第6話
古く大きな邸宅が並ぶ閑散とした住宅街、緩やかな坂を上る高台、コンクリートの外壁に設えられた大きな車庫、高度なセキュリティで守られた頑丈な鉄扉、そして地下通路の先にある散らかり放題の部屋。
陽乃子が昨日の『サブロ館』へ再び連れてこられた時、その地下部屋にはまたもや初めて見る顔があった。
細面の輪郭に細い目、薄い眉、細い鼻柱……どこもかしこも薄くて細くて頼りない印象の、しわの寄ったジャケットを着た男性である。
「――幸夜くん、柾紀くん! どこに行っていたんですか? 所長から何度も電話が――、」
部屋の中央に並ぶデスクの一つから立ち上がったその小柄な男性は、ユキヤとマサキの後ろに続く陽乃子に気づいてポカンと立ち尽くした。ここで出会う人々は皆、陽乃子を見るとそんな反応をするようだ。
「おぅ
咥え煙草のマサキはその男性に声をかけつつ、迷彩柄のズボンポケットから携帯端末を取り出し、画面に目を落とすと苦い顔になる。
「着信スルーしちまったな。我らがボスは相当お怒りのようだぜ?」
「知るかよ。――それより、
ユキヤに命じられて、マサキは苦い顔のまま携帯端末を操作し耳に当てた。
「――ノブ、今すぐ降りて来い。……ああ、ちょっくら監カメの解析を頼む。――あ? ……いや、そのお嬢ちゃんならここにいるけど……」
彼はちらりと陽乃子へ目を向けて「んなこと言ったってお前……」と言葉を濁す。
――と、マサキの耳元から携帯端末が引き抜かれた。
「――つべこべ言わず早く降りて来い。仕事だ」
ユキヤは有無を言わさぬ口調で言い放つと、マサキに向かって端末を放り返す。処置なしといった顔で紫煙を吐き出すマサキ。
そこでようやく、デスクチェアから立ち上がったまま唖然と目を見張っていた男性―― “カモさん” がおずおずと口を開いた。
「あ、あの、その子は……依頼人ですか……?」
「いや、そういうんじゃねぇんだけど」
マサキが困ったようにガリガリと頭を掻いて、口に挟んだ煙草から灰がポロリと落ちた。
「……まァ、アレだ……ちょっとした参考人っつぅか……」
「――柾紀、そろそろリリコに連絡」
壁一面に設置された十数台のモニター前にデスクチェアごと陣取ったユキヤが命じて、マサキは「へいへい」と携帯端末を操作しながらデスクに向かう。
「参考人……?」
一方の貧相な小男、カモさんなる人は丸くした目で陽乃子を見つめる。陽乃子は「お邪魔します」の意を込めて小さくお辞儀をした。二回目となれば多少心の余裕も出てくる。
そうこうするうち、デスクについたマサキが「――おぅ、どうだ状況は」と、空缶に煙草の灰を落としながら声をかけた。すると『どうもこうも、人がいっぱいでめまいがしそうよ』と、リリコの声が大きく聞こえて陽乃子はちょっと驚く。
『いちおう、久米澤に接触した人物は全部撮ってるけど、特に怪しい素振りを見せる人間はいなかったわよ? 今は休憩時間かしら、バックヤードの休憩室で一服中』
聞こえてくるリリコの声はところどころノイズが入り混じって聞き取りづらい。
『ねぇ、これからどうすればいいの? まさか、イベント終わるまでずっと張りつけってこと?』
不服そうな声が聞こえてくる中、階上に続く階段から誰かが下りてくる気配がした。
スニーカーを履いたジーンズ、重そうな足取り、いくぶん猫背の細い体躯は見覚えがある。おそらく、昨日陽乃子を見るなり絶叫して退散していった少年だろう。
――と、その人物の顔が現れた瞬間、陽乃子は大きく瞬いた。
……顔が、ない――いやもとい、顔が、隠されている。
降りてきた彼は、目と口部分だけが小さく開いた、いわゆる “目出し帽” を被っているのだ。
彼を見たマサキが「暑苦しいなぁオイ」と溜息を吐き、『え? ナンか言った?』とリリコの声。
「いいや、こっちの話だ。――で、ユキヤ、リリコはどうすりゃいいんだ?」
マサキがユキヤに振るも、当のユキヤは新しいチョコレート菓子の小箱を開封しながら、
「ノブ、
目出し帽を被った彼に指示している。そこですかさずリリコの声が素っ頓狂に跳ねた。
『――えっ? 今 “ノブ” って聞こえたんだけど? そこにいるの? ――てことは……うっそ信じられない! アンタたち、サブロ館に戻ってるのっ? アタシを置いて?』
目出し帽の少年――ノブが、陽乃子から顔を
『――冗談じゃないわよっ! アタシ、ここからどぉやって帰ればいいのよっ!』
「仕方ねぇだろ……俺たちはこっちで調べることがあってよ……」
苦り切ったマサキが溜息交じりに紫煙を吐き出した時、モニターの壁に向いたままのユキヤが声を張り上げた。
「――リリコ、撮った画像を全部送れ。それから、イベントが終わるまで久米澤をマーク、そのまま追尾しろ」
『えぇぇっ! アタシひとりでぇ? 車もないのにぃっ?』
「今度は撒かれんなよ」
そこで数秒の間、次いで――、
『――こっの、ヒトデナシ! クズ野郎! 覚えてなさいよっ!』
耳障りなノイズと共に放たれた叫び声の後、ブツっと交信が途絶えた。
マサキが「やれやれ」と吸殻を空き缶に押し込んでデスクから立ち上がる。
「俺ぁ、知らねぇぜ。ちょっと煙草買ってくらぁ」
そう声をかけたマサキに、ユキヤは黙って片手を上げる。マサキは厳ついブーツの足音を重く鳴らして、車庫へ通じるドアから出て行った。
シンと静まる場に、目出し帽のノブが叩くキータッチの音、ユキヤのチョコ菓子を噛み砕く音。そして彼は、チョコ菓子の小箱を背後のデスクに放り投げ、デスクチェアに深く座り直し、脚と腕を緩く組んだ。
「――いいよ
それを合図に、十数台の小さなモニターに映るすべての画像が動き出した。
それぞれのモニターに流れる映像はすべてバラバラだ。車道を映したもの、歩道を映したもの、パチンコ屋の入り口、コインパーキング、コンビニエンスストア前の駐車場……様々な背景の中で、人や車がコマネズミのような動きで早送りされていく。
モニター越しの早送り映像とはいえ、陽乃子の目は人の顔を認識する。昨日のように倒れ込まないためにも必要以上の情報は脳内に入れたくなく、陽乃子は目を逸らした――逸らしかけた時、ユキヤの横顔が目に入り、陽乃子の肌が粟立った。
――蠢く、両の眼球。
モニターを見つめる彼の横顔は微動だにしないのに、唯一、前髪の隙間から見える眼球だけが、まるで生きているかのように小刻みに動いている。
感情のないマネキンのような顔の中で、その眼球だけが、自我を持つ生物のように。
――と、陽乃子の肩が優しく叩かれた。振り返ると先ほどの貧相な男性―― “カモさん” が、困ったような笑みを浮かべて隣に立っている。
「――え、ええと、立ちっぱなしも疲れるでしょう? どうぞ、お掛けになってください」
オドオドとした動きで、カモさんは階段のそばにあるソファへと陽乃子を案内した。昨日、マサキが横になって寝ていたソファである。
「やっ……すみません、なかなか片付かなくて……」
ぴょこんと飛び上がり、相変わらず色々な物で散らかったローテーブルを慌てて片付け始めるカモさん。その手指が細長く若々しいことに気づいた。地味な服装や少々薄くなっている頭頂部のせいで、もしかしたら実際の年齢より老けて見られる人なのかもしれない。
陽乃子が遠慮がちに腰かけると、彼は「……あ、ちょっと待っていてください」と言って、階段横にある引っ込んだスペースへ姿を消した。ほどなくして戻ってきた彼の手には、コーヒーカップが乗った小さなお盆。
「どうぞ」
あまり綺麗とは言えないコーヒーカップに注がれた湯気の立つ黒琥珀色。陽乃子はコーヒーを飲まないのだが、ふわりと届いた香ばしい香りはとても優しく好ましいと思った。
「ありがとうございます」と発した声が少し掠れてしまった。小さく咳ばらいをして、コーヒーカップに手を伸ばすと、カモさんは「ああ、これを」と言って手を差し出す。
しかし、手の平には何もない。陽乃子が首を傾げると、手の平はすっと握り込まれ、握った拳がぐるりと回る。再び陽乃子の目の前でゆっくりと開かれた手の平に、コーヒーミルクのポーションとスティックシュガーが乗っていた。
思わずポッカリと口を開けてしまった陽乃子に、貧相なカモさんの顔がホッと緩んで綻ぶ。
陽乃子は口を開けたままミルクとシュガーを受け取った。
「……あなたは、単なる “参考人” ではなさそうですね」
ミルクポーションを開けようと苦戦する陽乃子の不器用な手つきを眺めながら彼が言う。陽乃子が目を上げると、カモさんは慌てたように両手を振った。
「す、すみません、不躾でしたね。いや、ここに女の子が入ってくるなんて滅多にないことなので、驚いてしまって……」
その時「――8番ストップ。巻き戻して」と声がして、陽乃子は開けきれないミルクを持ったまま、ユキヤの方へ目を向けた。
ますます彼の眼球は忙しく蠢き、その双眸から強い電子線でも発していそうな異様さがある。怖くて目を逸らしたいのに、不思議と見入ってしまうのはなぜだろう。
「―― “カメラ・アイ” って、ご存知ですか」
ふと問われて視線を戻すと、カモさんも目を細めてユキヤを眺めていた。
「もっとも彼の場合は、 “ハイスピードカメラ・アイ” ……と言ったところでしょうか。瞬間記憶能力に加えて、動体視力が桁外れなんです」
「……ハイ、スピード……」
思わず口にするとまた、「――9番ストップ、巻き戻し。11番、止めといて」とユキヤの声が上がる。その度に、モニター横にいる目出し帽少年ノブの指が忙しくキーボードを叩く。この二人の連動した動きは、とても慣れたもののように思われた。
そこでかすかな自動ドア音がして、マサキが戻ってきた。口には紫煙が立ち上る煙草を咥えている。
「――なんだ、コーヒー淹れてもらったのか」
ソファまでやって来たマサキは、「おら」と陽乃子にジュースの缶を差し出した。オレンジ色の缶で、コビトだかオバケだかよくわからないキャラクターがプリントされている。頭部の突起物は角だろうか。
陽乃子はよく冷えたその缶を受け取って、丁寧に「ありがとうございます」と頭を下げた。マサキは「お、おぅ」とわずかに面喰ったような顔をして、ソファに――陽乃子とはだいぶ間を空けて――どっかりと腰を下ろす。紫煙がふわりと舞った。
「相変わらず、あいつの頭にゃついていけねぇな」
「あれだけの速さで、しかも、あれだけの数をいっぺんに、ですからね」
相槌を打ちつつ、カモさんはローテーブルのマサキの前に赤銅色の灰皿を置く。昨日、ユキヤがマサキの腹の上に落とした、武骨な両手を模した形の灰皿だ。
その時、軽快な電子音が鳴った。「おや」と懐を探ったのはカモさん。胸元から携帯端末を取り出しながら、
「……きっと所長ですよ。さっきから僕のところに着信が……、――あ、違いました、亮くんからです。……はいはいもしもし
耳に当てた彼は、ユキヤの方を見やる。
「……あー、はい、幸夜くんも柾紀くんもここにいますが……、――え? ああ、その子も今ここに……え? そうなんですか? ……ええと、あー、はい……」
そして陽乃子に目を移したカモさんは、困った顔でマサキに向いた。
「……亮くんが、幸夜くんに代わってと言うんですが……」
マサキは鼻の頭にしわを寄せて、カモさんの携帯端末を受け取る。
「――ああ、俺だ。……幸夜は今、監カメ解析中でな。……わかったよ。これから連れてく。……ああ、わかったって」
短く会話したあと、彼はカモさんに端末を返した。ちらりと陽乃子を見て、ユキヤを見る。 ユキヤと目出し帽の少年は、こちらのやり取りがまったく聞こえていないのか振り向きもしない。
マサキは紫煙交じりに「しゃあねぇな」と立ち上がった。
「――鴨さん、ちょいとそのお嬢ちゃんを診療所に戻してくるわ」
「えっ? ……診療所、ですか? またどうして」
「俺にもよくわからん」
煙草を巨人の手の中に押し付けたマサキは、「行くぞ」と陽乃子を促す。
のっそりと大きな歩幅で行ってしまうマサキを追って、陽乃子はジュース缶を手に持ったまま自動ドアへと向かう。入る時と違って、部屋から出る時はセキュリティ解除が必要ないらしい。
車庫へ通じる地下通路に出る直前、何度目かとなるユキヤの「ストップ」が聞こえた。
「――見つけた。……やっぱりな。そういうことだろーと思ったぜ」
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