第3章 邪道ロミオ VS 外道ジュリエット

第1話

「――そういやリリちゃん、今度、新しいベッドが届くんだって?」

 タマコが、納豆を乗せた白飯の上に生卵を割り入れながら尋ねた。

 一方の尋ねられたリリコは、納豆と白飯を混ぜて食べることに抵抗があるらしく、一瞬「うぇ」という顔をしたが、すぐに上機嫌な顔で頷く。

「そぉなの。OBANA家具オリジナルの最高級ベッドよ。ほら、こないだ調査したOBANA家具の小塙おばな社長がね。報酬とは別に心ばかりのお礼がしたいって直々に言ってきたみたいで。ボスが『必要なものがあるなら買え』ってカタログをくれたの」

「ね?」と同意を求められ、陽乃子は味噌汁のお椀を置いて「はい」と返答する。

「口止め料だな」と呟くのは、箸で納豆を勢いよくグルグルかき回す柾紀。

「間違いありません」と頷くのは、新聞に目を通しながらコーヒーをすする鴨志田だ。

 リリコは手に持った箸を振りながら得意げに続ける。

「――で、『ボスはいいの?』って訊いたら『俺はいい』って言うのよ。だったらお言葉に甘えてベッドを新調しちゃおうかなって思って、フレームとマットレス合わせて一番たっかいの頼んだらOKが出ちゃって。うふふ、楽しみだわぁ。ダブルのワイドサイズだからゆったり眠れるわよ? ねー、ヒノちゃん」

 するとタマコが、鳥の巣みたいなパープル色の頭をブルンと震わせ立ち上がり、細い眉をギュイッと吊り上げた。

「――ちょ、ちょいとお待ち! ダブルベッドって……あんたたち、い、一緒に寝るつもりなのかいっ?」

 箸で交互に指されたリリコと陽乃子はキョトンと顔を見合わせた。

「ええ、そうよ? 今だって一緒に寝てるもの。シングルだからちょっと窮屈かなぁって思ってたところなのよ」

「なっ……、あ、あたしゃてっきり、ベッドの下に布団を敷いて――、」

「マーマ。アタシ、余分な布団一式なんて持ってないわよ? ――あ、ダブルベッドが入るんだから少し片づけなくちゃね……ヒノちゃん、あとで手伝ってくれる?」

「はい」

 タマコは眉をますます吊り上げ、ローズ色の唇をOの字に丸める。

「――ヒノちゃん! あんたはそれでいいのかいっ? い、いくらナンでも、二人で一緒のベッドに入るなんて――、」

 何か問題があるのだろうか。タマコをじっと見上げれば、隣に座るリリコが陽乃子を抱きしめて頬ずりした。

「いーのよぉ。ヒノちゃんはぜーんぜん嫌がってないわ」


 ――日々恒例、朝の食事である。

 といっても相変わらず、時刻はすでに昼を回っているが。

 『サブロ館』に住むことになってから十日ほどが経ち、少しずつここでの生活にも慣れてきた陽乃子である。外靴は個々の部屋で脱ぐことも知り、先日は初めて米の研ぎ方を教わったりもした。

 『サブロ探偵事務所』という探偵業を営んでいる彼らの一日は、概して規則正しくない。

 こうして “朝食” が正午を過ぎるのも、仕事が深夜過ぎから明け方近くまでかかることが多いからで、時には徹夜することも、逆に朝早くから出かけることも少なくないと知った。

 探偵業とは、なかなか骨の折れる大変な仕事のようである。


 ふと、思いついたように鴨志田が新聞から顔を上げた。

「――それはそうと、こないだの小松原大毅ひろき氏の件、大変なことになっているようですよ。白鷺絢子さんと、所属事務所社長の呉竹くれたけ哲生のりお氏の不貞がリークされたんです。今朝のワイドショーはそれ一色でした」

 柾紀が「マジか」と目を見開き、リリコが「テレビ!」と叫んでリビングへ飛んでいく。

「リーク元はなんと、呉竹氏の奥様だそうです。何年も前からご自分で密かに調べていたようで、証拠の写真がわんさかあるんですよ。探偵業形無かたなしですね」

 いやはや、と苦笑する鴨志田。

「奥さんが自分で調べたのかい?」

「すっげぇな……ナンつーか、執念を感じるぜ」

 タマコと柾紀は、半ば唖然としながら納豆タマゴかけご飯をかき混ぜている。

「その不貞発覚から、否応なく小松原大毅氏の素性が疑問視され始めまして。もしかしたら、邨川むらかわ監督の実の息子ではない可能性もありうるのではないか……とね。ほら、どの局もあんな感じで大騒ぎです」

 鴨志田が首を伸ばしてリビングに目を向けた。スイッチの入った大型テレビから騒々しい音が聞こえて、リリコが食い入るように見ている。

「邨川道臣の遺族側は? そうなると黙っちゃいねぇだろう」

「ええ、もちろん。小松原大毅氏に対してDNA鑑定を要求すると息巻いているようです。血のつながりがなければ、彼は即刻第一相続人から除外されるわけですから。……ですが、もっと非道なのは――、」

「――うっそぉ! この人『息子じゃない』とか言っちゃってんのぉ?」

 言いかけた鴨志田の言葉に、リリコの素頓狂な叫びが被ぶさった。

 鴨志田が苦笑いで頷く。

「あのあと結局、大毅氏はお母様……白鷺絢子さんと対面したそうなんですが、白鷺さんがあろうことか『これは私の息子じゃない』と言い張り突っぱねたそうで……そのうえ大毅氏の所在がマスコミに嗅ぎつかれてしまって、もうてんやわんやだったそうです。ずっと行方不明で死亡説まで出ていた “HIROKI” が実は生きていた、というだけでもセンセーショナルなのに、整形疑惑や身元詐称などの憶測が飛び交って、メディア各社は手がつけられないほどたかぶっておりますね。……今のところ大毅氏と呉竹氏は身を隠しているようですが、見つかるのは時間の問題かもしれません。お気の毒としか言いようがありませんよ」

 テレビでは豪勢なマンション前に集まる取材陣の群れが映し出されており、マイクを持った女性がカメラに向かって興奮したようにまくし立てている。しばらく眺めていたリリコは肩をすくめたあと、テレビの電源を切った。

「完全なつるし上げね。うちにとばっちりが来ないかしら。怖いわぁ」

 ダイニングに戻ってきたリリコがテーブルにつくと、鴨志田は一同を見渡して言う。

「だからこその守秘義務です。いいですか皆さん、サブロ諸法度第二条――『調査に関するすべての事項はその内容を問わず外部に漏らすことなかれ』……ですよ」

 いくつかの溜息がそれに同意した。


「――でも、その案件で思ったんだけどぉ、血のつながりなんて意外とわからないものよね」

 テーブルに片肘頬杖のリリコが、小難しそうな顔で箸を振る。

「この二人は親子です、って言われれば、あー似てるかもー、って思うけど、名字も違ってそんなに顔も似てなかったら、つなげて考えたりしないもの。ってことは、ヒノちゃんの能力ってスゴいわよねぇ? ワタシたちナンの関係もありませんーってフリしてる二人でも、顔を見れば親子だってわかっちゃうんだから」

 リリコの小鼻が得意げに蠢いている。陽乃子は黙ったまま白飯を呑みこんだ。

 ふと目線を感じて顔を上げれば、陽乃子の斜め左に座る幸夜と目が合う。が、すぐに素っ気なく逸らされた。普段から率先して喋ることのない彼だが、起きて数時間は特に口数が少ない。この食事の場でも常にテーブルの末席でほとんど会話には参加せず、身体を背けて肘をつき、怠そうに皿をつついていることが多い。

「親子関係を言い当てるってのはまぁ、わかる気もするけどよ、俺は整形した顔を見分けられるっつーのがすげぇと思うぜ。あそこまで変わってちゃ、たとえ元の顔を知ってたとしても普通はわからねぇよ」

 そう言うと、柾紀は空になった茶碗を持ってキッチンに向かった。新たに炊飯器から盛った茶碗の白飯は小山のようだ。

 その時、リビングのドアの方から別の声が上がった。

「――たぶん陽乃子ちゃんはね、僕たち凡人には感知できない、極めて微細な視覚情報を取得できるんだよ」

 濃茶色の革ジャケットを着た亮である。手には重そうな鞄があり、彼はそれをソファに置いてダイニングの方へやって来た。

「――おや、リョウちゃん。今日は日勤じゃなかったのかい?」

「そうだったんだけど、ちょっと大学病院に行く用事を仰せつかってね。書類を揃えるのに一回帰ってきたんだ。鴨さん、僕もコーヒー頂いていい?」

 請われた鴨志田は顔を綻ばせて「喜んで」と腰を上げた。

 亮が朝食の場に居合わせるのは珍しい。医師という職業も大層忙しいらしく、丸一日見かけない日が続くこともある。

 陽乃子の隣の席についた彼は「つまりね」と先ほどの話を続ける。

「元来人間の成長過程で起こる変化ではない、後天的、あるいは人為的な変化というものに、陽乃子ちゃんはある種の違和感を抱くんじゃないかな、と思ったんだ。たとえば “整形” とか…… “性転換” とか」

 途端、リリコはギョッと肩を揺らした。

「や、やだ……うそ……そうなの?」

 恐る恐るといった体でリリコは陽乃子に目を向けた。タマコや柾紀も驚いたように陽乃子を見ている。鴨志田から湯気の立つコーヒーカップを受け取った亮は「ありがとう」と礼を言って、まずは香りを楽しんだ。

「聞くところによると、最初に会った時からリリちゃんの顔は他の人と違って見えていたんだって。――ね? 陽乃子ちゃん」

 覗き込まれて同意を求められ、陽乃子は口ごもる。

「違って、というか、その……」

 こればかりは自分でもうまく説明できないのだ。言い淀む陽乃子に、亮は意味ありげな笑みを浮かべる。

「それとも……性転換じゃなくて、整形の方に反応したのかな」

 するとリリコは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。

「ア、アタシ、どこもイジってないわよっ! そりゃよく言われるけど、ホントにイジってないもの! ――ヒノちゃん! アタシの顔、整形してるように見えるっ?」

 ガッシと両肩を掴まれ、陽乃子はリリコを見上げた。キッと見据えるその眼が少し潤んでいるのはなぜだろう。陽乃子は正直に答えた。

「――リリコさんは、整形していないと思います」

「ほーらごらんなさい! ってゆーか、リョウはどうなのよ! アンタだってノーマルじゃないでしょぉ!」

 リリコが亮をビシィッと指さし、その場の空気が音なく揺れる。しかし亮は何食わぬ顔でコーヒーをすすった。

「僕はいたって “ノーマル” に見えているらしいよ。ねぇ、陽乃子ちゃん?」

「……も、もう、おやめよ二人とも。それより……知ってたのならもう一度訊くけどさ、あんた、ホントにリリちゃんと一緒の部屋でいいのかい? 今じゃ完全に心も身体も女だけど、もともとはんだからね」

「ついてたとか言わないでっ!」

 甲高くハスキーな声で吼えたリリコは、クルっと陽乃子に向いて今度はその両手を握った。

「ヒノちゃん……アタシと一緒に寝るの、イヤ……?」

 より一層ウルウルと潤むリリコの目。陽乃子は、なぜ皆がここまで騒ぐのか本当にわからない。性転換の意味くらい知っているが、 “ノーマル” とはどういう意味なのだろう。

 陽乃子は少し考えて、ポッと思いついたことを口にした。

「リリコさんは……ゴリラみたいなイビキをかきません」

 ブホッと柾紀が吹き出し、ゲホゲホッと鴨志田がむせて、亮がクックと苦笑する。

 パァァッと顔を輝かせたリリコは、その豊満な胸の中に陽乃子を抱きしめた。

「もぉ、ヒノちゃんたらぁー! うっふふ、ありがと」

 一人、口端をヒクヒクッと引きつらせるのはタマコ。

「……ほほぅ……言うじゃないか……」

 

 ――と、リビングのドアが大きく鳴った。皆が一斉に振り返る。珍しく、そこには信孝がいた。その頭にはやはり目出し帽を被っている。

 一つ屋根の下にいるというのに、よほど慎重に避けられているのか陽乃子が彼を目にすることは滅多になく、稀に見かけても目出し帽を被った彼は逃げるようにいなくなってしまう。

 そんな信孝が朝食の場に降りてきたのは、陽乃子がここへ来て初めてのことだ。

「――ノブちゃん。今日は早いじゃないか。ささ、お座りよ」

 猫なで声で信孝を呼ぶと、タマコはいそいそとキッチンに向かう。

 信孝は背を丸めた姿勢で、警戒する猫のような足取りでテーブルに寄ってきた。彼の席は柾紀と幸夜の間――陽乃子の真向かいだ。いつもは空いているその席に彼は俯いたまま座った。

 ややぎこちない空気の中、じとっと横目で彼の動きを追っていたリリコが「ねぇ」と口を開く。 

「いい加減ソレ、外したら? ヒノちゃんの前では無意味よ? アンタの顔、一回見られてるんだから。ヒノちゃんはねぇ、どんな顔だって一回見たら完全に記憶しちゃうのよ?」

「……リリコ、突っかかるな」

 柾紀が低くたしなめるが、リリコは口を尖らせてはねのける。

「だぁって、あからさまに拒絶されてるみたいで気分良くないじゃない。顔コンプレックスだかナンだか知らないけど、周りから見たらフツーの顔よ? ねぇヒノちゃん、ノブの顔、どこかおかしなところあった?」

 訊かれて、陽乃子は信孝を見た。俯いた彼の肩が小刻みに震えている。

 どうしてだろうとまた思いながら、陽乃子は答えた。

「……おかしなところはありません。……目尻の角度も、鼻柱の幅も、口の大きさと唇の厚さも、珍しいものではありません」

 柾紀が苦い顔をした。鴨志田とタマコは二人そろって口を開けたり閉じたりしている。亮は黙って信孝を見つめ、リリコがツンと顎を上げた。

「ほらね? アンタの顔はどこにでもある平凡な顔なのよ? そんなに気にしなくても、誰も見てやしな――」

 椅子が勢いよく鳴り、はずみでテーブル上のグラスが倒れて牛乳が零れる。肩を震わせたまま立ち上がった目出し帽の少年はくるりと踵を返した。

「――ノブちゃんっ!」

 タマコの呼びかけはけたたましいドアの閉まる音にかき消される。

 シンと虚しい空気が流れ、誰ともなく重い溜息が落ちた。

「せっかく降りてきたのに……リリちゃん、今のは言い過ぎだよ。ノブちゃんにはノブちゃんにしかわからない痛みがあるんだ」

「もうちっと、言葉を選べや」

 タマコと柾紀に苦言を呈され、リリコはカッと紅潮した。

「ナニよ! アタシは謝らないわよ! 勝手に自己否定して殻に閉じこもって場の雰囲気を悪くしてるのはアイツじゃないの! みんなノブに甘いのよッ! 誰だってコンプレックスくらいあるわ! でも向き合って乗り越えなきゃ、この先アイツは生きていけないわよ!」


「――何の騒ぎだ、騒々しい」

 その場を瞬時に制圧するようなドス声が響いた。佐武朗である。淡いグレーのワイシャツに光沢のある生地のベスト。背広は手に持っている。

 一同を見渡しながら、佐武朗は上着を椅子に掛けて上座についた。鴨志田が立ち上がってコーヒーの準備をする。

「依頼が入った。さっさと食って仕事だ」

 それだけ言い渡した佐武朗は、この家の主らしく泰然と新聞を広げる。ドアから出て行く信孝とすれ違ったはずだが、それについては何も触れない。

 その時、テーブルの末席で幸夜がカタと箸をおいた。

 食事の間――騒ぎの間も――我関せずといった体で、頬杖をついてぼんやりとあらぬ方を眺めていた彼。

 気怠そうに立ち上がり「……ちそうさん」の声を残して、幸夜はリビングドアから出て行った。



   * * *



 階段から降りてくる佐武朗が、長椅子に横たわる幸夜を見下ろし怪訝な表情を浮かべた。

 いつもなら他のメンバーより遥かに遅れてこの事務所に降りてくる幸夜が、今日は珍しく一番乗りだ。

 しかし佐武朗は、胡散臭そうな視線をよこしただけで部屋を突っ切り、所長デスクに向かう。

 幸夜はのっそりと長椅子から起き上がって、両手を黒のパーカーポケットに突っ込みつつ、そのあとを追った。

 革張りのデスクチェアに収まった佐武朗。そのデスク前に幸夜が立つと、彼はぎろりと目を上げた。

「――何だ」

 幸夜は行儀悪くデスクの端に腰かけて、唐突に切り出す。

「……なぁ。あいつの身元、わかった?」

「誰のことだ」

「とぼけんなよ。あのキノコのことだ」

 幸夜は口端を上げた。

 この超利己的合理主義者が、何のメリットもない見ず知らずの、しかも未成年の小娘を預かるわけがない。これは幸夜の推測だが、佐武朗はすでに陽乃子の身元を調べ、その身内とコンタクトを取っているに違いないのだ。

「あいつの預かり駄賃……いくらもらった? 寿々すずひさから信孝を預かった時みたいに、相当な額をもらってるんだろ?」

 佐武朗は答えぬままデスク上のノートパソコンを起動させ、黒光りする上質の革鞄から大判の茶封筒を取り出す。幸夜はその動きをそれとなく注視した。

「どこの令嬢? 大企業の社長……政治家……それとも、メガバンクの頭取とか」


 ――以前、タマコが幸夜にこっそりと耳打ちしたことがある。

『……あの子、かなり育ちがいいようだね。食事の仕方を見れば何となくわかるもんさ。しかも、ビックリするほどナンにもできやしない。料理どころか、米さえ研いだことがないっていうんだからね。ありゃ、相当な金持ちンところの娘さんだよ』

 米研ぎに関して言えば幸夜もしたことがないのだが、タマコの言っていることは頷ける。あのキノコ娘は車から降りる時、自分でドアを開けるのに慣れていない感があった。今までは開けてもらっていたのだ……誰かに。

 茶封筒から書類を引き出した佐武朗は悔しいかな、これといった反応を見せず書類をめくり始めた。ならば、もっと深く突っ込んでみる。

「――あいつ、なんで追われてんの?」

「よほどあの娘のことが気になるようだな。似たような能力を持つ同属意識からか。あの娘に金の匂いを感じるか。それとも幼女嗜好に転向か?」

 佐武朗は目を上げて幸夜を鋭く見た。

「――幸夜、お前はどうしてあの娘をここに連れてきた」

 逆に問うてくる――攻撃は最大の防御、ってやつか。どうあってもこちらの問いには答えるつもりがないらしい。

 幸夜はデスクの端から降りた。

「そこまで答えたくないっつーなら訊かねーよ。調べる手段はいくらでもあるからな」

 長椅子に戻る幸夜の背に、佐武朗の低声が静かに放たれる。

「……好きにしろ」

 幸夜が長椅子に横たわると同時に上から足音が聞こえて、鴨志田と柾紀、少し遅れてリリコが降りてきた。

 珍しく先に仕事場入りしている幸夜を見て、各々が好き勝手な言葉をかけていく。うるさい周囲の音声をシャットダウンし、幸夜は目を閉じた。


 ――小松原大毅の所在調査から数日後のこと。

 深夜過ぎ、仕事から帰ってきた亮が幸夜の部屋をノックしたことがあった。

「ちょっと、気になることがあってね」

 ベッド上に横たわり音楽を聴いていた幸夜に構わず部屋に入ってきた亮は、勝手知ったる様子でベッドの端に腰かけると、次のような話をした。

「――こないだ幸夜たちが帰ったあとね、院長先生がおかしなことを言ったんだよ。『どいつもこいつも、車両と接触しておきながら姿をくらますとは……巷じゃそんなキチガイじみた遊びでも流行っておるのか』ってね。何のことかわからなくて詳しく聞いたら、他にもそんな事例があったみたいで。……壱番街いちばんがいの暴走事故、覚えてる?」


 ――それは今からひと月ほど前の昼下がり、壱番街の目抜き通りで起きた乗用車の暴走事故である。

 ものすごいスピードで走行するその乗用車は、他の車に激突しながら赤信号にもかかわらず交差点に突っ込み、横から走行してきた車両を横転させて対向車線にねじ込んだ。信号待ちしている車数台を無茶苦茶な動きで追突しながら進み、歩道に乗り上げたあげく歩行者数人をねたのち外灯に衝突し停車。運転手は最寄りの交番から駆けつけた警官に現行犯逮捕されるも、違法ドラッグの常用者で、事件当時も大量に服用し錯乱状態、まともに話すことさえできなかったらしい。

 死者三名、重軽傷者合わせて四十六名におよぶ大惨事となり、いつもはオフィス街として整然とした活気を見せる壱番街の中心部は、一時大混乱となったそうだ。 


「――そういえば、そんなことがあったな」

 幸夜は壱番街方面にあまり出向くことがないため、後々人伝えに聞いた程度だ。

「救急搬送された負傷者も多くいてね、壱番街に近い大学病院と中央病院が患者さんのほとんどを受け入れたみたいなんだけど……どうも妙な話があるんだって」

「……妙な話……?」

「大学病院に運ばれた負傷者の中に、頸椎捻挫したタクシーの運転手さんがいてね、幸い命に別状はなかったんだけど、その人『お客さんが消えた』って言ってるんだって。あの場が騒ぎになって、中には意識なく倒れている人もいて、そっちの方へ気を取られている間に、後部座席に乗せていたお客さんが消えていなくなっていたって……四~五十代の男性と、制服を着た

 意味ありげなニュアンスを聞き取った幸夜は、溜息交じりにベッドから身を起こす。

「……まさかそれが、あいつだっていうのか」

「確証はないけどね」

 亮は難しい顔をして頷いた。

「あの子、肋骨を骨折していたでしょう? リリちゃんが『自分とぶつかったせいかも』って気にしてたけど、あの子は『もっと前から痛かった』って言ったんだって。それで思ったんだよね……たしかに、人とぶつかった衝撃で肋骨骨折もあり得ないわけじゃないけど、それよりは、もともと亀裂骨折していた状態で人とぶつかって、たまたま当たり所が悪くピンポイントで衝撃を受けてついに骨折してしまった……っていう方が自然かなって。……まぁ、レントゲン画像だけじゃ、もともとヒビが入っていたのかどうかまではわからないから、単なる憶測なんだけどね」

 亮は天井を見上げながら脚を組む。

「その消えた制服の女の子の話も、大学病院の知り合いから聞いただけらしいから、院長先生もそれ以上詳しいことは知らないみたいでさ。……ねぇ、近々大学病院へ行く予定があるんだけど、幸夜が望むなら少し調べてきてあげようか?」

 悪戯っぽい目をして覗き込む亮。

「別に望んでねーよ」

「またまた。素直じゃないなー、幸夜は」

 アハハと笑いながら幸夜の頭を撫でてくるその手を振り払うと、亮は邪気のない表情かおでよいしょと立ち上がった。

「それだけ伝えておこうと思ってさ。お邪魔したね。じゃあ、お休み」

 亮は手を振って出て行った。幸夜は舌打ちしつつ、再び横になって目を閉じる。

 ――ひと月前の乗用車暴走事故ね……

 そういえば馴染みのバーで、モノクロ写真のように緻密な似顔絵を描く少女がいる、という噂を聞いたのはいつだったか……


「――ユキヤ! いつまで寝てるの! いい加減シャンとしてよ!」

 頭上で響く甲高い声に幸夜は薄っすらと目を開けた。リリコが腰に手を当てて仁王立ちしている。

「ほら、新しい調査依頼。ストーカー被害調査よ。依頼人のとこ、見て」

 パシッと顔面に投げつけられた数枚の書面。渋々起き上がり、書面に目を落とした幸夜は思わず漏らす。

「……マジか」

 知っている名だ。よりによって。

 その時、階上から降りてくる足音が聞こえた。スニーカーを履いたジーンズの脚。幸夜は内心溜息を吐く。――よりによって。

 幸夜に次いで柾紀が気づいた。

「――なんだ、ノブ。メシは食ったか?」

 階段を降りきって注意深く部屋の中を見渡した信孝は、被っていた目出し帽をおずおずと脱いだ。

「……何か、すること、ある?」

「いや……差し当たってはねぇかな」

 柾紀がさりげなく手に持った書類をデスクの引き出しにしまった。鴨志田は信孝に向けてにっこり笑うが、その指先はタブレット端末の画面を切り替えている。さすがのリリコも余計なことを言わず素知らぬ顔だ。

 そこへ、佐武朗の低い声音が飛んだ。

「――信孝、今日は実家へ帰る日だろう」

 メインPC台へ向かおうとしていた信孝はビクッとして足を止めた。

「……あ……でも、それは……夕方からで……」

「今日は俺が送っていく。階上うえへ上がって準備しろ。早めに出るぞ」

「でも」

 俯く信孝。行きたくないのだ。

 しかし佐武朗は、少年の不安定な心情など弾き飛ばす厳しさで命を下す。

「それがここで暮らす “条件” だったはずだ。きちんとした格好に着替えろ。曾祖母ばあさんを悲しませるな」

「……はい」

 少年は項垂れたまま引き返し、降りてきたばかりの階段を上がっていった。

 彼の足音が消えて、誰ともなく深い息が漏れる。

 幸夜は手にある書面にもう一度視線を落とした。


 《 ストーカー被害調査 》

   依頼人:寿々久すずひさ美那子みなこ


 ――信孝の母親である。

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