第3話

 皆のあとに続き陽乃子が信孝の部屋に入ると、室内はすでにメチャクチャな様相と化していた。

 机や本棚にあるものを手当たり次第に投げつけたのだろう、床上には物が散乱し足の踏み場もない。

 その中で、信孝は言葉にならない喚き声を上げながら狂ったように暴れていた。着ているものは昼過ぎに出掛けた時のままの、薄い空色のシャツとベージュ色のチノパンだったが、その様子は一変している。乱れた髪、紅潮した顔、血走った眼……まるで何かにりつかれているかのようだ。


「――ど、どうしたんだいっ……ノブちゃ……ちょっと落ち着くんだ……――いたっ……!」

 暴れる信孝を止めようと前に出たタマコに、飛んできたDVDケースがヒットした。

「――来るなぁっ! 出て行けぇっ! お前らなんか――……っ!」

 今度は重たそうな大判の書籍が飛んでくる。若い女性の写真集のようだ。もう一冊飛んできた。また一冊。

「――ノブ! 落ち着けって! 何があったんだ!」

「ちょっとっ、危ないじゃないのっ! ――キャッ……!」

 リリコが叫び声を上げて陽乃子を抱え込む。飛んできたパソコンのキーボードがドアに当たり、その衝撃でキーがいくつか弾け散った。

 柾紀は褐色の太腕を上げて、飛んでくる物を避けながらノブを抑えようとするが、我を失った信孝は間断なく投げつけてくるのでなかなか近づけない。

「――ぅるさいっ! うるさいうるさいうるさい……っ!」

「――イタッ! もう! いい加減に――」

「ノブ……ッ!」


 喚き声と怒号と金切り声、破裂音と損壊音の中、凍りついたように立ち尽くす陽乃子の目の前に図らずもぽっかりと空間ができた。その一瞬を狙ったかのようにこちらめがけて飛んでくる何か――、陽乃子は咄嗟に目を閉じ――

 ――ぶつかる衝撃の代わりに鎖が鳴るような金属質な音。

 そろりと目を開けると、目の前にあったのは誰かの手だ。その手の主は、キャッチしたものを握ったままゆっくりと陽乃子の前に出た。

「……ユキちゃん……! ――ったぁっっ……!」

 幸夜に気づいたタマコの鳥の巣頭にまたもや何かが当たった。さほど大きくない何かの機材のようだが、当たった音からして決して軽くはないものだ。「あぅぅ」とうずくまるタマコ。リリコが「ママッ、しっかりして!」と駆け寄る。

「――ノブっ!」

 とうとう柾紀が信孝の腕を拘束した。パソコンのテスクトップ本体を持ち上げていた信孝は、柾紀に抑えられたまま歯を食いしばる。

「……知ってたんだろ」

「……は? 何を……」

「どうせボクは要らない人間なんだ。あちこちたらい回しにされて、ちょっと情報が欲しい時にだけ使われて、必要なくなったらゴミくずのように捨てられる! みんなだってそう思っているんだろ! ボクのことなんかもう要らないって!」

 デスクトップ本体が床面に叩きつけられた。

 柾紀が慌てて信孝の肩を掴む。

「いったいナンのことだ。誰がいつ、要らねぇなんて――」

 信孝は柾紀の手を振り払った。

「今日だよ! お曾祖母ばあさまが言ったんだ――『権頭さんには失望したわ……お前を笠藤かさとうのもとに行かせるなど、あってたまるものですか』って! それって、寿々久うちと佐武朗さんの間でそういう話があるってことだろ! ボクを笠藤に売り飛ばすのっ? 陰でコソコソ取引するなんて卑怯だよ! 直接ボクに言えばいいじゃないか! お前なんか要らない、出て行けって、はっきり言えばいいじゃないかぁっっ!」

 叫んだ信孝の目から涙が溢れた。

 訳がわからない、という唖然とした空気の中――、

「――要らねーよ」

 気怠そうな一声を発したのは幸夜である。心底煩わしそうに、床に散乱したDVDケースを足のつま先で蹴飛ばしている。

「キャンキャンキャンキャン、ヒステリー起こして吼えるだけのヤツは要らねーんだよ。うちは営利事業の探偵事務所だ。役に立たないヤツは放り出すに決まってんだろ。まさかお前、自分がカワイソーな子だから置いてもらってると思ってたのか? バカだろ」

「――ユキちゃん……!」

 紫色のウィッグを大きくヅラしたタマコが叫ぶ。幸夜は構わず鋭い目線で信孝を射抜いた。

「 “あちこちたらい回し” にされたくないなら働け。どうせ今回の依頼主も依頼内容も全部知ってんだろ? 泣き喚くヒマがあんなら、母親の交友関係から仕事の関係者まで徹底的に洗え。怪しい情報は残らず集めろ」

 ヒクッと信孝が嗚咽を上げた。

「だって……、さ、佐武朗さんが……っ……ダメだって……」

「佐武朗が一言でも『ダメだ』と言ったか」

 そこでリリコが「んー」と首を傾げて「あ、言ってないかも」と呟く。しかし、信孝を抑えている柾紀は苦い顔だ。

「幸夜……」

「甘やかすなよ。こいつはな、その気になれば警察のデータベースにだって侵入できるんだ。うちにある端末で信孝がアクセスできないものはない。つまり、うちに入る依頼も調査内容も、全部こいつに筒抜けなんだよ。それを承知で佐武朗は信孝をここに置いている。その意味、もう一度よく考えてみろ」

 そう言い放った幸夜は、ヒュイッと何かを投げる。信孝の代わりに柾紀がキャッチしたそれは、長い鎖のついた真鍮色の丸い金物のように見えた。


「壊したもんは全部、お前が自分の金で買い直せよ」

 両手を黒いジャケットのポケットに突っ込んで、皆に背を向けようとした幸夜はふと、ヒックヒックとしゃくり上げている信孝に目を止めた。

「……お前、その指、どうした」

 その場の皆が信孝の手に向き、信孝も一瞬呆けたように目を丸くして自身の手を見下ろした。

 彼の右手の中指に、肌色の絆創膏が巻かれている。

「あ……これは……なにかで切ったみたいで……」

 グスッと鼻をすする信孝。頭上に?マークを浮かべた他の面々。

「どこで」

「よ、よく、わかんない……実家に帰って……ボクの部屋に入る時に、切れたんだ……ドアの取っ手に釘でも出てたのかなって思ったけど……ドアを確認した家政婦の人が、何もないっていうから……」

 幸夜の目がすっと細くなった。

「傷の手当をしたのも、その?」

 いつになく鋭い口調に、信孝は泣き濡れた顔をこわばらせて頷く。

 幸夜は数秒、信孝の指先に視線を固定していたが、それ以上は何も言わぬまま部屋を出て行った。

 思い出したように再びすすり泣き始める信孝。

 誰ともなく深い息が吐き出され、柾紀の大きな手が震える少年の背を撫でていた。



   * * *



 後部座席にだらりと座る幸夜は、出発から今まで閉じていた目をゆっくりと開けた。眠っていたわけではない。車に乗ると目を閉じたくなるのはほとんど習性だ。

 窓の外は重く湿った仄暗い色。日暮れ時の陰りとその上層の曇天が同調し、明度と彩度を大きく下げるエフェクトをかけたようだ。

 疾走するアイアンブルーのハイブリットカーは街道を外れて、田畑と家屋が半々といった寂れた郊外の住宅地に入る。この辺りは街の中心部からそう離れていないにもかかわらず、都市開発の波に乗り損ねてしまったのか、もしくはその波を頑なに拒んでいるのか、点在する住家はどれも古くて厳めしい。

 幸夜は窓から目を逸らしてドアポケットに入れてある小箱を手に取った。軽く振って中から転がり出てきた小さなチョコ菓子を一粒口に入れる。


「――そーいえばノブはどう? まったく気配を感じなかったけど。生きてるの?」

 能天気な声は助手席に座るリリコである。一方、ハンドルを握っている柾紀はくわえていた煙草を指に挟み、表情かおしかめて紫煙を吐き出す。

「部屋に籠りきりだな。俺も昼にちょっと話しただけだ。とりあえず落ち着いたようには見えたが、部屋の中には入れてくれなかった」

「まぁだ拗ねてるのかしら。ママに聞いたんだけど、ボスってば昨日ノブを送ったあとも寿々久の家にずっといたみたいよ? でも夕食後、ちょっと目を離したすきにいつの間にかノブがいなくなっちゃってて」

「それで電話してきたのか」

「さすがのボスも焦ったでしょうね。家中を捜しまわってもいないわ、お曾祖母ばあさまが心配のあまり卒倒しかけちゃうわで大変だったみたい。――あ、ユキヤも昨日ボスから連絡もらった? だから帰ってきたのー?」

 チョコ菓子の小箱をドアポケットに戻した幸夜は、まさか、と心の内で呟く。

 もっと早くに知っていたらむしろ帰らなかった。確かに佐武朗からの着信はあったが、タイミング悪く幸夜がうちに着いたと同時であったのだ。

 ――信孝が無断でそっちに帰ったらしい、何があったのかわかったら知らせろ――、そんなことを一方的に告げて通話は切れた。リリコの言うような “焦り” など微塵も感じさせない、いつも通り居丈高な物言いだった。

 正直、幸夜の知ったことではない。面倒事は御免だ。ウンザリしつつ階上うえに上がれば、さらに気の滅入るようなバカげた茶番劇。

 他の皆はあそこまで錯乱した信孝に同情的のようだが、あれはある意味、計画的錯乱だと幸夜は思っている。わざわざタクシーを使って戻って来てから、タマコや柾紀の目につくように暴れてみせた――皆の気を惹きたかったが故だ。あれだけ衝動的破壊行動に勤しんでいたわりには、外付けのHDDだけが難を逃れていたというのも笑える。

 少なくとも、それくらいの理性は働いていたということだ。


 返事をしない幸夜に構わず、リリコは柾紀に向いた。

「……で、結局あの話はホントなの? ノブを笠藤かさとうに売るだのなんだの……そもそも、父親ってノブのこと “認知” してるの?」

 柾紀は苦い顔を前に向けたまま首を振る。

「してねぇな。……つーか、ノブの父親が笠藤博則ひろのり……『Casatow』の現社長だな……であることを、寿々久側が断固認めていねぇんだ。笠藤も初めのうちは、そっちがそう言うなら……って不干渉を決め込んでたけど、今になって雲行きが変わってきたみたいでな」

「どうゆうこと?」

 柾紀はちらりとリリコを見て、吸い殻入れに煙草の灰を弾いた。

「笠藤には未だ跡取りがいねぇんだよ。鴨さんの話だと、笠藤博則が十六年前に結婚した紗恵子さえこ夫人との間には今もって子供がない。そんで、この紗恵子夫人っつーのが『あおば銀行』現頭取の娘でな。その『あおば銀行』は『Casatow』のメインバンクにして創業時の融資は筆頭。今じゃ、子会社孫会社ひっくるめて恩恵に与っているってわけだ」

 柾紀の説明に、リリコは「なぁるほど」と言って人差し指をピンと上げた。

「つまり、跡取りを作れなくても奥さんを邪険にはできない」

「だな。しかし、代々世襲制でここまで会社を発展させてきた笠藤としては、何としても血のつながった跡取りが欲しい。そこでノブの存在がクローズアップされてくる。笠藤側から見れば、寿々久が何と言おうと、ノブが笠藤の血を引いている可能性は極めて高い。しかも、ノブが母親や祖父じいさんと上手くいかず家を出ているらしいことも風の噂で掴んでいる。これを道義的理由とすれば、紗恵子夫人に対してもノブを引き取る言い訳ができる。実際、寿々久の方に何度か、笠藤から親子鑑定の申し出がきているらしい」

「それで寿々久側は? それに応じるの?」

 柾紀は鼻の頭にしわを寄せた。

「いやまったく。頑として “笠藤の息子ではない、鑑定の必要はない” の一点張りだ。せめて信孝本人に会わせろ、っつー要望も完全にスルーしている。今ノブが『サブロ館うち』にいることを知っているのは寿々久の中でも限られた人間だけだからな、笠藤は今のところ手の打ちようがないはずだ」

 赤信号で車は停まった。柾紀は短くなった煙草に吸い付き、そのままダッシュボード下の吸い殻入れへ突っ込む。

「……それから、これも鴨さん情報だが、つい最近そのことについてボスが寿々久の連中に忠告したみてぇだ。事実を捻じ曲げればいつか必ずひずみが出る……今のうちに正々堂々親子鑑定を受けて認知させてしまった方が、あとあと色々な面で都合がいい……認知させたからといって母親の親権が奪われることもない……、そんなことを説明したらしいんだが……まぁ、それを素直に受け入れる母ちゃんと祖父じいさんじゃなかったみてぇだな。ただ、あの曾祖母ばあさんは違った風に受け取った可能性がある。曾孫を溺愛するあまり要らぬ想像を膨らませついには……、権頭さんは信孝を笠藤に渡してしまうのではないかしら……なぁんて思い込んじまっても不思議はねぇよ」

「そしてそれを聞いたノブが、お得意の被害妄想でヒステリーを起こした……、それが最も自然ね。さすがに我らがボスを、人身売買しちゃうヒトデナシだとは思いたくないわ」

 ひょいと肩をすくめるリリコ。柾紀は「そいつはねぇが」と呟きつつバックミラー越しに幸夜を見た。

「……やっぱしボスは、今回の案件からノブを外したいんだと、俺ぁ思ってんだがな」

 車が発進し、幸夜は何も言わず目を伏せた。

 柾紀は昨晩の、信孝をきつけるような幸夜の言動をとがめたいのだろう。しかし嘘は言っていない。『サブロ探偵事務所』にとって信孝はいわば、自覚なき諸刃もろはつるぎなのだ。佐武朗はそれを承知で彼の身柄を引き受けた。本気で信孝を調査から締め出したいのなら、佐武朗は彼を解雇し、代わりに彼以上のハッカーを雇わなければならない。


「ともかくも」と、リリコが溜息交じりに言った。

「ロミオとジュリエットは、たとえ死ななくても幸せにはなれない、ってことがよーくわかったわ。どーせなら同じ時計製作会社同士、合併でもして仲良くやれないのかしら」

 車は黄色点滅する信号を左折した。ハンドルを操作する柾紀が「簡単に言うなよ」と苦笑する。

「『スズヒサ時計』と『Casatow』……数代前は同じ暖簾のれんの下で修業した技師同士だったんだ。けど、その道は半世紀以上も前に完全分岐した。今じゃ求める技術も掲げる経営方針も違う。お互いがお互いを “邪道だ” “外道だ” とけなしあってんだ。合併なんて話は天と地がひっくり返ってもあり得ねぇだろうよ。……よし、あそこだな」


 舗装された私道に入り、車は速度を落とした。

 フロントガラスの前方に見えるのは、瓦葺かわらぶきされた白塗りの外塀が長々と続く大きな古屋敷――寿々久家である。

 ゆっくりと正門前を過ぎ、外塀沿いを徐行しつつ裏門へ回れば、屋敷裏の道路を隔てた場所に四角い箱型の大きな建物がある。数十年前まで使われていた旧工業所なのだそうだ。塀や柵はなく雑草も伸び放題で、今では使用どころか管理されている気配もない。

 アイアンブルーのハイブリットカーは静かに旧工業所跡の敷地内に入り駐車した。他にも数台の車両が並んでいる。寿々久家に間借りする若い技師連中や来客用の駐車場になっているのだろう。ここならば目立たずして裏門を注視できる。

「あ。カモさんの車みーっけ。今頃家政婦さんたちに聞き込みしてるのよね? 上手くいってるかしら……ちょっと様子見に行く?」

「俺らが顔出したら聞けるモンも聞けなくなっちまうだろが。鴨さんに任せておけ」

「それもそーね。……んーと、 “彼女” の退勤時間までもうちょっとあるわ」

 リリコが携帯端末を確認してバッグにしまった。今日のリリコはカジュアルな服装、顔もノン変装ばけ――素のままだ。このあとの尾行は幸夜が受け持つ予定だからである。

 エンジンを切ってシンとした車内、唐突にリリコが「ねぇ、ヒノちゃんのことなんだけど」と切り出す。

「……あの子もしかして、パパとママを捜しているのかしら」

 煙草に火を点けていた柾紀が驚いたように目を見張った。幸夜も思わず意識を向ける。

「あ? なんだそりゃ。嬢ちゃんがそう言ったのか?」

「うーんと、前にほら、小松原大毅ひろきの捜索であの子が利用していたネットカフェへ行ったでしょ? その時にちょっと訊いたのよ。どうして家を出てこんなところに寝泊まりしてたの、って。そしたらヒノちゃん『人を捜しています』って言ったの」

「へぇ。誰を?」

「その時はそれ以上ツッコんで訊かなかったわ。でも、こないだボスから『あいつに返しておいてくれ』って、トートバッグを預かって」

「トートバッグ?」

「そう。それをヒノちゃんに返したら、ヒノちゃん、突然バババーってバッグをひっくり返してて。ナニか探し物かしらって見てたら、ガマ口をね」

「ガマ口?」

 柾紀の太眉が不可解そうに寄っていく。そのうち繋がりそうだ。

 無駄な細部が多いリリコの話によると、陽乃子はトートバッグの中から出てきたガマ口を開けて中から何かを取り出し、しばらく眺めてまたガマ口にしまったのだという。それはお金などではなく――、

「それがね、写真だったの」

「写真……?」

 ますます怪訝な顔をする柾紀に、リリコは大きく頷いた。

「たぶんパパとママの写真よ。若い男の人と女の人と、男の人に抱っこされた小さな……二、三歳くらいかしら……女の子が映ってて、その子がヒノちゃんってことは一目でわかったわ。だってあの子、子供の頃から顔が変わってないんだもの。ということは、抱っこしていた男の人がパパで、隣に寄り添っていた女の人がママでしょ。間違いないわ」

「お前も “顔” を見ただけで親子だってわかるようになったのか?」

 くつくつと含み笑い揶揄する柾紀に、リリコがパッと顔を赤らめる。

「そうじゃないけど! あの写真を見れば誰だってそう思うわよ! すっごく幸せそうな写真。他人じゃあんな雰囲気出せないわ! それに女の人はヒノちゃんそっくりだったのよ? おっきな目とかツヤツヤの真っ黒な髪とか。何より、ヒノちゃんが時々その写真を取り出してじ~っと眺めているところ、アタシ何度か見たもの。あれはパパとママに決まってるわ!」

 必死の形相で言い張るリリコ。鼻の穴が膨らんでいる。

 柾紀はわかったわかった、となだめつつ煙草を口端にくわえた。

「……で? 捜している人ってのがそのパパとママなのか、本人に訊いたのか?」

 するとリリコは不服そうな顔のまま首を横に振る。

「……あんまり詮索するのはよくないかなって思ったの。サブロ諸法度にもそんな項目あるじゃない。それにあの子、脚に……」

「あし?」

 何かを言いかけたリリコは思い直したように顔を上げた。

「ともかくっ、パパとママを捜すために家を出るなんてよっぽどのことでしょ? きっと、それまでいた家は本物の家族じゃなくて、継母とか血のつながらない姉や妹とかからイジメられたりして、ツラい思いをしてきたのよ。だから本当の両親を捜す旅に出るって決心したんだわ」

「シンデレラにマルコを混ぜただろ」

「それに何となくだけど、ボスはヒノちゃんを外に出したくない、って感じじゃない? もしかしたら、ヒノちゃんと両親を会わせまいとして邪魔してくる人物がいるんじゃないかしら。だってそうよ……ヒノちゃん、誰かに追われてたみたいだったもの……」

 腕を組み、イッチョ前のていで考え込むリリコ。柾紀は呆れ半分の顔で紫煙をくゆらせている。

「――そのバッグとガマ口、中に何が入ってたかわかるか」

 幸夜がだしぬけに声をかけると、リリコはピョコッと飛び上がり振り向いた。

「やだユキヤ、起きてたの? ……ナニがって言われても……トートバッグの中に入ってたのは、ノートが何冊かとスケッチブックにペンケース……『似顔絵描きます』って書いた画用紙もあったわね……あ、チョコレートの箱も入ってたわよ。ユキヤがよく食べてるタケノコのやつ」

「タケノコ……?」

「ガマ口の中身は詳しく見てないからわからないわ。お金がいくらか入ってたみたいだけど……っていうかアタシ、いくら一緒の部屋で暮らしてるからって人の持ち物を探るような卑しい真似はしないわ」

 憤然と顎を上げるリリコだが、幸夜が考えているのはまったく別のことだ。

「なぁ……あいつの歳、十九って言ってたよな」

「は? ナニよ今さら。ヒノちゃんが年齢詐称してるって言いたいの? そりゃ十九には見えないけど、ベビーフェイスっていうだけじゃない」

 リリコが唇を尖らし睨んでくる。幸夜は何とも答えず、窓の外に視線を飛ばした。

 あのキノコ娘の実年齢などどうでもいい。ただ、極端に幼く見えるということが問題なのだ。何かと規制が厳しくなっている昨今は特に――

 その時、柾紀が前方に身を乗り出した。

「――出てきたぞ。あの女で間違いねぇか」

「……ええと、間違いないと思う」

 寿々久家の裏門から出てきた一人の女性。薄暮の中ではわかりにくいが、外灯の下を通った瞬間その全貌が見て取れた。やや背は高めで細身、長い黒髪を後ろで一つにくくっており、淡い色のシャツに暗色のスリムパンツという姿は、どこにでもいるOLのような格好だ。

「――今月から寿々久家に雇われている “大滝可南子かなこ” って新人家政婦。写真より若い雰囲気ね。派遣かしら?」

「ボスの話だと、彼女が勤め始めた頃から、美那子さんのところに不審な着信や脅迫状まがいの手紙が届くようになったらしいぜ」

「ふぅん。偶然にしちゃタイミングが良すぎるわね。あまり怪しさは感じないけど」

「仕事はそつなくこなしてるって話だ。あそこは若い技師たちや曾祖母ばあさんの世話もあるからな。山本さんの負担も減って助かってるんだと」

 柾紀の言う “山本さん” とは、信孝が生まれる前から寿々久家に住み込んでいる古株の家政婦である。仕事一辺倒の主に代わって寿々久家を切り盛りしながら、年老いた信孝の曾祖母、寿々久澄江の世話もしている信用できる人物だ。

「でもボスは、彼女を洗えって言ったのよね? じゃあ決まりじゃない。大滝可南子が犯人でファイナルアンサー!」

 快活な声を上げたリリコに、柾紀はくわえ煙草のまま文様入りの頭を掻いた。

「お前はホントに短絡的だな。たとえそうだとしても、その目的がわかんねぇだろ。ナンでその女がノブの母ちゃんを脅迫するのか、そいつ自身の単独犯なのか、誰かに頼まれてやってるのか、笠藤とつながりがあるのか……、――幸夜、行くか」

 女が外塀の角を曲がり視界から消えた。車のドアを開けて幸夜は外に出る。

「ああ。テキトーに流してて」


 大滝可南子なる女は寿々久家の表へ回ったあと、迷いない足取りで寂しい住宅街を進んでいた。

 かなりの距離を置いて、幸夜は彼女と歩く速さを合わせる。女にしては速い。

 尾行には不向きな道だ。畑や空き地など無駄にひらけている空間が多く、行きかう人の姿がほとんどない。日が落ちた薄闇のおかげで多少気づかれにくい状況ではあるが、勘がいい人間、もしくは腹に一物ある人間ならば、尾行に感づいてもおかしくない。

 とりあえず、進む方角にはバス通りがある。バスの停留所に向かっているのか、タクシーを拾うのか、どちらにしてもそこまで行けば人通りが増える。

 いざとなったら即座に放尾する心づもりで、幸夜は気だるげに――事実、尾行は張り込みの次に嫌いだ――足を進めた。

 歩くこと十数分、彼女は特に振り向くことも速度を変えることもなく、バス通りに出た。そして歩みを止めたのはバスの停留所。そこにはすでに他のバス待ちが二人いる。これなら同じバスに乗っても怪しまれる可能性が低い。

 ――と、腕時計とバスの時刻表を照らし合わせていた彼女が、ふと気づいたように肩から下げていたショルダーバッグを開けた。かすかに着信音が聞こえて幸夜は少し足を速める。彼女が中から携帯端末を取り出した時、タイミングよくさりげなく彼女の背後に立った幸夜は、携帯端末が彼女の耳に当てられるまでのコンマ数秒で、端末画面上に表示された11桁の数字をその眼に捉える。

「――なに? 今日はもう上がったけど?」

 通話し始めたその瞬間、女は何かの気配に気づいたように振り向いた。女の視線を感じながら幸夜が何食わぬ顔でバスの時刻表へ近づくと、女はそこから数歩離れる。

「……いつまでやらせる気? ……はちゃんと渡したでしょ? もうお役御免にしてよ。ていうか……が半端ないんだけど……ちゃんと話つけてくれた?」

 幸夜の背後で彼女の通話は続いている。が、声量を落としているので聞き取りづらい。 

「……来週の……? ……ああ、あれね……でもなーんかヤバそうな感じが……ケーサツじゃないとは思うけどね……それはわかってるよ……わかってるって、うるさいな……、……え? じゃあ迎えに来てよ……今、四丁目のバス停……ナンだよメンドクサイな……じゃあそこまで行くよ……」

 どうやらそこで通話を切ったようだ。外見に似合わず、ずいぶんと蓮っ葉な喋り方をする。

 携帯端末をバッグに入れた彼女は幸夜に目もくれず、そのままバス停を離れてバス通りを下っていった。誰かが迎えに来るようだが、顔を見られた以上追尾するわけにはいかない。

 横目で彼女を見送り、幸夜はポケットから携帯端末を取り出して手早く操作する。

 まずは柾紀にメールだ。――尾行は終了、バス停まで迎えに来い。

 それからもう一件。宛先は佐武朗。

 目にした11桁の数字と同じものが脳内にある。比較的新しい記憶だ。手渡されたあと、すぐに指で弾いて捨てたが、ご丁寧に走り書きしてくれた番号は記憶に刻まれてしまった――あの男の名刺。


 ――大滝可南子のバックに






【用語解説】

★放尾……尾行を意図的にやめること、諦めること

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