第4話
――翌日。サブロ館。一堂会食の刻。
カーテンを開け放った窓から明るい陽光が差している。外は爽やかな晴天だというのに、その食卓は奇妙なくらい静かであった。
会話は途切れがちで、誰もが別の次元に意識を飛ばしているような、何かの核心に触れるのを避けているような、そんな空々しい空気が漂っている。
陽乃子は箸を持ったまま俯き、出かかった欠伸を噛み殺した。
図らずも同時にタマコが大きな欠伸をかまして、上座にいる佐武朗が新聞紙から目を上げる。タマコは慌てて咳払いし、わざとらしく居住まいを正した。
薄靄のような眠気がまとわりつく意識の中で、陽乃子は隣の空席に目を転じる。
リリコは今日もいない。今頃どうしているだろう。ちゃんと食事を取っているだろうか。
――昨夜、怒りに震えるリリコが闇雲に飛び出そうとするのを、タマコが必死に
しかし結論から言うと、三人は香穂に会えなかった。というより、香穂自身が会うことを拒否したのである。
リリコの実家は、伍番街からタクシーで三十分ほどの郊外にある、『峯岸』という表札がかかった一軒家であった。到着した時はすでに真夜中を過ぎていたこともあり、リリコは家の外から電話で、ほんの少しだけ降りてきてくれないかと香穂を呼び出したのだが、彼女は父親に気づかれることを怖れて会うことを拒んだのである。今のところ母親が黙っていてくれているため、事の次第は父親に知られていないらしい。
しかしながら香穂は、事態が悪化してしまったことと、性転換した兄の存在が学校中に知られてしまったことが余程
一方的に通話が切られてしまい、リリコはかなりショックを受けていたようだが、それでも、
結局何も進展しないまま、陽乃子は一人だけタクシーに乗せられてサブロ館に帰らされた。二人は伍番街へ戻ると言っていたので、あれから貫木なる男の捜索を続けたのかもしれない。
しかし今朝、陽乃子に遅れてキッチンに入ってきたタマコの顔面は、石材に化粧を施したかのごとく悲惨な出来映えで、その浮かない表情から、目ぼしい成果は得られなかったのだろうと察せられた。
リリコはしばらく、西町にある友人の家に居候させてもらうそうだ。宣言通り、この件に決着がつくまでは帰って来ないつもりらしい。
陽乃子の隣は空席のまま、部屋では独りきり。
独りきりには慣れていたはずなのに、リリコがいないだけでこんなにも落ち着かない自分が不思議だ。
けれど陽乃子は、リリコのためにできることなど一つも思いつかなかった。
食事を終えて皆がダイニングを出て行き、タマコと陽乃子がもたついた動きで片付けていると、一度出て行ったはずの鴨志田がふらりと戻ってきた。
いつものようにくたびれたジャケット姿の彼は、いつも以上にしょぼくれた表情で所作なさげにウロウロしている。タマコが「忘れものかい?」と声をかけると、鴨志田はドア付近をちらりと
「――タマコさん。もしかして、リリコさんの調査に手を貸しているのでは……?」
「……だったら、ナンだって言うんだい?」
一瞬詰まるも、タマコが平静を装って顎を上げれば、鴨志田は眉尻を下げて「陽乃子さんも一緒ですね?」と陽乃子を見る。
「おそらく、所長は気づいておられますよ」
しかし、タマコはフンと鼻を鳴らして腰に手を当てた。
「あたしらは正規の調査員じゃないからね、サブちゃんに文句を言われる筋合いはないよ」
「危ないことに巻き込まれたらどうするんです」
「あたしがどれだけ伍番街で過ごしてきたか、知らないのかい? 危ない目に遭わない
石壁のような身体のタマコがふんぞり返れば、小柄な鴨志田はますます小さく見える。
しばし困った顔でモジモジしていた彼だが、諦めたように「そうですね」と苦笑いした。
「今手掛けている調査がすめば、僕も少しお手伝いできるかもしれません。どうかくれぐれも、無茶はされませんように」
「わかってるよ」
答えたタマコに頷いて、鴨志田はおやと気づいたように手を伸ばした。
「――タマコさん、頭にホコリが」
少し踵を上げて、タマコのキラキラしたラメ入りウィッグに触れた彼は、「素敵なカツラですね」と目をシバシバさせて、静かにダイニングを出ていった。
見送るタマコは「とうとうかぶる決心がついたのかね」と呟いていたが、ふと陽乃子を見下ろしてフームと腕を組む。
「たしかに、サブちゃんの眼は誤魔化せないさ。そのうち大目玉を喰らうかもしれないね。……あんた、家で大人しく待っとくかい?」
「わたしが、ちゃんと叱られますから」
見上げる陽乃子に、タマコは細く描かれた眉をキュイッと上げた。
「まったく……あんたは変わった子だよ」
その晩も、タマコと陽乃子はお忍びよろしく夜の伍番街へと繰り出した。
昨夜訪れた『バルドヴィーノ』という店が目下の捜索本部と定められたようで、二人が到着した時にはすでにリリコが店に来ており、さらには、昨夜集まっていた熱帯系妖鳥たちも揃って皆が神妙な顔を突き合わせていた。彼ら(彼女ら?)も捜索協力者として俄然やる気のようだ。
しかしながら、やる気に
派手な熱帯系妖鳥たちは、真剣な面持ちで捜索会議を重ねた。
……手に入れた金は派手に使いたくなるのが悪党というものよねぇ……でも、
一方、リリコの妹香穂の置かれた状況は、良くも悪くも宙吊り状態のままらしい。
援交しているという噂が学校内に広がり、即座に母親が学校へ呼び出され、香穂への事情聴取が行われたのが昨日のこと。その場で香穂は、事の次第をすべて正直に話したそうだ。
しかし一夜明けてみれば、学校側はそれらをあやふやなまま保留し、結果として厳重注意だけですんだという。
何故なら、香穂の証言をもとに追及を受けた森居莉那という女子生徒が、「そんな仕事の紹介なんかしていない、自分は何も知らない」と真っ向から否定。香穂との携帯端末上のやり取りは、お互いがその都度削除していたため、香穂と森居莉那がつながっていたことさえ証明できなかったのだ。
さらには、動画サイトに上げられた香穂の画像が、いつの間にか削除されていたという。それによって、香穂が援助交際していたという話は本人の自供以外に証明できるものがなくなってしまい、学校側としてはこれ以上追及して事を荒立てるのは無益だと判断したらしい。
リリコ曰く「よーするに、なかったコトにしたいのよ」とのことらしいが。
結局、処罰されることはなく、父親にも知れずにすんでいるのだが、しかしそれを単純に喜んではいられないようであった。
人の記憶は、画像のように完全削除ができない。一度流れた噂は校内の端々でまことしやかに生き続け、香穂を見る奇異の眼は依然としてなくならないという。
それでも休まず学校へ行ってるんだから大したモンよ、とリリコは悩ましげに言った。
「仲のいい友だちは、変わらず接してくれているみたいね。でも、タチの悪い嫌がらせもあるらしくって……靴箱に “淫乱女” って描かれた紙が入ってたり、机にAV出演募集のチラシが貼られてたり」
ちなみに、これらの情報はすべて香穂の友人経由で仕入れたそうだ。昨晩以降、リリコは香穂から着信拒否されてしまったらしく、やむを得ず香穂と一番仲の良い友人を突き止め、その子にコンタクトを取って事情を話し、香穂には内密で協力を求めたのだそうだ。その子には怪しまれることなく、むしろ快く承諾させたというから、リリコの調査員としての能力は伊達ではないと、タマコは感心していた。
「嫌がらせの黒幕は森居莉那なんじゃないかって、その子は言ってる。でも証拠はないし、下手なことを言って目をつけられたくないからか、みんな何も言えない、って」
リリコは苦い顔で言った。今夜は
「あたしが思うに……もう一度アルバイトの依頼を受けるか、それとも金を払うかしない限り、嫌がらせは続くよ」
「また動画サイトに上げられる可能性も高いわね」
「どーしたもんか」
「方法はあるわ。ていうか、もう仕込み済みなんだけど」
え?と顔を上げる面々を、リリコは不敵な笑みを浮かべて見渡した。
「違約金五十万の支払いに応じたの。こうなったら、向こうから直接出てこさせるわ」
「ダ、ダメじゃないか! 一回でも金を渡せばヤツらの思うツボだってのに!」
タマコが叫び、他の皆も口々に
「香穂の保護者を名乗って金を払うって言えば絶対に出てくるでしょ? アテもなく捜すよりよっぽど手っ取り早いわ」
「でも、呼び出し……たって、どうやって」
「森居莉那よ。実は今日の夕方、彼女に会って貫木に伝言を頼んだの。まだ返事はもらってないけど」
「その子、認めたのかい? 貫木とつながってることをさ」
唇をO字型に丸めたタマコに、リリコはひょいと肩を
「否定してたわよ? 『ナンのお話だかわかりません』なーんてトボけてたわ。だから、段取りをつけてくれたら別であなたに十万払うって言って、連絡先だけ教えてきたの。アタシの読みに狂いがなければ、絶対に反応があるはず」
フフンと勇ましく腕を組んだリリコにタマコは感嘆の目を見張った。周りに集った仲間からは称賛の声がキャイキャイと上がる。
「リリちゃんてば、オットコ前~」
「ほぉんと、惚れちゃうわぁ」
「出てきたらこっちのモンよ! みんなでとっちめてやりましょ?」
「オトコに生まれたことを後悔させてやるわ!」
盛り上がる仲間を見渡し、タマコが呆れたように笑った。
「やれやれ、すっかり仇討ち合戦になっちまったね」
すでに勝ち戦を確信したかのように盛り上がる面々は、そのあともしばらく作戦会議――議題は主に、いかにしてヤツを痛めつけるか――に白熱した。
陽乃子は一人、店の隅っこで本日の記憶整理作業に勤しんでいたのだが、そのうちどういうわけか、皆が入れ代わり立ち代わり寄ってきては、陽乃子を飼い猫のごとく
ところが、タクシーを拾うべくイザベラ通りを少し進んだところで、思わぬ人物と遭遇した。
「――あぁら、どっかで見たことのある顔だと思ったらぁ」
甲高い声を上げて、覚束ない足取りで近づいてくる一人の若い女性。記憶済みのその顔は瞬時に陽乃子の脳内からまろび出る。
サイケデリックな柄の服を着たショートカットの黒髪で――たしか前回見た時には長かったのだけれど――ふらつく身体を行きかう人々にぶつけながら寄ってくるその女性は、どうやら酒に酔っているらしい。
リリコがハッと表情を引き締めて、その名を呼んだ。
「……大滝、可南子」
「んっふふ、そんな名前も使ってたっけ」
リリコと陽乃子の前によろめき立った彼女は、身をくねらせて笑った。その熱っぽい瞳が無遠慮にリリコの全身を眺めまわす。
「ふぅん……あの時は気づかなかったけど、あんた、
明らかに侮蔑の言葉なのだと、陽乃子にもわかった。リリコの身体がグッと硬く強張る。
「マジでそーなんだ? シンの読みは当たってたってことかー。へぇー、跡形もないじゃーん」
リリコの顔がこれ以上ないくらいの不快に染まる。可南子の値踏みするような視線が、リリコの胸元に止まった。
「ナーンでこんなにデカくなんのー? シリコン? それともホルモン注射ってやつ?」
リリコの足が一歩前に踏み出る瞬間、眼前に割り込んだヌリカベ――否、タマコ。陽乃子たちのあとから追ってきたのだろう。立ちはだかったタマコが可南子を見下ろした。
「――あたしの身内にナニか用かい」
いつもと違うドスの利いた低い声だ。タマコを見上げた酔女は
緊迫した空気だというのに可南子はせせら笑って身を
「あれぇ、この子って……」
「――カンナ」
可南子の背後から突然、男性が現れた。またしても記憶済みの顔である。柔和な丸型の顔に細く垂れ気味の目、今夜は白いマオカラーシャツを着ている。
男は無表情にリリコとタマコを見たあと、陽乃子に視線を止めた。不自然なほど長く、執拗に。
「シンー、こいつらうっさい。ナンとかしてよー」
男に気を取られて緩んだリリコの手を、可南子はぞんざいに払いのけた。そして酒に潤んだ目を陽乃子に近づける。
「ねー、この子ってさー、あの写真の子に似て――」
「来い」
陽乃子への視線を断ち切った男は、可南子の腕を引いて身を
「ちょ、……いったいって……、もう……っ」
文句を言いつつ足をもつれさせて、酔女は男に引かれていく。
見送るリリコは「ムカつく女」と中指を立てた。
一方タマコは、男の方が気になるようだ。
「あの男……津和野のそばにいたヤツだね」
しばらくタマコは二人が消えて行った通りを見つめていたが、陽乃子に目を移して顔を曇らせた。
「早くタクシーを捕まえよう」
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