第5話

 陽乃子が目を覚ました時、視界は白々と明るく消毒液の匂いがした。

 身体はずいぶんと軽い。動かした頭に痛みもない。とても長い時間ぐっすりと眠ることができたようだ。眠る前の記憶を辿ろうとした矢先、頭上で穏やかな声が聞こえた。

「――おはよう。気分はどう? よく眠れた? ……はい、これ。横になったままでいいから、脇に挟んで」

 ベッドのすぐ傍に、電子体温計を差し出してニコニコと微笑む男性がいる。昨日も見た人だ。

 濃紺色の半袖ユニフォームにノンフレームの眼鏡……歳は三十代前半くらいだろうか。混血を思わせる色白の肌と薄い色がいくつか混ざった虹彩、髪の毛の色も光に当たったところが蜂蜜色に透けている。

 陽乃子が体温計を脇に挟んだのを見て頷き、男性は「ちょっと血圧を図らせてね」と陽乃子の右腕を取った。前腕の内側に貼られている白くて小さな正方形は何だろう。

「……あの……」

 口を開きかけた陽乃子に、男性は優し気な微笑を浮かべたまま、人差し指を立てて口元に当てる。陽乃子の上腕に幅広のバンドのようなものが捲かれ、肘関節内側に聴診器が当てられると、上腕に捲かれたバンドはぐんぐん膨らんでいく。陽乃子は大人しく口を噤んで、横たわったままそっと周囲を見渡した。

 ベッドの右側にサッシ窓があり、明るい外の日差しがカーテン越しに差し込んでいる。時計は見当たらないので時刻はわからないが、まだ昼にはなっていない気がした。

 左隣には誰もいない空きベッド。小さな簡易ロッカーが脇に備え付けられているのは陽乃子のいるベッドと同じだ。全体的に狭くて古びた印象の室内だけれど、清潔感はある。

 ここはおそらく病院だ、と陽乃子は思った。おそらく、と思うのは、陽乃子が病院という施設をよく知らないからだ。脳内をざっと探ってみても、医療施設に出入りした覚えがない。

 一方で、昨日の記憶はすぐに引き出せた。膨張する頭痛に耐え切れずうずくまってしまった陽乃子は、ここに連れてこられたのだ。紙と鉛筆を借り、肥大化して破裂しそうな記憶を放出しつくしたところで、突如眠気が襲ってきたのも覚えている。

 そういえば、あの場にいたあの人たちはどうしただろう。

 バンドを外され解放された右腕をそろそろと動かしたところで、ピピピと電子音が鳴った。


「はい、見せて。……うん。熱は下がったようだね。脈拍も血圧も問題なし。起き上がれそう?」

「はい……」

 ゆっくりと脇腹をかばいながら起き上がり、桃色のパーカーを着ていないことに気づいた。薄手の長袖はそのまま着ているが、いつも首から下げているガマ口がない。

「あ、あの……」

 陽乃子が男性を見上げると、彼はすっと表情を曇らせて陽乃子に屈みこむ。

「やっぱり腹部をかばっているね。お腹が痛い? それとも胸部かな」

 ボールペンとボードをサイドテーブルに置いてこちらに手を伸ばそうとした彼は、ふと思い直したように引っ込めてにっこりと笑った。

「ああ、自己紹介がまだだったね。瀬之上せのうえ亮です。幸夜やリリちゃんと一緒に住んでいる同居人だよ。……と言っても、僕はここの診療所に勤めている医者で、『サブロ探偵事務所』の調査員じゃないんだけどね」

「……探、偵……?」

「――亮。早くしろ」

 陽乃子が首を傾げた時、聞き覚えのある声が響いた。

 部屋の戸口に立っているのは、ユキヤだ。今日も真っ黒なジャケットに黒の細いズボン、黒のショートブーツという全身黒づくめの彼は、ジャケットのポケットに手を突っ込み開け放たれた戸口に寄り掛かったまま、黒髪の隙間からじっとこちらを見据えている。

「言っておくけど、幸夜。この子まだ診察していないんだからね。何かあったら――」

「何もねーよ。用が済んだらすぐに戻ってくる」

「まったくもう……佐武朗さんにバレたらどう説明すればいいのか……」

「説明はあとって言っとけ」

 有無を言わせない口調のユキヤ。リョウという医師は大きく溜息を吐くと陽乃子に困ったような笑みを向けて、ボードと使った器具一式をひとまとめにした。

「ごめんね? 幸夜は言い出したら聞かないんだ。熱は下がったみたいだけど無理しちゃダメだよ? リリちゃんと柾紀くんが一緒に行くそうだから、身体に異変が起きたらすぐ彼らに言ってね。……ああ、靴はそこ。上着は……これだったね」

 リョウは窓際にある簡易ロッカーを開けて、陽乃子の桃色パーカーを取り出した。

 訳のわからないまま、陽乃子は床に揃えられたローファーを履き、手渡されたパーカーを着て、「おいで」と先導するリョウの後を追う。戸口に待つユキヤの視線が陽乃子をスキャンするように上下した。

 妙にキシキシときしむ脚の関節を感じながら、陽乃子は心の中で先ほどの言葉を繰り返す。

 ――探偵、事務所……



 ――そして、数分後。

 ユキヤの後に続き、リョウに見送られ、陽乃子は診療所の裏口から出た。雑草に浸食されつつある背の低い生垣を抜けた先に止まっていたのは、七~八人乗れそうな黒い大型車。そういえばこの車、あの車庫に停まっていなかったか。

 スライドして開いたドアの中から「はぁい、グンモーニン、ヒノコちゃん」と陽気な声で迎えてくれたのはリリコである。

「昨日はビックリしたわよぉ。突然倒れこんじゃうんだもの。もう大丈夫なの? どこも痛くない? ……ったく、ユキヤったらヒドイわよね? まだ診察受けてないんでしょ? なのにムリヤリ勝手に連れ出してくるなんて。ほんっと我がままなんだから」

 二列ある後部座席の前席に座るリリコが隣に陽乃子を引っ張り上げた。陽乃子はその顔を興味深く見つめる。

 リリコは、昨日のリリコとは違うリリコであった。クリッとした目と愛嬌のある口元は消え失せ、切れ長の瞳と薄い唇、髪の毛も真っ黒できっちり一つに結んでおり、服装は暗い色合いの、かっちりとしたパンツスーツである。

「アタシなんか、いきなり『仕事だ』とか言って朝早くに叩き起こされて、挙句に問答無用で変装ばけさせられたのよ? ナンだか知らないけど急にやる気出しちゃって。やんなっちゃうわ」

 しかし、声と喋り方はリリコのままである。ムゥと唇を突き出して、車が動き出してもしばらく、助手席に収まったユキヤに文句を言い続けている。

 そこへ、運転席から野太い声が上がった。

「おいおい、俺ぁそっちの案件ぜんぜん知らねぇんだけど。手伝わされるんなら大まかな流れくらい教えろや」

 運転手は昨日出会ったばかりのマサキという男だ。側頭部と褐色の上腕に文様のある大男は、今日も口に煙草をくわえている。

 リリコは「はいはい」と素直に応じて、脇に置いてある革製の鞄のファスナーを開けた。中から取り出したのはタブレット端末。


「――えっと、依頼人は久米くめさわ明史あきふみ、三十八歳……株式会社OBANA家具の取締役専務。依頼内容は、妻の不倫・浮気調査ね。……で、問題の妻は――、」

 リリコの指先で操作された画面に、女性の画像が出てきた。クリーム色のパーティードレス姿で微笑む綺麗な女性。奥二重の右目尻に小さなほくろがある。昨日、ユキヤのタブレット端末で見た女性である。

「……これね。久米澤奈央子なおこ、三十三歳。OBANA家具の現社長である小塙おばな克生かつき氏の一人娘。見るからに生粋の温室生まれ、温室育ちって感じの奥様よ。ちなみに、結婚生活は八年目で子供はなし」

「ほぉ。そんで、調査の結果は」

「もちろんクロよ。二週間の間に逢瀬は三回。どれも真っ昼間、駅前の煉瓦広場で待ち合わせて、弐番街にばんがいあたりをブラブラしながらショッピングとお食事。そして最後は伍番街ごばんがいに戻ってホテルにシケ込むってパターン。一晩越すことはなくって、遅くても夜八時には奥さんをタクシーに乗せてバイバイ、って感じね」

「健全なのか、じゃねぇのか、よくわかんねぇな。男はそいつ一人だけか」

「ええ、不倫相手は一人だけ。他に不健全な点はないみたい。逢引きのない日は、お料理教室にヨガ、お友達と一緒にランチしてお買い物……まぁ、健全で優雅なセレブの日常よ。実家の小塙邸にも何度か顔を出してるわ。……そうそう小塙家ってね、ものスッゴイ豪邸よ」

 得意げに指をピンと立てたリリコの言葉に、マサキはフームと考え込むように唸る。

「するってぇと、依頼人は事実上の入り婿ってことか……」

「そうみたいね」と、リリコは再びタブレット画面を忙しく操作しながら答える。

「OBANA家具って家具メーカーの中でも大手らしいし、三十八歳で専務ってことは “逆タマ” 以外のなにものでもないわね」

調査依頼だな。婿の立場で妻の不倫調査なんて、よくよく悩んでのことだろうぜ。結果、離婚てことにでもなったら、それこそヤブヘビだしな」

 マサキの吐き出した紫煙が車内に立ち込めた。リリコは眉をしかめて、後部座席の窓を少し下げる。

「さぁどうかしら。だいたい、浮気や不倫調査って言っても離婚目的で調査依頼してくる人ばかりじゃないでしょ? 他に男がいるんじゃないか……って不安に耐えられなくて依頼してくる人もいるわ。現に久米澤氏も、不倫の事実があるのかどうかだけが知りたい、って言ってたらしいわよ。不倫相手の身辺・素行調査は依頼内容に入っていないもの」

「調査依頼に入ってねぇのに、相手の男を追ったのか」

「そ、それはホラ、アレよ、依頼人へのアフターケアに役立つんじゃないかって思って……」

「そんでかれてりゃ世話ねぇな。結局、その男の名前すらもわかっちゃねぇんだろ」

「うるさいわねっ! いいところまで追ったのよ! あの『クレヴァン』っていうバーに入ったのは確かなのに、ちょっと目を離したすきにいなくなっちゃってたの! だいたいっ、ユキヤが協力してくれないから失敗したんじゃない!」


 車は左折して大きな通りに入った。どうやら市街地の中心へと進んでいるようだ。陽乃子に土地勘はないので、今いる場所がどこなのかさえわからない。

「――で? まずはそのお嬢ちゃんが、久米澤夫人の不倫相手X氏を見かけたってぇ場所に行くんだろ? 弐番街か? それとも伍番街あたりか?」

 マサキがちらりと陽乃子を振り返る。すると、それまで一言も発さなかったユキヤが窓の外を眺めたまま口を開いた。

「その前にコンビニ寄って」

「あ?」

「これ、くそマズい」

 手に持っていた小箱をダッシュボードの上に放り投げる。チョコレート菓子の箱のようだ。後ろから首を伸ばして覗いたリリコが素っ頓狂な声を上げた。

「うそぉ、ユキヤがマズいって思うチョコレートなんてあるのぉ?」

「昨日、ママさんがどっかの店の子からもらってきたヤツだろ。海外の土産物とか言ってたな」

 赤信号で車が停まる。リリコが陽乃子の耳元に口を寄せて囁いた。

「ユキヤってね、呆れるくらいチョコレート中毒なの」

 短くなった煙草の吸いさしをフロントの吸い殻入れに押し込んで、マサキは小箱に手を伸ばす。

「どれどれ……チョコレートなんてどれも似たようなもんだろ? そこまでマズいなんてことは――、」

 奇妙な形をした小さなチョコ菓子を一つ口に放り込んだ途端、マサキの褐色の顔に渋そうなしわができた。

「……掘り起こした粘土がたまたま甘かった……っつー味だな」



 陽乃子たちを乗せた車は、繁華街の裏側を不規則につなぐ網目のような細い路地を縫うように進んだ。

 例の男二人を見かけた場所はどこだ――と問われた陽乃子だが、人の顔以外の記憶はあまり自信が持てない。

 窓の外を眺めながら、陽乃子はおぼろげな背景の記憶を引き出してみる。確か、利用していたネットカフェからそう遠くない場所で見かけたはずだ。

 陽乃子のたどたどしい説明をもとに、ようやくそれらしき場所に車が停まった時、リリコは怪訝そうに窓の外を見渡した。

「この先って肆番街よんばんがいじゃない……こんなところに何の用があったのかしら……」


 繁華街から外れた人通りのほとんどないその路地は、ミニバン一台がギリギリ通るかという細い通りで、その路地沿いに並ぶ店はどれも傾いて色褪せて剥がれ落ちた外壁を晒しており、白けた朝の陽の光のもとで死んだように静まり返っている。

 その時初めて、ユキヤが陽乃子に振り向いた。

「見たのは何時頃だ」

「夜の……十時にはなっていないと思います」

 それは確信が持てた。例の二人の男を見かけたのは、ネットカフェに入る前だと記憶している。ネットカフェはいつも、料金が格安になる十時以降から利用していた。

 すると、隣で腕を組んだリリコがキュッと眉を寄せた。

「……ねぇ、ヒノコちゃん。この辺はあんまり治安が良くないのよ? 未成年の女の子が一人で歩き回っていい場所じゃないわ」

「んだな。説教できるガラでもねぇが」

 マサキが笑いを含みながら漏らす。そんな中、不意にユキヤがドアを開けて外に出た。

 手にはチョコレート菓子の箱――途中寄ったコンビニエンスストアで買った――を持ち、時々そのチョコ菓子を口に運びつつ、辺りを見回しながら気怠そうにぶらぶらと歩いている。

 電柱や建物の屋根を仰ぎみたり、屈みこんでプロパンガスのボンベや錆びついた室外機の隅をのぞき込んだりして、まるで何かを探しているかのようだ。

 一方、運転席のマサキと陽乃子の隣に座るリリコは、黙って窓越しにその様子を眺めているだけである。マサキはのんびり煙草をふかし、リリコはどこか退屈そうに。

 ユキヤは五分もしないうちに戻ってきた。

「どうだ?」

 マサキが短くなった煙草を吸い殻入れに突っ込みながら訊くと、ユキヤは助手席に深く背を預けて億劫そうに脚を組んだ。

「特に目につく遺留品はない。向こうの水路沿いを行くと肆番街に入る小橋がある。そこに立つ街灯に監視カメラがついてるはずだ。この辺はそれ一台だけだな。それがダメなら、伍番街側に設置してあるヤツを片っ端から解析するしかない」

「そりゃお前とノブに任せるさ。お役所管轄の監カメはデータ保存期間が短かったんじゃねぇか?」

「さかのぼって二週間。ノートに書かれてた日付は五日前だった。いけるだろ」

 そこでリリコがピョコンと勢いよく弾む。

「えっ! ちょっと待って! 五日前……って、アタシがその不倫男にかれた日じゃない!」

「デカい声出すな」

 マサキがうるさそうに片目をつぶった。

「お前の証言と嬢ちゃんの記憶が確かなら、五日前にお前を撒いたX氏は、その足でここを通った可能性が高いってことだ」

「――津和野と一緒にな」

 ユキヤが低くつけ足す。リリコは、ユキヤとマサキの言わんとするところがいまいちピンとこないようで困惑気味に首を傾げたが、すぐに鼻を鳴らしてふんぞり返った。 

「だから、その津和野ってナニモノなのよ」


 陽乃子は、リリコ以上に話がわからなかった。彼らが何かを調査しているらしいことと、陽乃子のノートに描かれた男を捜しているらしいことは何となく察せられたが、どうして自分が彼らに連れてこられたのかがわからない。

 ただ、診療所にいたリョウという医師が “探偵事務所” と言っていた。

 探偵事務所……探偵……それは、もしかしたら……


「――柾紀、次は『国際バワリーホール』へ行って。ちょうど、アウトレット家具のイベント開催中のはずだ。――リリコ、出番」

 エンジンがかかり、車が発進する。

 腕を組んだリリコが憤然と問い返した。

「それで? 具体的にアタシはナニをすればいいのかしら?」

「久米澤をマーク」

「え? 久米澤? 旦那の方? 奥さんじゃなくて?」

「ああ」と答えて、チョコ菓子を放り込んだユキヤの口元が小さく笑んだように見えた。

「――依頼人への “アフターケア” だよ」

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