第5話

 フォークが皿に触れる音と、時々漏れる微かな溜息……耳に届く音はたったそれだけ。こんなに静かな朝食は、陽乃子がここへ来て初めてではないだろうか。

 それはそうだろう。今日、広いダイニングテーブルについているのはタマコと陽乃子の二人きりだ。

 他の面々は、珍しく皆がそろって朝早くから出かけた。『スズヒサ時計』の創業百二十周年記念式典に出席するのだ、とリリコから聞いている。

 これまでも一人か二人が朝食の場にいないことはあったが、調査員全員が出払ってしまったのは初めてだ。彼らのいない食卓があまりにも静かで、静けさがかえって落ち着かず、何だか奇妙に思えた。


「静かだねぇ」

 陽乃子の心情を察したようにタマコが漏らす。今日もその頭は綺麗な紫色をしたふわふわのウィッグ、タマコのお気に入りらしい。

 片手ほどもある大きなロールパンを持ったまま、陽乃子の目が何となくリビングドアに向く。

 信孝は連れて行かない、とリリコは言っていた。だから部屋うえにいるはずなのだけれど。

 ――今日も、降りてこない。

「気になるのかい? ノブちゃんのこと」

 またもや、陽乃子の心を読んだようにタマコが言う。見上げれば、カールしたつけまつ毛が困ったように瞬いた。

「そっとしてお置きよ。心配な気持ちはわかるけどね、また逆撫でしちまったら元も子もないだろ?」

 タマコの太い指がパリパリとしたクロワッサンを引き裂く。陽乃子は力なく目玉焼きの皿に視線を落とした。

 数日前に見た、泣き叫ぶ信孝の顔が記憶の引き出しに入ってくれない。試しに何度か描いてみたけれど、いつまでたっても迷子の子供のように、陽乃子の脳内をグルグルと回るばかりだ。

 思えば、あんなに感情的な “顔” を間近で見たことがあっただろうか。笑った顔、泣いた顔、怒った顔……たくさん目にしてきたけれど、あれは今まで見た “顔” とは比べ物にならないほど、どこか思えた。抑えきれない激情が大きなうねりとなってこちらにぶつかってくる感覚。

 怖くて目を背けたくなった半面、心のどこかが奇妙に昂ったことも覚えている。

 あれは、いったい……


「――だけど、ずっと部屋にこもりきりってのもね……食事もあまり手をつけてくれないし……サブちゃんは放っておけって言うけどさぁ……」

 クロワッサンの滓を払いのけ、タマコは悩まし気に頬杖をつく。

 陽乃子はロールパンを皿に置いてタマコを見上げた。

「あの……あとでまた、食事を持って行ってもいいですか」

 最近は毎日、陽乃子が運んでいる。と言っても、部屋から信孝が出てくることはなく、声を聞くことすらなかったが。

「ドアの外に置いたら、すぐに戻ってきます」

 いつも念押しされることを先んじて言えば、タマコは溜息交じりに「お願いするよ」と言った。



 食事を終えて片づけを済ませると、陽乃子はタマコが用意してくれた食事をお盆に乗せて二階に上がった。

 パンとスープ、目玉焼きにサラダ。それほど多くない量だが、信孝が完食してくれることはまずない。もともとあまり食べない体質のうえ、ここしばらくはさらに食べる量が減っている。

 陽乃子は慎重に階段を上がり、信孝の部屋の前に向かった。ドアを開けた時、ぶつからない位置にお盆を置いて、軽くドアをノックしてから「食事を置いておきます」と声をかけて、速やかに階下へ降りる――何度か滞りなく遂行してきた任務であるが、今日は部屋の前に立った時点で異変に気づいた。

 ドアがほんの少し開いている。念のためノックをすればいつも通り返答はない。けれど、何となく予感がした。

 お盆を床に置いて、陽乃子はそっとドアを開けてみる。先日散乱しつくした物は大方綺麗に片付けられているようだ。カーテンが閉めてあるので室内は薄暗いが、机に備え付けのスタンドライトが点灯しており、すぐに悟った。

 信孝が――いない。

 タマコに知らせようと踵を返しかけた時、机の上に開いたままのノートパソコンに目が留まった。

 画面にあるのは豪奢な外観の建物の写真。『ヘルツリッヒ・ホテル』の文字。

 陽乃子は信孝の部屋を出てお盆もそのままに、自分の部屋へ向かった。エプロンを外し、部屋の片隅に置いてあるトートバッグの中からガマ口を取り出す。中に入っているお金は、ここへ来た時から一円も減っていない。足りるかどうかはわからないが、途中からは歩いてもいい。

 ガマ口を首にかけ部屋を出て、階段を降りる。真っ直ぐ玄関へ行きかけた時、リビングのドアからタマコが顔を出した。

「――ヒノちゃん……? どこへ行くんだい」

「『ヘルツリッヒ・ホテル』です」

「は?」

 ぽっかり口を開けるタマコに構わず、陽乃子は玄関の扉を開けた。

「行ってきます」

「ちょいとっ? ヒノちゃんっ?!」

 慌てて追ってくるタマコ。

 陽乃子は思い出していた。昨夜、寝る前にリリコが話していたことを。


 ――明日の式典、『ヘルツリッヒ・ホテル』なんですって。けっこういいホテルよ? 壱番街いちばんがいにある中でもトップ5に入るんじゃないかしら……でもヘンな話よね? フツーならアタシたちが出席する筋合いなんてないのに。ボスはなぁーんにも説明してくれないけど、たぶん美那子さんの護衛なんじゃないか、ってみんな言ってるわ。アタシたちなんかより、民間のSPサービスにでも頼んだ方がよっぽど安全だと思うんだけど。

 ……あ、ヒノちゃん、このことはノブに言っちゃダメよ? あの子は連れて行かないんですって。それもどーかと思うわよね。みーんなノブを腫れ物みたいに扱っちゃって。ノブには隠してもムダなんだって、ユキヤも言ってたじゃない? なのに蚊帳の外に置くなんて……ホント、ヘンな話だわ……


 ……護衛……SP……腫れ物……蚊帳の外……

 声の限りに泣き叫んでいた信孝の顔が、グルグルと回り続けている。

 どうしてだろう。どうして自分は『ヘルツリッヒ・ホテル』へ急がなければならないような気がするのだろう。



 壱番街――この街の政治、経済、商業の要が集まる中心スポットである。

 役所や警察署などの公的機関をはじめ、ホテルや銀行、企業の高層ビルがいくつもそびえ立ち、整然と区画割りされた広い大通りにバスやタクシーが列をなして往来するビッグ・ビジネス街。駅を隔てて反対側にある伍番街とは、まるで異なる世界である。

 『ヘルツリッヒ・ホテル』は、メインストリートから一本入った “鬼金通り” という通り沿いにあった。赤煉瓦風の外壁に半円状のドーム屋根、ルネサンス様式を取り入れた壮麗で煌びやかな外観は、ラグジュアリー感を求めるセレブ層に受けがいいシティホテルなのだそうだ。

 陽乃子を追いかけてきたタマコも共に行くと言ってくれて、二人はタクシーで『ヘルツリッヒ・ホテル』に乗りつけた。タマコは原付二輪しか運転免許を持っていないらしい。

 二人が西洋の宮殿を思わせる豪奢なエントランスホールに足を踏み入れた時、そこにはすでに式典出席者と思われる着飾った人々が多くいた。

 式典はまもなく開宴らしい。会場となるメインホールに向かい、鏡面のように光る大理石床上を盛装した老若男女がざわざわと流れていく。日本人でない客も少なくない。

 目に飛び込んでくるおびただしい数の顔。陽乃子の丸い瞳が勝手にシャッターを切っていく。普段なら人混みはなるべく目を伏せてやり過ごすのだが、今は信孝を探さなければならず、しっかりと顔を上げておかなければならない。フラフラと人の流れに吸い込まれそうな陽乃子の腕を、タマコがぐいと引き戻した。

「ちょいとお待ちよっ! そのナリじゃ目立って仕方がないじゃないか」

 声を潜め身体を縮めながら、陽乃子を引っ張っていくタマコ。確かに通りすがる何人かが、タマコと陽乃子を奇異な目で見ている。陽乃子はスリムのパンツに七分丈袖のブラウスという、いたって普通の恰好であるが、この場ではかなり浮いているようだ。しかしどちらかと言えば、熱帯雨林に生息している巨鳥ような極彩色遣いのタマコの方が、人々の関心を引いている気もするけれど。

 エントランスを囲むように並ぶ大きな円柱の裏側に回り込んで、タマコは陽乃子もろとも小さく屈みこんだ。

「あぅぅ……あたしとしたことが、携帯忘れてきちまうなんてさぁ。招待状がなけりゃ会場には入れないだろうし、どうしたもんか……」


 信孝がいないと陽乃子から聞いたタマコは、これ以上ないくらいに驚き慌てふためいた。「あたしも行くよ!」と言ってくれたのはありがたかったが、よほど慌てていたのだろう、まずは佐武朗に連絡することも念頭に浮かばず、さらには携帯端末を置いてきてしまったのである。外した薔薇柄エプロンのポケットに入れたままだったらしい。取るものとりあえずの中、財布だけは持って出てきたのだが。

「それにこの人だかりじゃあ、サブちゃんたちを探そうにも……」

 柱の陰からそっと顔を出す二人。すると、その背後で軽やかなヒールの音が鳴り、次いで不思議な余韻を残す美声がかかった。

「……まぁ、タマちゃんじゃない。どうしたの? こんなところで」

「――スーちゃん!」

 バッと振り返ったタマコが叫び、陽乃子の瞳が大きく瞬く。そこには、妖艶な色香を醸し出す妙齢の女性がいた。

 白磁器のような肌に彫り込まれた各パーツがくっきりとした線を描き、大きく波打った艶のある黒髪が、露わになった彼女の胸元まで伸びている。グラマラスな身体の線を際立たせるピッタリとした黒いドレスは、その光沢が彼女の細微な動きに合わせてさざ波のように蠢き、ふわりと大輪の花を思わせる深い香りがした。

 陽乃子は人間の顔の美醜がよくわからないのだが、こういった女性に “美しい” という形容詞を用いるのかもしれない。

「あんたこそ、どうして」

 面食らったタマコから、普段と違う男のような太い声が出た。

 妖艶な女性は、緋色の唇に笑みを乗せて僅かに首を傾ける。

「今日の式典に招待されたのよ? 『スズヒサ時計』はうちでも扱っている商品だから」

「ああ……そうだったね」

 気まずそうに頷いたタマコは、思いついたように身を乗り出した。

「スーちゃん、お願いがあるんだ。中にサブちゃんがいるはずなんだけどさ、見かけたら呼んでもらえないかい? ユキちゃんでもいい」

「佐武朗さんと幸夜が、ここに……?」

 黒水晶のような瞳を一度瞬いて、あでやかな女性はゆっくりと陽乃子に視線を移した。この子は誰?と目線が問うている。タマコはさりげなく陽乃子を引き寄せた。

「この子は……その……あたしの、姪っ子さ」

「姪っ子……フフフ……タマちゃん、ひとりっ子じゃなかったかしら」

 柔らかく笑う女性に、タマコがフググと小さく唸る。

「わかったわ。佐武朗さんか幸夜……見つけたら、タマちゃんが呼んでいることを伝えるわ。ここにいる?」

「ああ。頼むよ」

 再度濃艶な笑みを浮かべ、彼女は優美な動きで人々の流れにゆっくりと合流した。連れはなく、一人広いエントランスを歩いていく彼女は、何度か顔見知りらしき人々に声をかけられ、その都度足を止めて言葉を交わしている。周囲の人々の関心が自然と彼女に吸い寄せられていくようだ。

 ふとタマコを見上げると、どこかバツの悪そうな顔をして彼女を見送っている。陽乃子に気づいてその細い眉がキュイッと上がった。

「……あたしやサブちゃんの昔馴染みさ。あれであたしと同い年ってんだから驚きだろ? 弐番街にばんがいで宝飾店をやっててね、ユキちゃんの……」

 と言いかけたタマコは「あんたにする話じゃないね」と失笑する。 

 首を傾げた陽乃子は、人の波に見え隠れする彼女の姿をもう一度見送った。背の高い彼女の後姿は、昔読んだ童話に出てくる気高き女王のように思えた。


 ――と、にわかに肩が掴まれ、陽乃子は柱の陰に引き戻された。

「……笠藤かさとう……まさか、呼ばれていたとはね」

 タマコの緊張した声音。タマコにならって再び柱の陰から顔を覗かせれば、ちょうど柱の前を通り過ぎていく一行。

 先頭を行く恰幅のいい年配の男性は上質の三つ揃えを着ている。どうしてか不機嫌そうに顔をしかめており、その機嫌をうかがうようにして数名の男性が彼を取り巻いている。

 けれどそれより陽乃子の目を惹いたのは、その少しあとを早足で追う壮年の男性であった。すらりと背は高めで縁なしの眼鏡をかけており、こちらもきっちりスリーピースに明るい色のネクタイを締めている。細面ながらに精悍な顔つきにはどこか苦渋の表情が見えて、真一文字に引き結んだ口元が印象的だ。

 もちろん、陽乃子にはすぐにわかった。重なる部分がたくさんある――信孝の父親。

 そこで、ふと彼が振り返った。彼の数歩あとを歩いていた連れの女性が、立ち止まり顔を伏せている。淡い珊瑚色に吉祥草花模様の着物、華紋が鮮やかな小ぶりのバッグを手にして雅やかな立ち姿ではあるが、その顔色は冴えず気分が悪そうである。

 信孝の父親は着物女性の耳もとで何かを囁き、女性が小さく首を振って、二人は並んで再び歩き出す。

「……ヒノちゃんには、わかっちまうかね」

 頭上でこそっと囁いたタマコに、陽乃子は頷いた。

「信孝さんの、お父様……」

「ああ、そうだ。あたしの目にもソックリだと思うからね。笠藤博則ひろのり……『Casatow』の現社長さ」

 油断のない目で笠藤一行を見送るタマコは、先頭を行く太鼓腹の男を『Casatow』の会長である笠藤暉夫てるお、そして着物女性は、博則の妻である笠藤紗恵子さえこ夫人だと教えてくれた。

「イヤーな予感がしてきたよ。ひと波乱起きそうなメンツが揃っちまったじゃないか……」

 そうこうしているうちに、エントランスホールの人だかりもまばらになってきたようだ。

 しかし信孝の姿はない。すでに会場入りしているのか、まだ到着していないのか。『ヘルツリッヒ・ホテル』に向かったという陽乃子の予感そのものが間違っていたのか……


「――やぁだ、ホントにいた。なぁにしているのかしら、おふたりさん」

 円柱の陰から半分顔を出していたタマコと陽乃子は同時に振り返り、タマコが驚きよりも安堵の叫びをあげた。

「リリちゃん……!」

 腰に手を当て仁王立ちしているのはリリコである。顔は変えていないが髪は黒く変えており、白シャツに黒のズボン、黒のベスト、襟元には黒の蝶ネクタイといったウェイター風の恰好だ。

「まったくもう。いきなり蘇芳すおうさんに声かけられてビックリしたんだから」

 リリコ曰く、今日の役目は式典の接客スタッフに扮して、場内の安全警護に勤めることなのだという。てっきり煌びやかに装い招待客として参列できると思っていたリリコは、好き勝手に飲み食いしたかったのに、と不服そうだ。

 式典開宴の前、ウェルカムドリンクを振る舞う係に抜擢され奮闘していたリリコに、あのスーちゃんこと、伊南いなみ蘇芳すおう……高級宝飾店の女店主が声をかけたらしい。リリコもタマコ経由で彼女とは顔見知りなのだそうだ。

「ボスとユキヤはドコって訊かれて、ナニゴトかと思えばママが来てるっていうじゃない? しかもそんなカッコで。どーゆーつもり? ジャマしに来たの?」

 半目になって見下ろすリリコに、小さくなったタマコがあれやこれやと言い訳する。

 険しい顔つきだったリリコも、信孝がこのホテルに向かったらしい、と聞くと、にわかに顔を曇らせて少し俯き「ボス? ノブがここに来てるかもしれないって、ママが言ってるんだけど」と小声で話し始めた。その指が襟元の黒い蝶ネクタイを摘まんでいる。

 しばらくして「了解」と答えたリリコは、ポカンと見上げるタマコと陽乃子に気づき、蝶ネクタイを外して見せてくれた。蝶ネクタイの羽根部分の裏側に、五百円玉ほどの大きさの黒くて丸い小型機器が取り付けられている。

「マサキが改良した進化系トランシーバーなんですって。蝶ネクタイに仕込むなんて、どこの “名探偵” を気取っているんだか」

 小型機器の真ん中にあるボタンを押しながら話せば、音声が飛ぶらしい。相手側の声はリリコの片耳に入っているワイヤレスイヤホンに入ってくるそうだ。

 リリコは蝶ネクタイを元通りにつけ直し、再び仁王立ちスタイルでタマコと陽乃子をねめつけた。

「ノブのことはボスがなんとかするそうよ。あなたたちは仕事が済むまで控室にいてちょうだい。案内するから。まったく……ボスの機嫌、最悪じゃない。あとでたっぷり叱られるといいわ」

 タマコをブルブルッと震えあがらせて、リリコはエントランスホール左手にある通路に向かって歩いていく。タマコに続いてついて行きかけた時、ちょうどホールへ入ってきた数名が目の片隅に映った。何となく振り返って――陽乃子の瞳が、大きく見開かれる。


「――ヒノちゃん? どうしたんだい?」

 先行くタマコに呼ばれて一度目線を外したすきに、その “顔” は他の人の頭に遮られてよく見えぬまま、行ってしまった。

「ノブちゃんがいたのかい?」

 タマコが首を伸ばして辺りを見渡し、固まったままの陽乃子を怪訝に覗き込む。

「――ちょっと! ナニしてるのよ!」

 苛立ったリリコの声に、タマコは慌てて陽乃子の腕を引っ張った。

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