第4話
――カメラ・アイ……?
初めて耳にする言葉に首を傾げた時、陽乃子は軽い
「なるほど……これも瞬間記憶能力ってやつか」
唸るようにマサキが呟く。一方、お玉と菜箸を両手に持ったタマコはパチクリとつけまつ毛を瞬いた。
「おや。絵描きさんじゃないのかい?」
「えー、こんなに上手なのにぃ? 出すとこに出せば高く売れそうじゃなぁい?」
「絵心もないくせにナマ言うんじゃないよ」
「ママったら失礼ね! これでもアタシ、メイクアップのプロよ? 絵心くらいなきゃ人の顔はイジれないんだから」
キャイキャイ
「……で? その嬢ちゃんをわざわざ連れてきた理由は?」
するとユキヤは黙ってマサキの手からノートを取り上げ、ページを数枚めくった。
「――この顔とこの顔。見覚えないか?」
ユキヤが指し示したのは、開いた紙面の中ほどに描かれた二つの顔。先刻、古い雑居ビルの階段踊り場で彼に「この男とこの男、どこで見た」と問われた顔だ。
一方は、色白で鼻筋が通り細い一重の目、目尻は少し下がり気味で、丸形に近い輪郭を持つ顔。歳は二十代後半から三十代前半くらいだろう。そしてもう一方は、髪をオールバックにした四十から五十歳くらいと思われる男で、頬骨がやや高く鷲鼻を持つ顔。右と左の目の大きさが若干異なっているのが少々特徴的であったか。
当然、描いた当人である陽乃子は覚えている顔だが、陽乃子の感覚上、どちらも特に興味を惹かれる顔ではない。
再びノートを覗き込んだ彼らの中で、真っ先にリリコが「あ!」と反応を示した。
「こっちの男ってアレよアレ! 今調査中の若奥様の、不倫相手の男!」
指したのは、丸形の輪郭を持つ男の顔の方だ。
「あらま。そうなのかい?」
「お前らが担当してる不倫調査か。相手の男、失尾しまくったって?」
「しまくったとか言わないで。一回失敗しただけじゃない」
リリコがマサキに向かって頬を膨らます。
その間にユキヤは手元のキーボードに何やら打ち込み、タブレット端末を持ち出してきて陽乃子に画面を見せた。
「お前が描いたこっちの男は……この男で間違いないな?」
タブレット端末画面に現れたのは、一組の男女の画像。スーツを着たサラリーマン風の男と、身綺麗にした若奥様風の女性である。指し示されたのは男の方――色白で柔和な丸形の輪郭を持つ男。
ユキヤが画面を指でスライドする。そのたびに違う画像が何枚も現れる。全身を写したのもあれば、胸から上のもの、顔だけアップのものもあり、すべて同じ男女を許可なく隠し撮りしたような画像であった。
「ああっ、ユキちゃんっ! それ、不倫調査の証拠写真だろ? 部外者に見せたりしたら――」
「ちょっとママっ、菜箸がアタシに刺さる……っ」
「おい、どうなんだ」
キィキィ叫ぶタマコやリリコを無視してユキヤは問うてくる。陽乃子は圧迫される痛みを堪えて、タブレット端末画面に映る男の顔を眺めた。
陽乃子にとって実物でない対象――写真や動画など何らかの媒体上にある “顔” ――にはどうしても、どこか輪郭がぼやけるような曖昧な感覚がつきまとうのだが、いろんな角度からの “顔” が複数あれば、ぼやけた線はいくらかはっきりする。
陽乃子は小さく頷いた。脳の奥で目の前の画像と記憶にある顔がカチッと重なり、そこに違和感はない。
すると今度はマサキが「おい……これ」と指さした。もう一方の顔――髪をオールバックにした両目の大きさが異なる男の方だ。
「……この顔、どっかで見たことあると思ったんだけどよ……もしかして、
するとタマコが、つけまつ毛に縁どられた目をグリンと見開いた。
「えぇ? まさか……だってあいつはもう、この街にはいないはずだよ」
「つわのぉ? ダレそれ」
リリコは二人の話がわからないらしい。もちろん、陽乃子にも何が何だかさっぱりわからない。というより、彼らの話に意識を向けられる余裕はすでにない。頭の痛みは耐えがたく、頭蓋骨のきしむ音が聞こえてきそうだ。
ノートを返してもらっても構わないだろうか。そして描かせてもらってもいいだろうか。
――早くしないと……
「……そーいやリリコがうちに来たのは二年前だっけか。知らねぇはずだな。なんつーかまぁ、うちの商売敵だったやつだ。えらくボスのことをライバル視しててな、事あるごとに突っかかってきやがって……けど、ヤバいやつ相手に無茶やって問題を起こして、事務所を畳む羽目になったんだよ」
マサキが苦々しく説明すれば、タマコもフンと鼻息荒く憤慨する。
「喰えない男さ。店じまいすることになったのも自業自得なんだよ。だけど……ホントにソレ、津和野なのかい? 他人の空似ってこともあるだろ?」
「ねぇねぇ、その津和野って男がナンなのよ。ヒノコちゃんのノートに描かれてたからって、ナニか問題でもあるわけ?」
マサキとタマコの間にリリコが割って入る。黙って指の関節に歯を当てていたユキヤが「問題、ね……」と小さく呟き、開いたノートの紙面に目を落とした。
「どうやらこの二人……
ふと、陽乃子に目を止めたユキヤが眉を
「……おい、具合が悪いのか」
「やだ、真っ青じゃない。どうしたの? 貧血でも起こしたかしら――、」
陽乃子の顔を覗き込んだリリコが不意に顔を上げて、他の皆も同じく振り返った。誰かが階段から降りてきたのだ。底の薄いスニーカーを履いた、重く怠そうな足取りで。
「――ノ、ノブちゃん……っ」
タマコが慌てたような声を上げた。
階段から姿を現したのは、まだ高校生くらいに見える少年であった。ひょろりと痩せた体躯はいくらか猫背で、疲れたような顔はずいぶん血色が悪い。
少年は五人が集まるデスク周りに視線を止めて、眩しそうに何度か瞬きをした。そして陽乃子にその焦点が合った瞬間、その顔が見る見るうちに引きつり蒼白となる。
タマコが慌てて菜箸とお玉を振り回しながら、少年に駆け寄った。
「――ああぁ、ノブちゃんッ、ちょっと待って、落ち着くんだよ! この子は大丈夫だか――、」
「――わあぁぁぁぁっっ!」
タマコの金切り声に負けぬほどの奇声を発した少年は、そのまま踵を返し階段を駆け上った。途中、二回ほど踏み外し足が空回りしたようだ。
マサキが溜息を吐き、リリコは細い腰に手を当ててフンと鼻を鳴らす。
「まったくもぅ……、ゴメンね、ヒノコちゃん。あの子、色々ヤンでるの。気にしないで……って、――ちょっとっ? ヒノコちゃんっ?」
リリコが飛び上がるようにして駆け寄り、マサキも「おいおい」と腰を浮かせる。ついに陽乃子は膝から崩れ落ちた。たった今目にした新たな顔情報が、表面張力を破る最後の一滴となったのだ。頭蓋骨の内側からハンマーで叩き壊すかと思われるような痛み。あふれ出た記憶の中の仮面たちが、一刻も早く描き記せと声を限りに叫んでいる。
「ヒノコちゃん! 大丈夫? しっかりして!」
「ちょい待て、無理に動かすな」
リリコとマサキの声が聞こえる。
「も、もう……っ、どうすりゃいいんだ、あたしゃ知らないよ」
タマコの
「いやな汗かいてるな。――おい、どこか痛いのか」
この声はユキヤだ。ずいぶん近くから聞こえる。
頭が痛いです、と答えたつもりが、陽乃子の口からは微かな呻き声しか出なかった。
と、その時――、
「――何の騒ぎだ」
空気を震わせるような
「ひっ……サ、サブちゃん……っ」
タマコの引きつったような悲鳴。
「あわわサブちゃんっ、この子はね、ナンだかわからないけど、ユキちゃんが勝手に拾ってきたんだよ――」
またもや新たな人物の登場らしいが、激痛で目が開けられない陽乃子の耳に「誰だ、それは」という恐ろしく低い声だけが届く。
いったいここはどういう場所なのだろう。後から後から人が入ってくる。
――と、丸まった陽乃子の身体がくるりとひっくり返された。ぐいと引き寄せられて、頬に冷たく硬い布地の感触が当たる。
「佐武朗、説明はあとでする。――リリコ、
ユキヤの声。ますます近い。
「あ、ああ、わかった」というマサキの戸惑った声が聞こえて、陽乃子の身体がふわりと浮いた。抱き上げられたのだ、と知覚するやいなや、陽乃子を抱いたユキヤは歩き出す。
――闇に光が明滅する視界の中、ほんの一瞬だけ開けた瞳に、新しい “顔” が映った。
浅黒い肌に眼光鋭い目はくっきりとした線を描き、濃い眉の間に深いしわが寄っている。引き締まった口元に頑強そうな顎の線、高くて太い鼻梁……驚愕とも怒りとも取れるその形相は、どこか仁王像を思わせて――
ユキヤの腕の中で耐えがたい痛みに身を震わせ、陽乃子は小さく呻き続けた。
無数の顔が脳内で踊り狂っている。中でも攻撃するかのような激しさで暴れ回るのは、ここで出会った顔ばかり。
驚きに目を見張り、あるいは蒼白に引きつり、あるいは鬼神が如く憤怒に歪み……
――それらはすべて、陽乃子を責め
* * *
「――、」
突然、耳からイヤホンが抜かれて幸夜は目を開けた。無駄に爽やかな笑顔が、ソファに横たわる幸夜を見下ろしている。
「……亮」
彫の深い顔立ちにノンフレームの眼鏡、その奥にオリーブ色の瞳を持つ男――
「ただいま。――珍しいね。この時間、幸夜が家にいるなんて」
シンプルな革製の鞄をソファの端に置いて、亮は幸夜の頭に手を伸ばす。
幸夜はウザいと言わんばかりにその手を跳ねのけ、身を起こした。携帯端末の音楽アプリを閉じてイヤホンと端末を脇に放り出し、ローテーブル上にある小箱に手を伸ばす。
「またチョコレート? ちゃんと夕飯食べたの?」
「タマコがタケノコのストックを切らしやがった。しこたま買っとけ、つったのに」
悪態を吐きながらキノコ型チョコレート菓子を口に放り込めば、亮が背後から手を伸ばして小箱から一粒つまみ取る。ふわりと空気が動いて、かすかな消毒液の匂いが届いた。
「僕はキノコの方が好みだな。こっちの方がいじらしい形をしてる」
亮はつまんだチョコ菓子を口に入れると「んー、疲れた身体に染み入るねー」と言いながら離れて、リビングの隣のダイニングへ入っていった。
ほどなく戻ってきたその手には炭酸水の小瓶が二本。ダイニング奥のキッチンにある冷蔵庫から取ってきたのだろう。わざわざ小瓶のアルミキャップを開けてから手渡してくれる優男ぶりに、幸夜は仏頂面で受け取った。
「オレ、コーラがいいんだけど」
「我がまま言わないの」
亮はくすくす笑いながら、ソファの上に散らかった数冊の雑誌をまとめてローテーブルの上へ置いた。
「ホントにうちは片付いていたためしがないよね……あ。そういえば、帰ってくる途中で
「知らね。さっきまでここにいたけど。
「そう。……ああ、
「あいつが勝手に降りてきて勝手に騒いだんだ。いちいちつき合ってられっかよ」
小瓶の中身を一口飲んで、喉元を通る炭酸の刺激に顔を
「ママさんはお店回りで、リリちゃんは遊びに行って……ふふふ、じゃあ幸夜だけが僕の帰りを待っていてくれたってわけだ」
「んなわけあるかボケ」
「つれないなー」
にっこりと笑って、亮はようやく幸夜の隣に腰を下ろした。
「あの子……陽乃子ちゃん、ね。とりあえず今夜一晩だけ、
「頭痛い、っつーのは治ったんだろ?」
幸夜は素っ気なく言い放ち、炭酸水を半分まで飲み干す。亮はノンフレームの眼鏡を外してローテーブルに置くと、ソファの背に深く身体を預けた。
「……すごいね、あの子。憑りつかれたように描き続けて……あれがあの子のアウトプット作業なんだ」
「らしいな」
崩れ落ちた少女を抱え、亮が勤める近所の診療所へ連れて行ったのはつい数時間前。柾紀が運転する車の中で、彼女は幸夜に抱えられたまま頭を抑え、小刻みに震える身体を丸めて、声にならない呻き声を上げていた。
しかし辛うじて意識は保っていたようだ。診療所へ着いて、迎え出た亮とともに診察室へ入ると、彼女は呻きながら「紙と鉛筆」を求めたのだ。
そこから、まるで蓄積された毒素を吐き出すかのように、彼女は手に持った鉛筆を動かし続けた。紙に描かれていったのは顔、顔、顔……いくつもの人間の顔。亮はもちろん、その場にいたベテランの看護師も付き添った柾紀とリリコも、唖然とその様子を見守っていた。
幸夜はどうしてかそんな彼女をずっと見ていられず、柾紀とリリコに後を任せて診療所を出てきてしまったのだけれど。
「どんな事情がある子なの? リリちゃんは、幸夜が勝手に連れてきた、って言ってたけど」
炭酸水を一口飲んで、亮はソファに身を預けたまま首だけをこちらに向ける。
「幸夜が出て行ってしばらくしたあと、ママさんと佐武朗さんも来たんだよ。幸夜はいなくなってるし、誰も詳しい説明ができないから、佐武朗さんが相当オカンムリで」
亮の言葉に幸夜は内心舌打ちした。
佐武朗は、皆がそう呼ぶ通りここの “ボス” である。従順であろうとは思わないが、彼を怒らせてロクなことがないのも確かだ。
「説明はあとだ、って言ったぜ」
つい不機嫌さを露わにすると、亮は「幸夜の “あと” はいつになることやら」と言って呆れたように笑う。
「しかもあの子、描き終わったのかな、と思ったらスコンと寝ちゃったんだ。呼びかけても揺すっても全く起きなかったんだよ。完全なシャットダウンって感じ」
「へぇ」
幸夜は特に驚きもせず、小瓶をソファ脇のサイドテーブルに置いて、もう一つチョコ菓子を口に放り込む。亮は長い指で小瓶をなぞった。
「幸夜が言っていた、腹部を
そこで亮はソファの背から身を起こし、「ええと」と炭酸水を置く。
「検査の結果はたしか…… HDL、LDL や GLU は基準値内、UA も問題なし、CRP および性感染症は見られず。気になる点は、TP 値と ALB 値が若干低かったのと、RBC と Hb も少し低め……だったかな」
「貧血と栄養不良か」
つい思いついたままを口から漏らすと、亮はほんの数秒幸夜を見つめて、呆れとも感嘆ともつかない溜息を吐いた。
「まったく……幸夜の頭脳を浮気調査や人捜しなんかに使うのは、つくづく勿体ないと思うよ」
「黙れ」
本気で不機嫌になりかける幸夜に、亮は穏やかな笑顔を向ける。
「ゴメンゴメン。仰せの通り、彼女はおおむね問題はないけれど、軽度の貧血と若干の栄養不良が見られる……ってところ。点滴の処置だけしておいた。明日になっても改善しないようなら北町の市立病院を紹介するよ。うちは、おじいちゃんおばあちゃん御用達の小さな診療所だからね」
「まったく儲かってなさそうだよな。あのハゲオヤジのせいで」
言い捨てれば軽く頭を小突かれる。
「院長先生は僕が唯一尊敬する立派な医師だよ。……まぁとにかく明日改めて診るから。心配しないで」
「してねーよ」
「そう?」
どんなにこちらがぞんざいな口を叩いても、常に優しく微笑んでいるこの八つ年上の男に、幸夜は時々どうしようもない苛立ちを覚える。
亮とは、佐武朗に次いで付き合いが長い。それこそ幸夜が幼少の頃から一緒にいるので、もはや身内のようなものだ。だからであろうか、いつまでたっても子供扱いされているようで、そう意識する自分がますます子供じみているようで、無性に腹立たしくなる時がある。
立て続けに三つチョコ菓子を口に入れて小箱は空になった。空き箱をわざと亮の膝元へ放り投げてやる。
「それで? 佐武朗は?」
「あれ、こっちに帰って来てないの? 僕が院長先生に連絡している間にいなくなってたんだけど」
チョコ菓子の空き箱を丁寧に畳みながら、亮は首を傾げる。幸夜は「ふーん」と気のない声を上げた。事実、佐武朗がどこへ行こうが知ったことじゃない。……が。
「――なぁ、あいつの能力、どう思う」
できるだけ何気ない風を努めて問えば、亮は脚を組み直して「うーん」と考え込んだ。
「瞬間記憶能力……か。診察室であの子が一心不乱に描いているところを全部見ていたんだけどね、最初はずっと知らない人の顔が続いて……幸夜が診察室を出て行ったあとかな、柾紀くんの顔とママさんの顔を描いて、次に
端正な顔を難しい表情に変えて、亮は静かに説明していく。
「それで、あの子が寝てしまってから佐武朗さんが彼女の持ち物……あのトートバッグを調べていてね。中に入っていたノートを僕も見せてもらったんだけど」
トートバッグ……あの薄汚れた布バッグか……と幸夜がぼんやり思い出す傍ら、亮は榛色の髪をかき上げた。
「――ノートは三冊あって、全部人の顔だけしか描かれていなかった……となると、瞬間的に記憶できるのは人間の “顔” だけなのかもしれないね。実際、ある特定の事象に対してのみ記憶能力が異常に高まる、っていう事例は目の前にいるし」
と、幸夜の目を覗き込む亮。幸夜の眉根が寄る。
「能力の度合いは、かなり高いんじゃないかと思う。リリちゃんはあの子の絵の上手さに騒いでいたけど、僕はやっぱり記憶力の方に感嘆するよ。あの緻密さと正確さは尋常じゃない。パッと目にしただけで、あそこまで細部を正確に記憶できるってことは、それだけ瞬間的にインプットできる情報量が膨大だってことだからね。……ああ、幸夜にも見せたかったな。あの子、僕の顔も描いてくれたんだよ」
「……丸まって
「ふふふ……自分の顔を描かれるなんて始めてでさ。意外と恥ずかしいもんだね。隠し撮りされたみたいで」
何が嬉しいのか、亮はくすぐったそうに笑う。幸夜は冷ややかな一瞥を投げてやった。
「話を戻すと……そもそも普通の人間の脳は、取り入れた情報を自ずと選り分けて、必要ないものは順次忘却していくようにできているんだ。脳がオーバーヒートしないようにね。けれどもし彼女が、幸夜のように、取り入れた情報を――特定の事象だけにしても――すべて記憶として保持し続けてしまう脳の持ち主だとしたら……」
と、そこで言葉を切った。炭酸水を一口飲んで、亮の声音は少し低くなる。
「……忘却できない人間は、膨大な情報を記憶として持ち続けなくちゃならない。それは、脳にとって想像を絶する負荷が強いられるはずなんだ。立っていられないほどの頭痛が生じるのは、取得した情報量が限界を超えて身体的な部分に異常が出てしまうため……あの憑りつかれたようなアウトプット作業は、それを回避、緩和するための必要不可欠作業……そう考えていいんじゃないかな」
そこで亮は「なーんてね」と笑って、幸夜に向いた。
「僕の脳は至って標準仕様だから、あくまでも理屈としての話だよ。特殊能力とそれによる副作用に関しては、幸夜の方がわかるんじゃない?」
首を傾け覗き込まれて幸夜は内心、わかりすぎるほどにな、と呟いた。
おそらくあの少女は、ああして記憶の整理をしているのだ。ノートに “顔” を描き出す行為は、彼女の記憶から消すためではなく、然るべき場所に収納するため。必要頻度はわからないが、定期的に処理していかなければ、今日のように重い身体的支障をきたすのだろう。
「――ねぇ、どうしてわかったの? あの子がカメラ・アイだって」
こちらを見つめる亮の色薄い虹彩を見返して、幸夜は一瞬どう話したものか悩む。
“同類者の勘だ” とは、口が裂けても言いたくない。
「……最初は噂を聞いただけだ。写真みたいな似顔絵を描く少女がいる、ってな」
十日くらい前のこと、たまに行く馴染みのバーで、そこのマスターと知らない客がそんな話をしていた。――まだ若い女の子が一人、繁華街の片隅にひょっこりと現れては、道行く人の似顔絵を描いて小銭を稼いでいるらしい……あまりにも上手く描くもんだから、この界隈ではちょっとした名物になっているようだ――
幸夜は絵描きなんぞに興味はなく、その話も初めは耳をすり抜けて行った。
けれど、その客の披露したつまらない冗談話が、どうしてか幸夜の耳に引っ掛かったのだ。
『……ほら、実際そんな人型ロボットがいるじゃない? 眼球部分に搭載されたカメラで対象物のデータを取り込んで、本物そっくりに描いてしまう人型のAIロボット。その女の子もさ、もしかしたらデータを取り込んで出力できる、お絵描きロボットなのかもしれないよ?』
ロボットに例えられた見ず知らずの少女――、幸夜とは何の縁もゆかりもないはずのその少女の話は、なぜかその後もずっと幸夜の頭の隅っこに止まっていた。
そんな時だ――リリコとの調査中に一人の少女が突っ込んできたのは。
「リリコとぶつかった時、あいつのバッグが落ちてノートが滑り出ていた。拾おうとしたらノートの中が見えて、そこに “顔” があった……いくつも、いくつも」
「なるほど。ノートに描かれた精密なスケッチを見て、もしや……って?」
幸夜は「いや」と、ゆっくり頭を振った。
「そん時はそこまで思わなかった。ホントにマジもんだって思ったのは、今日あいつから声をかけられた時だよ」
昨日の幸夜とリリコは、服も髪も、顔も変えていた。あのリリコが手掛けた特殊メイクだ。リリコが施すメイクは――メイクだけは――幸夜も認めるほどのプロフェッショナルなレベルであり、そんじょそこらの素人に見破られる変装ではなかったと断言できる。
それを、彼女は見透かした。普通ならあり得ない。普通の人間には取得できない視覚情報を、彼女は瞬発的に、そして極めて細密的に取得できるとしか思えなかった。
「そっか、二人とも顔を変えていたのか。リリちゃんのメイクを見透かせるっていうのは、確かに尋常じゃないね。……柾紀くんから聞いたけど、今、幸夜たちが手掛けている不倫調査の関係者を、あの子が目撃していたんでしょう? だから幸夜は彼女をここに連れてきたの?」
「どーだかな」
吐き捨てるような口調の幸夜に、亮はまたクスクスと笑う。
「何だかワケありみたいだし、明日佐武朗さんが話を聞くって。それ聞いたリリちゃんが、一緒に住めばいい、ってはしゃいじゃってさ。自分が相部屋するからって」
「あのバカ……モラルってもんを知らねーんだな」
「まぁ、間違ってもリリちゃんが女の子を襲うことは絶対にないからね。なんたって、見た目と心は完璧な女性、なんだから」
幸夜はいくらか温くなった炭酸水を飲み干した。また顔が
――『……あの方はなぜ、女性の恰好を……』
「たぶん、知ってるよ」
「え?」
幸夜が思うに、あの少女はリリコのことを “男性” と認識していたのではないか。少なくとも、見た目通りの性別ではないと見抜いていたのだと思う。
「リリコが男だったって、あいつはわかってると思う。誰が言ったわけじゃない。たぶん顔を見ただけで分かったんだろ。それしか考えられない」
「ホントに? それはすごいな……この僕だって、言われるまでまったく分からなかったのに」
薄い色の瞳を見開いた亮は、ふと、どこか困惑したような表情になる。
「顔を見ただけで特殊メイクも性転換も見通してしまう……? そんなカメラ・アイは聞いたことがないよ。……ねぇ、あの子、誰かに追われていたようだってリリちゃんが言っていたけど……厄介なことに巻き込まれているんじゃない……?」
厄介なこと、ね……幸夜の脳裏に、路上に散らばり砕かれたキノコ型チョコ菓子の無残な姿と、それを踏み砕いた男どもが蘇る。
が、すぐにチョコ菓子の怨みも含めて脳裏から追い出した。あのキノコ娘にどんな事情があろうが、どんな厄介事に巻き込まれていようが幸夜の知ったことではない。それよりも。
ただいま調査中である調査対象者の不倫相手X氏。そして佐武朗に因縁深き男、津和野。
この二人が一緒にいた……単なる偶然では片付けられない話だ。どこの誰かも判明していない不倫相手のX氏は単なるゲス男でなく、とんでもないゲス野郎である可能性が極めて高くなる。
幸夜はトンと音を立てて、空になった小瓶をサイドテーブルに置いた。
「……なぁ、頼みがあんだけど」
【用語解説】
★失尾
尾行に失敗すること、調査対象者を見失うこと。
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