第5話

 その男は、亮の押す車椅子に乗って入院患者用の個室に入ってきた。

 亮に介助されながらベッドに移り、横たわるその顔にはまるで表情というものがない。生気はなく虚ろで、その場にいる誰のことも目に入っていない様子だ。

 少し遅れて入室したずんぐり体形の禿げ頭――丸宮医師が、むっつりとした顔で一同を見渡した。佐武朗はもとより、幸夜と鴨志田、柾紀まで先んじて部屋で待機していたことに何か言いたげだったが、諦めたように頭を振って患者の枕元に近づいた。


「――話を聞くところによると、どうやら原付バイクと出合い頭に接触して転倒したらしいな。その際、右足首を捻って捻挫。腫れの具合から靭帯の一部が損傷しているかもしれん。詳しい検査は明日だ。あと右上腕の切創は、転倒した場所にたまたま鋭利なものがあって傷つけたようだ。……本人は覚えていないと言っておったが、切創痕からして……ブロック片か煉瓦のようなものだろう。その他数か所の擦り傷を合わせて、全治ひと月からひと月半といったところだ」

 淡々とした口調で丸宮は説明する。シンとした空気の中、かすかに誰かが喉を鳴らした。

「発見当時にごく軽度の意識障害があったというが、今はほぼ正常だ。おそらく接触時のショックか、出血したことでパニックを起こしたか……過度に興奮した反動で一時的に意識を落としたんだろう。痛みへの反応もあり、記憶の混乱は見られん。念のため、脳波とCTは取っておいた方がいいな。そっちはあとで紹介状を書いてやる。ひとまずの所見はそんなところだ。――亮、あとは頼んだぞ」

 言うだけ言って丸宮が踵を返そうとした時、ベッドの足元近くに立ち尽くす口髭を蓄えた男――芸能事務所『シータバック』の社長、呉竹くれたけ哲生のりおが、佐武朗に混乱しきった顔を向けた。

「……権頭さん……あの、大毅ひろきは……」

 佐武朗は眉根ひとつ動かさず、ベッド上の男を目線で示す。

「彼がこの診療所に運ばれた経緯は、先ほどうちの調査員がご説明した通りです。そして、彼が所持していた財布から、四年前に失効したままの “小松原大毅” 氏の運転免許証が見つかったことも申し上げました。見たところ小松原大毅氏とは別人のように思われる彼がなぜ、四年も前に失効している小松原大毅氏の免許証を所持していたのか……我々には判断しかねるため、貴方をお呼びしたんですよ」

 佐武朗の言い様はあくまでも慇懃丁寧だが、幸夜に言わせれば白々しいにもほどがあるというものだ。すっとぼけやがって、と胸内で薄く笑いつつ、幸夜は部屋の隅から呉竹の顔を凝視した。見開かれた両眼、息を呑む驚愕の表情……自然に出たものか演技なのか、判別はし難い。

 呉竹は呆然としたままベッドに横たわる男を見つめ、佐武朗を見て、そしてもう一度ベッドへ視線を戻し、ごくりと喉を鳴らした。

「……先生。よろしければ、彼の……左の腰骨のあたりを確認していただけませんか。……そこに、痣がありますか? 鍵か……チェスの駒のような形に見える、茶色い小さな痣です」

 むっつりと腕を組んでいた丸宮医師は低く「ふむ」と唸り、ベッド上の男に屈んで何かボソボソと告げた。向こう側にいる亮が男の身体を支えながら軽く傾け、丸宮が甚平型の病衣をたくし上げる。男は人形のごとくされるがままだ。

「あるな」

 丸宮の言葉に、呉竹は深く息を吐いた。

「……生まれつきの痣です。

 ベッド裾の柵を握り、頑健そうな身体を支える呉竹社長。鴨志田が黒子のような動きで壁に立てかけてあった折り畳みの簡易椅子を彼の前に据える。佐武朗の鋭い双眼がすっと細まった。

「彼が、小松原大毅氏であると?」

「はい」

「そうですか……貴方がお認めになるなら、こちらとしても余計な手間が省けます。普通はなかなか受け入れられない事実だと思うのですが……彼が整形していたことを、?」

「……はっきりとした確信があったわけではありません」

 目の前の椅子に力なく腰を落とした呉竹は、両手で顔を拭って眩しそうに目をしばたいた。


「……大毅が姿を消してひと月ほど経ったころでしたか……大毅本人から私のところに連絡があったんです。アパートの部屋を借りるのに保証人が要ると。ただ、書類を郵送するからサインだけしてくれればいい、絢子……この子の母親には絶対に話してくれるな、と一方的な話で、通話は切れてしまいました」

 呉竹の視線が何度かベッド上へ向くが、横たわる男の虚ろな目はあらぬ方を向いている。身動みじろぎもしないその姿はどこか不気味だ。

「書類が届いて、私は言われた通りサインをして、指定された不動産宛てに送り返しましたが、もちろん放っておけるわけがありません。この子には……散々迷惑をかけられ、絢子の顔に泥を塗られ、事務所の信用までおとしめられました。でも、見捨てることはできなかったんです。私はこの子が幼い頃からずっと見てきました。絢子が邨川監督と別れたのは、まだこの子が五歳の頃で……女優として第一線を走り続ける絢子は、なかなか大毅と向き合う時間がなかった。……事務所の社長である私は何かとこの子に接する機会も多く、いつしか父親のような気持ちも芽生え……芸能界でデビューした折も、仕事が上手くいかなくなった時も……大麻所持で捕まった時も、私はずっとこの子の味方でした。本当は気が弱く小心者で、芸能界という特殊な環境に向いていなかっただけなんです。決して悪い子じゃない……私はずっと信じていました」

 訥々とつとつと語る呉竹は、時折ポケットから出したハンカチで額に滲む汗を拭う。

「あの事件のあと、世間は大毅が渦中から逃げ出したように騒いでいましたが、あの子はもう一度、本気で役者の道を目指そうと留学したんです。けれど結局、あちらでもうまく馴染めず……日本に戻ってきた大毅はひどくふさぎ込んで……もう芸能界に戻る意思のないことがわかり、この子のために仕事を探してやろうとしていた矢先、行方不明になってしまったんです……時間の許す限りあちこち探したのですが見つからず……そんな時、大毅から連絡があって……私は頼ってもらえたようで嬉しかった……それで、アパートを訪ねてみようと思ったんです」

 呉竹はそこで言葉を切った。

 再びシンと訪れる静寂の中、鴨志田がおずおずと口を開く。

「訪ねられたんですか……?」

 呉竹は、鴨志田の存在を初めて認識したような顔をして、ぎこちなく頷いた。

「アパートまで行きました。でも、実際ドアを叩く勇気が持てませんで……しばらく物陰に隠れて様子をうかがっていたんです。しばらくすると中から人が出てきまして……一瞬、大毅かと思ったんですが、顔がまるで別人で……どういうことかと思案しているうち声をかけそびれて、その人物はどこかへ行ってしまい……結局、訳がわからないまま帰ってきてしまったんです」

 乱れた頭髪をさらに掻きまわす呉竹。後悔していると言わんばかりだ。

 その後も何度かアパートを訪れたがいずれも留守だったらしく、結果として一度も大毅に会うことはできなかった、と呉竹は語った。

「……なるほど。よくわかりました」

 真っ直ぐに呉竹を見据えたまま、佐武朗は静かに言った。

「事を荒立てないよう、秘密裏に貴方をお呼びして正解だったようです。我々としましては状況が状況なだけに、彼のDNA鑑定も考慮に入れていたのですが、貴方が彼を小松原大毅氏とお認めくださるのなら、これでご依頼の所在調査は完了ということになります」

 抑揚を抑えた口調に含まれるのは微細な皮肉だ。幸夜にはわかる。

「調査報告書はのちほどお渡しいたします。――では、我々は失礼するとしよう」

 佐武朗が目線で促し、幸夜たちが退室しようと重心を起こしたところで、椅子に座っていた呉竹が立ち上がりベッド脇に歩み寄った。

「……大毅……どうして整形なんて馬鹿な真似をしたんだ……それに、ずいぶん痩せてしまって……絢子が見たらなんと言うか……」

 それまで天井の隅の方をぼんやりと見つめていた男――小松原大毅が、呉竹の呼びかけにその頬肉をピクリと引きつらせた。

「とにかく……今はお前の身体のことを一番に考えよう。もっと大きな病院に移って、ゆっくり療養するんだ。……顔のことは、それから考えればいい。完璧に、とはいかないかもしれないが、元の顔に近づけることはできる。昔から懇意にしている美容整形外科の先生にお願いしてみよう。腕の良さも口の堅さも充分信用のおける先生だ、きっと良いようにしてくれるさ。――ああ……ここには来られなかったが、絢子も心配しているよ。電話して声を聞かせてやろう。ものすごく喜んで――、」

「――放っといてくれよっ!」

 突然、ベッドに横たわる男が叫び、退室しようとしていた皆が足を止めた。男は起き上がろうとしてクッと顔を歪め、慌てて亮が制する。

「大毅――、」

「そんなに金が欲しいか……あの女が、そう言ってんだろ?」

 喉に絡まるようなガラガラとした声で、大毅は言う。亮に支えられベッドの上に身を起こした彼は、血の気のない顔に薄気味悪い笑みを浮かべた。

「……逃げる途中、どっかのメシ屋からテレビの音が漏れてて聞こえたんだよ。邨川道臣が死んで、その遺産相続でもめてるってな。第一相続人の小松原大毅が “行方不明” で “安否不明” だって? ケッ、笑えるぜ。地の底へ堕ちた元二世俳優が、顔を変えて惨めに這いつくばって、虫けらのように生きてんの知ったら、マスコミの奴らは拍手喝采で喰いついてくるだろうよ」

 狂人の形相に変貌した男の口元が、ニィッと裂ける。

「でも、あの女も俺も、邨川道臣の遺産を手にすることはできねーよ? だって、赤の他人が他人ひとさまの遺産をもらえるわけねーからなぁ?」

「……な、何を言って……」

 明らかに虚を突かれたのだ。呉竹の声は上ずり、目が泳いだ。

「知ってんだよ。俺は、邨川道臣の息子じゃない。……あのアバズレ女がどっかの男に股広げてできた不貞の子だ。マジでウケるぜあの女。俺が二世だ、サラブレットだと持ち上げられてる時は息子想いの母親ヅラしておきながら、いざ都合が悪くなりゃゴミのようにポイ捨てだ。俺が捕まった時も拘留されてた時も裁判の時も、あの女は一度だって会いに来ようとしなかった。俺が日本に帰ってきた時、あいつがナンて言ったか知ってるか? 『どうして戻ってきたの? ずっとあっちに行っていれば良かったのに』って言ったんだぜ? 人を汚物でも見るような目で見下しやがって!」

 激昂する大毅を、呉竹は引きつった笑みでなだめようとする。

「あ、あの時は、絢子も大変な時期だったんだ。長らく遠ざかっていた映画への出演がようやく決まった矢先にあの事件……結局、絢子は降板せざるを得なかった。その後始末に絢子がどれだけ骨を折り、絢子の女優生命にどれだけの損害を被ったか……」

「んなこた知らねーよっ! テメーのことしか頭にねーんだよ、あの女は! いつだってそうだった! 昔から息子のことなんてどうでも良かったんだよ! そりゃそうだよな! あの女にとって俺は、消し去りたいゴミくず同然だったんだからよ!」

「大毅……」

 愕然とする呉竹の目の前で、ベッド上の男は頭を抱えて髪を掻きむしる。

「俺のことは放っといてくれ……! あの女とは金輪際関わり合いたくねーんだよっ! 頼むよ……頼むから、もう、放っといてくれぇ……っ!」

 丸宮医師の目配せで、亮が小さく頷いて部屋を足早に出て行く。

 一方、佐武朗も一同に合図し、幸夜たちは静かに個室を出た。

 背後で、哀れな男の嗚咽が続いていた。


 四人は暗い廊下を進み、突き当りにあるエレベーターホールに向かった。

「……あれは本当のことなのでしょうか。邨川道臣監督の実子でないとなれば、当然ながら法的相続人の権利は失われますよ」

「さぁてな。もし本当なら、あの白鷺絢子って女優は大した女狐だぜ」

 鴨志田と柾紀はツチノコチョコでも食わされたような顔をしている。

 エレベーターのボタンを押した佐武朗を、幸夜はちらりと見上げた。

「――なぁ。あいつ、完全にシラ切ってるよな。証拠集めてあの大毅ってやつに教えてやれば?」

 幸夜を一瞥した佐武朗は、苦々しい顔で息を吐く。

「依頼されていない調査に時間を割くつもりはない」

「キノコの話、聞いたんだろ? 見逃すのは、罪になるんじゃねーの?」

 そう言う幸夜とて、正義感などつゆほども持ち合わせていないのだが。

 佐武朗がぎろりと目を剥いた。

「余計なことを言ってうちの信用をおとしめてみろ、ただでは済まさんぞ」

「フン……なら、小松原大毅はこの先一生、実の父親が誰だか知らないままだな」

 鼻で笑った幸夜に、鴨志田と柾紀がポカンと顔を向ける。

「……え? 実の……」

「父親……? ナンだよそれ」

 幸夜はポケットからチョコ菓子の小箱を取り出しつつ、二人に告げる。

「あの呉竹って男が、小松原大毅の実の父親だ」

「――えぇっ!」

「マジか……」

 くぐもった機械の音とともにエレベーターの扉が開き、佐武朗は真っ先に乗り込んだ。

「……その可能性がある、というだけだ。証拠はない」

 佐武朗に続きエレベーター内に入りつつ、幸夜は少し可笑しくなった。佐武朗の口から “可能性がある” という文句を引き出しただけでも大したものだ――あのキノコ娘は。

 エレベーターの壁にもたれて、幸夜は楕円のチョコ艶玉を一つ、口に放り込む。


 佐武朗の言う通り、DNA鑑定でもしない限りそれが立証されることはないだろう。

 けれど幸夜は、呉竹哲生が自ら語った通りの “父親代わり” であったなど、微塵も信じていない。あの男の話はおかしなことだらけだ。

 ――心配していた? 二年もの間放っておいて?

 ――アパートを訪ねたが留守だった? 二年もの間、ずっと留守で会えなかったというのか? ただの一度も?

 ――そもそも、白鷺絢子がうちに調査を依頼した時、なぜその事実を言わなかった?

 ――マスコミや世間の目から大毅を守るため? だったらなぜ、顔を元に戻そう、などと当然のように口走る? 遺産相続問題に参戦すれば、大毅は否応なくマスコミの餌食となるに決まっているのに。

 滑稽極まりない茶番劇だ。今まで様々な人間を目にしてきた幸夜は、呉竹哲生の “裏” を読むほうが容易く腑に落ちる。そちらの筋書きの方がよっぽど “リアル” だ――


 ――大毅は、呉竹の道具に過ぎなかった。

 行方不明になった大毅を二年も放っておいたのは、大毅に呉竹にとっての “メリット” がなかったからだ。前科付きの落ちぶれた元二世俳優など、呉竹にとって何の価値もない。顔を変えてしまったのなら尚更だ。

 しかし、邨川道臣が亡くなり大毅が第一相続人となってしまった。呉竹は心底葛藤したであろう。大毅が相続すれば、母親の絢子経由で莫大な遺産の恩恵に授かることができるかもしれない。……けれど、顔を変えてしまった大毅を連れ戻せば、遺族側はきっとDNA鑑定を要求してくる。そうなれば邨川道臣の息子でないことがバレてしまう。もちろん呉竹は、大毅が邨川監督の実子でないことを知っていた。だから、白鷺絢子が探偵に調査を依頼した際、呉竹は自身が知っている事実――大毅が名を変え顔を変えて、この街の片隅でひっそりと生きていることを告げなかったのだ。何らかの策を考える時間稼ぎをしたかったから。

 ところが、遺産相続問題が週刊誌に嗅ぎつけられて大騒ぎになってしまい、よもや見つけられることはないだろうと高をくくっていた大毅の所在も、早々に発見されてしまう事態となってしまった。

 焦った呉竹は急遽、心配し続けていた “父親代わり” を演じ、マスコミや邨川監督の遺族に知られる前に、大毅の顔を元の顔に戻すしかないと謀ったのだ。

 さらに言うと、大毅が自分の子だと、呉竹はかなり前から知っていたのではないかと思っている。大毅が生まれたのは、白鷺絢子と邨川道臣の結婚から一年後だったという。つまり不貞を働いたことは事実で、少なくとも呉竹は、大毅が自分の子ではないかと一度は疑ったはずなのだ。にもかかわらず、今まで名乗り出なかったということは、邨川道臣の息子であった方が、に他ならない。

 この先も呉竹は、彼の父親だと認めることはないだろう。大毅には邨川道臣の息子として莫大な遺産を相続してもらわなければならず、呉竹はその恩恵に授かりたいからだ。

  “父親代わり” が聞いて呆れる。あれは、父親の負うべき責任を放棄した男だ。

 ちなみに、白鷺絢子がどこからどこまで承知の上なのかは判じがたいが、いずれにしても相当のビッチであることは間違いない。


 古い旧式のエレベーターが大儀そうに扉を開ける。幸夜の心を読んだように、佐武朗が低く呟いた。

「邨川道臣の遺族側にどう説明するのか……見ものだな」



 四人がぞろぞろと待合室に向かうと、並べられた長椅子の方から場違いな声が上がった。

「――あーら、終わったのぉ?」

「ナンだリリコ、帰ってなかったのか……っておい、それ」

 柾紀が、長椅子に座るリリコの膝元を指さす。リリコは「しぃ」と人差し指を唇に当てた。

「アタシがトイレに行ってる間に、ヒノちゃん、ここで丸くなって寝ちゃってたの。うふふ、仔猫みたいじゃない?」

 リリコの手が膝上の黒髪を優しく撫でる。少女はリリコの腿を枕にして、寝息すらも立てず昏々と眠っていた。

 鴨志田が腕時計を確認して脱力したように肩を落とす。

「仕方ないですよ。もう夜が明ける頃です」

「 “寝ちゃってた” のに、膝枕ってか?」

「うっふふ……あんまりカワイイもんだから、つい」

「ネジ込んだのか」

 柾紀が苦笑いで突っ込んだ時、背後から近づく足音。振り向けば、カルテボードを手にした亮が足早にやってくる。

「――あれー、もしかして陽乃子ちゃん、寝ちゃってるの? おやおやそんな体勢で……まだ肋骨の接着は完全じゃないのに」

 亮は覗き込んで、わざとらしく顔をしかめた。

「疲れちゃったのかな。みんなが捜索に出ている間、陽乃子ちゃんも一生懸命調査に協力してくれたんだからね」

「え? そうなんですか?」

 鴨志田がパチクリと瞬き、亮はアハハと笑う。

「――とにかく、いったん帰るぞ。柾紀、そいつを車まで運んでやれ」

 佐武朗の不機嫌な声に、柾紀は自身の身体をまじまじと見下ろした。

「いや、運んでやるのは構わねぇですけど……俺、血と砂埃まみれになってっからなぁ……」

 と、柾紀の視線が一番近くにいる鴨志田に移る。鴨志田はぴょこんと飛び上がってブンブンと首を振った。

「……ぼ、僕は無理ですよ……! 女の子を抱いて運ぶなんて奥さんに申し訳が……」

 慌てて泳ぎ出す鴨志田の目線がリリコに止まり、リリコはひょいと肩をすくめる。

「さすがにアタシも階段とかムリよ。ヒール高いし。ということで、ユキヤ、おねがーい」

「――は? ナンでオレが」

 チョコ艶玉を口に放り込みつつ、幸夜はにべもなく突っぱねてやる。

「だって、あとはもうユキヤしかいないじゃなーい。ボス、行っちゃったもの」

 リリコの指さす玄関の自動ドアに佐武朗の後姿。すでに火のついた煙草を吸い込んでいる。

 思わずアーモンドもろとも歯噛みしたところで、亮が背後から幸夜の両肩をガッシと掴んだ。

「幸夜なら一度この子を抱いてきたことあるから楽勝だよね? ちなみに、僕はこのままここに残るから。患者さんを残して帰れないし、院長先生のご機嫌取らなきゃならないし。――あ、これ “時間外勤務賃” にもらっとこー」

 取り上げられたチョコ菓子の小箱。まだ三分の一は残っている。

「な……」

 隙をつかれて目を剥いた幸夜に、亮はパチンと大きくウインクした。

「 “じゃ、よろしく” 」


 さっさと亮が診察室へ去って行き、「気張れよー」「ではお願いします」と口々に、柾紀と鴨志田も自動ドアに向かっていく。勝ち誇ったような笑みを浮かべ「早く早く」と急かすリリコ。

 リリコの膝上に眠る少女の傍らには、束ねられた数枚の紙がある。紙面には、彼女にしかわからない遺伝子レベルの相似と差異が描かれているのだろう。特殊メイクに性転換、整形の看破のみならず、血縁関係まで判別するとは。

 さすがの幸夜も感心している。並外れた能力だ。――が、それとこれとは別の話。

 憤懣やるかたない心地で長椅子に屈みこんだ幸夜は、やや乱暴な手つきでリリコの膝上から少女の身体を掬い上げた。まったく起きる気配のない幼子のような寝顔。


 ――この、くそキノコが。

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