第2章 チョコを剥がしたチョコ菓子の末路

第1話

 サブロ諸法度 第十五条  “一日一膳、一堂に会して食すべし”

 曰く――ここに住む者は特別な理由がない限り、一日一食を皆一緒に食さなければならない――


 ……なにが “サブロ諸法度” だ……こんな悪法を考えたヤツこそ死刑だろ……

 これまで何万回となく唱えた呪詛を今日もまた胸に抱きつつ、幸夜は重たい頭と身体を引きずるようにして階段を降りる。

 階下のリビングに入れば、鼻孔に届くのは香ばしい匂い、耳に入るのは食器や調理器具の音。ダイニング奥のキッチンで動き回る、むくつけきガタイの――いつもの光景だ。


「――おや、ユキちゃん。今朝はずいぶん早く降りてきたじゃないか」

「幸夜がドンケツじゃねぇなんて珍しいな。……おっと、ハムがこれしかねぇぜ」

「冷蔵庫の奥に新しいのが入っているはずだよ。……いつもなら殉死覚悟で起こしに行かなきゃならないからねぇ」

 軋む声と野太い声の主は、この家の家事全般を担うタマコと、料理はそこそこできる柾紀である。筋骨たくましい二人が並ぶと、十分な広さを取ってあるはずのキッチンは途端に狭く暑苦しい場所となる。

 ――こないだなんかさぁ、ユキちゃんを起こしに行ったらベッドの中からスパナが飛んできてさぁ……、と、巨大な芋虫のごとくクネクネ喋るタマコはすでにガッツリ厚化粧、頭は蛍光ピンクと蛍光イエローがまだらのアフロヘアー。ゲテモノ感がハンパじゃない。

 その隣でフライパンを握るくわえ煙草の柾紀は、ぴっちり黒のタンクトップに首から下げたシルバーのドッグタグ風チェーン、GIカットに上腕のトライバル文様……どう見てもアーミー上がりにしか見えない。

 もっともキッチンに相応しくない風体ではあるが、ここではこの二人が、もっぱらの炊事担当となっている。


「そーいや幸夜。例のお嬢ちゃん、今日退院するんだってよ」

「さっき、サブちゃんから連絡があったんだよ。これから連れて帰るってさ」

「……へぇ」

 幸夜は大欠伸をかましつつリビングのソファに向かった。

 昨晩はどれだけ眠れたのか……もともと低血圧な上に熟睡できない体質ときている。起きて数時間は口を利くのも億劫なのだ。

「おはようございます、幸夜くん。先日はご苦労様でした」

 リビングには先客がいた。一人掛けのソファに腰かける鴨志田――『サブロ館』の同居人ではないが、同じ『サブロ探偵事務所』の調査員である。見た目は小柄で細身で、頭の毛も少々寂しくなりつつある貧相な男だが、『サブロ探偵事務所』での調査員歴は最も長く、佐武朗からの信頼も篤い。

 この時間、彼がここで新聞を読んでいるのも、大体いつもの光景だ。

 幸夜は三人掛けのソファへ向かい、ソファ上に散らかる雑誌や衣類を足でソファ下にぎ払った。そのままどさりと身を沈めれば、鴨志田は幸夜ににっこり微笑んで、再び手元の新聞に目を落とす。幸夜の口からもう一度大きな欠伸が出たところで、キッチンから出てきたタマコが、ダイニングテーブルの上に皿を並べながら声を張り上げた。

「でもさぁ、肋骨が折れてただなんて痛かったろうねぇ。おとつい倒れた時は頭を抱えてたから、てっきりそっちの病気だと思ったんだけどねぇ。昨日の今日でもう退院だなんてさぁ……大丈夫なのかねぇ」

 痛々しそうに身をくねらせるタマコ。あれは巨大な熱帯系芋虫だ。毒持ちの。

「まぁでも、普通に歩いてたしな。大したことねぇんじゃねぇのか? あばらってのは折れやすい骨だが、くっつきやすい骨でもあるんだぜ」

 キッチンカウンターから顔を覗かせた柾紀が言えば、鴨志田が新聞をめくりながら「そうですね」と続ける。

「肋骨骨折というと重症のように聞こえますが、内臓や呼吸音に問題がなければ手術や入院の必要はないと聞いたことがあります。しばらくはバンドかコルセットみたいなもので固定して様子見、といったところでしょう」

「そうなのかい? 丸宮のセンセ、腕は確かなんだろうけど、ちょいと大雑把すぎやしないかって――、……ほらっ、マサちゃん! 目玉焼きが焦げてるよ!」

「おおっと、ヤベェ。――……ァチッ!」


 幸夜はぼんやりしている頭を軽く振って、ソファ脇に置いてある籐編みのくずかごに手を伸ばした。くずかごだが、中に入っているのはゴミじゃない。そこから取り出したのはチョコレート菓子の小箱。昨日散々タマコをどついたので、籐籠は新しいチョコ菓子の小箱や小袋で一杯になっている。

「……ああ、ここに小さく記事が載っていますね。OBANA家具の取締役専務、久米澤明史、業務上横領の疑いで逮捕……」

 新聞を読む鴨志田が小さく呟いた。ブツブツと記事の詳細を読んでいく。

「……ふむ……あの男……やはり会社のお金も使い込んでいたんですね……いやはや、懲戒解雇と離婚は免れないでしょう。自業自得ですよ。賭博の借金返済のため、自分の妻を陥れて恐喝しようだなんて……ふむふむ……どうやら、久米澤夫人の不倫については表沙汰になっていないようですね……」

 とそこで、鴨志田は目を上げた。

「そういえば、例の『TOHROH』という中華料理店と『クレヴァン』というバー……昨日の晩の時点ですでにもぬけの殻だったそうですね。よかったんですか? 当局に恩を売るせっかくの機会だったのに」

「んあ……」

 幸夜は曖昧に返して、チョコ菓子の小箱を開けた。


 佐武朗と幸夜が『クレヴァン』に踏み込んだのは一昨日の夜中。佐武朗があの場で公言した通り、『TOHROH』の地下にある裏賭博場カジノ、そして『クレヴァン』に繋がる地下逃走経路については見て見ぬ振りをしてやっていたが、念のためその後も信孝に『TOHROH』の監視カメラ画像をチェックさせ続けていた。ところが、昨日の明け方近くに突如画像が消えたらしい。

 信孝によると、通信妨害やシールドの類ではなく、設置していた監視カメラそのものを撤去した可能性が高いという。その時点で、ああ逃げたな……と推測はしていたのだ。

 しかし、幸夜にとってはどうでもいいこと。

 幸夜にとって肝要だったのは、戻ってきた津和野の挨拶に応えること、そして津和野と対面した佐武朗の反応を見ることであった。その両方は達せられたのだから、久米澤がどうなろうが、裏賭博場がどうなろうが、『クレヴァン』がどうなろうが、知ったことではない。

 小箱から一粒つまんで虚空にかざしてみる。――楕円の艶玉、完璧なフォルム。

 口に放り込んで噛み砕けば、小気味よい噛み応え。チョコレートの甘さにアーモンドの香ばしさが絡みあう。頭の芯にじわりと染み入る感覚。


「……あ、そのチョコ、うちの奥さんも好きですよ。よく買ってきて食べています」

 新聞から顔を上げた鴨志田が、チョコ菓子の小箱を見て微笑む。

「時々、コーティングされた外側のチョコレートだけ食べて、僕に中のアーモンドをくれるんですよ」

 薄っすらと頬を染めて幸せそうな笑み。

「こないだ帰宅するとですね、チョコを剥がされたアーモンドの粒が山になっていたんです。何でも、アーモンドは老化防止にいい、とネットに載っていたらしく、僕にたくさんアーモンドを食べさせようと張りきっちゃったんですね。チョコとアーモンド、一緒に食べちゃダメなの?って訊いたら不思議な顔をされたんですけど……チョコとアーモンド、一緒に食べてもいいですよね?」

 真面目な顔で問わないで欲しい。鴨志田の愛妻っぷりと奥方の天然っぷりは今に始まったことではないが、この夫婦、幸夜でさえ色々な意味で大丈夫なのかと思ってしまう。

 何とも答えようがないので、鴨志田の読んでいる新聞紙の上に、チョコの艶玉を一個だけそっと置いてやった。

 鴨志田は指でつまんでしげしげと眺め、手の平に乗せて軽く握った。次いで開くとチョコ玉が消えている。くるりと手を返して開けばまた現れる。彼の手が握ったり開いたりするたびに、艶玉のチョコが指の間を移動しながら消えたり現れたりする。鴨志田の特技だ。

 ひとしきりチョコ玉をもてあそんだ彼は、「丸見えですか?」と問うてくる。「ああ」と答えれば「まったく、幸夜くんの目は手品師泣かせですね」と笑って、ようやくカリリと前歯でかじった。

「……肆番街よんばんがいあたり、最近またよろしくない空気を感じますね……大事に至らなければいいのですが……」

 鴨志田の意識は再び新聞に戻ったようだ。その向こうのダイニングでは炊事担当の二人がまだ、あのキノコ娘の話を続けている。

「――それはそうとあの嬢ちゃん、ワケありみてぇじゃねぇか。ボスが連れて帰ってくるってことは、うちで預かることにしたのか?」

「さぁね。だけどうちにオンナの子なんて、ナニかあってもあたしゃ知らないよ。……いちにぃさんしぃごぉろくなな……マサちゃん、目玉焼きが一個多かったんじゃないかぃ?」

「鴨さん、今日はいらねぇのか?」

「はい。僕はコーヒーだけで」

「そっか。んじゃ、俺が食う」

「こらユキちゃん、ご飯前にチョコを食べたらダメじゃないか。……リリちゃんはまだかい? まったく、相変わらずのお寝坊だよ……、えーと、リョウちゃんの分はいらないし……ノブちゃんのはどうするかねぇ……昨日も丸一日、降りてこなかったんだよねぇ……」


 ここはうるさい。うるさく騒がしいのはいつものことだ。耳に入る余計な音はそのまま意識の外に流す――そういったすべもとうの昔に会得している。

 幸夜がゆっくりと楕円の艶玉チョコを味わっていると、リビングのドアが開いた。ふらりと入ってきたのはリリコだ。金魚の尾びれのような薄生地のナイトウェア、短い裾から露わになる長くむっちりとした太腿……これもここではお馴染みだ。

 リリコは欠伸交じりで、わっさりともつれた茶髪をかき回した。

「……おはよぉー……ねぇママぁ……アタシのベビードール、知らなぁい? ラベンダー色でレースが黒の。こないだ『ミグノン』で買ったんだけどぉ……」

「あ? ……ああ、アレ? アレはちょっと……ほら、あんまりカワイイもんだからさ……」

 途端、あからさまに目を泳がせるタマコに、リリコは「え……、ちょっとママ。まさか」と動きを止める。次の瞬間、リリコはタマコに掴みかかり、タマコのケバケバしいガウンの胸元を引き開けた。……露わになるおぞましい絵。

「――っきゃぁぁぁ! それアタシのぉぉっ!」

「ナ、ナニすんだいっ、エッチィッ!」

 乙女のように胸元をかき合わせて恥じらう熱帯系巨大毒芋虫。対して本気でキレる変異体モスラ。

「ひどいじゃない! 買ったばかりでアタシ一回も着けてないのに! ママの丸太みたいな身体に着けたら破れちゃうっ!」

「まっ、丸太って……失礼だねっ! あんた、たくさん持ってんだから、ちょっとくらい貸してくれてもいいじゃないか!」

「欲しかったら自分で買いなさいよっ! 『ミグノン』の店長とは仲良しなんでしょっ!」

「だってだって、あの子ってば、あたしがこういうのを選ぶとバカにするんだよぉ! 同じカマの飯を食った仲だっていうのにさぁっ、ちょいと自分の方が小綺麗な顔してるからってさぁっ」

「ママと比べたら世の中のオカマみんながキレイだわよっ! あぁぁーんっ、ゴムが伸び切っちゃてるじゃないのぉっ! 返して……脱ぎな、さい……よっ!」

「いやぁぁん! リリちゃんのエッチぃぃ!」


 ギャイギャイと叫びながらもみくちゃになっている二人をそのままに、幸夜は黙ってチョコ玉を味わう。二人を止めることなくキッチンに戻った柾紀も、鼻歌交じりにソーセージを炒め始めた。隣の鴨志田が小さく「おお」と呟く。視線の先は新聞紙面に載った育毛剤の広告だ。

 ――ここはうるさい。うるさくてかしましいのはいつもの光景なのだ。

 そこで再び、リビングのドアが開いた。

「――なんだ、朝っぱらから騒々しい」

 重低声とともに入ってきたのは佐武朗だった。その後ろからひっそりと姿を現したのはキノコ娘――改め、天宮陽乃子。

 柾紀が煙草を口端にくわえたまま、キッチンから首だけを伸ばした。

「ボス。もう昼ですぜ。……おぉ、嬢ちゃん、大丈夫か」

 一方、タマコに掴みかかりんずほぐれつで絡まり合っていたリリコは、陽乃子に向かって愛想よく手を振った。

「あーらヒノちゃん、おかえりー。どう? 頭痛いの治ったぁ?」

「リリちゃん、この子、肋骨が折れてたらしいんだよ」

「えぇっ、うそぉっ? 肋骨って……あばら? あばら、折っちゃってたのぉ?」

 リリコが陽乃子のもとに飛んでいく。佐武朗は煩わしそうな顔でリリコのあられもない恰好を一瞥すると、溜息を吐きつつダイニングテーブルの上座に座った。

「鴨さん、コーヒー。濃いやつ」

「喜んで」

 鴨志田がいそいそとキッチンのコーヒーメーカーへ向かう。一方でリリコは少女の両肩に手を置いて覗き込んだ。

「ね、ねぇ、それってもしかして……アタシとぶつかったせい? そういえばあの時、ずいぶん痛そうにしてたわよね……?」

「いえ……違います。もっと前から、痛かったんです」

 心配そうなリリコを見上げて答える陽乃子。ニコリともせず真顔で。

 鴨志田に給仕してもらったコーヒーを一口飲んだ佐武朗は、ますます眉間のしわを深めてダイニングの上に置いてある新聞を引き寄せた。鴨志田のとは別社のものだ。そして唸るように言う。

「今日からそいつもここに住み込んで働いてもらう。……といっても未成年だ。当分はバイトとして雇うことにする」

「住み込み、って……この子の家とか学校とか……大丈夫なのかい?」

 タマコはあまり乗り気じゃないらしい。一方の柾紀は特に異論はなさそうだ。

「ま、いいんじゃねぇか? ノブの前例もあることだしな。てか、お嬢ちゃんの “カメラ・アイ” はなかなか使えるかもしれねぇぜ? 探偵業で “面取り” は骨が折れる仕事だしよ」

 すると佐武朗が、新聞の紙面からギロリと目を上げた。

「当面、表立って調査に参加させるつもりはない。とりあえずはタマコの手伝いでもさせておけ」

 ソファに身を沈めたまま、幸夜はチョコ玉をゆっくり噛み砕いた。不機嫌な顔で新聞に目を通す佐武朗はこちらを見ようとしない。幸夜はその顔面に視線を放ち続ける。

 タマコが腰に手を当てて「だけどさぁ」と口を尖らせた。

「部屋はどーすんだい? 空いている部屋はないんだよ?」

「はいはいはーい、アタシ、ヒノちゃんと相部屋するー」

「ちょいとお待ち! リリちゃん、あんたは――」

「いーじゃないのよぉ、だって他に方法がある? どう考えても、アタシがこの中でいっちばん安全じゃないの」

 なぜかウキウキと楽しそうなリリコに、柾紀は「まぁな」と同意を示す。だがタマコは「そりゃダメだ」と首を振った。

「リリちゃんがあたしの部屋に来るんだよ。それで、空いた部屋をその子に……」

「いやよぅ! ママってばゴリラみたいなイビキかくんだもん」

「ゴッ……、リリちゃんっ! 今日のアンタはちょいちょい失礼だねっ!」

 再びその場はギャイギャイと騒がしくなる。

 幸夜は、頑として目を上げようとしない佐武朗から視線を外して、まだ残っているチョコ菓子の小箱をローテーブルの上へ放り投げた。さすがに起き抜けは食欲がない。

「……るせーな……本人に決めさせれば?」

 呟いた声は意外と大きかったようだ。佐武朗以外の、陽乃子を含めたその場の全員が幸夜を見る。リリコがパッと陽乃子に向き直り首を傾げつつ、リリコお得意の甘えた声を出した。

「ねねね、ヒノちゃん。アタシと一緒の部屋じゃ、いや?」

 二、三秒の間をおいて、陽乃子はゆっくりと深く頭を下げた。

「……よろしく、お願いいたします」

「うっふふ、決まりね?」

 リリコの勝ち誇ったようなウィンク。タマコのつけまつ毛が困ったように瞬き、柾紀はやれやれと肩を竦めて、鴨志田がホゥと深い息を吐いた。

 本人が是とするなら、周りがとやかく気を揉む必要もないだろう。

 佐武朗がばさりと新聞を畳んだ。カップのコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がりざまに命を下す。

「さっさと食事を済ませろ。済んだら仕事だ」


 新聞を手に持ち、佐武朗はリビングを出て行った。“サブロ諸法度” なるものが念頭にあるのかどうかはさて置き、彼はこうして階下したに下りては来るが、皆と一緒に食事を取ることはほとんどない。大概、コーヒーを飲むくらいで早々に自室うえへ上がるか、出かけてしまうのが常だ。だから今日も、特にいつもと変わりない光景だと言えるのだが……

 幸夜は背もたれに頭を乗せたまま目を閉じる。

 ――珍しくも佐武朗が、幸夜の視線を避けていた。


「――じゃあ、ご飯にするよ! えっと、あんたは……そっちの椅子に座りな。ほら、ユキちゃんも! そこで二度寝するんじゃないよ!」

 タマコの声に皆が動き出し、幸夜は薄目を開けた。リリコに手を引かれた陽乃子が大人しくダイニングテーブルの一角に向かう。

 どうやら今日は洋食らしい。トーストと目玉焼き、ソーセージにサラダ、タマコ特製の野菜スープにコーヒー。幸夜は極端な偏食かつ、チョコレート菓子以外の食に対する興味がないためよくわからないのだが、どこにでもあるありふれた献立なのだろう。

 新しい同居人となった少女は一言も発しないまま、大きな瞳でダイニングテーブルの上を見つめている。人形のように瞬きもせず。

 だが幸夜には、彼女が少し驚いているように見えた。



   * * *



 陽乃子がここ――『サブロ館』に連れてこられたのは、これで三度目だ。

 一度目は、ユキヤとリリコに連れられて、濃紺色の車に乗って。

 二度目はマサキが加わり、大型の黒い車に乗せられて。繁華街を回った後だ。

 そして三度目の今日。陽乃子のいる診療所に現れたのは仁王像のような顔の――耐えがたい痛みの中でほんの一瞬目にしたことのある――男性。乗せられた車は、左側に運転席がある真っ白い豪勢な車であった。


「――いったい何があって肋骨なんぞ折る羽目になった」

 眉間に深い皺を刻んだ男は、車を発進させるなり苦々しく問うてきた。

 第七肋骨骨折――一昨日、つるりと禿げあがった初老の医師が陽乃子のレントゲン写真を指し、淡々とした口調で下した診断である。

 その場で一緒に診察結果を聞いた若い医師――確か、亮という名だった――が、「やっぱり」と溜息交じりに呟いていたが、陽乃子自身は驚いたのである。痛い痛いと思ってはいたが、まさか折れていたとは。

 ただし骨のズレや内臓の損傷はなく、特に入院する必要もない、と言われた。肋骨骨折は、基本的に自然治癒に任せるしかないのだという。

 ――にもかかわらず、昨日は丸一日診療所の個室に留め置かれた。なぜなのだろう。


「いつどこで折れたんだ。あのハゲ医者は、運動性の疲労骨折でなく外部からの作用によって折れた可能性が高いと言っていた。つまり何かにぶつけたか、大きな力で圧迫されたかだ」

 運転する仁王様――亮は “佐武朗さん” と呼んでいた――は、その声まで鬼神を思わせるがごとく低く響く。

「まさか、くしゃみや咳で折れたとは言わせんぞ。爺さん婆さんじゃあるまいし」

 不機嫌きわまる横顔を見上げ、陽乃子は迷い、考えあぐねた。

 どう答えればいいのだろう。痛みが強くなったのはリリコとぶつかったあとからだ。けれど、それより前から鈍く痛んでいたのである。ということは、原因はもっと以前にあるということ。

 ――説明すればいいのだろう。

 陽乃子があれやこれやと考えを巡らせるうち、信号待ちで車が停まる。

 佐武朗は苛立たしそうに胸元を探って煙草の箱を取り出し、軽く振って一本引き抜くと、同じく胸元からピカピカ光るライターを取り出して火を点けた。


「――質問を変える。 “天宮陽乃子” ……それは、お前の本名なんだな」

 パッパと吐き出された煙越しに、鋭い双眸が陽乃子を射貫く。陽乃子が頷くと、彼はますます苦々しい顔になった。

「家に帰らず、ネットカフェなんぞに寝泊まりしていた理由は」

 見つめる陽乃子に困惑の色を見たのだろう。佐武朗はにこりともせず「言っておくが、俺に嘘は通用しない」と付け加える。

 陽乃子は再びどう答えようか考えて、正直に答えた。

「……人を、捜しています」

 数秒、沈黙の間ができる。漂う煙草の煙に陽乃子が小さく咳き込むと、佐武朗は横目で陽乃子を一瞥し、運転席と助手席の窓を数センチ下げた。

「人を捜すために家出か。ろくに金も持ってない未成年が」

 煙草を指に挟んだ佐武朗の右手が荒々しくシフトレバーを操作して、再び車は発進する。

「……どうしても、捜して……会いたいんです」

 陽乃子の小さな声が聞こえたのかどうか、しばらく黙っていた佐武朗はもう一度煙草をふかして言った。

「しばらく、お前をうちで預かることにする」

 振り仰いだ陽乃子に、佐武朗は「ただし」と続けた。 

「――うちは保護施設ではない、探偵事務所だ。何もしない、できない人間を置いておくような慈善事業はやっていない。うちで預かる以上は働いてもらう。その代わり、働いた分に応じて給与を出そう」

 フロントの吸殻入れに煙草を押し付けて、佐武朗は有無を言わせない視線と声音を陽乃子に投げかけた。

「これはれっきとした雇用契約だ。いいな?」



 朝食――時刻はとっくに正午を過ぎていたが、この『サブロ館』では “朝食” と呼ぶらしい――は、あまり喉を通らなかった。今まで陽乃子が経験してきた食事風景とはまったく異なるその雰囲気に圧倒されたからだ。

 十人以上座れる大きなダイニングテーブルも、その上に並べられた皿の数も、大皿にてんこ盛りされたソーセージやトースト、ロールパンも、陽乃子にとっては目を見張るほど驚くべき光景だった。

 さらに言うと、陽乃子はこんなに大人数と一緒に食事をしたことが初めてであった。大きな口でモリモリ平らげる人、むっつりと黙ったまま皿をつつく人、食べている最中もひっきりなしに喋っている人……溢れるたくさんの音と、交じり合ういくつもの匂い。

 誰も、新しく加わった陽乃子にさほど関心を払っておらず、かといって無視するわけでもない。皆が自由で勝手で、それが自然に見えた。

 陽乃子が過ごしてきた生活にはなかった光景。圧倒されたけれど――たぶん、嫌ではなかったように思う。


 食事を終えて皆がダイニングを出て行ったあと、陽乃子はタマコに指示されるがまま、テーブル上の片付けを手伝わされた。

 規格外巨大頭蓋をもつタマコは、こないだ会った時と同じくその装いも規格外である。大きな顔にはごってりと化粧が施され、頭は黄色とピンクのふわふわしたモップのよう、裾が長い薔薇柄のガウンを着ている。

 しばらく二人で片付けていると、勢いよくリビングのドアが開いた。

「――やぁだママったら、さっそくヒノちゃんをこき使ってるー。この子、ケガしているのにぃ」

 現れたのはリリコだ。際どい透け感の寝着からカジュアルな軽装に着替えている。大きく開いた胸元や脚にピッタリとしたジーンズが、ボリュームのあるバストと肉感的な太腿をことさら強調しているようだ。

「人聞きの悪いことを言うもんじゃないよ。コルセットを巻いてるおかげで、もうそんなに痛くないんだとさ」

 タマコの言葉に陽乃子も頷くと、リリコは弾むように寄ってきた。

「じゃあヒノちゃん。うちの中を案内したげるから、おいでおいでー」

「こらリリちゃん! 案内はあたしの役目だよ! それにまだこっちの片付けが終わってないじゃないか」

「いーじゃないのぉ、そんなのあとで。ねぇヒノちゃん、さっきは玄関うえから入ってきたの?」

 リリコのいう “うえ” の意味が分からず答えに詰まっていると、彼女はうっふふと笑った。

「ここではね、車庫から入る “地下した” の入り口と、正門から入る “玄関うえ” の入り口があるの。あ、そっちのドアは “勝手口うら” ね。……ってゆーか、メンドーな家でしょぉ? やたらとセキュリティかけてるし階段だらけだし。エレベーターつけてくれないかしら」

「バカなことをお言いでないよ」

 ぴしゃりと制したタマコはそれでも陽乃子に向いて「それじゃ、案内しようかね」と大きく息を吐いた。


 これまで陽乃子は、車庫から通じる地下の部屋しか入ったことがなかったのだが、リリコが言った通り、この『サブロ館』には正式な表玄関がある。佐武朗に連れられてここへ戻ってきた陽乃子は、今日初めてそれを知った。

 表玄関は車庫よりも上部に位置している。以前は気づかなかったが、車庫の脇からコンクリートの外塀に沿って上へ上がる細い階段があり、それを登りきったところに正門、そしてその奥にこの建物の表玄関がある。

 高台の斜面を利用して建てられた『サブロ館』は地下一階、地上三階建てとなっているようで、地下が仕事場となる事務所、対して地上のフロアが皆の住居となっているらしい。


「――まず、ここがダイニング、向こうがリビング、そしてこっちがキッチンだよ。このひと繋がりはみんなの共有スペースだから自由に使っていい。ただし、決められたルールは守るんだ」

 タマコはロングガウンをひらひらさせながら陽乃子に説明する。その隣でリリコはフンフン鼻唄だ。

「冷蔵庫は二台ある。左の冷蔵庫は共用の食材や飲料を入れているから手出ししちゃいけないよ。右の冷蔵庫は個人で使っていい。その代わり、入れるものには必ずマジックで名前を書いておくんだ。他の子が勝手に飲んだり食べたりしても、ここじゃ名前を書いておかない方が悪いんだからね。――ああ、あんた、料理はできるのかい? ……なんだ、じゃあ仕方ないね。最初はセッティングと皿洗いをやらせるとしようか……朝の食事は特別な理由がない限り、ここでみんな一緒に取ると決まってるんだ。あんたには食事の準備も手伝ってもらうから――、」

 掠れた早口でまくし立てるタマコ。懸命に耳を傾ける陽乃子に顔を寄せて、リリコがコソッと囁いた。

「テキトーに聞き流しといていいわよぉ。ママの説明、長いから。……あらやだヒノちゃん、ちょっと匂うわよ? お風呂入ってる? 女の子なんだからそんな匂いさせてちゃダメよ。ああそうだ、あとで服や下着なんかも用意しなきゃね……あとは歯ブラシと……」

 顎に指を当ててアレコレ挙げていくリリコ。その横で陽乃子は自分の身体を嗅いでみる。

 振り返ったタマコの細い眉がギュイッと上がった。

「――って、あんたたち! 聞いてんのかいっ?」


 ダイニングでの諸注意を経てリビングに移れば、そこでもいくつかルールが存在するようだ。タマコの説明を聞きながら、陽乃子はキッチン、ダイニング、リビングが三間続きとなるこの広い空間を見渡した。

 部屋自体が広く天井も高く、非常に開放的な空間だ。ついでに言うと、テーブルやソファなどの家具も一つ一つが大きいうえに、テレビや冷蔵庫といった家電製品も、陽乃子が今まで見たことのないほど大型である。

 だがしかし、どうしてこうも散らかっているのだろう。

 地下にあったあの部屋と同様、特にこのリビングは色々な物が散らばり落ちている。床にもソファにも、ローテーブルの上にも下にも、ゴミなのか必要な物なのかわからない代物だらけだ。


「リビングにあるテレビは好きな時に観ていい。だけど、他の人と被った場合は譲るようにするんだよ。新入りとはそういうもんだ……ああ、平日の昼一時から三十分と、水曜の夜八時から九時、土曜の夜九時から十時はダメだよ。先約があるからね」

「もぉ、それってぜーんぶママがチェックしてるドラマの時間じゃない」

 所々でリリコのツッコミも入る。

「どーせママの好きなイケメン若手俳優絡みなんでしょ。ママの部屋にテレビあるんだからそっちで観ればいいじゃないの」

「だって、どうせなら大きい画面で観たいじゃないか。――あ! 録画してあるのは絶対に消しちゃダメだ。絶対だよ?」

「コワいわ、ママ」

 黙って二人のやり取りを聞きながら、陽乃子はソファや床上に落ちているチョコレート菓子の小箱に目を止めた。開封されており、見たところ中身は空のようだ。ざっと見渡しただけでも、似たような小箱が五個ほど落ちている。

「さて、次はこっちだ。ほら、ボヤッとしてないで、ついといで」

「はいはい、行くわよー」

 陽乃子の背後から、リリコが両肩に手を置いてぐいぐいと押した。


 大きなドアを出ると、そこは玄関から続くホールとなる。玄関から見て右手側にあるドアが今出てきたリビング・ダイニングとなり、ホールの真っ直ぐ正面に幅広の階段、階段の裏側には地下へと続く下りの階段があった。

 そしてホール左手奥はトイレ、ランドリールームと続く。その手前、玄関の左手にある一部屋が客人を迎える応接室となっているようだが、現在はあまり使われていないという。これで、一階はすべてのようだ。 

 次いで、三人は二階へ移った。中央の階段を上っていくタマコのあとを、陽乃子とリリコがついて行く。タマコが履いているふわふわしたピンク色のスリッパを目にして、陽乃子は内心首を傾げた。

 どうやらこの家では玄関で靴を脱ぐという習慣がないらしく、陽乃子は外履きのローファーを履いたままなのである。隣にいるリリコの足元を見れば、光沢のある紫色の生地に豪奢な刺繍がされた布製の履物。先ほど食事をした他のメンバーは、ブーツだったりサンダルだったり革靴だったり、と様々であった。自分はこのローファーを、ずっと履いたままでいいのだろうか。


「いいかい? ここでは基本的に、自分のことは自分でするってのが決まりなんだ。自分の洗濯物はおのおの自分で洗濯するんだよ」

 ここでもすかさずリリコが口を尖らせる。

「ユキヤもノブも、自分でしてないじゃなーい」

「あ、あの子たちはいいんだよ! あたしがついでにするんだし! リョウちゃんも時々手伝ってくれるし!」

「なぁんかママって、エコヒイキするわよねぇ~? 特に、ユキヤには甘いんだから」

 リリコのジトっとした視線を受けて、タマコは「そ、そんなことないさ!」と上ずった声を出す。

「ええっと、一番上の三階はあんたにゃ用のないフロアだよ。ユキちゃんとリョウちゃん、サブちゃんの部屋しかないからね……さぁ、ここが二階だ」

 折り返した階段を上りきればそこは小さなホールとなっており、左手に二つ、右手にも二つドアがあった。正面は玄関部の吹き抜けだ。高い位置にある窓から陽光が差している。

「そのドアがリリちゃんの部屋だよ。あんたも一緒の部屋だ。その奥があたしの部屋。トイレとバスルームは部屋ごとについてるからね。あっち側の二つのドアが、マサちゃん、ノブちゃんの部屋で――、」

 ――と、指し示したドアの一つが突然開いた。中からふらりと出てきたのは白い長袖Tシャツにジーンズ姿の細身の体躯、頭部にはすっぽりと被った目出し帽の――、

「――ノ、ノブちゃん……!」

 部屋から出てきた彼は、少し俯き加減で後ろ手にドアを閉めた。目出し帽に開いた穴からこちらをうかがう視線は、すぐにぷいと逸らされる。

「……ご飯、食べるかい? 温め直そうか?」

 タマコが囁くような声で尋ねると、数秒が空いて小さく「……いい」と返ってくる。

 そして、また数秒のち、

「……手」

 と聞こえた。リリコが怪訝そうに「……て?」と訊き返す。

「……生体認証、取っておけって、ボスが」

 一言一言、絞り出すようにして彼は言う。リリコが「ああ」と納得顔で頷いた。

「そっか。ヒノちゃんのね。ここに住むなら取っておかなきゃ。行きましょ、ヒノちゃ……」

 言いかけたリリコのすぐ横を、目出し帽の彼は大股ですり抜けて、逃げるような早足で階下へ降りて行ってしまう。

「――ったく。どーかしてるわよね、あの態度」

 フンと、面白くなさそうな表情かおで腕を組むリリコ。タマコが細い眉を八の字にしてたしなめる。

「そういう言い方するもんじゃないよ。ノブちゃんはちょいと人見知りが激しいだけなんだよ」

「あれがヒト見知りぃ? 中二病こじらせた被害妄想のカタマリじゃない。気にしなくていいわよヒノちゃん。アタシもぜんっぜん懐かれてないから。ほっとけばそのうちシレッと被らなくなるわ、アレ」

 アレ、とは目出し帽のことだろう。陽乃子はすでに記憶している彼の顔を脳内でリロードする。特に奇異さはない、傷も変形もない顔だった。

「……あの方はどうして、顔を隠しているのですか?」

 つい、疑問が口をついて出た。二人は少々面喰ったようだ。陽乃子を見つめながらリリコがひょいと肩を竦め、タマコは重い溜息を吐く。

「さぁ? 顔コンプレックス、っていうのかしら?」

「他人にね、自分の顔を見られたくないんだよ」






【用語解説】

めん取り

  “面(つら)” を “取る(確認する)” 作業。つまり、張り込みや尾行を行うため、調査対象者あるいはその関係者の顔を覚えること。簡単そうに見えて実はなかなか骨の折れる仕事。

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