第4章 ピリッと甘辛 サルカニ合戦
第1話
サブロ探偵事務所には、決まった休業日がない。
年中無休というわけではないようなのだが、すべての依頼受託は所長である佐武朗が取り仕切っているので、彼が依頼を受け続ければ、必然的に調査員も働き続けなければならない。
というのもこのサブロ探偵事務所、宣伝広告はおろか看板さえも掲げていないというのに、限られた社会階層――特に富裕層だとか上層階級だとか呼ばれる人々――の間では、なかなか名の知れた探偵事務所のようで、調査スケジュールはいつも埋まっているのが常であり、順番待ちになることもしばしばだという。ゆえに、数か月にわたって調査続きという過密労働も珍しくはないらしい。
しかしながら
依頼が来ないのか、あるいは故意に受けていないのか、その辺りは佐武朗のみが知るところではあるが、調査員としては依頼がなければ仕事がないわけで、つまり、完全休暇となるわけである。
「……まったく、久々にアナが
コンクリートに囲まれた地下の事務所。相も変わらず突風が通り過ぎたような散らかりを見せる部屋の真ん中で、タマコが大きな指定ゴミ袋を広げながらブツクサと文句を言う。
陽乃子が「あな……」とタマコを見上げれば、メインPC付近から声が上がった。
「依頼が途切れて、調査スケジュールに空白ができることだよ。ヒノコ、これシュレッダーにかけて」
わっさり紙の束を手渡してきたのは信孝だ。陽乃子が受け取ると、タマコが「んもぅ」と紅色の唇を丸める。
「ノブちゃんたら “ちゃん” くらいお付けよ。ヒノちゃんの方が年上なんだよ?」
「ヒノコのスリッパとエプロン、ダサい」
「リリちゃんが買ってきたんだよ。可愛いじゃないか。黒猫のスリッパ、黒猫のエプロン。ポケットも黒猫」
「ダサい」
信孝の説明どおり、本日は探偵事務所の休業日――調査員たちのオフ日なのだそうだ。
それを知ったタマコはさっそく朝食の場で、午後から大々的に地下事務所の大掃除をする、と宣言した。皆も手伝うようにと念を押したにもかかわらず、降りてきたのはタマコと陽乃子、そして信孝のみ。他のメンバーは食事を終えると早々に出掛けてしまったようだ。
日頃から、たとえ調査が立て込んでいても交代で休みを回しつつ適当に息抜きをしている調査員たちだが、やはり公然なる “休業日” は、心置きなく羽を伸ばせる絶好のチャンスらしい。
ちなみに別所帯を持っている鴨志田は、休みとなればサブロ館に来ることもないので、つまるところ、ここは三人で片付けるしかないようだ。
「どうせ依頼が入ったら呼び戻されるんだし。それまでは自由に過ごしたいんだよ」
デスク上の紙類を仕分けしながら、信孝が素っ気ない口調で言う。タマコは瞬く間に満杯となったゴミ袋を「うんとこせ」と持ち上げた。
「そうそう。『何事も調査をおいて優先されることなかれ』ってね。サブロ諸法度、第……なん条だったかねぇ」
「知らない。――はい、これも全部シュレッダー」
信孝は容赦なく、陽乃子の前に書類の束をドサリと積んだ。
ストーカー被害調査終結から約一週間。
危惧していた信孝の親権問題は今のところ保留状態にあるらしく、彼は引き続きサブロ館に住み、サブロ探偵事務所の調査員(アルバイト扱い)として情報収集を手伝う毎日を送っている。もちろん、ここの住人たちもそれが当然として、何事もなかったかのように彼と接している。
しかし、いくつか変わったこともある。
信孝が、陽乃子の前でも目出し帽を被らなくなったこと、毎日の朝食に降りてくるようになったこと、そして陽乃子とも多くはないが、言葉を交わすようになったこと。
ただしタマコのツッコミどおり、完全呼び捨て上から目線ではあるけれど。
「――これ片付けるの、どれだけかかるんだろ……」
小さく呟きながら書類を片付けていく信孝が、何気なくポケットから取り出した何かに視線を落とす。ふと、陽乃子と目が合った信孝は、慌ててそっぽを向いてそれをポケットにしまった。
陽乃子は知っている。あれは信孝がヒステリーを起こして暴れた時、手あたり次第に投げ散らかした物の中の一つ、懐中時計だ。それ以前に壊れてしまっていたようなのだが、先日の式典の折、柾紀が信孝の祖父に頼んで直してもらったのだと、タマコが教えてくれた。そしてその懐中時計は、信孝がまだ小さい頃、祖父から曾祖母経由で信孝に贈られた、スズヒサ時計特製の懐中時計なのだということも。
ここ数日、彼がポケットに入れているそれを、時々こっそり出しては眺めているのを、陽乃子は知っている。これも、信孝に起きた小さな変化の一つであった。
陽乃子は業務用シュレッダーに紙を喰わせながら、こちらに背を向けている信孝を見た。
あの式典以来、彼から向けられる敵意はすっかりなくなったように感じる。柾紀や鴨志田は大進歩だと笑っていたけれど、陽乃子は少し不思議に思っている。
あの日、陽乃子は自分でも驚くほど勝手な振舞いをしてしまった自覚があるのだが、信孝はもとより誰からも――佐武朗からも――叱られることはなかった。どうしてだろう。
――と、陽乃子の手が宙で止まった。
廃棄処分行きと回された紙束の中に目を引く語句。陽乃子はそっと数枚を引き抜き、静かに折り畳んだ。シュレッダーの裁断音に紛れるようにして。
顔を上げると、信孝はまだパソコンデスクに向いており、タマコはテーブルの下を覗いている。陽乃子は折り畳んだ紙をエプロンのポケットに入れた。
「ヒノちゃん、シュレッダーに溜まった裁断屑はこの袋にまとめておくれ」
「はい」
「ヒノコ、これもシュレッダー」
「はい」
三人がかりで取り組むこと数刻、不要なゴミをまとめて床を掃き、デスクやテーブルの上を拭き清めて、何とか真っ当な事務所らしくなったところで、車庫に通じる地下口の自動ドアが開いた。
「ただーいまー」
ハスキーな声を響かせて入ってきたのはリリコだ。ざっくりと胸元が開いた薄手のニットにスリムパンツというカジュアルな格好をしたリリコは、両手にたくさんの紙袋を下げている。
「おやおや。薄情者が一匹帰ってきたよ。さぞかし有意義なショッピングができたんだろうねぇ」
タマコが恨みがましい目で皮肉るも、リリコはシレッとどこ吹く風だ。
「まぁねー。セール品から新作夏ものまで、けっこう買えたわ。ヒノちゃんのお洋服もたくさん買ってきたから、あとで着てみましょ?」
「ありがとうございます」
頭を下げつつ、陽乃子は内心驚くばかりだ。リリコが陽乃子のためにと買ってきた衣服類はすでに相当数ある。中には、いつどんな場面で着用すればいいのだろうと頭を捻るタイプのものもあり、着るものにこだわらない陽乃子は戸惑ってしまう。
そんな陽乃子の困惑をよそに、リリコは「いいのよー」と笑ってすり寄り、耳もとに口を寄せた。
「……ここだけの話ね、ボスからたんまり経費をもらってるの。ヒノちゃんの生活用品を揃えてやれって」
囁いたリリコは、タマコに向かって首を伸ばす。
「マーマー、アタシこれからまた出かけるからー。デートのお誘いがあってね、って言っても、ただのボーイフレンドなんだけど。新しくオープンしたクラブに連れて行ってくれるって言うのよ。それで、荷物と車を置きに来たってわけ。――さぁて、急がなくっちゃ」
あー忙しい忙しい、と漏らしながら、リリコは紙袋を持ち直して
「まったく……反省どころか、悪いとさえ思ってないね、あの子は」
タマコが鼻息荒く放ったところで、再び地下口の自動ドアが開いた。入ってきた人物は驚いたように室内を見渡す。
「うわー、ずいぶん綺麗になったね。ママさん、幸夜いる?」
「リョウちゃん。おかえり。今日は早いじゃないか」
ライダースジャケットを着た亮だ。彼は大体このスタイルで診療所に通っている。
「ユキちゃんはゴハンのあとから見てないよ。出かけたんだろ」
タマコの言葉に、亮は「そう……どこに行ったのかな。携帯は繋がらないし」と、残念そうな顔をする。
亮と会うのは久しぶりだ。最近は診療所勤務に加えて大学病院の方でも仕事があるらしく、一同会する朝食の場にもいないことが多い。
榛色の髪をかき上げた亮は、ふと陽乃子に向いて「あ」と口を開けた。
「――聞いたよ陽乃子ちゃん。『スズヒサ』の式典での武勇伝。信くんのお母さんに物申したんだって?」
縁なし眼鏡の奥の瞳を細めてニコニコと笑う亮に、タマコがアワワと
「物申したって……誰から聞いたんだい?」
「鴨さんだよ。すごく感心していたな。『陽乃子さんの必死の訴えが、美那子さんの
「まぁ、たしかにあれは意表を突いたかもしんないけどさ。この子には驚かされてばっかりだよ」
「でもよかったじゃない。結果オーライで。――ねぇ、信くん?」
振り仰いで声をかけるも信孝は振り向かず、聞こえていないフリをしている。
亮が肩を
「あーら、リョウ。今帰ってきたの?」
「うん。でもすぐに出るつもり。野暮用が立て込んでいてね」
「グッドタイミーング! バイクで行くなら乗せてって。伍番街まで」
「はいはい」
苦笑する亮と弾む足取りのリリコに、タマコはピッと人差し指を向けた。
「あんたたち、危ないとこに行くんじゃないよ。最近、繁華街で怪しいやつらが増えてるって噂だからね。売春斡旋屋だとか、ドラッグの売人だとか」
「ママさん、僕たちをいくつだと思ってるの?」
「ホーント心配性なんだから。――ヒノちゃん、今日は遅くなるから先に寝てて。お土産買ってくるわ」
パチンとウインクするリリコ。陽乃子は頷きつつ、言われなくても毎日欠かさず自分の方が先に寝ているのにな、と思う。タマコがハッと目を剥いた。
「お土産って……リリちゃんっ! くれぐれもアール18で頼むよっ!」
叫んだタマコの声は、閉まった自動ドアに跳ね返される。
見送る陽乃子の手は、無意識に黒猫の形をしたポケットを押さえていた。
* * *
――伍番街、オダリス通り。
メイン通りからそう離れてはいないものの、比較的安穏とした裏通りである。個人経営の閑雅な風情を持つスナックやバーが多く、夜が更けても表通りのようなギラついた雰囲気はない。
カフェバー『久童』は、そんなオダリス通りの中ほどにひっそりと構える小さな店である。
ドリンクメニューに載る品数は少ないが、言えば大抵の酒は出してくれて、備えがなくても客の要望次第では仕入れてくれるという奇特な店だ。店に来る八~九割が常連客なので、その辺は融通を利かせてくれるのだろう。
しかし、幸夜がこの『久童』に時たま足を運ぶのは、酒類の豊富さゆえではない。幸夜はこの店に来ても、大概キューバリブレもどき(コーラにほんの数滴ラム酒を落としたもの)しか頼まないので酒の種類はどうでもいいのである。幸夜が気に入っているのは、この店に無駄な装飾がないからだ。
壁には絵画やパネルが一枚も飾っておらず、出されるグラスや皿にもロゴ一つ入っていない。バーにありがちなカウンター内に酒壜がずらりと並ぶ光景も、この店では見られない。酒壜棚は客の目から上手く隠されるような設計になっているからだ。マスターがこの店を始める時、望んでそういう造りにしたのだという。
要は、マスターのセンスが幸夜の神経を逆撫でしない、というのが大きな理由である。加えて、幸夜のような変わり種の珍客にも常に紳士的な態度で接し、良い加減で放っておいてくれるとなれば、ここは幸夜にとって稀少な安息の場所といえよう。
いつものごとくカウンターの一番端っこで、幸夜が沈静の時間に身を浸していると、カウンターの中にいるマスターがふと顔を上げて「いらっしゃいませ」と微笑んだ。――と、すぐに耳へ届く馴染みの声。
「――幸夜。やっと見つけた」
幸夜が振り返りもせず、お通しで出されたチョコ菓子をカリリと噛めば、背後から声の主――亮がひょいと顔を覗かせる。
「深読みしないで先にここをチェックすべきだったな。久しぶりの穴なら朝までコースかなーって思って、
マスターに向かって愛想よく笑顔を見せる亮。幸夜は頬杖をついて顔を
長年一緒に暮らせば、いくらお互いが干渉し合わなくてもそれなりに行動パターンは知れるものだ。確かに一時間前なら、幸夜は蘇芳のところにいた。
亮は、幸夜の手元にある半分ほど減ったグラスに目を落として「相変わらずだね」と笑い、隣に腰を下ろす。
「すみませんマスター、今日は飲めなくて。炭酸水もらえますか?」
手に持ったバイクのキーを振ってみせると、口髭のマスターは快い笑みで承る。亮は手を伸ばし、丸くて小さなガラス椀に入ったチョコ菓子を摘まみ上げた。
「あ。これってもしかして……」
ふっくりしたさや豆を思わせる細長い形の小さなチョコ菓子。その形から想像できる通り、チョココーティングされているのはピリリと辛くて香ばしいあられ菓子。
「……やっぱり。 “柿の種” だ」
不思議そうな顔で味わう亮のもとに、レモンスライスと氷を入れた冷えたグラスと、濃緑色の小瓶が置かれた。次いでマスターはもう一つ、幸夜に出したものと同じガラスの小椀を亮にも出してくれる。
「旅行に行った娘がお土産に買ってきてくれたんですがね、なかなかの珍味だったもので、幸夜くんのお口に合うかなと思いまして」
「ふーん、意外とイケますね。……聡美ちゃん、お元気ですか? 大学二年生でしたっけ」
「はい」と頷いたマスターは、グラスに炭酸水を注ぎながら目を細めた。
「たまにはランチにもいらっしゃってください。聡美は亮先生のファンなので喜びます」
「ああ、ランチは聡美ちゃんがアルバイトで入っているんでしたね。じゃあ今度おじゃまして、たくさんサービスしてもらっちゃおうかな。……でも最近は忙しくて、ランチどころか家にも帰れないんですよ。うちの院長先生ってば、あれだけ顔が広いのに出不精の偏屈者で。学会関係は全部僕に丸投げだから参っちゃいます」
「……さっさと用件を言え」
幸夜がつい苛立ちを露わにすると、亮は苦笑しながら携帯端末を取り出した。
「せっかちだな、幸夜は。貴重な時間を割いて調べたんだよ? もっと
マスターが静かに微笑んでさりげなくその場を離れていく。
亮はグラスに注がれた炭酸水を一口飲んで、端末のメモフォルダを開いた。
「――こないだ話した、壱番街のドラッグ常用者による暴走車事故についてなんだけどね。あの時、巻き込まれたタクシーの乗客二人――中年の男性と制服の少女が、騒動の最中に忽然と姿を消したらしい、って言ったでしょう? でも実はその話、事実と少し違っていたことがわかったんだ。姿を消したのはたしかに男性と少女の二人なんだけど、同じタクシーに乗っていた二人が消えたんじゃなくて、別々のタクシーから一人ずつ客が消えたみたいなんだ。情報が混乱しちゃったんだね」
「別々のタクシー……?」
眉を
「ここに車両の列があって……これが、中年の男性と制服姿の女の子が乗っていたタクシーだとすると、その数台後ろにもう一台、別会社のタクシーがあったってわけ。後ろのタクシーに乗っていたのは運転手と男性客一人のみ。それで、信号待ちしていたこれらの車の列に、暴走車が前方から突っ込んできて――、」
丁寧に並べたチョコ菓子の一列を、指でつまんだチョコ菓子で軽く弾き飛ばして見せる。チョコ菓子の列はバラバラになり、亮の指はその中の二つを順に指し示した。
「現場が騒然となっている隙に、前にいたタクシーの乗客二人のうち、制服の少女一人がいなくなってしまい、その一方で、後ろにいたタクシーからも男性客がいつの間にか消えてしまっていた……ってことみたい。消えた二人の間に、何か繋がりがあるのかどうかはわからないんだけど……」
亮はカウンターの上に散らばったチョコ菓子を一つ口に入れて、携帯端末の画面を指でなぞった。
「まず、後ろのタクシーに一人で乗っていた男についてなんだけどね……タクシーの運転手によると、乗ってきた時から怪しかったんだって。なんでも、薄汚れた鼠色のジャンバーを着て黒いニット帽を被っていて、白いマスクと色の濃いサングラスまでかけて……」
「鼠色のジャンバーと、ニット帽……」
「ん? 心当たりでも?」
つい先日、そんな格好の男を目にしたばかりではなかったか。
「いや」と曖昧に首を振った幸夜をちらりと見て、亮は続けた。
「その男は、後部座席に乗り込むなり『あのタクシーを追ってくれ』って言ったんだって。映画やドラマじゃあるまいし、これは怪しいって思っていたら案の定、事故に巻き込まれててんやわんやの隙にいなくなってしまって。初めから無銭乗車のつもりだったんじゃないかって運転手は言っているらしい」
亮は炭酸水を一口飲んで、再び携帯端末に目を落とす。
「後方のタクシーに乗っていた男性については、ここまでしかわからなかったな……次は、前方のタクシーに乗っていた制服少女と連れの男性についてね。その中年の男性のことなんだけど……」
そこで亮は奇妙な間をおき、複雑そうな表情になる。
「――結論から言うと、六日前に亡くなっているんだよね」
「は?」
さすがにこれは思わぬ展開、チョコ菓子を摘まむ幸夜の手が宙で止まる。
「ええとね、順を追って説明するね」
亮は苦笑して、散らばったチョコ菓子の一つをカリと噛んだ。
これも大学病院の医師経由で聞いた話だから曖昧な部分は多いんだけど――と前置きして亮が語った、タクシー運転手の証言によると。
そのタクシーは、小肥りな中年男と制服の少女を弐番街で乗せた。具体的な場所を示さず、ただ壱番街に向かってくれと指示した中年男の傍ら、制服の少女は一言も発さなかったそうで、タクシーの運転手の印象では、最初は親子かなと思ったけれど、親子にしては余所余所しかったような気もする、とのことらしい。
タクシーが壱番街に入ってほどなく、メインストリートである犬棒通りの交差点で、暴走車の事故に巻き込まれた。そのタクシーもかなりの衝撃で追突されて、運転手は一瞬、意識が落ちたそうだ。
運転手が気づくと辺りは大混乱となっており、鳴り響くサイレンの中、怒号や叫声が飛び交い、人々が右往左往している。すぐに後部座席に乗っていたはずの客二人がいないと気づき、とにかく車から出ようとするが、脳震盪を起こしたのか頭がふらつき身体が思うように動かない。やっとの思いで車から這い出たところを、到着した救急隊員に救助され、運転手は搬送組に振り分けられて救急車に乗せられた。
その運ばれる途中、乗客だった中年男を見かけた。傍らに少女の姿はなく、男は片腕を押さえたまま騒然となった現場をフラフラと
「大学病院で聞けたのはここまでなんだ。それで僕も引き上げようと思ったんだけど、念のため、事故当時のもう一つの搬送先となっていた中央病院を調べてみたんだよね。そうしたらビンゴ、それらしい風体の男が軽傷で受診しててさ。僕も探偵の素質があるのかなって思っちゃったよ」
「無駄口はいいからさっさと先を言え」
チョコ菓子を一つ、亮の手元に投げつけると、彼は「はいはい」と笑ってそれを口に入れた。
「その中年男の名前は
薄い色の瞳が、幸夜を見る。
「偶然にも、牛久間充雄が研修医だった頃の同期の先生が中央病院にいたらしくて。……ええと、
「半年前まで」
繰り返すと、亮は溜息交じりに頷いた。
「飲酒運転で人身事故を起こしたんだよ。懲役刑は免れたみたいだけど、正琳堂病院を解雇された上に二年の医業停止処分を受けてる」
へぇ、と幸夜は指に摘まんだチョコ菓子を口に放り込んだ。
「……で、その医者が死んだってのは?」
「何日か前、中央病院に警察が来たんだって。なんでも、牛久間充雄の遺体が自宅で発見されたので、彼とつながりのあった医師たちに詳しい話を聞きたいって。死因は拳銃で頭部に一発。凶器の拳銃は遺体が握っていて、遺書も残されていたって。一応、自殺の線で捜査しているみたいだったらしいよ」
「医者が拳銃で自殺、ね……」
幸夜の腑に落ちない声音を感じ取ったか、亮は難しい表情のまま頷いた。
「その同期の先生もね、なんかヘンな感じがしたって言ってたな。わざわざ他県の警察がここまで調べに来たのは、自殺と断定できない多少の疑惑があるんじゃないか、って。まぁ、この国では、拳銃が使われたっていうだけで大ごとになるからね」
指先で散らばったチョコ菓子を集めながら、亮は続ける。
「とはいえ、もともと牛久間に関しては胡散臭い印象があったらしい。牛久間という男、昔は地味で生真面目で目立たないタイプだったんだって。でも、十二、三年くらい前から突然トントン拍子に出世していって、妙に金回りもよくなったっていう噂が流れてきて。彼を知っている医師たちの間では、アイツ裏でヤバいことしているんじゃないか、とか話していたみたい」
「医者が破格に出世して破格に金儲けできる “裏” って、なに」
鼻先で笑いながら問うてやれば、亮は「それ、僕に聞く?」と苦笑いする。
「医者によってケースは色々だと思うよ。出身大学の “格” が上であるほど必然的に出世しやすいだろうし。勤務する病院の系列ランクが高ければ、天下り先にこと欠かないでしょう? 医療業界のヒエラルキーそのものが金儲けの段階層図なんじゃない?」
「
「他人事だよ。少なくとも、小さな町医者でしかない
肩を
「そういえば、話に出た正琳堂病院ってちょっと変わっていてね、医療法人が製薬会社系列なんだよ。
幸夜の脳髄の奥あたりがチカリと反応した。
「不二生薬品……それ、見たな」
ごく最近目にした、ズラリと並ぶ企業名、役職、姓名の中に……
「不二生薬品の社長と副社長……
亮は「そうなんだ」と少し怪訝な表情を見せた。
「『スズヒサ時計』の愛好家は各界の重鎮に多いって聞くけど……不二生薬品ってそんなに儲かってる感じはないんだよなぁ。国内じゃそれほどの知名度はないし、新薬の自社開発もパッとしなかったはず……でもまぁ、それは社長の趣味嗜好と関係ないか」
そう言って亮は、携帯端末のフォルダに入っていたメモをすべて消去した。
「――ということで、僕が調べた成果はここまで。肝心の制服少女についてはまったくわからなかったよ。小柄で長い黒髪の女の子……ってことだけ。大学病院にも中央病院にも、それらしき女の子は搬送されていなかった。タクシーの運転手さんに陽乃子ちゃんの写真でも見せて確認すればはっきりするんだろうけど……そこは本業の探偵さんにお任せするよ」
飲み干したグラスに残りの炭酸水を注ぎながら、亮は「あともう一つ」と人差し指を立てた。
「言おうかどうか迷ったけど、気になったから伝えておくね。陽乃子ちゃんの左の脚の側面部に、わりと大きな火傷の
「へぇ」
「ちなみに今はね、子供が火傷を負って病院に来たら、医師はまず虐待の有無を疑うんだ。陽乃子ちゃんがそうだったとは限らないけど」
「へぇ」
気のない反応の幸夜に、亮は「もう」と小さく吐息をついた。
「自覚がないなら教えてあげるけど、幸夜は自分で思っている以上に陽乃子ちゃんへの関心があると思うよ? 珍しく他人に興味を持ったようだから、僕はちょっと安心したのに」
「ンだよそれ……」
「でも、探偵の真似ごとはこれでおしまいにするよ。実はちょっと気が引けていたんだ。陰でコソコソ詮索しているみたいで。ほら、サブロ諸法度にもあるでしょう? 何条だっけ……『調査員同士の私事に関する不必要な詮索・干渉を慎むべし』」
「……ああ、そんなのあったな」
“サブロ諸法度” なる馬鹿げたルールは、サブロ探偵事務所を設立した時分、あの風来翁の権頭
そんなことより、幸夜が気になるのは――
「……佐武朗が……なーんか隠してるんだよな……」
「え? 佐武朗さん?」
――ここ最近、佐武朗の苛立ちを目の当たりにすることが増えた。
佐武朗という男、常に不機嫌な鬼面ではあるが、あれは己の心情を巧みに隠す仮面のようなものだ。たとえ百億が手に入っても、札束を数える顔は経費の領収書に向けるそれと変わらぬ渋面なのだろうと、幸夜は思っている。
その鉄仮面が珍しく頻繁に苛立ちを露わにし、その度に黒い陽炎のような怒気を漂わせている。
他の皆は気づいているだろうか――彼の苛立ちはいつも、天宮陽乃子に絡んでいることに。
佐武朗は、幸夜たちの知らない陽乃子に関する何かを知っている。そしてそれを、幸夜たちに明かすつもりはないのだろう。明かさないというより、明かせないのかもしれない。おそらくそれが、佐武朗の超合理主義を逆撫でするのだ。だから苛立っている。
「ねぇ、このあとどうするの? ヒマならつき合ってよ」
屈託なく笑いながら幸夜の髪に手を伸ばしてくる亮。その手を即座に跳ねのけた。
「断る。どうせナンパの盾に使うんだろ」
「幸夜が一緒だとラクなんだよね。男は声をかけてこない」
「女はかけてくるだろ」
吐き捨てれば、亮は「うん。倍増しで」と楽しそうに笑った。
「どうしてみんな、ナンパなんて不毛なことをするんだろうね?」
「知るか」
『サブロ館』に住む者は多かれ少なかれワケありだ。皆がそれぞれいわくつきの事情を抱えている。そして付き合いが長くなればなるほど、そうした裏事情は皆の知るところとなってしまう。
あのキノコ娘とも、いずれそういう仲になるのだろうか――
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