第6話

 リリコに連れてこられた場所は、ダマスク模様のカーペットが敷き詰められた奥に細長い部屋であった。

 縦に三つ配置された艶やかな大理石天板のローテーブルの周りに、優美な意匠の長椅子や一人掛けのソファがずらりと並べられており、部屋の正面奥のカウンターにはたくさんのグラスや空のデカンタが用意されている。今は誰もいないが、今日の式典関係者に用意された控え室なのだと、リリコは説明した。


「ここにいてね。外に出ちゃダメよ。ボス命令なんだからね」

 何度か念を押してリリコが出て行き、タマコが手近な長椅子へ脱力するように腰かける一方で、陽乃子はドア付近に突っ立ったまま、どうしようかと迷う。

「……あの、タマコさん」

「ナンだい……あ、もしかしてお手洗いかい? たしか、すぐそこにレストルームがあったはずだよ」

 長椅子の上に大きな身体を投げ出したタマコは、気が抜けたのかぐったり伸びて、蜂の羽音のような唸り声を上げている。

 陽乃子は迷った挙句、ドアを開けて静かに廊下へ滑り出た。「すぐ戻ってくるんだよ」というタマコの声をドアで閉じると、エントランスホールに向かって戻っていくリリコの後姿が見える。その姿が見えなくなるまで待ってから、陽乃子は同じ方向へ足を踏み出した。

 廊下の途中にあるレストルームをやり過ごし、真っ直ぐ進んでエントランスホールに戻る。ホールを行き来する人々は、先ほどよりさらに減ったようだ。ゆっくりと歩を進める老夫婦が飛び出してきた陽乃子に驚いたようだが、陽乃子は一心に奥へ進んだ。

 十段ほどの幅広の階段を上がると、そこは広く開けたセンターホールとなっており、その右手が式典の会場となるメインホールらしい。どこもかしも宮殿のように煌びやかである。

 リリコの姿はもう見えなかったが、会場への入り口はすぐにわかった。大きな両開き扉の前に立てられた『スズヒサ時計 創業百二十周年記念式典』の文字と、その横に設えられた受付カウンター。すでに会場内からはマイクを通した男性の声が漏れ聞こえている。受付カウンターにはまだ十数人が招待状らしきものを手にして群がっており、陽乃子はその背後を小走りですり抜けた。幸い誰にも見咎められることなく、陽乃子は会場内の人々の群れに紛れ込む。

 豪華絢爛な会場内は招待客で溢れかえっていた。拍手喝采と歓声がとどろき、次いで女性の凛とした声音が流れ始める。檀上付近に照明が集められており、場内は薄暗い。

 陽乃子は注意深く視線を巡らせた。入り口付近は人々が密集している。脳内へ次々に飛び込んでくるおびただしい数の顔に軽くめまいを覚えながら、陽乃子は捜す。

 ほんの一瞬だけ見えた横顔。のような気がした。

 脳裏にフラッシュバックする、と。どうしても会いたい、と。

 確かめたい。この会場内にいるなら――


 ――と、別の顔が目に飛び込んだ。

 すっかり意識から抜け落ちていたが、陽乃子たちがこのホテルへやって来たそもそもの目的――信孝がいた。何も被っていない、素の顔を曝け出した信孝だ。

 会場の片隅、壁際にぽつんと一人佇んでいる彼の目線は、真っ直ぐ正面を――ひしめき合う人々で見えるはずのない壇上を――見つめている。その表情が、どこか悲し気に見えるのは気のせいだろうか。

 不意にそこでもう一人、別の人物が陽乃子の目に留まった。信孝から数メートル離れた場所に立つのは、先ほど円柱の陰でタマコに名を教えてもらった人だ。

 けれど、おかしい。他の招待客のほとんどが正面の檀上を向いている中、その人物の視線は後方の壁際に立つ信孝の方に向いている。瞬きもせず憑かれたようなその眼――、陽乃子の鼓動がにわかに速まっていく。

 陽乃子は信孝のもとへ急いだ。が、談笑する招待客のひと塊が行く手を阻む。小柄な陽乃子の存在は人々に気づかれにくい。身体を捻って人の塊を抜け出すと、例の人物は信孝にあと一メートルというところまで迫っている。ふと、その手に握られている何かが鈍く光った。

 信孝に向かってじりじりと近づくあれは――、壇上の方を見ている信孝は迫る凶器に気づいていない。陽乃子が思わず声を上げようとした時――、


 突如現れた誰かの手が、その人物の手首をつかんだ。陽乃子は小さく息を呑む。危険な狂気を止めたのは幸夜だ。先ほどのリリコと同じ給仕係の格好をしている。

 そしてもう一人、異空間から出てきたかのように姿を現した背の高い偉丈夫、三つ揃えスーツ姿の佐武朗が、幸夜に手首を掴まれた人物の背後に立った。何事かを耳元で囁くと、鈍く光る刃物が床に落ちる。

 そこでようやく信孝が気づいたようだ。佐武朗と幸夜、そして、手首を掴まれ蒼白な顔で今にも崩れ落ちそうな着物姿の女性――に驚き、怯えの交じった目を見張っている。

 場内に再び、盛大な拍手が鳴り響いた。会場の片隅で起きた異変に誰も気づいた様子はない。

 すべては、つかの間の出来事であった。


 まもなく、鴨志田に先導された笠藤博則が駆けつけ、紗恵子夫人は抱えられるようにして会場を出て行った。そんな中、唖然と突っ立っていた陽乃子は、あっけなく佐武朗と幸夜に見つかってしまった。幸夜はともかく、佐武朗は陽乃子の勝手な振舞いにかなり立腹していたようだ。仁王像のごとく陽乃子を見下ろす彼の周囲に、禍々しい怒気がユラユラしているように思えた。

 佐武朗に呼ばれてやってきたリリコが、もう一度陽乃子を控え室に連れて行くこととなり、脱走に失敗した仔猫のように叱られながら、陽乃子は後ろ髪引かれる心地で会場を出た。振り返ると、幸夜が透視するような目で見送っていた。結局、確認したかった顔は見つけることができなかった。

 控え室に戻ると、いつまでも陽乃子が戻ってこないので心配していたタマコがギャイギャイと騒ぎ立てたが、すぐに口を噤むことになる。リリコのワイヤレスイヤホンに佐武朗からの指示があったようだ。リリコはタマコと陽乃子を引っ張って、部屋の正面奥に設えられたカウンターの裏側へ連れて行き、タマコと陽乃子を抑えこむようにして自身もカウンター下に身を隠した。

 ――これから、ロミオとジュリエットが対面するみたい。

 小さく屈みこんだリリコは緊張した面持ちで、唇に人差し指を当てた。



「――これは一体どういうことですか。うちの家内はどうして――、」

 ドアの開く音に次いで急き立てるような男性の声が聞こえたのは、それからすぐのことだった。部屋の中に幾人かが入ってくる気配とドアの閉まる音、か細くすすり泣く女性の声も聞こえる。

「すべて、順を追って説明いたします。どうぞお掛け下さい」

 丁寧ながら威圧感のある低声は佐武朗だ。

「しかし……っ、」

 先ほどの男性が抗議しようとした声を、別の、喉に絡まるような低い声が遮った。

「……博則、落ち着け。話を聞こうじゃないか」

 すると抗議の声はピタリと止まり、女性のかすかな嗚咽だけが聞こえる。

 そこでまた勢いよくドアが開いた。

「――信孝……っ!」

 新たな入室者は女性だ。彼女の登場に、誰かが息を呑んだ気配がした。

「心配ありません。息子さんは無事です」

 佐武朗が言うと、「笠藤……!」と押し殺したような新しい声が上がる。女性に続いてもう一人、部屋に入ってきた男性がいるらしい。彼は、先入りしていた者たちを見て憤慨したようだ。

「なぜここにいる。お前らなぞを呼んだ覚えは――、」

「お父さん……私が招待したの」

「勝手なことを……、大体、これは何の集まりだ。式典の途中なんだぞ? 信孝に変事があったというから来てはみたが、そもそもここに信孝がいるはず――、」

「どうぞ、お掛けになって下さい」

 気難しそうにまくし立てる声を、佐武朗の低声が遮る。


 陽乃子たち三人は、カウンター下に身を潜めてじっと聞き耳を立てていたが、ついにリリコが我慢できなくなったようにそろそろと動き出した。

 カウンターの縁からそっと頭を出して部屋の様子を覗き見するリリコ。見上げたタマコもいそいそとそれにならう。陽乃子は一瞬躊躇ためらったものの、結局同じように目だけを覗かせた。

 室内にいるのは、ドア付近に立つ佐武朗を除くと五名の男女である。入口に一番近い長椅子に座る彼らの面持ちは一様に張り詰めており、部屋奥のカウンターから覗く頭三つには気づいていない。

 陽乃子たちから見て右手の長椅子に座っている三名が笠藤一行――太鼓腹の笠藤暉夫、細面で眼鏡をかけた笠藤博則、そして博則に寄り掛かるようにして泣いている着物姿の紗恵子夫人である。

 それに対し、大理石のテーブルを挟んで左手の、彼らに対峙するように座っている二人が――陽乃子は初めて見る顔であったがすぐにわかった――信孝の母と祖父であろう。

 信孝の母美那子はきっちりとした黒のパンツスーツ姿の、玲瓏とした雰囲気を持つ女性であった。身につけた宝飾物といえば耳元と胸元にある真珠のみで、華やかな着物姿の笠藤夫人とは対照的だ。

 部屋に入ってきた時、切羽詰まったように信孝の名を呼んだのは彼女のはずだ。しかし今は、静かに目を伏せて座っており、表情のない横顔はどこか冷たく見える。

 その隣に腰かけた祖父の寿々久大吾は、藍墨色の一つ紋お召しを着た痩身の体躯ながら、姿勢はよく矍鑠かくしゃくとした印象だ。顔に刻まれたしわはどれも深く、向かいに座る笠藤暉夫と言葉なく睨み合っている。

 そして、再びドアが開いた。

「――いったいなぁ、もう! 放してよ!」

 甲高い声とともに新たな人物が入ってきた時、佐武朗を除く皆がギョッとしたように目を見張る。陽乃子も思わず口を開けた。喚く女性よりも、その背後から現れたのが――、

「連れてきましたぜ。所長の予想通り、ホテルのエントランス付近をうろついていました」

 ドアにつっかえそうなほどの大男――珍しくスーツを着ている柾紀だ。その褐色の手で拘束された若い女性は長い黒髪を乱し、捕まれた腕を振り解こうともがいている。

「人を不審者扱いしないでくれるっ? あたしはただ通りがかっただけで――、」

「どうします? 縛りますか」

 激しく抵抗する女性と、いとも易く悠々と押さえ込む褐色肌の大男。スーツを着た柾紀は、そのアスリート体型と軍隊経験がありそうな面相も相まってとんでもない迫力がある。タマコが「まるでマフィアだね」と囁き、リリコが親指を立てた。

「警察に突き出されたくなかったら、そこで大人しくしていろ」

 佐武朗が顎をしゃくって、柾紀がもがく女性を笠藤側の壁際にある椅子に無理矢理座らせると、女性はようやく放してもらった腕をさすりながら、注意深く他の面々を眺めまわしている。逃げ出そうとする気配はないが、その眼は油断なく光っていた。

 女性の傍に立ちはだかった柾紀が、ふと部屋奥のカウンターへ向いて――半分出ている三つの顔を見て――鼻の上にしわを寄せた。リリコが小さく手を振る。

 その時、またもやドアが開いて、その場の空気が騒めいた。

 給仕服の幸夜と、普段とは違う上質そうな背広姿の鴨志田。彼らに促されて入ってきたのは信孝だ。俯き加減の顔は、大きな白いマスクと真っ黒いサングラスで隠されている。

「――信孝……くん、か……?」

 いぶかしむ表情ながらも笠藤博則の腰が浮いて、紗恵子夫人のすすり泣きが大きくなる。暉夫は明らかに不審そうな表情だ。完全に顔を隠した少年の意図が解せないのだろう。

 幸夜に軽く背を押されて、信孝は母親と祖父がいる側の、壁際にある椅子に座った。皆が複雑な面持ちで信孝の動きを目で追う中、寿々久美那子だけが能面のように眉一つ動かさない。


「これで、全員そろったようです」

 佐武朗が集まった一同に向いて、まずは自分が『サブロ探偵事務所』の権頭佐武朗であると自己紹介してから、本題を切り出した。

「会場はしばらく歓談中とのことですが、時間は限られておりますので単刀直入に申し上げます。先ほど会場内で、そちらの笠藤夫人がこちらの信孝くんに危害を加えようとしたところを取り押さえさせていただきました」

 カウンター下から覗くタマコとリリコが思わず出そうになる悲鳴を両手で抑え込み、紗恵子夫人の嗚咽が一層高まった。

「――ば、莫迦なことを言うな! 家内がそんなことをするわけが――、」

 立ち上がり猛然と抗議の声を上げる博則。佐武朗は静かに胸内ポケットを探り、折り畳んだ真っ白な布ナフキンを取り出した。

「これがその時、奥様の握っておられたナイフです。見覚えが?」

 手の上で開かれたナフキンから現れたのは、柄に彫り物の装飾がされた刃渡り十五センチほどの細い刃物。それを見た博則はハッと息を呑んで明らかに狼狽した。のちに彼が明かした事実によると、それは数年前に取引先メーカーから博則へ、周年記念で贈られたフィッシングナイフだったらしい。つまり紗恵子夫人は、意図的にそれを家から持ち出してきた、ということだ。

「博則。座りなさい」

 笠藤暉夫がガラガラとした声で制して、博則は渋々腰を下ろす。笠藤夫人はハンカチで顔を覆って泣くばかりだ。

 佐武朗は手にあるナイフを丁寧にナフキンで包み、再び懐にしまった。

「私の申し上げたことが莫迦な虚言ではないとご理解いただくために、まずは我々が掴んだ一連の事実をお話しいたします」

 そこで佐武朗が小さく合図をして、後方に控えていた鴨志田が数歩前へ進み出た。一同に向かってペコリと一礼した鴨志田は、スーツのポケットから革の手帳を取り出し開く。


「先週、寿々久美那子夫人から、身の回りで起きる不審な出来事に関する調査を依頼されまして、我々は寿々久家の周辺を詳しく調べさせていただきました。そこで、不審人物として浮上したのがそちらの女性……大滝可南子さんです。彼女は今月の初めに家政婦として寿々久家に雇われたのですが、それはを果たすために、故意に潜入させられたことがわかりました」

 そこまで淡々と述べた鴨志田は、笠藤夫人を見る。

「笠藤紗恵子さん。

「――し、知りません……私は……なにも……」

 嗚咽交じりに大きく首を振る笠藤紗恵子。鴨志田は手帳に目を落とした。

弐番街にばんがいにある『パルネ・キュイ』という喫茶店を、ご存知ですね? そちらのマスターに確認いたしました。先月の某日、あなたと大滝可南子さんが店内で待ち合わせ、三十分ほど同じテーブルで話していたとのこと。あなたは顔を隠していたようですが、先に大滝さんが店を出て、その約十分後、あなたはクレジットカードで会計をされています」

「マジで? あんた、バッカねー」

 黒髪の大滝可南子なる女性が素頓狂な声を上げた。傍に立つ柾紀に小突かれて、可南子は仏頂面で口を閉じる。そのどこか粗野な言動は、外見から受ける印象とだいぶ違う。

「だから、何のことだ! うちの家内がそこにいる女を雇った、だと? いったいどういう意味なんだ!」

 苛立ったように叫ぶ博則に、鴨志田はわざとらしく驚いた顔をする。

「そうですか。博則氏はこちらの女性をご存じないのですね。あなたが求めていた物を手に入れてくれた功労者でもあるのですが」

「……なっ、何のことか……」

 鴨志田は声を上ずらせる博則に構わず、仏頂面をしている大滝可南子に視線を向けた。

「彼女について少しご説明いたしますと、もともとはとある “別れさせ屋” の工作員をやっていたようです。別れさせ屋とはその名のごとく、例えば、旦那と愛人を別れさせてほしい……不倫している男とその奥さんを離婚させてほしい……妻とその浮気相手の関係を切ってほしい……そんな依頼に応える、いわば裏社会のサービス業ですね。大滝さんはずいぶん腕のいい工作員だったようですが、二年ほど前にその別れさせ屋を辞めております。その後はフリーで活動を始められたのですよね?」

 問われた大滝可南子は、それに答えずフンと鼻を鳴らした。

「とはいえ、紗恵子さんがどうして彼女の存在を知ったのか、その辺りは不明です。推測の範囲で申し上げるなら……笠藤家の若い家政婦の間でそんな話が出て、それをたまたま耳にした奥様が密かにネットで検索した……そんなところでしょうか」

 皆の視線が紗恵子夫人に集まり、彼女は顔を覆ったまま激しく首を振る。

 顔中のしわで嫌悪を表す寿々久大吾の隣で、美那子の無表情さが異様に見えた。


「さて、ここからが本題です。大滝さんとコンタクトを取った紗恵子さんは、いくばくかの報酬を支払う代わりに、ある仕事を頼みました。それは寿々久家に潜入し、寿々久家の嫡男である寿々久信孝くんに危害を加えること……あるいは殺害することです」

「殺害……? まさか……」

 にわかにその場がざわつき、大滝可南子は呆れたように肩をすくめる。

「――ちょっと待ってよ。いくらナンでもそれはないって。あたし、ヒトゴロシなんかできないし」

「そうなんですか? 我々が掴んだ情報では……二年ほど前、別れさせ屋の仕事の最中にあなたの工作対象者が不審な死を遂げていますね。その件に関して、あなたは当局に任意で取り調べられています。結局のところ、自殺の可能性が高いということになり無事に放免されたわけですが……そのように偽装することも可能だったのでは?」

 鴨志田のむしろ単調な言い方に、可南子はカッと赤らんで立ち上がった。

「偽装なんてめんどくさいコト、あたしがするわけないじゃん! あの男が勝手に死んだんだって!」

「フリーになっても、そこそこ稼いでいたそうじゃないか。なんでも “リベンジ屋” を名乗っていたとか。金を得るためなら、傷害や殺人も平気でやったんじゃないのか?」

 これは佐武朗だ。可南子はムキになって声を張り上げた。

「違う! あたしはヒトゴロシだけはしない! リベンジなんてカッコつけて売ってたけど、実際は不倫現場の写真を会社に送るとか、旦那の愛人に他の男を巧くあてがうとか、そういうおふざけ程度のカワイイもんなんだって!」

 猜疑と侮蔑に満ちた目を多方向から向けられて、可南子はますます多弁にまくし立てる。

「あの奥さんの依頼だって最初は、寿々久の屋敷にいる一人息子がどんな生活をしているのか、その動向を調べてほしいって、それだけだったんだよ! ハウスキーパーの紹介所に登録すればすぐに雇用されるように根回ししておくからって言われて……変わった依頼だったけどヤバい感じはなかったし、報酬が良かったから引き受けたんだ!」

 鴨志田がすました顔で「なるほど」と頷いた。

 柾紀に肩を押されて、可南子はどさりと椅子に腰を下ろす。

「とにもかくにも、大滝さんは紗恵子夫人の依頼を受けて、寿々久家に潜入しました。しかし、そこに信孝くんはいなかった……そのことを大滝さんから報告されて、紗恵子夫人は驚いたことでしょう。信孝くんが色々な事情から家を出て、今現在別の場所で暮らしていることを、紗恵子夫人はその時まで知らなかったからです」

 両手のハンカチに顔を埋めたまま、紗恵子はゆるゆると頭を振り続ける。

「そこで諦めて手を引いていれば良かったのでしょうが、紗恵子夫人は、大滝さんが入手したもう一つの情報に望みをかけたのです。それは、信孝くんが月に一度だけ実家に帰ってくる、ということ……それを聞いた紗恵子さんは、これぞ千載一遇の機会とばかり、大滝さんに新たな計画実行を命じました。それこそが、信孝くんの殺害依頼だったのでは?」

 抗議するように高まる紗恵子夫人の嗚咽。そして様々な思惑に彩られた視線が複雑に絡み合う中、美那子夫人と信孝だけが微動だにしない。

「今度は否定しないようだな」

 佐武朗の鋭い視線から逃れるように、可南子はツンとそっぽを向いた。

「……あたしは、断った」

「その時すでに、雇い主を別の人間に変えていたようだからな」

 佐武朗の言葉に可南子はギクリと身体を強張らせる。鴨志田が頷いて、再び語り始めた。

「大滝さん。寿々久家に潜入したあなたが、途中から津和野氏と通じていたことを、我々は知っております。そして博則さん、一方であなたが『津和野探偵事務所』に、とある調査を依頼したことも」

 博則はまた立ち上がり声高に叫んだ。

「もういい! 訳がわからない! 妻は具合が悪いんだ! 今すぐ医者に――、」

「――座れ、博則。見苦しいぞ」

 喉に絡まる声で制した笠藤暉夫は、より一層不機嫌そうな顔で鴨志田に「続けてください」と促す。鴨志田は小さく頭を下げた。 


「私が思うに、笠藤ご夫婦はお互いの密やかな思惑や画策を知らず、それぞれが独自に動いていたようですね。博則さんは紗恵子夫人と違って、信孝くんが寿々久家にいないことを知っていました。ただ、どこにいるかがどうしてもわからなかった……信孝くんの居場所は寿々久家の中でもトップシークレット事項ですからね。そこで博則さんは『津和野探偵事務所』に、信孝くんの居場所を突きとめて欲しい、と依頼したのでしょう。それ以前より、博則さんは寿々久家に対して、ご自分と信孝くんの親子鑑定を要望されていましたね? 実子である可能性が高い信孝くんを、あわよくば引き取りたいと……そうお考えだったのでは?」

「そ、それは……」

 詰まる博則の隣で、笠藤暉夫がぎろりと目を剥く。

「探偵に調査依頼? わしは何も聞いておらんぞ、博則」

 博則は「すみません」とバツが悪そうに呟く。すると、突如紗恵子が泣き崩れた顔を上げて、歪んだ形相で美那子を睨みつけた。

「――いやよっ! 私は絶対にイヤです! この方の息子を引き取るだなんて! たとえあなたの息子であっても、同じ屋根の下で暮らすなど……そんなの私には耐えられません……っ!」

「……だから、信孝くんを殺害しようとしたのですか?」

 鴨志田の静かな詰問に、紗恵子はヒクッと喉を鳴らした。

「彼が実家に帰ってきた日の深夜、あなたが寿々久家のごく近くまでタクシーで乗り付けたことは確認済みです。大滝さんに信孝くん殺害を断られたため、あなた自ら手を下そうとしたのでは?」

「こ、殺すつもりなんてなかったんです……ちょっと脅すだけ……うちに来ないで、って……博則さんに近づかないで、って……」

「さ、紗恵子……」

 オロオロと狼狽える博則と冷めた表情の美那子の目線が、ふとかち合った。美那子が即座に視線を断ち切り、博則は気まずそうに目を伏せる。


「……話を戻します。先週、信孝くんは実家に帰省しましたが、紗恵子夫人の計画は叶いませんでした。本来なら一泊する予定だったところ、その日の夜半に信孝くんは実家を出てしまったからです。その事実を大滝さんから知らされたあなたは、渋々諦めて帰宅するしかなかった。しかし一方で、博則さんの……いえ、『津和野探偵事務所』の目的は達せられていました。紗恵子夫人に内緒で津和野氏とも内通していた大滝さんが彼の命令通り、信孝くんの “サンプル” を入手していたんです」

 語気を強めて、鴨志田は大滝可南子の方へ数歩寄った。

「信孝くんの部屋のドアノブに、小さな刃を仕込みましたね? 彼が自分の部屋に入ろうとドアノブを掴んだ時に、ほんの少し指が傷つく程度の……例えば、剃刀かカッターの刃のようなものだと思いますが」

 可南子はふてぶてしい顔であらぬ方を向いている。寿々久大吾がギリと歯噛みした。

「――貴様……、私の家でよくもそんなことを――、」

「お父さん」

 美那子が低くたしなめて、大吾は憤怒の顔で口を噤む。

「大滝さん、どうですか?」と再度の問いに、可南子は溜息を吐いた。

「隠してもムダってことだね。その通りだよ。……笠藤の奥さん、悪く思わないでね。裏切ったわけじゃないよ? あんたの指示通り寿々久の屋敷で働き出したはいいけど、あの津和野って男に見つかっちゃってさ。あの男にはちょっとした昔のやんちゃを知られててね。まぁ、報酬も悪くなかったし? 頼まれたことも難しいことじゃなかったから引き受けたってわけ」

 鴨志田は満足そうに頷いて続けた。

「実家に到着した信孝くんが荷物を置くため、まず自室に向かうことは想像がつきます。あの日、あらかじめ密かにドアノブへ細工を施しておいた大滝さんは、信孝くんが到着した際に、何らかの理由をつけて信孝くんのあとから付き添ったのでしょう。部屋に入ろうとした信孝くんは、ドアノブに取り付けられた小さな刃で指先を切ってしまいます。前触れもなく突然痛みが走れば、人は反射的に痛みを感じた箇所へ目を向ける……つまり、信孝くんは咄嗟に指先を確認しました。その隙にドアノブを調べる素振りをしつつ、仕込んでおいた小さな刃を取り外せば証拠は残りません。何もないところで指を切るなどおかしな話ですが、それほど大した傷ではなかったので、信孝くんも特に深くは考えなかったようですね。よって大滝さんは、傷口の止血や消毒を甲斐甲斐しく行う一方で、信孝くんの “血液” を手に入れた……正確に言うと、信孝くんの血痕が付着した何かを手に入れたんです」

 鴨志田の説明に、佐武朗が重々しくつけ加えた。

「最近のDNA鑑定は民間施設でも精度が上がっています。ティッシュペーパーでも布でも、たとえ付着した血痕が微量でも、分析は十分可能だったはずです。……それを、津和野に渡したんだな」

 可南子はふてぶてしく笑うだけだ。鴨志田は博則を見た。

「博則さん、あなたが指示したのですか? 信孝くんの身体を傷つけても、彼の血痕を手に入れるように」

 長椅子を鳴らして博則は「違うっ!」と叫ぶ。

「わ、私はそんなことを頼んだ覚えはない! 確かに、親子鑑定を望んでいたことは否定しない。しかしそれは寿々久家の同意の上……ひいては信孝くんの同意も得た上でのことだ。津和野さんにもそうお話しした! そもそも、探偵に調査を依頼したのは苦肉の策だった。寿々久側がこちらの言い分に聞く耳を持とうとしなかったからだ。私はただ、信孝くん本人に会いたかった……会って、私の話を聞いて欲しかったんだ」

「――冗談じゃないわ!」

 紗恵子が金切り声を上げた。

「笠藤の息子になれと、そうおっしゃるつもりだったのでしょう! 私の気持ちや立場を考えもせず、この人の息子を引き取るなんて……ひどいじゃないの! 結局、跡継ぎが欲しいだなんてただの口実なのよ。あなたはこの人のことを忘れられないんだわ! この人とよりを戻すきっかけが欲しいだけよ! 最低! あんまりだわ!」

 そこで今度は寿々久大吾が「いい加減にせんか!」と一喝する。相当苛立っているようだ。

「さっきから聞いていれば好き勝手なことをほざきおって! 笠藤の跡継ぎ問題なぞ知ったことか! 信孝は寿々久の血筋を引く寿々久の跡取りだ! 笠藤にはやらんぞ! うちを巻き込むな!」

「喚くな寿々久大吾。白々しいにもほどがある」

 ガラガラとした濁声で、暉夫が制した。

「噂に聞く頑迷さは予想以上だな。今や誰もが知っている公然の事実を捻じ曲げようとするなど、ただただ愚劣の極みとしか思えん。聞くところによると、そちらの信孝くんとやらは若い頃の博則によく似ているそうじゃないか。……なぁ、信孝くん。なぜ顔を隠す。よかったらマスクとサングラスを取ってくれないか? 私たちに君の顔を見せておくれ」

 暉夫が声をかけると同時に、一同の視線が信孝に集まった。俯いていたマスクの顔がゆっくりと上がる。

「――信孝! 取る必要はないぞ!」

 大吾が怒鳴り、美那子は信孝の方に振り向きもしない。固まったままの信孝に、傍に立つ幸夜が小さく何かを囁く。「信孝!」と制する大吾の声も空しく、信孝はのろのろとした動きでマスクとサングラスを取った。

「ほぅ……これはこれは……」

 皆の視線が集まる中で眩しそうに瞬く信孝。その様子を眺め、暉夫の目が怪しく光った。

「DNA鑑定などしなくても結果は明白だな。この子は博則の面影を存分に受け継いでおる。正真正銘、笠藤の血を引く子――博則の息子だ」

「たわけ! 笠藤の血なぞ混じっておらん! 信孝の父親は死んだんだ! この世にはおらん!」

「フン、今更足掻あがいても無駄だ。貴殿の孫は、私の可愛い孫でもあるのだよ。そちらの母子不仲の噂、この私が知らないとでも? 十六歳という年若にもかかわらず、彼が寿々久家を出ているのはなぜだ。難しい年頃の息子を母親一人で育てるには限度があるのじゃないのかね? ここらで父親に頼っても罰は当たらんだろう」

「貴様……」

 ギリリと歯を剥きだす大吾に、暉夫はニヤリと笑んだ。

「いい頃合いじゃないか。事実を認め合い、過去のわだかまりを流し去り、双方がよりよい未来につながる賢い選択をするべきだ。博則が父親だと認めるがいい。こちらも即座に認知し、それによって生じる養育費は十六年分さかのぼって支払おう。さらに、今後信孝くんが成人するまで……いや、成人してからのバックアップも最善を尽くすと約束しよう。……おお、物はついでだ。この際、『スズヒサ時計』にもできる限りの金銭的支援をさせてもらおうじゃないか。もとは同じ暖簾のれんを掲げていた笠藤と寿々久なんだ。手を組めば――、」

「黙れっ! 貴様の魂胆はわかっているぞタヌキめ。大方、資金援助にかこつけて潜り込み、うちの技師たちを巧く手なずけ引き抜こうって腹だろう! 金儲けに目がくらみ、技師の誇りを捨て去った貴様らに『スズヒサ』の技術は売らんぞ! 邪道者めが!」

「邪道とはなんだ! お前のそのちっぽけな自尊心を守るためにどれだけの技師を潰してきた! カビの生え腐った時代遅れなやり方こそが、『スズヒサ』を崖っぷちに追い詰めておるのだぞ! お前こそ外道に落ちた鬼畜生ではないか!」

「何をッ――」

「「お父さん」」

 奇しくも同時に重なった二つの声が老獪たちを止めた。気まずく口を閉ざす美那子と博則を見やり、紗恵子の顔が屈辱に歪む。

 眼光鋭く一同を見渡した佐武朗の「続けても?」の言葉に、それぞれの顔が複雑そうな色に染まった。


「――顔の造形は、この場合何の証明にもなりません。おそらく津和野は、手に入れた彼のサンプルをすでにDNA鑑定させているでしょう。結果がどうであれ、まずは法的専門家を同席させたうえでの、両家そろった話し合いをおすすめします。こういった問題は裏工作をしても真の解決にはいたりません」

 すかさず太鼓腹の笠藤暉夫が長椅子の上で、フフンと尊大に身を反らせた。

「同感だな。その時はぜひ、信孝くんも同席してくれ。笠藤を選ぶか寿々久を選ぶか……父を選ぶか母を選ぶか。彼自身の意思を尊重しようではないか。――なぁ、信孝くん。母親との反目を恥じることはない。その年頃の男ならもあらんことだ。どうかね、ここらで実の父親に甘えてみるのも悪くはないぞ?」

「その “父親” のもとには、彼に刃物を突きつけた女性がいるということをお忘れなく」

 佐武朗の一言に、笠藤側はグッと詰まる。

「たとえ笠藤夫人に心神耗弱こうじゃくの気があったとしても、わざわざ自宅から刃物を持ち出し、それを彼に対して向けた以上、計画的殺人未遂であることに変わりはありません。今回は公にすることを控えますが、今後、奥様の動向には十分ご留意していただきたい。それから、依頼する探偵事務所は選ばれた方がいいですな。依頼項目に入っていない調査を勝手に手掛けるのは探偵業法に反します。津和野という男が探偵業法にのっとり営業しているかどうかは、甚だ疑問ですが」

 静かながらも重々しく佐武朗が言い渡した時、カチャリとドアが開いた。


「――おやおや、ずいぶんなお言葉じゃないか。『サブロ探偵事務所』の権頭さん」

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