第2話

「――ヒノちゃん。……ヒノちゃん? ……ヒノちゃん! そのチョコはゴミじゃないよ!」

 タマコの掠れた甲高い声。我に返った陽乃子は自分の手元を見下ろす。

 指定ゴミ袋――ゴミ袋は決められたものでなければ、ゴミ収集車が持って行ってくれないのだそうだ――に散らかったゴミを拾い集めていたのだが、いつの間にかゴミでないものも入れていたらしい。

「まったく……封の開いてないチョコまで捨てちまったらユキちゃんにドヤされるよ……ああ、この雑誌もリリちゃんのだから捨てちゃダメだ……っていうか、雑誌や新聞はひもで縛って別に捨てるんだよ。リサイクルってやつさ」

「……はい」

 ゴミの分別とやらはとてもややこしい。陽乃子はゴミ袋に入れてしまった雑誌や新聞をもう一度取り出した。

 食後の片付けが一通り終わったあと、陽乃子はタマコと一緒にリビングの掃除を始めたのだが、これがなかなか進まない。必要なものも不要なものもごちゃ交ぜで散らかっているせいもあるが、陽乃子の手がしばしば止まりがちなのも一つの原因である。

 雑誌をまとめていたタマコは、そんな陽乃子をちらりと横目で見やる。

「気にしてんのかい? ノブちゃんのこと」

「……わたしは、あの方を傷つけましたか?」

 陽乃子がタマコを見上げると、タマコは驚いたようにパチパチと瞬いてから、力が抜けたような溜息を吐いた。

「悪い子じゃないってことはわかるけどね……あんたは変わってるよ」

 肩をすくめて、タマコは「ひと休みしようかね」とソファにどっさり腰を下ろした。

 フリルだらけのエプロンポケットから小箱を出したタマコは、吸っていいかい?と訊く。陽乃子が頷くと、タマコは小箱から煙草を一本引き抜いて、ライターではなく紙製のマッチで火を点けた。

 指に挟んだ煙草は、柾紀や佐武朗が吸っているものより幾分細いものに見える。タマコが煙草を吸っているところを見るのは初めてだ。

 ローテーブル上にある灰皿――リビングにあるそれは、歯を剥きだした人間の口型である――を引き寄せ、唇を突き出して紫煙を吐き出す。

 黙って一連の動作をこなしたタマコは、陽乃子を見て言った。

「――あんた、 “ロミオとジュリエット” ってラブストーリー、知ってるかい?」

「……シェイクスピアの作品でしょうか」

 首を傾げながら陽乃子が訊くと、タマコはもう一度煙草に吸いついて大きく頷く。

「好き合った男と女の家が、運悪く敵対関係にあったっていう悲しいラブロマンスだね……もとを辿ると、それと似たような話が現実でも起こったって話さ。結末はだいぶ、違うけどね」

 細い煙草の吸い口にローズ色を付けて、タマコはどこか遠くを見るような目つきになった。


「昔の話なんだけどねぇ……ある若者と娘が恋に落ちたんだ。けれど、お互いの家は昔っからの商売敵でね、当然、両方の親御さんどもは猛反対さ。それで、思い詰めた若い二人は駆け落ちしようって決めた。……でも、そう簡単に逃げられるわけもなくってさ。結局二人は連れ戻されちまって、そのあとは会うことも連絡を取り合うこともできなくなっちまった。……言い方は悪いけどね、あたしゃここでロミオとジュリエットのように手を取り合って死んでりゃ良かったのかもしれないって思うんだよ。でもそうはならなかった」

 タマコは細い煙草の先を口型灰皿の上で弾く。

「悲劇なのはここからなんだ。二人が別れてからしばらくして、娘が身籠っていることがわかってね。もちろん好いた男の子供だよ。それを知った娘の父親はカンカンさ。職人気質かたぎの頑固親父だからね。娘の母親はその時すでに他界してたんだけど、娘の祖母ばあさんって人が出来た人でね、どうにか父親を説得して産むことを許してもらったんだ。娘は喜んだそうだよ。無事に赤ん坊を産むことができれば、別れさせられた男と一緒になれるかもしれない、なんて考えたのかもしれないね。……でも、一足遅かった。娘が赤ん坊を産んだちょうどその頃、男は別の女と結婚しちまってたんだよ。それを聞いた娘はショックを受けてね、一時は自殺騒ぎもあって危うかったそうだよ。生んだばかりの赤ん坊の世話もままならず、毎日毎日泣いて暮らしたそうだ」

 陽乃子は一心にタマコを見つめた。

 何だろう……この、胸奥が詰まっていくような感覚は。

「……それから時が経って、娘にどんな心境の変化があったんだろうねぇ……数年後、彼女は父親の会社で働き始めたのさ。古くから続く小さな時計製作会社だよ。もしかしたら、裏切った男を見返すつもりだったのかもしれないね。もともと頭のいい子だったようで経営の才もあったんだろう。今じゃ、その会社のマネジメントをすべてやりくりする女傑なんだそうだ。……でもその一方で犠牲になったものもある。彼女は子育てを放棄しちまった。息子の世話はほとんど人任せで、むしろずいぶん冷たく当たっていたようでね。日々成長していく息子に、自分を裏切った憎い男の面影を重ねちまったのか……手を上げることもあったっていうから、ひどい話さ」

 陽乃子が問うまでもなくタマコは告げる。

 ――その可哀想な息子が、ノブちゃんだよ、と。


「ノブちゃんが中学に上がった頃から、ますます当たりがひどくなっていったそうだよ。母親に『産まなきゃよかった』なんてののしられる上に、祖父じいさんまでがノブちゃんを邪魔者扱いしてさ……もともと産むのには反対だったからねぇ。唯一味方になってくれる曾祖母ばあさんがいたけど、高齢だし足が悪くってね。なかなか常にはかばいきれなかったんだろう。ノブちゃんは、たった一人でずっと耐え続けたんだよ。……ああ、ダメだね、この話をするといつもこうなっちまう……」

 グズ、と鼻を鳴らしたタマコは、煙草を口型灰皿の中に揉み消し、エプロンの裾で目元を抑えた。

「よっぽど辛かったんだろうさ。いつしか学校にも行かなくなっちまって、四六時中あの目出し帽を被るようになって、一日中部屋に引きこもって……そんなある日、事件を起こしたんだ」

「事件……」

 タマコはティッシュペーパーのボックスから勢いよく数枚を引き抜いて、盛大に鼻をかんだ。真っ赤になった鼻をスンと鳴らして、タマコは続ける。


「あたしゃそっち方面にはトンとうといんだけどね、いわゆる “ハッキング” ……いや、 “クラッキング” だったかねぇ……あの子、友達もほとんどいなかったみたいでさ……どこでどう覚えたのか、気づけば犯罪レベルの腕前になっちまってたのさ。それで、ついには公的機関の機密情報に不正アクセスしたとかなんとか……危うく逮捕されるところだったんだよ。そんな時、色んな状況が重なってね、寸でのところでうちが――サブロ探偵事務所が揉み消したんだ」

 丸めたティッシュペーパーがポイとゴミ袋に投げ入れられる。

 タマコが語るところによると、当時サブロ探偵事務所は別件の調査に携わっていたのだが、その過程で偶然、公的機関からも目をつけられている天才ハッカーの存在を知り、それが現役中学生であると突き止めたのだそうだ。

 佐武朗は事が公になる前に事態の収拾を図ろうとし、そこで更なる偶然にも、天才ハッカー少年の曾祖母と佐武朗の縁者がたまたま知己の仲だったことが判明した。

 折しも信孝の曾祖母は、信孝と母親をしばらく離した方がいいのではないか、と考えていた時でもあり、また、信孝の並外れたハッキングの技量と相反する未熟な自律心を鑑みて、彼はサブロ探偵事務所に預けられることになったのだそうだ。

 それが、今から半年ほど前のことだという。


「ここへ来た最初のうちは不安定だったけど、あれでもずいぶん落ち着いたんだよ。うちの中では目出し帽を被らなくなったし、ハッキング行為も無分別にしなくなったしね。あんたが来てまた被り始めたけどさ、なにもあんたが嫌いで避けているわけじゃないんだ。ただ、初めての人には慣れるまで時間がかかるんだよ。度が過ぎた人見知り、って思ってくれればいい。慣れれば平気になる。しばらくの間だけだからさ、我慢してやっておくれ」

 そう言って、タマコは再びズビビッと鼻をかむ。

 陽乃子は両の拳を握った。警戒するような足取り……俯いたまま小さく震わせた肩……目出し帽の穴の奥に見えた彼の瞳は潤んでいなかったか。

「わたしは……あの方を傷つけてしまいました」

 余計なことだったのだろう。彼の “顔” について、陽乃子はあれこれ口に出すべきではなかったのだ。

 一点を見つめ固まってしまった陽乃子を見て、タマコは慌てたように腰を浮かした。

「ヒノちゃん、別にあんたを責めたわけじゃないんだ……ああ、こんな話はするんじゃなかったかねぇ……」

 立ち上がってオロオロとエプロンの裾を揉みしだいていたタマコは、ふと思いついたようにキュイッと眉を上げた。

「よし! じゃあこうしよう! “タヌキむすび” 作戦だ! 早く慣れてもらうには小さなことからコツコツと、ってね」

「タヌキ……?」

「タマコママ特製の変わり種おむすびを教えてあげるよ。これがなかなか美味うまいのさ。……あんた、おむすびくらいは握ったことあるだろ?」

「……ありません」

 陽乃子が答えると、タマコはがっくりと肩を落とした。


 ――数十分後。

 陽乃子は小さなお盆を持って、注意深くリビングのドアから廊下へ出た。

 盆にはおむすびが二つ乗った平皿と、小さな椀に入った味噌汁が乗っている。零さないように運ばなければならない。

 タマコに教わって握ったおむすびは、陽乃子の知っているものとはちょっと違っており、白飯に天かすと少量の七味唐辛子を入れ、麺つゆで味付けした混ぜご飯を握ったものだ。軽く炙った海苔が別添えにしてある。

 幸夜以上に食の細い信孝なのだが、これはとてもお気に入りで、出せばよく食べてくれるのだという。

 平皿の上に並ぶ二つのおむすびはまったく別のものに見えた。一つはタマコが握った綺麗な三角型のもの。もう一つは陽乃子が教わるがまま懸命に握ったもの。どう見ても三角ではなく歪な凸凹だらけだ。

 それでもいいよ、とタマコは言ってくれたがどうだろう、気を悪くしないだろうか。

 ホールから階段へ向かい、一段一段慎重に足を運ぶ。

 タマコの話だと、信孝は今日の夕方から明日の昼頃まで実家に帰る予定なのだそうだ。月に一度の恒例行事らしく、彼の家族と一緒に食事をしてそのまま一晩泊ってくるのだが、信孝にとっては正直、気の進まない帰省らしい。

 だから少しでも気付けになればと、タマコは毎度彼が出かける前に、こうして彼の好きなおむすびを握ってあげるのだそうだ。これを食べると、信孝はほんの少し元気になるらしい。

 ――初めにノックをして……出てきたら『差し入れです』……渡す時は『傷つけることを言ってしまってごめんなさい』……

 頭の中で繰り返し、陽乃子は階段を上る。

 上りきって信孝の部屋に向おうとした時、下から上がってくる足音がした。振り向けば階段を上がってきたのは信孝本人――目出し帽を被っていない。

 陽乃子に気づいた彼は途端に顔を引きつらせて硬直した。目出し帽を持った手が反射的に宙へ浮く。陽乃子の口から、頭の中で繰り返した文言がまろび出た。

「あ、あの、差し入れです……」

 すると、信孝の顔がグッと歪んだように見えて――一瞬、睨みつけられた気がした――彼は足早に陽乃子の脇をすり抜けた。部屋に入ろうとする彼に「あの……」と追いすがる。

「――……るさいっ……!」

 振り払った腕が、陽乃子の持つお盆に当たって弾き飛ばした。

 派手な音とともに皿が落ち味噌汁がぶちまけられ、海苔がはらりと舞っておむすびは床面を転がる。

 バタンと大きな音を立ててドアは閉まった。

 陽乃子は茫然と立ち尽くし、転がったおむすびを眺める。形のいい三角おむすびも凸凹でこぼこしたおむすびも、飛び散った味噌汁にまみれて見るも無惨だ。

「――どうしたんだい? ヒノちゃん?」

 階下からタマコの声がしたが、陽乃子は返事をすることもできなかった。



「――そんなことがあったのぉ? ひっどぉいっ! ナニ様なのよアイツ!」

 眉を吊り上げて叫んだリリコは、陽乃子を引き寄せ「大丈夫だった? ケガはなかった?」とあちこち撫でまわす。

「持って行かせたあたしが悪いんだよ。もう少し時間が必要だったかもしれないねぇ……出かける時、地下口したまで行って見送ったんだけどさぁ、ノブちゃんてばあたしに『行ってきます』って言ってくれなかったんだよ……ああ、完全に嫌われちまったかねぇ……」

 大きな身体を丸めてソファに沈んだタマコが、惨めな顔でクッションを抱きしめた。


 ――その日の夜である。

 陽乃子がリビングで一人静かに記憶の整理――ノートに顔のスケッチ――をしていたところ、リリコと柾紀がリビングに入ってきた。とりあえず今日やるべき仕事は終わったとのことだ。

 二人がソファに腰を下ろすや否や、タマコは待っていましたとばかりに一連の出来事を打ち明けた。タマコはタマコで責任を感じていたらしい。

 話を聞き終えたあと、プンプンと憤慨するリリコの向かいで、柾紀は濃い眉を寄せて難しそうな顔をした。

「あいつ、怖くて仕方ねぇんだろうな」

「顔を見られるのが? どこまで自意識過剰なの? 誰もナニも言いやしないわよ!」

 ハスキーな声を張り上げるリリコに、柾紀は「そうじゃねぇ」と首を振る。

「あいつが顔を隠してんのは単なる “言い訳” なんだと思うぜ。ノブが恐れてんのは、自分の存在意義がなくなるってことだ。あいつにとってここは、自分を必要としてくれる唯一の場所だろ? そこへ新入り……嬢ちゃんがやってきた。俺らの仕事にちょいと役立ちそうなスペックを持った同じ年頃の子だ。それでノブはビクビクしてんだよ。お前は要らないって言われたらどうしよう……自分の居場所が盗られたらどうしよう、ってな。……ああ、勘違いすんなよ。あくまでもノブはそう思ってるんじゃないかって話だ」

 最後は陽乃子に向かって念を押すと、リリコが呆れたように鼻を鳴らした。

「バッカバカしい……まるで赤ちゃんにママを取られて拗ねてる子供じゃないの」

「その通り、子供ガキなんだよ。あいつが母親と祖父じいさんから邪険にされていたのはたしかに可哀想だけどな、その分、曾祖母ばあさんや家政婦たちからはとことん甘やかされてきたんだ。根っこはまだまだ、世間知らずの我がまま坊っちゃんなんだよ」

 溜息交じりにリリコのバッグを引き寄せた柾紀は、中からタブレット端末を取り出した。

「今日入った依頼の主が “寿々久美那子” ――ノブの母ちゃんだったこともタイミングが悪かったな。ボスは今回の案件にノブを関わらせないようにしている。ノブはそれを爪弾きにされたと思ってる。極度の焦りと不安が、嬢ちゃんに向かったんだな」

「完全に八つ当たりだわ」

 ねぇ?と頭を撫でるリリコを見上げ、陽乃子は再び紙面に鉛筆を走らせた。

 ここ数日外出しない日が続いて、脳の記憶領域にかかる負担はだいぶ軽い。けれど日中タマコがよくテレビを見るので、人間の顔情報はそれなりに入ってくる。こうしてノートに顔を記す日課は欠かせない。


「――で、その母親からの依頼ってのはナンなんだい? よりによってうちに依頼してくるなんて」

 タマコがクッションにごつごつした顎を乗せて訊く。柾紀が大型犬のように呻りながらタブレット端末を操作した。

「まだ概要しか聞いてねぇんだが……調査名目はストーカー被害……」

「ストーカーに遭ってんのかい?」

 目を丸めて身を乗り出したタマコに、柾紀がタブレット端末をローテーブルに置いて画面を見せた。

「どうもそうらしいな。半月ほど前から携帯への非通知着信が延べ百回以上、美那子さん宛に差出人不明の脅迫状が十数通……その他にも、外に出れば誰かに尾行されているような気配、自宅では誰かに監視されているような気配を感じる……ってことだ」

「穏やかじゃないね。だったらなおさら、ナンでうちに依頼してくるのさ。そんな案件、警察に任せた方がいいじゃないか」

 タマコはタブレット画面を覗き込みながら唇を突き出す。

「だいたいストーカーが “脅迫状” ってのもおかしくないかい?」

「俺らもまだ現物を見てねぇからナンとも言えねぇよ。聞いたところによると、式典を中止しろとか限定モデルの発売を中止しろとか……」

「式典? 限定モデル? ナンだいそりゃ」

 つけまつ毛をパチクリと瞬いたタマコに、柾紀がニヤリと笑んでタブレット画面を操作した。

 そこで陽乃子の隣に座るリリコが「あ、そうだ」とバッグの中身をゴソゴソし出す。


「――ああ、これだ……『スズヒサ時計』が今年創業百二十周年を迎えるだろ? その記念に限定モデルを出すんだ。その名も “スズヒサ・フェル・イーマー” ……これがすっげぇ代物でよ。腕時計の三大複雑機構の一つ、パーペチュアルカレンダーに加え、ムーンフェイズが搭載されたグランドコンプリケーションと呼ばれる特殊スペック機械式時計でな。……そりゃ世界にはこれを凌ぐ超複雑機構時計もあるにはあるが、ナンたって日本では稀少な自社製ムーブメントを誇る “スズヒサ” だ。マニアにとっちゃ、身体中の穴という穴から手が出るほど欲しい最高級腕時計なんだよ」

 得意げに説明する柾紀に対して、タマコはポカンと呆けている。

「リリちゃん、わかるかい……?」

「さっぱりわかんない」

 肩をすくめたリリコがバッグから取り出したのはピンク色の小箱……イチゴ味のチョコがかかったスティック状のお菓子だ。封を開けて一本引き抜いたリリコは口に入れてポキンと音を立てた。仄かに甘い香りが届く。

 柾紀はそんな二人の示した温度差が納得いかないようで「お前らな……」と呆れた顔で溜息を吐いた。

「よーし、わかりやすく言ってやる。その限定モデル、一本の値段はなんと、一千二百万円だ」

「い、いっせんにひゃく……っ?」

 両頬に両手を当てておののくタマコ。リリコもピンクのスティック菓子をモグモグしながら鼻孔を膨らませる。柾紀は満足そうに頷いた。

「技術的な価値から言えばもっと上げてもいいくれぇなんだぞ。でもまぁ、百二十周年記念だからな、そこは語呂合わせってことなんだろう。限定十二本。すでに全部買い手がついてる。限定モデルの概要発表と同時に、世界各国のスズヒサウォッチマニアから予約が殺到したってぇ話だ」

「たかだか腕時計一本に……コワいね……おかねもちってのは、しこたまコワいね……」

 頬に両手を当てたまま、タマコの鳥の巣パープルヘアーがプルプル震えた。柾紀はポケットを探り煙草の小箱を取り出す。

「脅迫状の “式典” ってのはおそらく、来週に控えてる創業百二十周年記念式典のことだ。その限定モデルのお披露目会も兼ねてるらしい。それこそ、世界各国の金持ちどもがぞろぞろ集まってくるぜ」

 口に咥えた煙草に火を点けて、柾紀は口型灰皿を引き寄せる。

 慄いていたタマコは不意にポンと拳で手の平を打った。

「なーんか読めてきたよ。警察じゃなくうちに依頼してきたことといい、サブちゃんがノブちゃんを外したがることといい…… “笠藤かさとう” が絡んでいるから、なのかい?」

「さぁて、その辺は調べてみなきゃわからねぇな。明日、鴨さんが寿々久の家に行って聞き込みする手はずなんだ。俺らはボスのめいで別口から。……なんにせよ、始めるのは明日以降だな」

 勢いよく紫煙を吐き出した柾紀と、唇をつぼめてウーンと唸るタマコ。

 イチゴのスティック菓子をポリポリと食べていたリリコが、ふと口を開いた。

「ねぇ、腕時計で “オクアトス” ってあるじゃない。ちょっと名の売れたホストなら一本や二本は持ってるお高~いヤツ。それって『Casatow』のブランドよね? ノブの父親が社長をしている時計会社なんでしょ?」

 柾紀が声にならない唸り声を上げて、リリコの口元でポキンと音が鳴る。

「……実の父と母がかたき同士だなんて不憫よね。ノブが可哀想な子……ってことはわかるわ」

 妙にしんみりとした空気が流れた。

 陽乃子は鉛筆を置いて小さく欠伸をする。描き終えれば途端に眠気がやってくる……もはや身に沁みついた条件反射のようなものだ。

 ここに住む者は皆一様に夜型生活のようだが、陽乃子は日付が変わるまで起きていられないことが常だ。こればかりはそう簡単に馴染めないらしい。

 もう一度欠伸をして口を閉じた時、口腔内に甘いものが侵入していた。イチゴ味のチョコスティック菓子だ。見上げるとリリコがニコニコしている。

 タマコが「おや、もうこんな時間だね」と立ち上がった。

「じゃ、あたしゃそろそろお店回りに行ってくるよ。……ああ、ユキちゃんは出かけたのかい?」

「知らなーい。まーた馴染みの熟女に可愛がってもらってんじゃないのぉ? うっふふ、ヒノちゃんたらかぁわいい~。はい、もう一回。アーン」

 ふわりとした意識の中で、甘いイチゴチョコの味が溶けていく。陽乃子は半分寝ながらモグモグと口を動かした。

「まるで仔猫の餌付けだね……そーいや、リリちゃんがチョコのお菓子を食べてるなんて珍しいじゃないか」

「いつもは美容のために控えてるの。でもたまに食べたくなるのよねー。アタシ、イチゴ味のチョコが好きなのよ。絶対ハズレなしだと思うの。なのにユキヤったら『邪道だ』なーんてバカにするのよ?」

「ユキちゃんはチョコ味じゃないチョコは食べないんだよ。あとカカオが多くて苦いやつもね」

 苦笑するタマコにリリコはツンと顎を上げる。

「ユキヤの好みなんてどうでもいいわよ。あれだけチョコばっかり食べても太らない、肌荒れしない、ってところがムカつくわ。――あらヒノちゃんたら、ホントにオネムみたいねぇ。ここで寝ちゃいなさいよ。あとでマサキが運んでくれるし」

 うふふと笑いながら陽乃子の頭を撫でるリリコ。パタンと軽い音がして、タマコがリビングを出て行ったようだ。

 眠気と戦う陽乃子の頭がユラユラ揺れて、目を細めたリリコが陽乃子の髪を指でいている。こうされるのは好きだ。とても心地がいい。

 そんな二人を黙って見ていた柾紀が、分厚い唇からプカリと紫煙の輪を出した。

「お前……最近夜遊びに行かねぇよな」

「ん? そうだったかしら」

「……可愛がるのは結構だがな、ほどほどにしとけよ」

「ほどほどって?」

 リリコがキョトンと首を傾げた時、どこからか小さな電子音が聞こえた。すぐに柾紀が反応してズボンのポケットから携帯端末を取り出す。画面を見て「ボスだ」と怪訝な顔をした。

「――はい。ええ、うちにいますが。……え? ノブですかい? ……いや、こっちにはまだ帰ってないはず……、何かあったんで――、」

 その時、リビングの外から地鳴りのような音が近づいて来るや否や、ドアがけたたましい音を立てて開いた。

「――マサちゃんっ! う、上で、ノブちゃんがッ……!」

 タマコが血相を変えて戻ってきた。溶けそうだった陽乃子の意識がバチッと戻る。

「ノブ……?」

 柾紀は通話中の携帯端末に「あー、ボス、ちょっと待って下さい」と言いながら立ち上がり、リリコも「どういうこと?」と眉をひそめる。信孝は明日の昼頃まで帰って来ない予定なのだ。

 タマコが上ずった掠れ声で喚いた。

「い、いつの間にか、帰って来てるんだ……! それであの子、部屋で暴れてるんだよぉっ!」

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