第4話

 それから数時間後――戻ってきた三人はそのまま仕事場に入り、リリコは給湯場へ、柾紀はデスクへ、幸夜は長椅子に向かった。

 色々わかったことはあるが、これ以上は動きようがない。とりあえず今は鴨志田待ちなのである。

 幸夜は長椅子にだらりと横たわり、ポケットからチョコ菓子の小箱を出して、一粒口に入れた。


「――あら、綺麗な時計……もしかしてそれ、ノブの?」

 カフェオレを淹れたカップを持ったリリコが、柾紀の背後から覗き込む。デスク上に置いてあるのは真鍮色をした丸い懐中時計――昨夜、信孝がなりふり構わず投げ散らかしたものの中の一つだ。

「動いてないわね。……あ。昨日投げつけた時に壊れちゃったんでしょ」

 長い鎖のついた懐中時計は、文字盤の奥にいくつもの歯車やゼンマイといった極小部品がそのまま見える造りになっている。どの部品も微動だにしていないその時計を、柾紀は難しい顔で眺めた。

「いや、もうずっと前から止まってたみてぇだな。興味本位でちょいと借りてきてはみたが……さすが『スズヒサ』の時計だ。精密すぎて複雑すぎて、俺じゃ無理だった」

「そうなの? いつも似たようなちっさいやつ、イジくってるじゃない」

「熟練の時計技師と比べりゃ、俺のやってることなんざ子供のブロック遊びレベルだろうぜ」

 柾紀は苦笑いして煙草の箱に手を伸ばす。

「それにしても鴨さんおせぇな。てこずってんのか」

「さぁ、どうかしら……、――あぁっ! ユキヤったら、それ!」

 不意に叫んだリリコが長椅子にいる幸夜を指さし、カフェオレをこぼす勢いでカップをデスクに置いた。柾紀が慌てて懐中時計を避難させる。

「そのチョコ、イチゴ味じゃない! ナニよ! アタシには『邪道だ』とか言ってたくせに!」

 ずんずんと詰め寄ってくるリリコ。幸夜は素知らぬ顔でチョコ菓子を口に放り込んだ。

「ぅるせーな。イチゴ味じゃねーよ。チョコの味だ」

「ウソよ! 半分イチゴじゃない! 半分ピンクじゃない! ってゆーか、箱は完全にイチゴじゃない!」

「チョコの味が勝ってるからいーんだよ。所詮、イチゴはチョコに勝てない」

「はぁ? ナニそのヘリクツ! 横暴だわ! イチゴに謝りなさいよ!」


 柾紀がげんなりと息を吐いてくわえた煙草に火を点けた時、車庫に通じる地下口のドアが開いた。

「――おぅ、鴨さん。お帰り」

 ドアから入ってきた鴨志田は、相変わらずのよれたジャケット姿に茶色の山高帽子。しかしその表情はいつになく曇っている。

 フン!と顎を上げて、幸夜のもとを去っていったリリコが、

「おかえりー。 “落としのカモさん” どうだったー?」

 と陽気な声で迎えると、鴨志田は疲れ切った顔で室内を見渡した。

「……ベテラン家政婦の管理が行き届いたお宅を見たあとでは、ここの散らかりようがことのほか異常に感じられますね」

「アーラめずらしー。カモさんが毒吐くなんてー。ナニナニぃ、聞き込み調査がウマくいかなかったのぉ?」

 リリコがからかい半分で覗き込めば、鴨志田は柾紀の隣のデスクにドサリと鞄を置いて、山高帽子を脱いだ頭をゆるゆると振った。

「持てる糸口をすべて断ち切られた気分です。一方は “存じません” の繰り返し、一方は “覚えていません” の繰り返しで参りました。――そちらの方はどうでしたか? 何かつかめましたか?」

「ああ、まんまとつかんじまったな。メンドくさくなりそうだ」

「面倒くさく……?」

 柾紀は長椅子に寝そべる幸夜をちらりと見やり、煙草の灰を空き缶に弾いた。

「とりあえず、鴨さんの方から聞こうか」


 不可思議そうな顔をしつつも、鴨志田は胸内ポケットから革製の手帳とボールペンを取り出してページをめくった。

「とは言ってもですね……僕の方は目ぼしい収穫がほとんどありませんでしたよ。最初に話を聞いたのは、住み込み家政婦として長年寿々久家を采配している山本さんです。勤続二十五年以上とのことですから、寿々久家に関する大抵のことは把握しているわけですね」

 鴨志田は手帳の覚書を追いながら、目をショボショボさせる。

「ええと、まずは美那子さんに届いた封書についてですが……あの区域の郵便物配達は一日一回、午後の遅い時間です。なので、いつも山本さんが夕方頃、正門にある郵便受けに取りに行くそうです。それを、澄江さん……信くんのお曾祖母ばあさまですね……宛のもの、美那子さん宛、大吾さん宛と仕分けして、それぞれまとめて本人の部屋に持っていくとのことで……もちろん開封することはありません。つまり脅迫状については、美那子さんから聞くまでまったく知らなかったそうです」

「差出人のない封書が何度も届いているのに?」

 リリコが眉を寄せれば、鴨志田も「ですよね」と頷く。

「しかし山本さん曰く、『宛名は確認しても、差出人はいちいち気をつけて見ていませんので』……だそうです」

 柾紀とリリコがそろってウームと唸り、鴨志田は「次に」と手帳のページをめくった。

「美那子さんの携帯への不審な着信ですが、これについても山本さんは知らなかったようです。念のため、寿々久家にある固定電話についても確認しましたが、そちらにはそういった不審な着信は一度もなかったそうで。他の家政婦さんも口を揃えて、特におかしな電話を受けたことはない、と」

 手帳の細かい書き込みを、鴨志田は持ったボールペンの頭で追っていく。

「それから、家の中で誰かに監視されている気がする、とのことでしたので、監視カメラや盗聴器の類を疑ってみましたが、僕の目では確認できませんでした。とはいえですね……寿々久の屋敷に出入りする人々は限られているんです。山本さんの他に通いの家政婦が三人と、庭の手入れや屋敷内の力仕事などを請け負っている大吾さんの運転手さん。母屋以外では、増築した別棟を寮として工業所で働く若い技師さんたちに提供しているようですが、澄江さんの住まう離れには時々かかりつけの医師が訪れる以外に来客もあまりないとのことです。つまり、不審な人物が屋敷内に潜り込めば、山本さんたちの目につきやすいと思うんですよ。しかもそんな中で人知れずこっそりと巧妙に、監視カメラや盗聴器を設置できた人間がいたとはなかなか考えにくいんですが……」

「そーいやあそこの家、警備サービスが入ってたよな。防犯カメラはあんのか?」

「ええ、正門と裏門の二か所に。敷地内に出入りする人物はすべてチェックできますが……屋敷内での不審行為までは。いずれにしても、もっと徹底的に調べるのであれば柾紀くんの出番です」

「ああ、依頼人が許可してくれんなら、いつでも行くぜ」

 煙草をくわえたまま柾紀は答える。鴨志田は頷いて手帳に目を戻した。

「ちなみに、寿々久家はこれまで不法侵入や盗難、器物損壊などの被害に遭ったことは一度もないとのことでした。……山本さんから訊き出せたことはそんなところですか」

「じゃあ次。美那子さんの方はどうだったの? スズヒサの工業所にも行ってきたんでしょ?」

 腕組みしたままリリコが問えば、鴨志田の目がすっと半眼になった。

「完全に、招かざる客でしたけれどね」

「あの頑固ジジイか」

 柾紀が苦い顔になる。鴨志田も似たような顔をして頷いた。

「ええ、寿々久大吾氏です。声をかけるや否や『笠藤の手先か!』と怒鳴られますし、美那子さんのストーカー被害調査だと言えば『そんなことは聞いとらん!』と怒鳴られますし。ようやく出てきた美那子さんまで、時間は三十分しか取れないとすげない態度、もう散々ですよ。来週開催される式典の準備で忙しいのはわかりますが、あそこまで邪険にしなくてもいいじゃないですか」

 よほど粗雑に扱われたのだろう、珍しく憤然としている鴨志田をリリコが「はいはい大変だったわね」となだめる。鴨志田は一つ咳払いをして、意識を手帳に戻した。

「まずは例の封書について訊いたんですが……気味が悪いから、その都度全部捨ててしまった、そうです」

 その一言に、リリコも柾紀も目を剥いた。

「うっそ、捨てちゃったのっ? ぜんぶっ?」

「それでよく調査依頼してきたな……」

 呆れる柾紀に鴨志田も大きく頷く。

「同感です。とにかく覚えている限りでいいので、と詳細を訊き出したところ、届いた封筒は全部同じで、どこにでも売っている定形の茶封筒だったそうです。表に住所と宛名があるだけで、差出人の記載は一切なし。切手や消印はいちいち見ていない、とのことでした」

 ページをめくって、鴨志田は続ける。

「中に入っていた紙面はごく普通のコピー用紙。内容はどれもほとんど似たようなもので『創業百二十周年記念式典を中止しろ。さもなくばお前の命はない』だとか『限定モデルの公開と販売を中止しろ。さもなくばお前を殺す』といったものだったそうです。もちろん封筒の宛名も中の文面も直筆ではありません。届いた日はいちいちメモしていないので覚えていないそうです」

 と、そこで柾紀が太い眉をしかめた。

「……おいおいまさか、不審な着信ってのも」

「ご明察。着信履歴は一件も残っていません。もともと、美那子さんはご自分の携帯端末の発着信履歴を片っ端から削除する習慣のようでして、履歴記録は一つも残っていませんでした。訊き出せたのは、非通知でかかってくることと、出た途端に切れてしまうこと、頻度はまちまちで日に十数回の時もあれば、まったくない日もある……ということくらいですか」

「んもぅ! 被害者が証拠隠滅しちゃってどーするのよぉっ? 物証がないんじゃ調べようがないじゃない!」

 地団駄を踏むリリコに、鴨志田は溜息交じりで漏らした。

「まったく、探偵泣かせとはこのことですね。聞き取りの最中も依頼人にあるまじき関心の薄さでして……むしろ、調、疑問に思います」

 難しい顔で紫煙をくゆらせる柾紀がボソリ、

「……まぁ、不審着信の件なら、調べられねぇこともねぇが……」

 と呟くと、リリコが「あ」と気づく。

「そうよ! ノブに頼んだらいいじゃない。あの子なら削除されたデータも簡単に復元できるでしょ?」

 だが、デスクの二人はそろって考え込み黙ってしまう。

 離れた長椅子で聞くともなしに聞いていた幸夜は、口内でゆっくりとチョコレートを溶かしながら滑稽に思う。あいつへの気遣いなど無用だ、と言っているのに。

 鴨志田がボールペンの端でコリコリとこめかみを掻いた。

「ひとまず、残された糸口……あの新人家政婦 “大滝可南子” に絞って調べてみましょうか。ボスも何かあると踏んだからこそ目をつけたんだと思います。……尾行してみて何かわかりましたか?」

 訊かれた柾紀は短くなった吸いさしを空き缶にねじ込んだ。

「幸夜が言うには……その女、津和野と通じているらしい」

「えぇっ? どういうことですか」

 そこで柾紀が、幸夜から聞いた数刻前の尾行談をかいつまんで説明する。女が通話していた相手の番号から津和野の存在が浮上したこと、そして漏れ聞こえてきた会話の断片。

 加えて、リリコもタブレット端末を引っ張り出してきた。

「大滝可南子の紹介元のハウスキーパー・サービスも調べてみたわよ。ざっと見た感じ、サービス会社自体に怪しい点はなかったわ。……大滝可南子は今月の初めに登録したばかり。つまり、登録してすぐに寿々久家への派遣が決まったってことで、タイミングは良すぎね。それともう一つ引っ掛かるのは、笠藤家に派遣されている家政婦もそのハウスキーパー・サービス所属の人ばかり、ってことかしら」

「いちおう、線はつながるんだけどな」

 柾紀の言葉に、鴨志田は薄い眉根を寄せて考え込んだ。

「脅迫状の件も踏まえて、考えられる筋書きとしては……笠藤が津和野に『スズヒサ時計』の限定モデル販売を阻止させるための嫌がらせ工作を依頼する……津和野は家政婦に扮した大滝可南子を潜入させ、美那子さんを脅して窮地に追い込む……ということですか? たしかにあの男は金さえもらえれば何だってやるでしょうが……果たして笠藤が……」

 首を傾げる鴨志田。柾紀も「だよな」と同調した。

「そりゃあちょっと考えられねぇことだ」

「どぉして? その限定モデルの時計ってスッゴイ時計なんでしょ? 『Casatow』はライバル会社である『スズヒサ時計』にスッゴイ時計を売り出されちゃ困るんじゃないの?」

 リリコがハスキーな声を張り上げると、柾紀は「いいや」と首を振った。

「言っただろ? 『スズヒサ時計』と『Casatow』は完全に道を分かれた。同じ時計製作会社とは言っても、その形態はまるで違うんだよ」

「どういうこと?」

「いいか? お前も知ってる通り、『Casatow』は “オクアトス” に “ウィマロー” 、 “グラン・マグノス” ……名の通ったブランド時計を次々に出した国内最大手の大企業だ。時計だけじゃねぇぞ? 電卓に電子辞書、健康関連商品……今じゃ海外のソフトウェア企業と連携して次世代時計を開発したりもしてんだ。独自性を捨てることにはなったが、『Casatow』は他社の優良技術を取り込む合理的なやり方を選んだ。でもそのおかげで高品質な製品を、庶民でも頑張れば手が届く値段で販売することができる。俺のも “ウィマロー・クロノス” ……『Casatow』製品だ」

 柾紀が突き出した褐色の手首には大ぶりのミリタリーウォッチ。何年も前からその手首にある彼の愛用品だ。

「片や『スズヒサ時計』は、あくまでも自社の技術だけで時計を作り続けることにこだわっている。たしかにその技術は世界に誇れるモンだが、会社の規模としちゃ中小企業に過ぎねぇ。その特殊性ゆえに販売できる層が限られてるし、年間百本足らずしか作ることができねぇからな。実際長い間『スズヒサ時計』は経営難だ」

 鴨志田もどこか同情するような表情で頷いた。

「膨大な時間とコストがかかる昔ながらの非合理的なやり方なんです。今まで何とかもっていたのは、美那子さんの必死の努力のおかげなんでしょう」

「つまるところ、今回出す “スズヒサ・フェル・イーマー” に『スズヒサ時計』の命運をかけていると言ってもいい。だけどな、それは『Casatow』にとって大した脅威じゃねぇんだ。多少面白くない気分にはなるだろうが『Casatow』の経営に何ら影響するものはねぇ。だから、脅迫までして止めさせるってぇのは、どうも考えにくいんだよ」

 柾紀はその外見からは想像しがたいのだが、その昔とある町工場で働いていた経験がある。それだけに中小企業の経営事情話にはつい熱が入るようだ。

 一方リリコはまったくの門外漢、柾紀の熱におののき気味である。

「そ、そう……わかったわ……よくわかんないけど……わかったような気はしたわ……」

「ちなみに、所長はずっと『スズヒサ時計』を愛用していますね。今つけているのは……おそらくコンマ二つ」

 指二本を立てた鴨志田に、リリコは天井を仰いだ。

「そーゆー高級志向、ボスらしいわよね」

「話を戻しましょう。いずれにしても、大滝可南子が明確な目的をもって寿々久家に入り込んだ、というのは確かなようです。しかしその目的は何か、となると……少なくとも、脅迫目的だとは思えません。不審電話や脅迫状は、家政婦に扮して潜入しなくてもできます」

「そうよね……直接美那子さんを傷つけたり家に何かを仕掛けたりするならともかく、電話や手紙なんてどこからでも――」

「――あ!」

 と、突然何かを思い出した鴨志田が振り返り、長椅子の幸夜へ首を伸ばす。

「すみません幸夜くん、報告を忘れていました。頼まれていた件ですが、信孝くんの部屋のドアを確認したところ何もありませんでしたよ。寿々久家の基本の造りは古い日本家屋ですが、澄江さんの離れ以外はリフォームされて洋室になっていまして。信孝くんの部屋も他と同じくレバーハンドルタイプのドアノブでした。取っ手だけじゃなくドアの表裏両側とも見ましたが、傷つけるようなものは何も」

「……ああ、だろうな」

 幸夜は寝そべったまま、気怠く片手を上げた。

「ドアノブ? 傷つけるようなもの?」

「おや、知らなかったんですか? 何でも昨日、信孝くんが実家で手の指にケガを負ったとか……」

 鴨志田がパチパチと瞬くと、突如柾紀がガタンと椅子を鳴らした。

「――ぉあ! まさか、おい、幸夜――、」

 驚きに目を見張る柾紀。幸夜はコンクリートの天井をぼんやりと眺めながら答える。

「もう。どうしようもねーよ」

「それが目的か……いや、だったら不審電話や脅迫状はナンなんだ? まったく意味がねぇだろ?」

 文様入りの頭をガシガシ掻きながら歩き回る柾紀。ポカンと呆けていたリリコが我に返って叫んだ。

「――ちょっと! アンタたちだけわかった顔して! アタシにもわかるように説明してよっ!」

 ――と、小さな電子音が鳴った。鴨志田が懐を探り携帯端末を取り出す。

「おや、所長からです。……――はい、鴨志田です。……はい、先ほど送ったファイルに詳細が……、え……? ……そうですか、わかりました……はい、みんなには伝えておきます……」

 ごく短いやり取りで通話は終わったようだ。

 鴨志田は、なぜかキツネにつままれたような顔で一同を見渡した。

「所長からの伝言です。来週行われる『スズヒサ時計』創業百二十周年記念式典に、我々も同席するように、と」

「それだけ?」

「はい、それだけです」

 答えた鴨志田は、やはり釈然としない表情でポツリと呟く。

「……所長まで、調査の進展などどうでもいいような口ぶりに聞こえました。気のせいでしょうか……」

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