第7話
――開いたドアから、勿体ぶった動きで入ってきた男。
頬骨が高く鷲鼻を持ち、左右の目の大きさが少し違う顔――陽乃子の記憶にある顔だ。髪をオールバックにして、ダブルボタンのスーツを着ている。
眉間にしわを寄せた佐武朗が、低くその名を呼んだ。
「……津和野」
リリコが慌てて陽乃子とタマコを引っ張り、三人は頭をひっこめた。陽乃子たちがいるカウンターはドアに対して真正面なのだ。けれど陽乃子は、二番目に入ってきたもう一人の若い男と目が合った気がした。濃グレーのマオカラースーツを着た、色白でやや垂れ気味の細目を持つ丸顔――これも覚えている顔。
津和野と呼ばれる男と、影のように付き添う男。最初に見た時も、この二人は一緒にいた。
「まったく、油断も隙もあったものじゃないな。うちの顧客にあることないこと吹き込んで、所長自ら営業妨害か? 『サブロ探偵事務所』の品格を疑うね」
室内に芝居がかった少し高めの声が響くと、
「……その女に仕込んだのか」
という、特に驚きも怒りも感じさせない佐武朗の声。次いで柾紀の「出せ」が低く聞こえて「イタタ……イッタいな、もう」という大滝可南子の声が上がる。
陽乃子の隣でリリコがハッとしたように「盗聴器」と囁いた。
「お前、喋りすぎだ。余計なことは言うなと言っただろう」
「うるさいな。だったらやらせなきゃよかったじゃん」
ボソボソとした津和野と可南子のやり取りがあったのち、「いやいや皆さん、大変失礼いたしました」と、津和野は大仰な調子で言った。
「――私は『津和野探偵事務所』の所長を務めております、津和野
身を縮めているタマコがゲェと吐く真似をした。リリコもイーッと歯を剥きだしている。
「――我々がここへ急ぎ参ったのは他でもありません。先日、笠藤博則氏から寿々久信孝くんに関する調査を承ったのですが、それに付随する決定的な証拠を入手しましたので、ぜひ両家お揃いの場でご披露したかったのです。――笠藤さん。結果が出ました。笠藤博則氏と寿々久信孝くんが親子である確率は、99.99%……完全に『血縁関係あり』の判定が出ました。これは政府に認可された検査機関の正規保証鑑定書です。疑いようもありません」
書面を開く音に交じり、数名の息を呑む気配が感じられる。タマコとリリコはますます苦い顔だ。
「――聞けば寿々久家の方々は、笠藤家からの再三の申し出にもかかわらず、信孝くんと博則氏の親子関係を頭ごなしに否定し、信孝くんとの面会さえも拒否されてきたそうじゃないですか。考えてもみてください……父親が実の息子に会いたいと願うその親心を、昇華しきれない長年の怨みや妬みによって邪魔立てされるなど許されることではありません。そういった寿々久家の卑屈で偏狭な姿勢がどれだけ博則氏を思い悩ませ、それが故に、どれだけ奥様が心を痛められたか――」
――と、突如ノックの音が仰々しい長口上を遮り、開いたドアの隙間から「――あの、そろそろお時間が……」という小さな声が聞こえる。
「――すぐに行きます」と答えたのは美那子だ。
「もう結構です。お話はわかりました。DNA鑑定とやらで結果が出たのなら、それが正しい答えなのでしょう。信孝のことは権頭さんにお任せしておりますので、『サブロ探偵事務所』を通したうえで、そちら方の好きになさってください」
「――美那子!」
鋭い一喝は寿々久大吾。片や、叫ぼうとしたタマコの口はリリコの手によって塞がれる。
含み笑うような津和野の声が続いた。
「今の言葉で確信が持てましたよ、博則さん。どうやら信孝くんの住まいは『サブロ探偵事務所』の管轄内らしいですな。私の記憶が確かなら……こちらの探偵事務所の調査員は、ひと癖もふた癖もあるならず者の寄せ集めでしてね、それはもう昔から。もの好きな権頭所長はおそらく今も、彼らを同じ場所に集めて共同生活をさせているはずです。信孝くんは十中八九、そこにいるかと」
今度は目を吊り上げてカウンター下から飛び出さんとするリリコを、タマコが必死に抑えている。
幸夜と柾紀、そしてマオカラーのスーツを着た男が、カウンターから頭を出した陽乃子に目を向けたが、陽乃子の意識は信孝にしかない。
彼は椅子の上で不自然に身体を硬直させ、外したマスクとサングラスを握りしめたままじっと床を見つめていた。その横顔は……その瞳は、いつかの朝食時に見た瞳と重なる。
「それさえわかれば、ご依頼の件は解明したも同然……我々『津和野探偵事務所』が一両日中にも、信孝くんの居所を突きとめて見せましょう。――それはさて置き、寿々久の奥様。先ほどのお言葉を解釈するに……信孝くんの意思によっては、彼の親権を博則氏に譲ってもいい……ということでよろしいのですかな」
ねっとりとした笑みを浮かべた津和野に、美那子夫人が静かな声が答える。
「……信孝が、そう望むなら」
ざわりとした空気の中、「お待ちください」と割って入る鴨志田。
「美那子さん。そういった話は先ほども所長が申し上げましたように、法的な専門家同席の場で――、」
「わしは認めんぞ! 鑑定だか何だか知らんが、こちらに許可なく勝手なことをしおって! 大体、そこにいる女が信孝の血液を持って行ったというが、本当に信孝の血だったかどうかわかったものではない!」
「寿々久さん、我々の仕事にケチをつけないでいただきたい。お疑いになるなら、あなたの目の前で信孝くんの血液を採取させていただき、もう一度鑑定にかけ直しますが?」
「往生際が悪いぞ、寿々久大吾。もちろん、こちらとしては何度だって協力するがね、鑑定結果は変わらんよ」
「鑑定結果などどうでもいい! 貴様らとは関わり合いたくないと言っているのだ! 十六年も知らぬ存ぜぬで通してきたくせに今になって父親面しおって……恥ずかしいとは思わんのかっ!」
「ちょっと待って下さい、私は決して、知らぬ存ぜぬを決め込んでいたわけでは――、」
「――あなた……っ! やっぱりこの人のことをずっと想って……っ」
「ええぃ! 何が不満なのだ! 十六年分の埋め合わせは充分にすると言っておるだろう!」
その場は再び騒然となった。
皆が言いたいことを勝手にまくし立てるその様子を、困り果てたように見つめる鴨志田と険しい顔で見据える佐武朗。美那子夫人は無表情に一点を見つめ、大滝可南子は大欠伸をかましている。そして信孝は、俯いて拳を固く握り、その肩を小さく震わせていた。
いつの間にか陽乃子はカウンターの中で完全に立ち上がっており、気づいたリリコとタマコが口をパクパクさせながら陽乃子の腕を引いている。
その時、耐えられなくなったように信孝が立ち上がった。中央の言い争いはピタリと止まり、皆が信孝を向く。数歩足を進めた信孝は長椅子の傍に立ち、その目はまっすぐ美那子夫人に――母親に向けられていた。
「――どうして嘘をついたの」
ゆっくりと目を上げた美那子は、眼前に立った信孝の思い詰めた視線を静かに受け止めた。
「不審な電話がたくさんかかってきたって、嘘だよね? 調べたんだ……母さんの携帯の着信履歴。三か月前まで遡って調べてみたけど、非通知でかかってきたものは一件もなかった」
信孝のかすかに震える声を、皆が――特に笠藤側は、驚いたような顔で聞いている。初めて聞く声だからか、言っている意味が理解できないからなのか。
「脅迫状のことも調べた。うちの正門に防犯カメラが設置されているの、知ってるよね? その防犯カメラの撮影範囲に、正門脇にある郵便受けはしっかり入ってる。毎日山本さんが、配達された手紙やはがきを郵便受けから取り出す様子はちゃんと記録されているんだ。……母さん知ってた? 山本さんは取り出した手紙の束の中から、先にお
信孝は、薄い酸素を無理に吸い込むように息を継いだ。誰もが緊迫した空気に口を挟めないでいる。
「だから、うちにどんな手紙やはがきが届いていたか、記録映像を見ればわかるんだ。あの防犯カメラの映像だけじゃ、手紙やはがきに記された文字は判別できないけど、解析ソフトにかければ判別可能になる。これも先月からの記録を全部調べたけど、うちへ届いた手紙の中に、母さん宛で、差出人不明で、定型茶封筒のものは一つもなかった……母さんの証言は、嘘だ」
言葉を絞り出して、信孝の顔が歪んだ。
「なんで? どうしてそんな嘘を言ったの? 監視されている気がするとか、尾行されている気配とか、それも嘘なんでしょ? ストーカー被害だなんて全部嘘だったんだ。なのに母さんは『サブロ探偵事務所』にありもしない被害の調査を依頼した。……カモフラージュだったの? ボクの親権を渡す代わりに笠藤からの金銭的援助を得たい、でもうちから申し出れば足元を見られるし世間体も悪い……だから脅されたふりをして、仕方なく親権を手放したっていう筋書きにしたかった……そういうこと? 『スズヒサ時計』を守るために、ボクを売ろうとしたの?」
震える声で信孝は母親を問い詰め、美那子は感情のない目でじっと息子を見つめる。
そして数秒のち、「すごいのね」と、冷めた声音で言った。
「削除された携帯履歴を調べ上げて、警備会社管轄の防犯カメラの記録を解析して……そんなこと、いつの間にできるようになったの?」
少しだけ疲れた色を滲ませて、美那子は長椅子から立ち上がった。信孝の顔を見据える彼女の目は、どうしてか苦しそうに見える。
「……あなたのそういう粘着質なところ、あの人にそっくり」
「美那子……」と驚いたような声を上げたのは笠藤博則だ。けれど美那子は、彼の方を一顧だにしない。
「本当にうんざりするほど、顔も、声も、仕草も……まるでコピー人形だわ。似てない部分なんて一つも見つからなくて……腹立たしいのよ」
吐き捨てるように言った美那子は、愕然と立ち尽くす信孝の脇を素通りし、ドアに向かった。
「笠藤さんのところへ、行きたければ行きなさい。あなたが望むなら、親子の縁を切ってもいいわ」
美那子がドアノブに手をかけた瞬間――、
「――あの!」
陽乃子は自分でも驚くほどの声で叫んでいた。
「……ヒノちゃん……っ?」
ギョッとしたタマコたちがカウンター下から呼び止める。突然部屋奥から出現した少女に、呆然と目を見張る者、天を仰ぐ者、溜息を吐く者、醜悪な好奇を剥き出しにする者……様々な反応の中で、陽乃子はほとんど無意識に、ただひたむきに、美那子へ告げた。
「半分です」
「なんだね、この娘は……」
「ヒノちゃ……ちょっと……っ」
腕を掴もうと伸ばしたタマコの手からすり抜け、陽乃子は長椅子の脇に立ち尽くす信孝の傍まで走り寄った。
「半分なんです。完全なコピーじゃ、ありません」
さすがの美那子も驚いたように、ドアノブに手をかけたまま陽乃子を見ている。
陽乃子は長椅子に座る博則と、傍に立つ信孝を交互に見てから、美那子に訴えた。
「信孝さんとあちらの方、重なる部分は半分です。もう半分は、あなたと重なります。目の形はあちらの方と重なりますが、目頭の部分と眉の形はあなたのものと重なります。鼻の大きさと小鼻の形はあちらと重なりますけど、鼻柱の幅と高さはあなたと重なります。頬のあたりの輪郭はあちらで顎のラインはあなたで、頬骨の高さはあちらで額の形はあなた……重なる割合は、半分ずつです。なので――、」
唖然と見守る他の面々など陽乃子の目には入っていない。あとで叱られるだろうことも全く念頭になかった。
どうしても、伝えたいのだ。信孝の母親に、これだけは言わなければ――、
「わたしから見れば、信孝さんはお母さまにも似ています。お母さまの血も、引いているからです」
美那子の瞳がより一層大きく見開いた。かすかに唇が開いたが、言葉は何も出てこない。
「だから……あの……」
その先がうまく言えず、陽乃子の声が尻つぼみになった時、「あー、美那子さん」とあとに続けてくれたのは鴨志田だ。呆れたような、しかし優し気な笑みを浮かべている。
「……私も、信孝くんの賢さやずば抜けた集中力など、美那子さんそっくりだと思いますよ」
すると、部屋奥のカウンターからリリコが「そうね」と出てきた。もはや隠れても無駄だと開き直ったのかもしれない。
「意地張って無理して頑張っちゃうところなんか、けっこう似てるんじゃなぁい?」
腕を組んで不遜な態度を見せるリリコのあとから、大きな身体を懸命に縮めながら出てきたタマコもおずおずと同調した。
「ホ、ホントは甘えたいのに素直になれないとことかも、似てると思うけどね」
「いったい何なのだ、君たちは……」
リリコはともかく、奇天烈感半端ないタマコの登場に、笠藤暉夫があからさまな不快を示した。
美那子は小さく「そう……」と呟き、もう一度信孝を見る。
「この子、私にも、似ているの……」
それは、美那子のどういった感情から出た言葉なのか、陽乃子にはこの先も、到底理解できないことだった。けれど間違いなく、部屋を出て行く寸前に伏せた美那子の瞳から、きらりと光る何かが零れ落ちたのだ。
「それでも私には、この子の母親でいる資格が……ないのよ」
美那子が出て行ったあとを追うように、むっつりとした顔で大吾が出て行った。その寸前、呼び止めた柾紀が彼に何かを手渡したが、陽乃子にはよく見えなかった。
意外なことにそのあとすぐ、立ち上がった博則が津和野に向き「申し訳ありませんが、依頼を取り下げます。必要経費や手数料は全額お支払いしますので」ときっぱり告げて、項垂れる妻の紗恵子を抱えるようにして部屋をあとにする。彼は出て行く間際、佐武朗に対して「日を改めて、ご相談させてください」と、真摯に頭を下げて行った。その眼には、何か強い意志が煌めいている気がした。
博則と紗恵子に続き、納得がいかぬ顔のまま暉夫が出てしまえば、途端にこの部屋は津和野にとって居心地の悪い場所となったようだ。ことさら白けた風を装い口の中で悪態を吐きながら出て行く津和野に、黙ったまま付き従うマオカラーの男。そして大滝可南子までもが、柾紀の隙をついて逃げ出してしまった。
放っておけと佐武朗が低く言って、誰ともなく肩を落とす。陽乃子の頭にコツンと感触があって、見上げればリリコがいたずらを叱るような顔をしていた。
立ちすくんでいた信孝がぽつりと漏らす。
「……母親の資格って、なんなの……意味がわかんないよ……嘘をついてまで、どうしてうちに依頼なんか……」
すると幸夜が、先ほどまで信孝が座っていた椅子に身を沈めて、気怠く脚を組んだ。
「――お前に、知られたくなかったんじゃねーの?」
黒ズボンのポケットから小箱を取り出し、中から小さなチョコ菓子を振り出しながら、幸夜は物憂い口調で続ける。
「笠藤が跡取り欲しさにお前の身辺を探っていること……できれば親子鑑定に持ち込んで、あわよくば親権を自分らのものにしたいと企んでいることもな。……違うか?」
最後は佐武朗に向けられた。同じように長椅子に座って胸ポケットからシガレットケースを出していた佐武朗は、無言のまま一本
革手帳を懐にしまった鴨志田が、何も答えないボスに代わって口を開いた。
「僕も幸夜くんと同じ見解ですね。美那子さんは、信孝くんに知ってほしくなかったんですよ。笠藤家が信孝くんを欲しがっているという事実を。まぁ結局は、お
「ど、どういう意味……?」
マスクとサングラスを握りしめたまま、信孝は鴨志田と幸夜を交互に見る。鴨志田は佐武朗をちらりと見て息を吐いてから、気遣うような口調で語った。
「これは僕の推測なのですが……美那子さんが本当に調査してほしかったのは、大滝可南子の身元調査だったと思うんです。笠藤家の不穏な動きが感じられる中、タイミングよくやってきた新人家政婦……どうにも不安は募るけれど、理由なく解雇するわけにもいかず、『スズヒサ時計』の正念場を控えている大事な時期ということもあって、うちに調査を依頼することに決めたのでしょう。けれど、うちに依頼された調査事項はすべて信孝くんに筒抜けです。美那子さんはそれを充分に承知していました。もし大滝可南子が笠藤側の回し者だったとして、それを信孝くんが知ってしまったら……実の父親が息子に会いたがっていると知ってしまったら、信孝くんは笠藤家に行ってしまうかもしれない。それを避けたかったから、美那子さんは自分がストーカーに遭っているという嘘の依頼で我々に寿々久の周辺を調べさせ、自然に我々の目が大滝可南子に向くよう仕向けたんです。……違いますか?」
鴨志田も、最後は佐武朗に向いた。しかし、佐武朗は渋い顔のまま黙って紫煙を吸っている。
長椅子の背に尻を乗せて腕を組んだ柾紀が、ウームと低く唸った。
「どっちにしても同じじゃねぇか? ストーカー調査だろうが身元調査だろうが、ノブには依頼内容から調査結果まで筒抜けなんだからよ」
すると鴨志田は「いいえ」と首を振る。
「信孝くんだけを関わらせなければいいんですから、美那子さん自身のストーカー被害だという虚言は有効です。だって実際のところ、信孝くんは最初のうち調査に関わらなかったでしょう? 所長も母親も、自分が関わるのを快く思っていない、自分を蚊帳の外に置こうとしている……信孝くんはそう考えたはずです。幸夜くんが
「そう言われりゃそうだが……でもあれは、ボスがそれとなくノブを調査から遠ざけて……」
「はい。所長はマルッと全部、お見通しだったのでしょうね。美那子さんの思惑も、信孝くんの心情も、我々の行動も」
「マジか」
皆の目が佐武朗に向いた。どこ吹く風で紫煙をくゆらせる鉄面皮。
リリコが「あ」と何かに気づいたように口を開けた。
「ちょっと待って。ねぇ、ボス? もしかして今日ここにノブが来ることも……」
鴨志田が大きく頷く。
「想定内だったのでしょうね。……というよりむしろ、巧妙に仕掛けていたのでは? 信孝くんが自力で美那子さんの嘘を見破り、自分の意思でここに来るように。さらには笠藤夫人の狂気を皆の目の前に曝け出せるように。もちろん、信孝くんの安全は絶対に守る自信がおありだったのでしょうが」
「ってことは、アタシたちもまんまと踊らされたってことじゃないの」
プンと頬を膨らますリリコ。まだよく呑み込めていない顔のタマコは、つけまつ毛をバチバチさせながらキョロキョロと忙しい。
チョコ菓子を口の中に弾き入れた幸夜が、目だけをちらりと上げる。
「てか、佐武朗も失敗してんだぜ。大滝可南子にまんまと信孝の血痕を持ってかれたの、あれは誤算だろ?」
「……どのみち、いつかは明らかになることだ。誤算ではないな」
初めて佐武朗が答えれば、幸夜は「津和野が割り込んできたこともか?」と即座に畳みかける。
「想定内とは言わん。だが、結果としては何も変わらない」
佐武朗は紫煙とともに低く吐き出して、クリスタルカットの灰皿に吸殻を押しつぶし、スーツの前ボタンを留めながら立ち上がった。
「連絡するまでここで待機していろ。外へは出るな」
絶対君主の物言いで命を下すと、佐武朗は控え室から出て行った。目だけを上げてその背を見送り、「モノは言いようだよな」と薄く笑う幸夜。
タマコがぐにゃりと長椅子へ崩れた。
「ナンだかよくわかんないけどさ……回りくどい話じゃないか。笠藤にはやらないって、ノブちゃんにちゃんと言えばよかったんだ。そうすればノブちゃんが悲しい思いをしなくてすんだし、危険な目にだって遭わなかったはずだろ」
「タマコさんの仰る通りですけれどね、素直になれなかった美那子さんの気持ちも、わからなくはないですよ。美那子さんは、すべてを捨てて『スズヒサ時計』の経営に身を投じてきたんです。それこそ、母親としての役割も捨てて。今さら、信孝くんを手放したくないとは言えなかったのではないでしょうか」
鴨志田が切なそうに言って、柾紀が懐から煙草の箱を出しつつ「まぁな」と応じる。
「……笠藤の奥さんが殺人未遂まで起こしかけたってことは、父親のもとに行ってもノブにとっちゃ針の筵だ。母ちゃんはそういうことにも気づいてたのかもしれねぇな。母ちゃんなりに、ノブを守りたかったんだ」
一本引き抜いた柾紀に、信孝が目を見張った。
「……お金のためじゃ、なかったの……? だって母さん、親子の縁を切っていもいいって、そういったんだよ?」
「本心じゃないと思いますよ」と、鴨志田も少し疲れた笑みを浮かべて長椅子に座った。
「美那子さんは笠藤側に “所長を通して” 好きなようにしてください、と言ったでしょう? それはたぶん……信孝くんが望まない限り、『サブロ探偵事務所』が信くんを手放すことはない、とわかっていたからです。つまり、信孝くんの今の生活を守りたかったんですよ。ただそれだけが、今回の依頼の裏に秘められた、たった一つの目的だったのでしょう」
ニコリと笑んだ鴨志田の言葉に、信孝の身体が崩れた。
豪奢な絨毯の上にへたり込み、うぅと小さくむせび泣き始めた信孝は、次第に大きくしゃくり上げて子供のように泣く。
タマコが飛んで行って信孝を抱きしめオイオイともらい泣きすれば、リリコがそれをからかい、鴨志田と柾紀はどこか安心したように肩を落とす。ふと陽乃子と目が合った幸夜は、素っ気なく逸らしてチョコ菓子の小箱を無表情に眺めていた。
ポロポロと珠のような涙をいくつも溢れさせる信孝。その泣き顔が、前に見た彼の泣き喚く顔と、まったく違って見えたのはどうしてだろう。
ずっと、迷い子のように陽乃子の脳内をクルクル回り続けていた彼の顔が、ようやく今、目の前で泣きじゃくる顔と一緒になって、記憶の引き出しに収まった気がした。
* * *
――人生は、小さな悲劇を積み上げた大きな喜劇である。
そう言ったのは誰だったか。
多少の時間押しが生じたものの、あれから式典は滞りなく進行し、『スズヒサ時計』の社運をかけた特別限定モデルは無事に華々しくお披露目されたそうだ。愚直で頑迷な時計会社が、ただひたむきに取り組み結実させたこの集大成に、会場のスズヒサマニアと呼ばれる招待客は万雷の拍手で大絶賛したという。
『スズヒサ時計』にとってこれが、長年続いた苦境を打破する一つの足掛かりになり得るのか、その辺りの事情は今後を見なければ分からないが、膨大なコストと時間がかかる上に量産できない代物を手掛ける以上、多かれ少なかれ、この先もシビアな状況が続くことは必須だろう、というのが鴨志田らの見解である。
信孝の親権問題もひとまず棚上げとなり、何一つ決着がつかないままではあるが、少なくとも、この先笠藤夫人が信孝に危害を加えてくることはないだろう。両家の跡取りについても、信孝本人の意向を無視して事を進める無茶なやり方はしないはずだ――皆はそう言って信孝を慰めた。
いずれにしてもこれらの件は、すべてを委託された我が事務所所長の佐武朗に任せるしかない。
のんべんだらりと待ちぼうけていた幸夜たちに撤収命令が出されたのは、式典が終宴間近となり、会場から気の早い招待客がポツポツと出てくる頃であった。
突如トランシーバー越しの佐武朗が『寿々久の関係者が戻ってくるから早くそこを出ろ』と命じ、皆が急かされるように控え室を出る中、待ってろと言ったのはお前じゃねーか、とキレた幸夜は間違っていないはずだ。
信孝は散々泣きつくしたあと、マスクもサングラスもしないまま虚ろな抜け殻のようになっており、柾紀が隣に付き添っている。一方、どうにも動きが読めない陽乃子には、リリコが飼い主よろしくついていた。
人通りのまばらなホテルのエントランスホールに出て、幸夜は残り少なくなったチョコ菓子を一つ口に入れる。
ピンクと茶色の二層になった、ひだのある小さな円錐形。幸夜は今まで、チョコレート色をしていないチョコ菓子に手を出すことはなかった。イチゴ味のチョコなど、チョコレートの部類に入らないと思っていたからだ。けれど数日前、コンビニでこの小箱を目にした時、唐突に亮のバカげた言葉――『いじらしい形をしている』が浮かんだ。気がつけば手に取っていたのは、魔が差したとしか思えない。
イチゴの絵が無性にイラつくこの小箱、中身を消費するのに普段の何倍もの時間がかかった。おそらく二度と買わないはずだ。しかし、邪道だと断じていた物が案外、それほど嫌悪に値するものではないと気づくことがある。
気づいた時、人はどうするのか。どうすべきなのか――
「――やだ、ボスったらあんなところに」
陽乃子と並んで後ろを歩いていたリリコが声を上げた。振り返ると、幸夜たちの後方、エントランスホールに立ち並ぶ時代錯誤な巨大円柱の裏側に佐武朗がいる。しかも一人じゃない。
「蘇芳さんもいるわね。……あら? 一緒にいるのって」
幸夜は露骨に顔を
「――ゲッ……! 爺さんじゃねぇか」
柾紀がギョッとしたように飛びすさってタマコの背に隠れる。まったくその身を隠せていないが。
「あれま、ご隠居。来てたんだね」
タマコがご隠居と呼ぶ紋付き袴姿の老翁は、その名を権頭
小柄ながらシャンと伸びた背筋、白銀の長髪を後頭部で結び、ヤギのような白い顎髭など、不老不死の仙人だと言われても納得だ。いつものように持ち手が真鍮装飾されたステッキを持っている。
「ご挨拶しとくかい?」
「俺ぁ、遠慮したい……」
縮こまる柾紀の横で、そそくさとマスクにサングラスで顔を隠しながら信孝が「誰?」と訊けば、鴨志田が「ええとあれは、所長の……お父上、とでもいいますか……」と微妙な説明をする。そういえば信孝は、まだ一度もあの老翁と対面していなかったか。
「ユキちゃんは? ご挨拶」
「じょーだん」
吐き捨てて、幸夜はさっさと歩き始めた。
弥曽介は他でもない『サブロ探偵事務所』の設立者である。幸夜とも気安い仲ではあるが、捕まれば面倒なことこの上ない人物だ。以前より、柾紀を自分のSPに引き抜こうと顔を合わせるたびに誘ってくるらしく、柾紀は幸夜以上に辟易している。
しかし、老公は目敏い。遠くから「おお、幸夜! 柾紀! リリヒコもおるのか!」と、よく通る声が鳴り響き、ニコニコ顔の老爺が手招きしている。
タマコの陰で必死に身を縮めていた柾紀が鬼に見つかった子供のような顔をして、リリコは「また “リリヒコ” って呼ぶ!」と憤慨した。本名を絶妙に混ぜた呼び名はリリコのお気に召さないらしい。
鴨志田が「仕方ないですね」と苦笑しながら信孝を促して踵を返し、皆がぞろぞろと付き従う。
内心舌打ちしながら、渋々ついて行きかけた幸夜の横で、不意にリリコが「あら?」と声を上げた。
「――ヒノちゃんは?」
つい先ほどまでリリコの隣にいた陽乃子の姿がない。
「え? またかい? まったくあの子はチョロチョロと……」
タマコが辺りを見回し、柾紀もこれ幸いと――思ったかどうかはともかく――足を止め、幸夜はチョコ菓子の箱をポケットに突っ込みながらエントランスホールをぐるりと見渡した。
羽毛でかすかに触れられたくらいの微細な感覚だが、妙な予感があった。早く捜した方がいい、という奇妙な焦燥。
タマコとリリコは、先に出てしまったのではないかとホテルの玄関へ捜しに行き、柾紀はエントランスホール手前のフロントカウンターに向かう。
一方で、幸夜の足は何となくもと来た道筋を戻り、エントランスホール左手に伸びる廊下――先ほどまでいた控え室のある通路まで戻った。
果たして、気抜けするほど容易く陽乃子は見つかった。廊下に入ってすぐの壁際に飾られた大きな生花台の陰に突っ立っている。だが見つけた瞬間、幸夜の目は鋭く細められた。
陽乃子は、見知らぬ男と向かい合っていた。薄い鼠色の上着に色褪せたデニム、黒のニット帽を被り、顔にはサングラスと白いマスク。――誰だ。
幸夜の視線が質量を持って刺さったかのように、男はハッと身を固くして顔を上げた。こちらに顔を向けるも、サングラスとマスクのせいで人相や年齢は定かでない。
数歩近づいた幸夜に、男の口元が動いた。
「君……この子の連れかな? ちょっとぶつかってしまってね」
マスクの中でくぐもった声が言う。痩せ型の、背丈は幸夜より少し高いくらいか。
男は陽乃子の肩を一つ、優しく叩いた。
「――よそ見していたら危ないよ? 気をつけてね」
そう言って男は、両手を上着のポケットに入れて去って行った。廊下の奥へ。
陽乃子は黙って男の背を見送っている。幸夜の目は、彼女の握られた右の拳を注視した。
その時、バタバタと近づいてくる
「――ヒノちゃん! もうっ、心配させないで!」
「まったく、お手洗いに行きたいならそう言わなきゃ……ん? どうしたんだい?」
陽乃子が左手でこめかみを抑えて俯いている。
「……頭が、痛いです……」
ポツリと答えた陽乃子に、タマコたちは
「えっ……そ、そうなのかいっ、どど、どうしたもんか……が、我慢できないのかいっ?」
「ママったら、子供のトイレじゃないんだから」
陽乃子を囲みギャイギャイ騒ぐタマコとリリコ。幸夜の目線は陽乃子の右手から離れない。
そうこうするうち鴨志田と信孝、柾紀もやってきた。弥曽介老翁は、サブロ館に新しく居候している少女がいなくなったと聞いて、鴨志田と信孝にも捜しに行けと命じたらしい。
「紙とペンなら車にあるぜ」
という柾紀の言葉に、一行は気抜けしたような面持ちでその場から動き出した。
エントランスホールに出ると、弥曽介と蘇芳はすでに立ち去ったあとらしく、円柱の裏には佐武朗しかいなかった。柾紀はあからさまにホッとしていたが、幸夜はどことなく胡散臭さを感じる。
あの老爺がこうも早々にいなくなるとは珍しい。いつもなら皆をうんざりさせるまで絡んでくるのに。そしてもう一つ、佐武朗の周囲には濃い苛立ちのオーラが漂ったままだ。タマコと陽乃子がホテルにやって来たと報告を受けてから、ずっと。
そんな幸夜の胡乱な視線を知ってか知らずか、佐武朗は皆に速やかなる帰館命令を下し、自身は会場に戻っていった。
こうして一同は、ようやく豪華絢爛なホテルから出ることとなった。
「――ねね、みんなでゴハン食べに行きましょうよ。結局、ナーンにも食べられなかったんだもの。お腹空いたわ」
「残念ですがリリコさん。この子たち二人をまっすぐサブロ館へ連れて帰れ、と所長命令が出ていますよ」
「えぇー、ちょっとくらいイイじゃなーい。これで調査は完了でしょ? だったらもう危なくないわよ」
「報告書を仕上げろ、っつー命令も出てるぜ」
「えぇぇー、メンドくさーい。ってゆーか、いろいろヤヤこしくて報告書なんか書けなーい」
「そうは言いましてもね、リリコさん」
「はぁ……あたしゃナンだか疲れたよ。出前でも取るかねぇ」
「じゃアタシ、お寿司がいい! 特上で!」
騒がしい一団の後方で、一人俯いて歩く陽乃子。やはり左手でこめかみを抑えている。幸夜は「おい」と声をかけた。
「手、出せ」
見上げて首を傾げる少女に、幸夜は再度「手を出せ」と命じる。不思議そうにそろそろと左手を出す少女。
「両手」
幸夜がチョコ菓子の小箱を宙にかざすと、ようやくその意味を理解したのか、陽乃子は右手も出した。――開いた手のひらには、何もない。
出された両手の上で小箱を振れば、中から転がり出てきたチョコ菓子はたった三粒。空になった小箱をぐしゃりと潰すと、陽乃子は小さく「ありがとう、ございます」と言った。
「――うそぉ! ユキヤがチョコを人に分け与えるなんて初めて見たわぁ!」
「やれやれ、ユキちゃんまでヒノちゃんの餌付けかい?」
前方で
一粒口に入れて、キュッと目を閉じこめかみを抑える――この動作を、少女は三回繰り返した。
手には何も持っていない、となれば……幸夜の目は、彼女の首に紐でぶら下がっているガマ口に止まる。しかしここに来るまでの間中、それとなく陽乃子の動きを注視していたが、ガマ口に何かを入れた様子はなかった。……ならば、ズボンのポケットか。
――先ほど陽乃子を見つけた時、幸夜の眼はほんの一瞬の動きを捉えた。男の手から彼女の手の中に落とされたキーホルダー付きの小さな鍵。
キーホルダーは緑色の小さなプレート、白い文字は “ラッガレイジ” と読めた。鍵はコインロッカーなどで使われそうな小さなものだ。
――『ちょっとぶつかってしまってね』
男はそう言ったが、どうも引っかかる。自分は通りすがりの他人だと、言い訳しているような言葉ではないか。
男の言葉通りなら、ぶつかった拍子に陽乃子が落とした鍵をあの男が拾ってくれたと考えられるが、そうでない可能性もある。そうでないなら――、
いずれにしても、去って行く男を見送っていた彼女の表情からは何も読めなかった。人形のように無機質なその顔の下で、この少女はいったい何を考えているのか。
陽乃子は決して莫迦でも考えなしでもないと、幸夜は思っている。無分別で突発的に見える行動も、何か彼女なりの理由があるのだ。
だからこそ、気になる。
――タマコとともに控え室へ押し込まれたはずの陽乃子が、なぜあの式典会場にいたのか。
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