第7話

 現世うつしよから吐き出された有象無象の煩悩は、煌びやかな光に彩られた桃源郷でこそ昇華される……

 人々に不毛な錯覚を抱かせる虚妄の常世、伍番街――この街で最も大きな歓楽地帯である。

 日付が変わったばかりの繁華街の往来には、男と女が、客引きと酔客が、風嬢と男娼が、強者と弱者が溢れかえっている。夜が深まれば、枯渇と鬱屈に病む者たちの数はさらに増すのだろう。光に吸い寄せられる数多の蛾虫のように。

 幸夜は手を突っ込んだジャケットのポケットからチョコ菓子の小箱を取り出し、到底 “いじらしい” とは思えぬ形のそれをひとつ、口の中に放り込んだ。

 煉瓦広場の向かいにそびえ立つ商業ビルを見上げると、その外壁の大型ビジョン上部にある電光掲示板のデジタル時計が、待ち合わせの時刻ちょうどを示している。

 待ち人は、時間前に来ることも時間ぴったりに来ることもない。が、人を長く待たせることもしない。そういう人間だ。

 ほとんど惰性でチョコ菓子を消費していると、広場に群れる人混みの隙間からようやく待ち人が現れた。幸夜の雇用主にして家主――佐武朗である。

 厳つい顔つきに威圧感のある長身。光沢のあるスーツはボタンも留めず、真っ白なシャツの襟元は開いている。齢四十を越える中年男だが、周囲に圧倒的な畏怖感を与える風貌は、どんな悪役ラスボスでもこなせそうだ。事実、こいつは相当に、

 まだ残っているチョコ菓子の小箱をポケットに突っ込むと、佐武朗が真っ直ぐ幸夜のもとへやってくる。指に挟んだ煙草を吸いつけて、開口一番、不機嫌極まりない低声バス

「――ずいぶんなスタンドプレーをかましてくれたな、幸夜」

 半眼で見下ろす佐武朗を、幸夜は鼻で笑った。

「派手に舞った覚えはねーけど」

「依頼されていない調査はご法度だ」

 並んで歩き出しながら、幸夜は蔑みを込めて言い放つ。

「いまさらオマエがそれを言うか」


 幸夜と佐武朗は、酒気と色欲が混ぜこぜになった喧噪をすり抜けつつ、メインストリートから外れて繁華街の裏道へ向かった。

 しばらく無言を貫いていた佐武朗が、ついに口を開く。

「――あの娘っ子、どこで拾ってきた」

「リリコが説明したんだろ? その通りだよ」

 素っ気なく答えるも、佐武朗は苦い顔だ。

「……偶然ってやつか」

「偶然の、何が気にくわないんだ?」

 眉を寄せて見上げた佐武朗の眉間は、幸夜以上のしわが刻まれている。

「亮から報せが入った。詳しい検査をした結果、彼女の肋骨は折れていたそうだ」

「へぇ……どうりで変な動きをしていたわけだ。……で? どーすんのアレ。家に帰ってないとか言ってたけど」

「……ったく、厄介なモノを持ち込みおって……」

 佐武朗は喉の奥で低く唸り、ポケットから銀色に光る携帯灰皿を出して吸いさしをねじ込んだ。すぐに新しい煙草を一本取り出し、携帯灰皿に付いているコイルライターで火を点ける。

 佐武朗は柾紀以上のチェーンスモーカーだ。一緒にいるとこちらまでヤニ臭くなるからたまらない。


「――それより、本当にいるんだろうな、津和野は」

 吐き出された紫煙を通して、佐武朗の眼光が鋭く光る。

「ああ、例の店にいる。店前は柾紀が張ってるし、『TOHROH』の方は信孝が監カメをチェックしてる。動きがあれば連絡が入るだろ。そっちこそ、話はついたのか」

 目線を上げて問えば、ぎろりと見返された。

「直接、本人と会って話してきた。到底信じられんといったところだったがな」

「そりゃそうだろ。報告書は?」

「手渡し済みだ。たった半日そこらでよくあれだけの情報を集めたもんだな……仕事が早いと褒めたいところだが、どうせ信孝に不正侵入ハックさせたんだろう。報告書は鴨さんに書かせたか」

「優秀な調査員を持って幸せだ、と言え」

 言い返せば、佐武朗はやれやれとでも言いたげに緩く頭を振る。そして低い声で告げた。

「ひとまず、久米澤氏から依頼された不倫調査は打ち切りとする」

「上出来」

「不本意だ」

 佐武朗は苦々しく紫煙を吐き出した。


 並んで歩くこと数十分後、二人は狭い裏路地に入った。車一台通るのがやっとなほどの、細い枯れ枝を繋いだような小路――今朝、あのキノコ娘を連れて下見しに来た界隈である。

 萎びて干からびたような通りも、夜が更ければそれなりに蠢くようだ。そこここにネオンが灯り、くぐもった喧噪がどこからともなく聞こえてくる。ただ、時折すれ違う酔客の目には総じて、底知れぬ “陰” が含まれている気がした。

 しばらくみちなりにあるくと、錆びたフェンスで仕切られた水路にぶつかった。生ぬるい臭気を放つ濁った水路は、雑居ビルや家屋の隙間を縫うように蛇行する幅三メートルにも満たない人工の排水路である。

「まだ歩くのか」

「もう少し先だ。この水路を渡る橋がある」

「…… “肆番街よんばんがい” か」

 佐武朗は顔をしかめた。


 この水路を隔てた向こう側は、通称、肆番街よんばんがいと呼ばれており――公的に “肆番街” は存在しない――、夜の繁華街としてにぎわう伍番街の末端一部にできた、奇形な瘤のような聚落である。

 実はその昔数十年前、伍番街を中心に寄生し猛威を振るっていた大規模な犯罪組織があったのだが、近年、それら組織の排除撲滅を目的とする条例がいくつか施行され、それとともに公的機関の積極的かつ決死の取り締まりが功を奏し、犯罪組織はほぼ解体消滅したという経緯がある。

 しかしすべてを殲滅することはできなかった。生き残り追い詰められた組織の残党らは、伍番街の死角となる水路の向こう側に隠れて身を潜め、時を経るごとに他のならず者たちが同類を求めて集まり始めた。そしていつしか孤立した無法地帯が出来上がり、人々は水路の向こう側一帯を、もともと存在していなかった “肆番街” と呼ぶようになったらしい。


「最近は静かなもんだろ。この辺での殺傷沙汰はほとんど聞かないぜ?」

「昔に比べればな。しかし……だからといって治安が良くなったわけでもあるまい。向こう側は本署の目が届きにくい区域だ。組織の生き残りだけじゃない、不法入国者や前科者……表社会から身を隠す必要のあるならず者にとっては格好の巣窟だろう。堅気の人間が不必要にうろついていい通りでないことは確かだ」

「へぇ、そーなんだ」

 水路を渡る短い橋にきた。コンクリートの端々が崩れて欠けている粗末なものだ。

 小橋の先に立つ街灯を見上げて、幸夜は橋を渡る。ここから先が警戒区域とされる “肆番街” だが、特に周囲の景色が激変するわけじゃない。

 ただ――、気怠く歩を進めながら幸夜は考える。

 この蛇行する排水路が、不整合な現状を作り出した要因の一つなのだ。ただでさえ入り組んだ網の目のような裏路地は、この水路によってさらに複雑な区画割りを要する上に、水路を渡れる箇所が非常に少ない。よって、直線距離にして数十メートルの場所でも、大きく迂回せざるを得ない箇所が多くある。……今の幸夜たちがそうしているように。

 そういった地理上の特色が、孤立した危険区域を作り出した大きな所以であることは間違いないだろう。

 水路を渡り十数分ほど歩くうちに、目当ての店は見えた。『TOHROH』という看板がかかった中華風の、比較的小綺麗な佇まいの飲食店だ。

 かの店から数軒離れた小さな風俗店の前で二人は止まり、立て看板の陰からその店を眺める。

「『TOHROH』か……名は知っている。その筋ではよく知られた店だ。表向きは中華娘が給仕する飯屋だが、その地下じゃ裏賭博が行われているとな。それほど口コミが広範囲に広がっているんだ、摘発されるのも時間の問題だろう」

 煙草の吸いさしを携帯灰皿に押し付けながら、佐武朗は渋い顔つきで言う。

 言っている傍から、『TOHROH』の表口にタクシーが止まった。降り立ったのは一組の男女――遠目でも彼らが金を存分に持っている階層の人間だとわかる。

「ああいう店って必ず出入り口に監カメが設置してあるだろ? おかげで簡単に証拠映像が手に入ったぜ」

「あまり信孝を使うな。あいつはまだ物事の加減ってやつを知らん」

「加減を知ってりゃ違法行為も是認、ってことか」

 すかさず突いてやれば、佐武朗は眉根にしわを刻んだまま何本目かの煙草を口に咥えた。

 佐武朗という男は、矛盾で形成されたような人間だ。己が内包する善と悪を、決して戦わせることなく共存させ、必要に応じて互いを巧みに操作し、自身の外殻を見せたいように見せている。

 ――欺瞞を深慮と見せ、狡知を慧眼と見せることができる “人面鬼心” 。

 それが幸夜の認識する佐武朗という男だ。


「……つまり、あの『TOHROH』ののが『クレヴァン』なんだな」

 看板の陰から、食虫花に呑み込まれる哀れな二匹の虫を見届けて、佐武朗は注意深く辺りを見渡す。店が密集する通りなのでその裏側までは見通せない。だが、だてに探偵事務所の所長ボスを務めてはいないようだ。幸夜に教えられるまでもなく、入り組んだ区画のからくりは理解したらしい。

「実際歩くとわかりづれーけどな、地図で見りゃ一目瞭然だよ。『TOHROH』と『クレヴァン』は、あの水路を挟んで背中合わせだ」

「なるほど。……それで、『クレヴァン』より先にこちらへ案内した理由は?」「『TOHROH』の手っ取り早いと思ったんだけどな。さすがの佐武朗でも無理か?」

 佐武朗はぎろりと目を剥いた。

「お前は俺を、どれだけの悪党だと思っているんだ」



「――要は、簡単な目くらましだったわけだな」

 もと来た道を戻りながら佐武朗が低く言う。幸夜は、ポケットに突っ込んだ手の指先でチョコ菓子の小箱を弾きながら頷いた。

「そーいうこと。危うくオレも騙されるところだったぜ」

 リリコの証言をもとに『クレヴァン』という店を起点として、その周辺すべての監視カメラおよび防犯カメラをチェックしたところ、確かに五日前の夜、例の不倫男Xと、彼を追うリリコの姿は映っていた。

 けれど、いざリリコが『クレヴァン』に入ってみれば、X氏の姿がなかったという。それを聞いた当初、大方X氏は、リリコの隙をついて裏口あたりから逃げたのだろうと考えていたが、調べてみてそれはありえないことが判明した。


「ヤツがビアンカ通りから抜けた形跡がどこにも映っていない。『クレヴァン』の裏手は高いフェンスに隔たれた排水路になっている。ヤツが『クレヴァン』の裏口から出たにせよ、逃げ道は表口があるビアンカ通りしかない。店を出て右に行くか左に行くか……逃走経路は二通りしかないのに、その二つの道筋にあるどの監カメにも、リリコを撒いたあとのヤツの姿が映っていなかった」

 佐武朗は歩きながら静かに紫煙を吸い、吐き出している。

「一方で、ヤツらしき人物が映っている監カメが見つかった。それが……そこだ」

 タイミングよく、先ほど渡った水路を跨ぐ小橋に戻ってきた。肆番街側の橋の袂に弱く白々しい光を放つ街灯が一本。その一本に、この辺りで唯一の監視カメラがそれとわからないように設置されている。

 立ち止まって見上げれば、佐武朗もならって見上げた。

「この監カメに、ヤツともう一人……津和野らしき男が映っていた。時刻はリリコを撒いてから十数分後。しかも、ヤツらはこっち……、この橋を渡っている。伍番街でリリコを撒いたヤツが、その十数分後に肆番街から出てくるなんて物理的に不可能だ。リリコを撒くためにわざわざ『クレヴァン』の裏手に回り、あのフェンスを乗り越え、臭い水に足を踏み入れ腰まで汚して水路を渡ったとは考えられない。空を飛んだんじゃなければ……ビアンカ通り以外の経路があったと考えるのが妥当だ」

 二人は再び並んで小橋を渡った。

「とりあえず『クレヴァン』の両隣と真裏の店を調べようと思ってな。さっそく信孝に探らせたらビンゴ。水路を挟んで背中合わせになった『TOHROH』という店の地下部分から、いかにも怪しげな通信反応あり。……で、サーバーつついて侵入ハックして入手できたのが、違法賭博の映像」

 渋い顔になるボスに構わず、幸夜は続ける。

「監視カメラは五台、そのうちの二台に怪しげな賭博風景がばっちり映っていたとなれば、裏賭博場があの中華料理店の地下にあるのは決定的。あの店に似つかわしくないセレブ連中たちが常連客カモになってることは、さっき見た通りだ。リリコからも報告があっただろ?」

 佐武朗は「ああ」と忌々しそうに答える。

「そういった地下にある賭博場には、警察のガサ入れ対策として逃走経路が用意されている場合が多い。つまり――、」

「『クレヴァン』と『TOHROH』は地下でつながっている、と考えればつじつまが合う。不倫男Xは『クレヴァン』の地下から逃げたんだ――『TOHROH』へとつながる地下通路を通って」

 幸夜の言葉に佐武朗が唸るような相槌を打ち、紫煙を吐き出した。

「おそらくは『TOHROH』も『クレヴァン』も、裏賭博場カジノの隠れ蓑として営業しているのだろう。あの中華料理屋が割合新しかったことからして、危うくなったら店じまい、ほとぼりが冷めた頃にまた新しい店を構える……と繰り返しているのかもしれん。昔はそんなからくりを施した賭博場があちこちにあったもんだ。大方は摘発されて、最近じゃずいぶん少なくなったがな。それはさて置き……問題は」

 紫煙越しに視線を向けられ、幸夜はそのあとを引き継ぐ。

「――問題は、いくらゲス不倫に勤しんでいるからって、普通のまともな男がそんな奇怪な動きをするか……ってことだな。その不倫男Xは、ルートを通って姿をくらました。なぜか……自分がルビを入力…ルビを入力…だ。だから、。どう考えても

「裏賭博場カジノに出入りできる時点で、確かにそいつは “まとも” じゃないな」

「津和野とつるんでいる時点で、だろ」

 不覚ながら、幸夜もリリコから話を聞いただけではこのからくりに気づけなかった。あのキノコ娘のノートを見なければ――ノートの中に津和野の顔を見つけなければ――、久米澤明史氏から依頼された不倫調査は、単なる妻の不貞行為として報告書が上げられ、幸夜たちはペテンにかけられたまま終わっていただろう。――この不倫に隠された、大きな謀略に気づかぬまま。


 逆トの字になった箇所に差し掛かった。

 このまま真っ直ぐ行けば先ほど通ってきた小路に戻る。今朝キノコ娘を連れて下調べに来た、細い枯れ枝のように曲折する小路だ。そしてその小路をそのまま進めば、ずいぶん迂回する形になるが、伍番街を縦断するメインストリートに出ることができる。

 実際、この小路の先にあるコインパーキングに設置された防犯カメラにも、津和野および不倫男Xの姿がばっちり映っていた。リリコを撒いた夜、彼らがこの小路を進んだことは間違いない。

「そこで、あのキノコとすれ違ったわけか……」

「キノコ……?」

 佐武朗が怪訝な顔で幸夜を見る。

 ――みたいな女、と胸の中でつけ加えて、幸夜は左の道へ入った。



 伍番街の淵をなぞるように通る小路の一つに、ビアンカ通りという裏小路がある。風俗店は割合に少なく、昔気質な飲み屋やスナック、時代に取り残されたような古いバーやカラオケ店などが多い。

 そのビアンカ通りの末端近くに『クレヴァン』はあった。

 店自体は小さい。砂色ののっぺりとした外壁に木製のモダンな扉が設えてあるだけの簡素な外観ではあるが、その簡素さがかえって洗練された雰囲気を醸し出している。おおよそ、風変わりな新参者、といった印象だ。実際そのように装っているのだろう。

 伍番街の中心部から離れたこの界隈は、テナント募集を張り出した空き店舗も目立つ。そんな中でこの店は、息を潜めて異質であることを隠しているかのように見えた。


 佐武朗に続いて飾り気のない木製のドアから中に入った瞬間、幸夜は店内に澱む倒錯的な空気をすぐに察知した。ここは間違いなくアブノーマルだ。

 照明を落とした店内は薄暗く、テーブル席は六つのみ。店奥に五席を設けたカウンターがあり、カウンターの向こう側で長髪のバーテンダーがグラスを拭いている。客はカウンターに二人と、テーブル席が二つ埋まっているだけ。静かなものだ。

 だが店に入るや否や、店内にいる全員が一斉に振り向き、佐武朗と幸夜に胡乱な目を向けた。バーテンダーにいたっては、いらっしゃいませの一言もない。

 不穏な空気が張り詰める中、こちらに振り向いたカウンター席の男がいち早くニヤリと笑んだ。

「……よぉ、権頭ごんどう。久しぶりだな」

 やや高めの鼻にかかった声。やせぎすの体躯に細身のオーダーメイドスーツ……佐武朗を “権頭” と呼び捨てる人間は数少ない。数年ぶりに見た彼の姿はまったく変わっていないように見えるのに、どこか大きく変貌した気もして奇妙だ。

 佐武朗は店奥のカウンターへ向かってゆっくりと歩を進めた。

「――まさか、本当に戻って来ていたとはな。……津和野」

「生まれ育った街に戻って来て何が悪い」

 津和野があざけるような声音で返す。

 佐武朗の背後でポケットからチョコ菓子の小箱を出しながら幸夜は、津和野の左隣に座るもう一人の連れを注視した。

 どこででも見かけるごく普通のサラリーマン、といった若い男……しかし、こちらに振り向いたその顔は見間違うはずもない――不倫男X氏だ。

 幸夜のガン見に対し、不倫男Xも静かに見返してきた。柔和な顔にほんのり浮かぶ微笑。得体の知れない危険な匂いは、調査の時にはまるで感じなかったもの。

 一方の津和野は、“部外者” に警戒心を剥き出すバーテンダーに向かって、たしなめるように軽く手を振った。

「……まぁいい。せっかく再会したんだ。どうだ、一緒に一杯……ああ、紹介しよう。俺の忠実な部下にして、優秀な調査員である清珠しんじゅだ。清らかなたまと書く。いい名だろ? ――シン、この二人は俺の昔馴染みだ。挨拶しておけ」

 津和野の隣に座る男――清珠は目を糸のように細めて、わずかに首を傾ける。

「――初めまして……ではありませんよね?」

 滑らかで耳障りの言い滑舌。まるで作られたような。

 佐武朗はちらりと目線をよこしただけで、胸ポケットから煙草ケースを取り出し一本口に咥える。

「お前も堕ちたものだな……そいつを使って “別れさせ屋” ごっこか」

「おいおい、再会した昔馴染みにさっそく説教か? 人聞きの悪いことを言うなよ。 “別れさせ屋” ? 証拠もないのに妙な言いがかりはよしてくれ」

 大げさな身振り手振りにわざとらしい抑揚。相変わらず演技が下手だ。

 幸夜は彼らから少し離れて、カウンターテーブルの端に背をもたれさせた。テーブル席にいる胡散臭い野郎どもの視線が幸夜に突き刺さる。招かざる客なのだろうが、こちらとて長居するつもりはないのだ。

 佐武朗が淡々とした仕草で煙草に火を点けた。吐き出した紫煙が舞う。


「久米澤奈央子をたぶらかし不倫行為に及び、それをネタに彼女を――いや、OBANA家具現社長の小塙おばな氏でも強請ゆするつもりだったか。――久米澤明史が『TOHROH』の地下賭博場で負った

 その瞬間、カウンター向こう側にいるバーテンダーと店内のもう二組の客が目に見えて殺気立った。腰を浮かしかけた者さえいる。津和野の隣で清珠が微笑を消して静かに立ち上がった。

 佐武朗はまったく動じる気配もなく、津和野の前に置かれていたスチール製の灰皿に手を伸ばし引き寄せる。

「どうやら、『TOHROH』の名は有名らしいな。あるいはここ『クレヴァン』と特別な “つながり” でもあるのか」

 一触即発といった空気の中、津和野が黙ったまま佐武朗を見据える。数秒後、彼の目がすっと細くなった。

「……シン、座れ。マスター……大丈夫だ」

 幸夜はチョコ菓子を噛み砕きながら、隙あらば襲い掛かろうと牙を剥いている野犬じみた二組のテーブル客を見るともなしに眺めた。

 どうやらこの『クレヴァン』には、バックにろくでもない団体がくっついているらしい。


「……それで? 続きを聞こうじゃないか」

 口端を上げて余裕ぶる津和野に、佐武朗は悠々と煙草を吸いつけ灰皿に灰を落とした。

「……数時間前、久米澤氏を尾行していた調査員から報告が入った。肆番街の『TOHROH』という中華料理屋に一人で入店、三時間十五分の滞在、とね。『TOHROH』の地下賭博場カジノ……久米澤明史はそこの常連客だったんだな。しかも彼は、賭博での借金に加えて金融業者からの借金もふくらみ、相当に追い詰められていた。それらが細君や会社の知るところとなれば、事実上の婿養子である久米澤はすべてを失う。どうあっても金が欲しい……そんな時、絶好のタイミングで “救世主” が現れ、久米澤に一計を授けた――久米澤夫人もしくは小塙家が、否応なく金を出さざるを得ない絶対的な理由を作ればいい――と」

 そこで言葉を切った佐武朗は、津和野の隣で従順な執事のように控える若い男――清珠に視線を向けた。

「久米澤夫人は世にいう箱入り娘だ。世間の汚れた部分など微塵も知らない。彼女を落とすことなど赤子の手を捻るより簡単だっただろう?」

 問われた清珠の顔に、再びあの微笑が浮かぶ。幸夜は口の中に入れたチョコ菓子を吐き出したくなった。

「 “救世主” ねぇ……」

 津和野はくっくと笑い、肩を竦める。

救世主メシア呼ばわりしてくれるのは心地いいもんだが、あいにく俺は探偵でね。依頼者の希望に沿う一番いい解決方法を提示し、了承を得た上で遂行したまでだ」

 大きさの違う両眼が、凄むように佐武朗を睨み据える。

「――探偵として、依頼人の利益を第一に優先させた。それの何が悪い」

 津和野は侮蔑するように鼻を鳴らし、手元のタンブラーに入った琥珀色の液体を一気に飲み干した。

「しかし……さすがだな。思った以上に早く調べ上げたもんだ。感心するよ。だが評価はしないぜ? どうせヤバい手を使ったんだろう? そこにいる幸夜の “目” があれば大概のことは調べがつく。それで俺を責めるのか? お前は昔からそうだ。いつだって自分だけが正しい。自分こそが正義だと主張する……反吐が出そうだ」

「英雄を気取った覚えはないがな。いずれにせよ、久米澤奈央子および小塙家を恐喝し金をむしり取ろうなんてことは諦めた方がいい。小塙氏はもう、

 津和野が笑みを消し、脇に立つ清珠が彼のボスを見る。佐武朗は吸いさしを灰皿に押し付けたその手で、もう一本取り出して火を点けた。


「今日の……もう昨日になるか……夕刻、小塙氏に会ってきた。さすが業界トップを維持し続ける大会社の代表取締役社長だ。不愉快な話であるところを、分別を持って聞いていただけた。早急に事実関係をはっきりさせると仰っていたからな、差し当っていい弁護士を紹介しておいた。実際は不貞行為であっても、強制性交等罪として立証してしまうくらいには弁護士だ。つまるところ……どんなネタで久米澤奈央子を脅そうとも、お前たちの懐に金が入ることはない」

 佐武朗の泰然とした低声バスを表情なく聞いていた津和野は、カウンターの向こう側で身を固くしているバーテンダーに小さく手振りで合図を出す。

「手回しのいいことだな。成功報酬にあずかれなかったのは残念だが、すでに着手金はもらっているんでね。特に損したわけじゃない。どのみちあの男は破滅するしかなかった。破滅の前に、ほんの少し希望の光を見せてやったのさ。感謝してほしいくらいだ」

 新しく出されたタンブラーを手に取り、琥珀色の液体に浮かぶ氷を鳴らす。津和野の目に妖しい光が瞬いた。

「――俺は探偵だ。依頼人の利益のためなら多少汚れたことでもやってみせるさ。権頭……お前だってそうだろう?」

「俺は別に、お前を責めるためにここへ来たわけじゃない。お前たちが今後、久米澤奈央子とその親近者、OBANA家具関係者に一切の接触を持たないと約束すれば、こちらも『TOHROH』の裏賭博場と、この店へ抜ける地下通路のことは綺麗さっぱり忘れよう。お互い損のない取引だと思うが?」

「フン、取引ね……まぁ、いいだろう。では、久米澤夫人に伝えてもらえるかな? こいつのことは大人のお遊びってことで、忘れてください、ってな。――それでいいな、シン」

「……忘れていただけるのなら」

 静かに微笑んだ清珠に、津和野がくくっと喉の奥を鳴らした。

 この人畜無害そうな男……清珠はやはり、とんでもないゲス野郎らしい。


「……幸夜、帰るぞ」

 灰皿に短くなった煙草を押し付けた佐武朗が言う。

 幸夜はカウンターテーブルにもたれたまま、もう一つチョコ菓子を口に入れた。

「――なぁ、どうして『サブロ探偵事務所』への依頼を勧めた?」

 この店に入って初めて口を開く幸夜に、店内の空気が訝し気に固まる。指でつまんだチョコ菓子を弄びながら、幸夜はつい嘲笑わらってしまう。

「回りくどいことをしたよな。久米澤奈央子を強請ゆするネタなんていくらでも自分たちで手に入れられるだろ? わざわざ “探偵オレたち” を介入させる必要はどこにもない。なのにアンタはリスクを承知で久米澤に『サブロ探偵事務所』を紹介した。……奥さんの不貞行為を第三者に目撃させ立証させておけば後々有利だ……とでも言ったか。事実、久米澤はまんまと『サブロ探偵事務所』に依頼し、オレたちはまんまと不倫調査に着手。尾行され監視されているのを承知で、そいつは彼女との逢瀬を続けたんだ。そして――」

 チョコ菓子を小箱に投げ戻し、幸夜は津和野に向く。

「事の真相に気づいたオレたちがここに乗り込んでくることも……全部アンタの想定内だったんだろ?」


 リリコの尾行を撒いたあと、ここにいる不倫男X――清珠は、津和野と一緒に肆番街から伍番街へ戻ってきた。肆番街から国道へ抜ける道筋もあったのに、わざわざ伍番街へ戻ってきたのだ。

 現在の伍番街は、いたるところに公的機関管轄の監視カメラが設置されており、津和野がそれを知らぬはずはない。佐武朗がその気になれば――今回は幸夜の独断決行だったが――、そのほとんどの監視カメラを解析できることも知っているはずだ。だが津和野は、敢えて清珠に不可解な行動をさせた。

 結果、水路を跨ぐ小橋に設置された監カメに彼らの姿は映っており、幸夜はそれを見つけた。まるで試された気分だ。否、実際、試されたのだろう。

 それが証拠に、津和野と清珠は二人揃って他でもないこの『クレヴァン』にいる。佐武朗と幸夜を待っていたのだ。


「オレたちに、 “帰ってきたぞ” アピールでもしたかったのか?」

「――あるいは “宣戦布告” ……か」

 佐武朗が重ねて低く呟く。その途端、津和野の目の下が細かく痙攣した。

「 “宣戦布告” だ? うぬぼれるな。お前なんか眼中にねぇよ」

 上ずった声音に過分な憤り含ませた津和野は、タンブラーの中身を半分ほど空けておもむろに立ち上がる。幸夜と同じくらいの背丈である彼は、彼を見下ろす佐武朗の方を見向きもせず、幸夜に近寄り馴れ馴れしく肩を組んだ。

「俺が会いたかったのはお前だよ、幸夜。しばらく見ないうちにますます男ぶりを上げたじゃねーか。……どうだ、俺と一緒にやらないか? こんな外面ばっかりの上司、いい加減うんざりしてんだろう? こいつはな、いざとなったらお前のことなんかバッサリ切り捨てるぜ? 一生懸命働いてくれる調査員を、ただの道具としてしか見ていないんだからな?」

「……だろうな。それは否定しない」

 正直に返せば、津和野は我が意を得たりとばかりにほくそ笑んだ。

「だろう? 俺はそんなことしやしない。大切な部下のためなら命だって張ってやるさ。だから俺のところに来いよ、な?」

 耳元で囁かれる猫なで声。ふと、突っ立ったままの清珠が目の端に映った。何を考えているか全く読めない無表情――そこに微笑はない。

 津和野はスーツの懐を探る。取り出したのは一枚の名刺だ。次いで胸ポケットからゴールドに光るボールペンを抜き出し、気取った仕草で何かを書き付けた。

「ほら、いつでも連絡して来い。俺と一緒に仕事しようや」

 《 津和野探偵事務所 》と記された名刺……ご丁寧に携帯の番号を書き足してくれたようだ。

 受け取った名刺を黙って眺める幸夜に津和野はますますすり寄り、幸夜の手にあるチョコ菓子の小箱からひとつ摘まんだ。

「……お前のその眼……俺のために使ってくれよ……」

 口に入れた瞬間、津和野の顔が歪む。

「ぅ……なんだ、これ……」

「――あぁこれな、海外の土産物らしいんだけどさ、商品名が “ツチノコの穴” っていうんだ。クソまずいよな。遠慮なく吐き出せよ。ほらここに」

 幸夜は何食わぬ顔で、もらったばかりの名刺を差し出した。

「……こんのクソガキ……」

 幸夜を突き飛ばし、カウンターに置かれたままのタンブラーを飲み干す津和野。幸夜は名刺を爪先で弾き飛ばして、クソまずいチョコ菓子の小箱をポケットに突っ込んだ。

「帰ろーぜ、佐武朗」


 店の外に出て、幸夜は重い頭を回し、佐武朗は煙草に火を点ける。

 溜息交じりの煙を吐き出した佐武朗は、眉間にしわを寄せて幸夜のポケットを見た。

「……それ、輸入物だろ」

「このチョコ? タマコがもらってきたんだよ。クサるほど」

……恐れ入るな」

 小馬鹿にしたような顔で佐武朗は煙草を吸う。もちろん幸夜が適当に名付けた嘘っぱちだ。その不味さを表現するにぴったりの名称だと思う。

 並んで歩き出すとすぐに、プァン、と軽くクラクションが鳴った。狭い路上に停まった黒のミニバン――柾紀だ。表で津和野たちを張っていた彼には、幸夜たちが『クレヴァン』に着いた時点で合図を送っておいたのだが、帰らずそのまま待っていたらしい。

 下げたウインドウから半身を出した彼は、咥え煙草のままニヤリと笑った。

「ご苦労さんでしたな。津和野と一緒にいた男……あれ、ナニ人なんです?」

 さすが外国人嫌いの柾紀だ。自身の外見は棚に上げ、純正日本人でない人間はすぐにわかるらしい。もっとも、彼が毛嫌いするのはもっぱら金髪碧眼系なのだが。

「さぁな。言葉は流暢な日本語だった」

「へぇ。……で? 売られた喧嘩、買うんですかい?」

「奴のごっこ遊びにつき合う暇はない」

 にべもなく吐き捨てた佐武朗に、柾紀は肩を揺すって笑う。

 幸夜は目を閉じて、もう一度首を回した。後頭部が重い。目の裏の闇に無数の画像が落ちてくる。久しぶりの感覚だ。こういった “副作用” にはとっくに慣れているはずだったが、今日は珍しくヤバい気がする。

 思えば丸一日、働き詰めだったのだ。いつになく脳内をフル稼働させたあげく、着地点がクソまずいチョコ菓子とゲスな野郎ども……後味は最悪と言ってもいい。

 早く溜まった毒素を吐き出したい。あのキノコ娘のように倒れ込んで醜態をさらすのだけはご免だ。

 柾紀がエンジンをかけた。

「ボスのベントレー、どっかに停めてんでしょ。そこまで送っていきますぜ。……ああ、そーいや幸夜、聞いたか? あのお嬢ちゃん、あばら骨が折れてたって。まったく可哀想によぉ……、――ぉおわっ!」

 柾紀の顔めがけて、半分以上残っているクソまずいチョコ菓子の小箱を投げつけた幸夜は、そのまま背を向けた。

「じゃーな」

「――おい、帰らねぇのか?」

「 “病み晴らし” に行ってくる」

 振り返らず答えて歩き出した幸夜の耳に、柾紀の含み笑いが届く。

「そのメカニズムだけは理解できねぇな。病気もらってくんなよ」


 うるせーよ、と心の中で毒づいて、幸夜はまずコンビニに寄ろうと決めた。

 無性に、タケノコ型チョコレートが食いたいと思った。ほんの少しだけ、この際キノコ型チョコレートでもいい、とも思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る