑った。

「わしが言いたい要点はあと一つ。日本での薬の値段は国が決めているそうじゃな。海外からの輸入も国の許可が必要じゃ。それに加え、冬場に流行る病の……何じゃったか、インフレ……インフラ……」

「インフルエンザ、だな」

 ボソッと柾紀が突っ込むと、弥曽介は嬉しそうに頷いた。

「おお、そのエンザじゃ。わしは一度もかかったことがないからよく知らんのじゃが、その年に入荷するワクチンの種類も国が最終決定するというじゃろ。……つまるところ、我が国における薬剤の流通は、国の匙加減一つで様変わりする……と言ってもよいの。ちなみに、不二生薬品の関連事業や子会社、医療機関も含めて……それらの上層部には、どういうわけか元官僚が異常に多いという話じゃ」

「天下り……ってやつか」

 柾紀がいよいよ困惑を増して、蔓草文様の側頭部をガリガリと掻く。

 佐武朗は何本目かの煙草を引き抜いた。

「不二生薬品には、昔から密かにささやかれている噂がある。老舗の中堅会社と見せかけて、その実、裏には途轍もなく大きなバックボーンがある、とな。その理由はいくつかあるが、最も疑問視されている事実は、不二生薬品が製造販売する薬剤の半分が、海外製薬会社の開発したものと酷似している、ということだ。もしこれが、不二生薬品と海外製薬企業の合意の上での謀計であったら……そしてそこに日本政府が絡んでいるとしたら」

 煙草に火が点き、佐武朗の口から紫煙が吐き出される。

「海外製薬会社の開発薬は不二生薬品を介し、より早くより好条件で認可され、日本の製薬市場へ進出できるというわけだ。無論、両企業の間に巨額の金が行き来することは間違いない。実際、不二生薬品の社長と副社長を含むごく少数の幹部は極秘の海外出張が多く、向こうの製薬会社のとある数社と頻繁に接触しているという噂もある。そこで密かに何らかの契約交渉をしている可能性は高いということだ。一方の政府は、不二生薬品を介して海外の製薬会社と闇取引を行うことで、安価な輸入薬剤を多く流通させつつ国内の大手製薬会社を牽制し、増大し続ける医療費を抑えることができる。当然ここでも巨額の金が行き来する。――つまるところ、“パッとしない” 中堅企業は仮の姿、その内実は、製薬業界を牛耳る影の元締めと言っても過言じゃないんだ」

「ふぉっふぉっ、これはまた大仰な物言いじゃの。わしはそこまで言っておらんぞ」

 老翁の瞳が悪戯っぽく瞬き、佐武朗はフンと鼻を鳴らす。

「貴方の説明は回りくどいんですよ。……それで? 藤緒親子とは面識がありますか」

「そうじゃな、社長の徳馬氏とは何度か挨拶を交わしたこともある。齢七十を越えてもまだまだ現役続投を貫くつわものじゃ。そろそろ息子の貴祐氏を社長に据えて自身は会長職に退こうかという意思もあるようじゃが、彼に心服する一派からの是認が得られんと聞くのぅ。いずれにしても、老いてもなお戦場いくさばに生きる老軍師のような男じゃて」

「息子の藤緒副社長とは」

「話したこともないな。というのも、公の場に出てくることがほとんどない。経営手腕も凡庸とした印象じゃが、わしはあれでなかなかのものだと踏んでおる。父親である徳馬氏の威徳が大きすぎるんじゃな。加えて、もともと身体が丈夫でないらしい。現在はだいぶ落ち着いたようじゃが、副社長に就任する以前は体調不良による欠勤や入院のための長期休暇も多かったそうじゃ」

 そこで鴨志田が思い出したように顔を上げた。

「先日のスズヒサの記念式典にはいらっしゃっていたようですが」

「おお、親子ともども珍しく顔を見せておると聞いたので驚いた。なれど、わしがそれを知った時にはすでに帰ったあとじゃった」

 どこからともなく声にならない唸り声が上がり、その場はしばし静まり返った。

 人差し指の関節に歯を当てていた幸夜は、ふと顔を上げて弥曽介を見る。

「……なぁ、その藤緒社長と副社長ってどんな感じ? 背とかガタイとか」

「そうじゃなぁ……あそこの親子は揃って痩せぎすじゃの。徳馬氏は研いだ鋼のような印象を受ける」

 鴨志田がタブレット端末を操作して幸夜に見せた。

「ここに画像がありますよ。副社長はメディアにも滅多に顔を出さない方のようで、近影は数枚しかないんですが」

 画面にあるのは電子版経済誌のバックナンバーらしく、スーツを着た数名の男性が会談している画像が載せられている。鴨志田はその中で老齢の人物を指さして「こちらが社長です」と言った。

 頬の削げた面に刀で切り出したような険しさを持つ目鼻立ち。髪や眉には白いものが混じっているが、その双眸は鋭さと強さにみなぎり隙がなく、 “パッとしない” 会社社長の印象とは程遠い。

 一方、「副社長はこちら」と示された人物は、細いというより薄いといった印象が強く、その顔立ちは穏和で凡庸であった。偉大な親を持つ二世には、どこか安穏とした雰囲気が備わっていると感じるのは悪い先入観だろうか。

「息子の取締役昇格は今から十二年ほど前になるかの……その数年前から、貴祐氏の体調が優れない時期が続き、父君は息子の治療と副社長就任への根回しに全身全霊を賭したそうじゃ。副社長に就けば社長の座はほぼ約束されたようなものじゃからな。不二生薬品は代々、藤緒家の当主が社長を務めておる。その水面下では直系と傍系の争いが絶えん。今の藤緒家には一人息子の貴祐氏以外に跡目はなく、傍系に社長の座を奪われるのは耐えられんのじゃろうて」

 しみじみとした弥曽介の言葉を耳にしながら、幸夜はスズヒサの式典会場で見かけた、例の謎めいた男の風貌を思い浮かべた。あの男……細身ではあったが、もっと肩幅が広く筋肉質だった。もちろんわかっていたことだが、となると――、

 佐武朗が音を立ててデスクチェアから立ち上がった。

「これでわかっただろう。藤緒社長の意向に逆らい、これ以上あの娘に関わればろくなことにならない。国がバックにつく大物に喧嘩を売る気か? 依頼主の要望通り、この件からすっぱり手を引き、あの娘のことは忘れ――」

「――なぁ、爺さんに頼みがあんだけど」

「ほ? ナンじゃ、改まって」

 弥曽介が目をパチクリと瞬き、佐武朗はいよいよ歯を剥きだした。

「幸夜――」

「ある男を捜して確保してほしい。たぶんその男、素人じゃない。オレらが追っても捕まえることはできないと思う。爺さんとこにいるSPたちって、元刑事とか元傭兵とかが多いんだろ」

「ほぅ、どんな男じゃ? 鼠色の上着と黒い編み帽子の男なら、すでに手配済みじゃが」

 そこでリリコが「あ!」と目を見開き、幸夜はニヤリと口端を上げた。

「さすが。気づいたのは……式典の時か?」

「あのナリでうろついておればな。その上、ホテルから出ていくお前たちのことをこっそりうかがっているようだとあれば調べたくもなるわぃ。ちなみにわしがここに着いた時、この館の下で見かけての。今うちの者に追わせておる。まだ連絡がないということは、逃げられたかもしれんが」

「昼過ぎにアタシも見たのよ! 逃げて行ったのにまた戻ってきたんだわ」

 訴えるリリコに深く頷き、弥曽介は考え深げにヤギ髭を撫でた。

「どうやら、この館に近づく理由があるようじゃの。よしよし、他でもない幸夜の頼みじゃ。この弥曽介、命に代えても捜し出してみせようぞ」

「捜すのはアンタの部下だろ」

 幸夜がすげなく突っ込み、鬼の形相をした佐武朗が今にも吼えかかろうと口を開きかけた時、いつの間にかメインPC台の前に移動していた信孝が「――あっ」と声を上げた。

「どうした、ノブ」

 皆が振り向き、柾紀が近づく。

「ご、ごめんなさい……ネットのニュースにこんなのが……」

 信孝は、目の前のデスクトップ画面を指し示した。

「これって、ヒノコと一緒にタクシーに乗ってた男のことだよね」

 どれどれと信孝の背後から画面を覗き込んだ柾紀は、すぐに「マジか」と驚きの表情になる。一瞬躊躇するも、柾紀はその場の皆に聞こえるようニュース記事を読み上げた。


「『――警察の捜査本部は、三週間前、自宅で死亡した牛久間充雄さんの死因を、発見当初は拳銃による自殺の可能性が高いと見ていたが、その後の調べで他殺だと判明したことを明らかにした……』」

「そうなんじゃないかと、僕も思っていましたよ」 

 鴨志田が、幸夜が考えていたことと同じことを言う。

「『――遺体のあった室内は荒らされた形跡がなく、不審者の目撃情報もなかったが、被害者の自宅付近にある防犯カメラの映像から、現在無職で住所不定の男、天宮晃平を重要参考人として、その行方を追っている模様――』」

「天宮……!?」

「『――なお、天宮晃平容疑者は十四年前、実弟の天宮淳平さん(当時31歳)宅を放火し、天宮淳平さんの妻真梨子さん(当時26歳)と長女の陽乃子ちゃん(当時5歳)を殺害したとして全国に指名手配されており――』」


 脳内の情報処理回路がショートしたのだろうか――とうとうタマコが白目を剥いてひっくり返った。

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