第2話

「――リリちゃんが帰ってない、って?」

 つけまつ毛をバチバチ瞬いたタマコを見上げ、陽乃子は今朝起きた時、いつも隣に寝ているはずのリリコがいなかったことを説明した。

 陽乃子より早く起き出したわけではない。部屋に帰ってきた様子がないのだ。ということは、昨日亮と出て行ったきり戻って来ていないということ。どんなに夜遅くなっても明け方になろうとも、帰って来ない日はなかったのに。

 しかし、タマコはやれやれと溜息を吐いただけであった。

「大方どっかで飲んで、そのままボーイフレンドとやらの家に転がり込んでんじゃないのかい? 連絡の一つくらい寄こしゃいいのにねぇ。心配しなくても、そのうち帰ってくるだろ」

 子供じゃあるまいし、真っ当な女でもあるまいし……と、リリコが聞けば火を噴きそうなことを吐きつつ、タマコは薔薇柄のエプロンを身につける。陽乃子が知らないだけで、以前はたびたび無断外泊していたらしい。

 そうと聞いても何となく落ち着かないまま、陽乃子はタマコについて食事の支度に取りかった。


 ところが、タマコの言った「そのうち」はなかなか訪れなった。

 いつものごとく、一同会する食卓に一足遅れて現れた佐武朗が新たな依頼の入ったことを告げ、調査員たちのつかの間の休日は終わりとなったわけだが、誰がリリコの携帯端末に連絡を入れてもつながらないという。

 昨晩伍番街までリリコを送って行った亮は、バイクから降ろした時は至極ご機嫌で特におかしな点はなかった、そのあとは一度も連絡をもらっていない、と心配顔で証言した。信孝は首を振って、携帯の電源が入っていないみたいだからどこにいるか探れない、と言っていた。ペナルティで給料カットになっても知らねぇぞ、と柾紀がぼやき、タマコは、そのうち帰ってくるさ……と自信がなさそうに繰り返した。

 けれど、その日の夜が更けてもリリコは帰って来ず、連絡も取れなかった。


 ――さらにその翌日の、朝食時。

 ダイニングに現れた佐武朗は、リリコの席が空いているのを見て眉間のしわを深めた。

「まだ連絡がつかないのか」 

 空気を震わす佐武朗の低声に、一同は気まずい目線を交わし合う。佐武朗は新聞を広げながら低く言い放った。

「今日中に戻って来なければ解雇する」

「ちょ、ちょいとお待ちよサブちゃん、ナニもそこまで……」

 タマコが慌てて制すれば、鴨志田も心配そうに眉尻を下げる。

「何か、あったのかもしれませんよ。連絡もできない非常事態に巻き込まれている可能性も……」

 言い淀む鴨志田に、柾紀は辛うじて笑って見せた。

「まさか、んな大げさな……じゃあ、俺がひとっ走り行って、リリコが立ち寄りそうな店を回ってみ――」

「必要ない。調査を優先させろ」

 有無を言わせない下知。ボスの命令は絶対なのである。

 重苦しい空気に皆が黙り込み、相変わらず一人だけ、テーブルの端っこで夢とうつつの狭間を漂う幸夜が大きな欠伸をかました時、勢いよくリビングのドアが開いた。

 荒々しくヒールを鳴らして駆け込んできたのは――


「――リリちゃんッ……どこへ行ってたんだい、みんな心配して――、」

 タマコの叫びも他の皆の驚きも無視し、リリコは真っ直ぐ佐武朗のもとへ向かう。二日前、出かけた時と同じ服装だ。けれど綺麗にまとめ上げられていた栗色の髪は乱れ、その瞳は赤く充血している。佐武朗の傍へ立ったリリコは、やにわにハンドバッグから茶封筒を取り出し、佐武朗の目の前に突きつけた。

「……何の真似だ」

 じろりと目だけを上げて問う佐武朗に、リリコは真剣な顔で言った。

「調査を依頼したいの」

 その場の何人かが目を見張り息を呑んだ。

「伍番街で売春させられそうになってた女子高生を保護したわ。彼女の意思じゃない。罠にはめられて追い込まれて強要されてる。きっと組織的に裏で工作してる奴らがいるのよ。それがどこの誰なのか、突き止めてほしいの」

 リリコのハスキーな声はさらに枯れている。佐武朗は突き出された茶封筒を手に取り、ぞんざいな手つきで中身をあらためた。入っていたのは数十枚の高額紙幣。

「や、やぶからぼうに、ナンだってんだい……ちゃんとわかるようにワケをお話しよ」

 タマコがオロオロとたしなめるが、リリコは苦渋に引きれた顔のまま、佐武朗を見下ろした。

「依頼主はアタシよ。それで足りなければ追加で出すわ」

 すると、佐武朗は興味なさそうに茶封筒を卓上へ放り投げた。

「今すぐは無理だ。依頼が立て込んでいる」

「――ウソよっ! 途切れてアナがいたの二日前じゃないっ! 昨日の今日で立て込むほど入ってくるはずないわ!」

 噛みつかんばかりの形相を、佐武朗は事も無げにあしらう。

「調査依頼の受諾とその采配は俺の仕事だ。調査を円滑に進めるため、かつクライアントの機密と信用を守るため、依頼受諾から調査の着手まで多少のずれが出ることもある。今は待ちが出ている状態だ。従業員だからという理由でお前を優遇することはない」

「割り込みがルール違反なのはわかってるわ! だからこうしてお願いしてるんでしょうっ? 今入ってる調査の片手間でいいから――」

「お前は今まで、片手間で仕事をしていたのか」

 佐武朗の鋭い視線がリリコを刺した。

「依頼人と契約を交わす以上、依頼された仕事には全力で取り組むのがプロの調査員だ。すでに一日無断欠勤した上、横から余計な面倒事をねじ込み貴重な戦力を無駄に削ぐなど、この仕事を舐めているとしか思えんな。プロなら調査ひとつの重みを知れ」

 冷徹な佐武朗の言葉にリリコはカッと紅潮した。唇を噛んで卓上の茶封筒を引っ掴む。

「――もういいっ! 頼まないわよっ!」

 金切り声を発し出て行くリリコ。「リリちゃん!」とタマコが腰を浮かし、陽乃子は完全に立ち上がった。ぎろりと睨み上げる佐武朗に構わず、陽乃子はリリコのあとを追う。

 陽乃子の背後で、佐武朗の断固とした非情な声が聞こえた。

「受けた依頼が最優先事項だ。例外はない。いいな」


 リリコを追って陽乃子が部屋に入ると、開いたクローゼットの中から次々と衣服が飛び出してきた。

「……リリコさん」

「ゴメン、ヒノちゃん。アタシしばらく帰らないから」

 どこから引っ張り出してきたのか、小ぶりのキャリーバッグをベッドの上で開き、リリコは丸めた衣服を乱暴に詰めていく。

 部屋のドアが開いて、タマコも入ってきた。

「――どこへ行くつもりだい? 今出て行ったらクビにされちまうよ?」

 諭すタマコをちらりと見るも、リリコの手は止まらない。

「それでもかまわない。あの子を助けなきゃ」

「あの子って……売春させられそうになってたっていう女子高生かい? ナンだってそんなに入れ込むのさ。知り合いなのかい?」

 心配そうに覗き込むタマコ。リリコは答えず、不要なハンガーを放り投げる。タマコは首を振って溜息を吐いた。

「サブちゃんはああ言ったけどさ、ワケを話せばみんな力を貸してくれると思うよ? ひとまずこっちの仕事を片付けながら……」

「ムリよ。みんなボスに逆らうはずないわ。それに、アタシだってこんな状態で他の仕事なんてできない。香穂を守れるのはアタシしかいないの。アタシひとりでも守ってみせるわ」

 まるで自分自身に言い聞かせるような口ぶりだ。ドレッサーにある化粧品や小物を手当たり次第に詰め込んで、リリコは勢いよくバッグを閉じた。

「とにかく、しばらく帰らないから。クビになったら……その時は残った荷物を取りに来るわ」

「――リリちゃん……!」

 キャリーバッグの持ち手を手荒く引いて、リリコは思い詰めた顔で部屋を出て行ってしまう。

 陽乃子はタマコを見上げた。四角い大きな顔が困ったように傾いている。

「カホ……って言ってたね……はて、どっかで聞いたような……」

 つけまつ毛をパシパシ瞬いたのち、タマコはアッと拳を叩いた。

「前に聞いたことがあるよ……香穂……そうそう、香穂ちゃん……」

 呟くように言って、タマコは無惨に散らかった部屋を見渡した。途方にくれた顔で息を吐き出し、陽乃子を見下ろす目にはどこか複雑そうな色がある。

「リリちゃんには妹がいるんだ……半分だけ血のつながった」



 ――数刻のち、佐武朗が出かけたタイミングを見計らって、タマコは地下に降りた。当然、陽乃子もあとについていく。

 地下の事務所にはリリコを除く調査員全員がいた。タマコは、話に出た女子高生がリリコの妹であるらしいこと、リリコはクビ覚悟で出て行ったことを説明し、何とかリリコに手を貸してやってくれないかと直訴した。

「まさか、妹さんだったとは……」

「しかし、俺らにゃどうしようもねぇしなぁ」

 鴨志田と柾紀は驚きつつも思案顔だ。

 タマコは身をくねらせて、デスクに座る二人の間へ滑り込んだ。

「そこをナンとか頼むよぉ。このままじゃリリちゃんが不憫じゃないか。妹が売春を強要させられてるなんてさぁ、ナンとかして食い止めたいってのは、兄貴として当然の心情だろ?」

「兄貴ねぇ……跡形もねぇけど」

 柾紀が溜息を吐きつつ煙草をくわえ、鴨志田が膝元にすがるタマコをなだめていると、メインPCに向かっていた信孝が「見つけたよ」と言った。

「携帯の電源を入れたみたい。今いる場所は西町だね」

「開き直ったか。さすがに端末がなきゃ何かと不便だしな」

 どうやらGPS機能でリリコの居場所はわかるらしい。陽乃子は信孝のもとに走り寄った。

「詳しい場所を、教えてください」

 デスクトップ画面に向いていた信孝がギョッとしたように振り向き、次いで助けを求めるように視線を泳がせる。

「ヒノちゃん……気持ちはわかるけど、ここは大人に任せておおきよ」

「危ねぇことにクビ突っ込むとボスに叱られっぞ? 大人しくしとけ」

 タマコと柾紀の口調は優しいが、まるで幼児に言い聞かせるかのようだ。陽乃子は頑として信孝の傍から動かなかった。

「わたしにも何か、お手伝いできることがあるかもしれません」

 皆が驚いたように目を見交わし、タマコが慌てて立ち上がる。

「いや、だけどねヒノちゃん――」 

「――あいつ、騙されてんじゃねーの?」

 不意に、他方から気だるげな声がした。階段下の長椅子で一人横たわっていた幸夜が、のっそりと起き上がる。

「最近の女子高生は平気で身体を売るらしいぜ? オッサンと寝ることぐらい、割のいい小遣い稼ぎとしか思ってねーんだよ。あいつの妹も、自ら望んで売春してたかもしれねーだろ?」

 長い前髪をうっとおしそうにかき上げて、幸夜は陽乃子に焦点を合わせ眼をすがめた。

「たまたま身内に見つかって、咄嗟にウソついて被害者ぶったのかもしれねーだろ」

 幸夜の、左右対称の顔立ちが奇妙に歪んで見えた。口元は仄かに笑んでいるのに、ちっとも笑っているように見えない。

「リリコさんは、嘘をついていません」

 静かにきっぱりと言い返せば、その場の空気が驚きに揺れる。

 けれど幸夜は、嘲笑じみたひと息を吐き出してゆらりと立ち上がった。

「……お前に、ナニができんの」

 ゆっくりと、ショートブーツの踵を鳴らして、彼は近づいてくる。

「リリコの妹がマジで脅されてるんだとしたら、裏にいるヤツらは何かしらの弱みを握ってるってことだ。借金か、ヤバい画像か動画か……ナンにしたってヤツらにとっちゃ大事な金づるなんだよ。簡単に帳消ししてくれるわけがない。交渉すれば必ず代償を求められる。お前にそれ相応の金、支払えんの?」

 陽乃子の目の前に立つ幸夜。陽乃子は数歩後ずさり、その背は機材で埋まったスチール棚で行き止まった。

 わずか十数センチ上まで迫った幸夜の眼が、怖い。

「――それとも、お前がその貧相な身体、売るか」

「ユキちゃん」

「幸夜ぁ、やめろ」

 タマコと柾紀が同時に制した。

 陽乃子に屈みこんでいた幸夜は、たっぷり五秒のち身体を起こす。離れる間際、幸夜は低く小さく「ワケあり者の同情心か」と言った。

 それがどういう意味なのか、陽乃子が考えを巡らせる間に、幸夜は背を向け怠そうな足取りで去って行く。そのまま階段を上がっていってしまった。

 彼の足音が完全に聞こえなくなったところで、誰ともなく溜息が漏れる。最後の言葉は誰も聞かなかったようだ。

 ――と、すぐ傍に座る信孝と目が合った。すぐに逸らされたその目にはどこか探るような色。

 信孝には、幸夜の言葉が聞こえていたのかもしれない。

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