第3話

「――ねぇねぇ、お嬢ちゃん。名前、ナンていうのー?」

 運転席でハンドルを握る方がハスキーな声を明るく張り上げた。この人物、名前は “リリコ” というらしい。

 頭の上で無造作に丸めた栗色の髪、化粧はごく薄く施されているだけ、装飾品は耳で小さく揺れる雫型のピアスのみ――昨日見た風体とは大違いだ。人懐っこい笑顔と屈託のない喋り方からすると、まだ若い……二十代前半くらいだろうか。脚やウエストは細いのに、胸や臀部はかなり肉感的である。


「……天宮あまみや陽乃子ひのこです」

「ヒノコ? ……ふーん、可愛い名前じゃない。キノコみたいで。歳はいくつー?」

「……十九、です」

「――えぇっ! ? うそぉっ? の間違いじゃないのっ? どう見ても高校……ううん、中学生じゃない!」

 素っ頓狂に叫んだリリコの横で、助手席に座る人物がわずらわしそうな声を上げた。

「……キンキンうるせーよ。前見て運転しろ」


 助手席の青年は “ユキヤ” と呼ばれていた。彼も昨日とはまるで違う姿かたちである。黒のジャンバーに黒の細いズボン、黒革のショートブーツ。髪の毛も真っ黒なので全身が黒づくし。まるで影法師のようだ。そして、長めの前髪から見え隠れするやや釣り気味の両眼――サングラスのない彼の顔立ちは陽乃子の推測通り、滅多に見ないほどの左右対称シンメトリーであった。


「じゃあ、おうちはどこ? ここまで電車で来たの?」

 バックミラー越しに問われて、陽乃子はほんの少し逡巡したのち、答える。

「……家は、帰っていません」

「はぁ? 帰ってないって、どぉゆうこと?」

「あの……今は、インターネット・カフェというところに……」

「ネットカフェ? うそぉっ、アナタもしかして家出っ子なのぉ? ナンでぇ? どぉしてぇっ?」

「――ぶつかる! 前見ろって!」


 陽乃子たちを乗せた濃紺色の車は、人気ひとけのない裏通りを抜け出た後、繁華街のメインストリートを経て街道へ出たようだ。

 助手席のユキヤという方が「ひとまず連れて帰る」と言っていた。どこに連れて行かれるのか知らないが、どうしてか不安は感じず、拒否することも思い浮かばなかった。

 車内は清涼感のあるほのかな香りに交じって、かすかに煙草の匂いもする。運転しているリリコなる人はまだ甲高い声で騒いでおり、一方のユキヤなる人はむっつりと黙ってしまった。

 後部座席に座る陽乃子はそっと目を閉じる。眠たいわけではなく、視覚から入る情報をしばらくの間シャットアウトしたかったのだ。

 目を閉じていると、頭の奥にあるジーンとした圧迫感がより一層際立つ。

 今日はまだ一度も鉛筆を握っていない。蓄積された記憶のいくつかが騒ぎ出している。

 ここ最近、この兆候の出る時間が段々と早くなっている気がする――



 陽乃子がイヤリングを返そうと思ったのは、特に深い理由があったからではない。高価そうな物であったし、失くしたあの人はさぞかし困っているだろうと思っただけだ。

 とはいえ例えば、あのイヤリングを警察へ届けることは考えもしなかった。なぜなら――

 陽乃子は単純に、もう一度ぶつかった場所に行けば彼らと会えるかもしれない、と考えた。高価で大切なものなら、探しに来ると思ったのだ。

 というわけで、今朝は午前も早いうちからネットカフェを出て、昨日あの二人にぶつかった裏界隈をうろついた。途中やむを得ず何度かその場を離れることもあったが、その度に陽乃子は舞い戻り、ラブホテル街の一角で身を潜めるようにして彼らを待ってみた。

 どこの誰かもわからず、イヤリングを探しに戻ってくるかも定かではなく、探しにくるとしてもいつ何時なんどきになるかわからない――けれど、何となく待ち続けてしまったのはどうしてだろう。

 結果として彼らは現れた。昨日とまるで違う服装、まるで違う “顔” であったがすぐにわかった。ぶつかった二人で間違いない。

 イヤリングを差し出すと喜んでいたから、やはり大切なものだったようだ。返すことができてよかったと安堵した。そのまま、彼らは陽乃子の記憶の引き出しにしまわれるはずであった。

 なのに事態は急展開した。

 ――どうして引かれるがまま、この二人について来てしまったのだろう。



「ヒノコちゃーん、寝ちゃったー? もうすぐ着くからー」

 声をかけられて、陽乃子は閉じていた目をゆっくりと開けた。もともと時間に対する感覚は鈍いので、あれからどれだけ走ったのかはよくわからない。

 先ほどまで走っていた街道からは外れたらしく、窓の外はその様相をがらりと変えていた。緩やかな坂道沿いに並ぶ家屋、所々にこんもりと茂る新緑の樹々が見える。閑散と寂れた古い住宅街といったところか。このあたりの地形は高台らしく、車は坂を上り続ける。

 まもなく車は減速し、コンクリートの高い外塀に設えられている大きなシャッター前に横付けされた。車三~四台は入れそうな横幅の広い車庫である。シャッターがゆっくりと上がって、車体は大きくハンドルを切ったのち後進した。


「あら、ボスのベントレーないじゃない。出かけてるわ」

 ウィンドウから顔を出して後方を覗き見るリリコが言う。

「あいつ、肝心な時にいねーよな」

「ねぇ、アンタに言われるがままにこの子を連れてきちゃったけど、ちゃんとボスに説明つけてくれるんでしょうね? せっかくイヤリングが見つかったっていうのに給料カットなんて真っ平ゴメンよ?」

 車は吸いこまれるように大きな口を開けた車庫内へと収まりエンジンが切られた。同時に、車庫のシャッターがゆっくりと降りていく。

「ユキヤの気まぐれのせいでとばっちりを喰うのはいっつもアタシなんだからね」

「お前だけには言われたかねーよ。――おい、降りろ」

 命じられて、陽乃子は抱えていたトートバッグをモタモタと肩にかけ直す。自分で開ける前に後部座席のドアが開いて、にっこり顔のリリコが手を貸してくれた。

「ゴメンね? アイツ言い出したら聞かないの。捕って喰いやしないから心配しないで。ああ、ここはね、アタシたちの家っていうか、仕事場っていうか」

 リリコは陽乃子の肩に腕を回してパチンと片目をつぶった。

「みんな、『サブロ館』って呼んでるわ」


 車庫内はオレンジ色の電灯がいくつか灯り明るかった。右隣に一台分のスペースを空けて、その横に黒光りする大きなミニバンが止まっている。左隣には原付のバイクが一台。それでもまだ余裕があるほど車庫内は広い。

 四方八方がコンクリートの壁に囲まれており、その壁際を埋め尽くすように、サドルのない自転車や大小様々のタイヤ、工具などが乱雑に置かれていた。金属とも薬品ともわからない匂いがほのかに漂っている。

 リリコに背を軽く押されて車体の後方に回れば、車庫の奥壁左隅に鈍色をした金属製のドアがあった。どこにも取っ手が見当たらないけれど、ドアなのだろう。

 ――と、かすかな電子音が鳴った。ドアの左手のコンクリート壁にB5版ノートくらいの大きさのタッチパネルらしきものがはめ込まれており、ユキヤがそれに向かって手早く操作している。最後に、彼が手の平全体をタッチパネルにかざすと、もう一度電子音が鳴って、金属製のドアは微かな音とともに自動で横滑りした。

 ぽっかりと開いた先は通路になっているようだ。全面コンクリートの四角いトンネルのような通路。ユキヤが入り、陽乃子とリリコが続いて入ると、重そうなドアは背後で勝手に閉じた。


「うふふ、秘密の地下トンネルみたいでしょ? まぁ実際、地下なんだけど」

 リリコの声と三人の靴音が四角いトンネル通路内に反響する。陽乃子は歩きながら、そっとこめかみを抑えた。思い出したように脳内の膨張感が危険信号を発してくる。

 通路はごく短かった。突き当って右に上り階段があり、数段上がって折り返し再び数段上がると、右手に再び金属製のドア。壁にはめ込まれたタッチパネル。

 先ほどと同じように、タッチパネルに向かってユキヤが操作するのを眺めつつ、陽乃子は以前住んでいたマンションを思い出した。

  “認証” が求められるドア……その数の分だけ “セキュリティ” の壁が堅牢であることを、陽乃子は知っている。――きっとそれは何かを “守る” ため……もしくは何かを “隠す” ため。


 金属製のドアが開き、目の前に広がる光景。陽乃子はその衝撃的光景に思わず息を呑む。

「やっだもぅ、けむーい。換気扇つけてって言ってるのにぃ」

 リリコが文句を言いながら跳ねるような足取りで入っていく。けれど陽乃子は唖然と目を見張ったまま動けない。

 ――それはまるで空き巣泥棒に入られたような、もしくは竜巻でも通り過ぎたような、恐ろしく無惨な散らかりよう……

 学校の教室くらいある広々とした部屋である。通ってきた通路と同じように、壁も床も柱もすべて打ちっぱなしのコンクリートで、所々に配管らしきパイプが剥き出しており、住居というにはずいぶん無機質で粗雑な内装だ。

 窓らしきものは一つもなく外光は感じられないが、蛍光灯が煌々と明るいので、さほど冷たく陰湿な雰囲気は感じられない。だがその明るい光の中で、室内の尋常ではない様子がはっきりと見てとれた。

 これほど物であふれかえる室内というものを、陽乃子は未だかつて見たことがない。

 向かって左の壁にはモニターやよくわからない大型の機械がいくつも設置してあり、スチールの棚から何本も絡み合う配線コードが垂れ下がっている。部屋の中央に並ぶいくつかの大きなデスクはすべて、積み上げられた書類やファイル、新聞に雑誌でいっぱいだ。

 さらに、床はあちこちに紙くずや空き缶、ペットボトル、菓子の袋などのゴミが散乱しており、中にはゴミとも思えないトランプのカードや針金ハンガー、片方だけのゴム長靴など、多種多様なものが散らばっている。

 室内の乱雑っぷりに面喰っている陽乃子に構わず、ユキヤは真っ直ぐ部屋を進んでいった。部屋奥の壁右半分には部屋と並行に上る階段が見えており、ちょうどその下あたりにローテーブルと大きな長椅子がある。そこで陽乃子は初めて気づいた。

 ――長椅子の上に人が寝ている。

 仰向けになった顔面に開いた新聞が被せてあるので顔はわからないが、かなり大柄な男の人である。横たわった体躯はがっしりとしていて、筋肉の盛り上がりが目立つピッタリとした黒のTシャツと迷彩柄のワークパンツ、ソファのひじ掛けからはみ出している足先は重そうなブーツを履いている。そして顔に被せた新聞紙の下から、大型犬が唸るような低いいびきが一定のリズムを刻んでいた。


「――起きろ、柾紀まさき

 ユキヤが声をかけると、いびきのリズムが乱れた。が、何事もなかったように再び、規則正しいリズムで唸り始める。

 ソファを見下ろしたユキヤは、半眼のままローテーブルに目をやった。テーブル上もまた、コーヒーカップやペットボトル、汁の残ったプラスティック容器に割りばし、雑誌や丸めたティッシュなどで埋め尽くされている。

 その中から彼はおもむろに、赤銅色をした奇妙な形の置物を取り上げた。よく見るとそれは人間の手首から先の “両手” を模したもので、水をすくい上げるような椀状になっている。煙草の吸い殻がてんこ盛りになっているので、そういう形の灰皿なのだろう。

 ユキヤはゆっくりと、重そうな両手型灰皿を中の吸殻ごと高く掲げて、驚くことに、躊躇することなく落とした――寝ている男の腹の上へ。 

 

「――っ……、――なっ、なんだ……っ?」

 男は飛び起きた。吸殻が飛び散り顔から新聞紙が跳ね落ちて、驚愕する男の顔が露わになる。反射的に陽乃子の瞳が瞬いた。

「んもぅ、マサキったら。まーたカモさんに任せてサボってるの?」

「……だよ……ビックリさせんな……ボスかと思ったぜ……」

 目をパチパチと瞬く大男を一瞥して、ユキヤはフンと鼻を鳴らしつつデスクに向かった。不意打ちを喰らった男の方は特に怒る様子もなく、大欠伸をかまして腹をさすっている。

 褐色の肌、濃い眉と太い鼻筋、厚い唇……日本人以外の血が混じっている顔立ちだ。ごく短く刈った髪は黒色で、その側頭部に蔓草のような文様を為すラインが刈り入れてある。

 リリコが腰に手を当てて男を見下ろした。

「ボスなら灰皿じゃなくて直接足蹴りにしてるわね。サボってたこと、言いつけちゃおうかしら?」

「……人聞き悪ぃな。こっちは夜通し張り込みで寝てねぇんだよ……ったく……」

 日本人離れした顔立ちのわりに、言葉もアクセントも普通の日本語だ。

 男はローテーブル上の煙草の箱を取り、一本出して口に咥えて小さなライターで火をつけた。勢いよく煙を吐き出し、咥え煙草のまま床に落ちた灰皿を拾い上げる。散らばった吸殻を払う逞しい褐色の上腕には、頭部に刈り込まれた文様と似たような模様。


「――お前らこそ、探し物は見つかったのか? ボスに足蹴りされんのはおま――、」

 そこでようやく、顔を上げた男の視線がリリコの背後にいる陽乃子の存在を認識した。

 口に咥えた煙草がポロリと落ちて、たっぷり五秒後、「――ぅあっち……っ!」と再び飛び上がる。

 慌てて火のついた煙草を拾い上げた男は、見開いた眼のまま陽乃子を指さした。

「……お、おい……何だよその小娘は」

「んっふふ、かぁわいいでしょ? ヒノコちゃんっていうの。失くしたイヤリングを届けてくれたのよ? ほら、これ」

 リリコがポケットから例のイヤリングを出して見せ、無事に戻ってきた経緯を嬉々として説明している。褐色肌の男の口は呆けたように開いたままだ。

「……いや、見つかったのは何よりだが……そうじゃねぇって。……なんでその子を、?」

「んー、アタシもよくわかんないんだけどぉ」

 肩をすくめたリリコが、デスクでパソコンを操作するユキヤに向く。するとユキヤは顔を上げないまま声を上げた。

「――柾紀、そのイヤリングに入ってる画像って取り出せる?」

「んぁ? ……ああ……まぁ、データが壊れてなきゃ……っておい、ボスに知れたら……」

「こっちに送って」

 有無を言わせない調子で言うと、ユキヤは顔を上げて陽乃子に向いた。

「――おい、さっきのノート、貸せ」

 どうしてそんなにこのノートを見たがるのか、陽乃子には皆目見当もつかなかったが、特に断る理由もないので素直にトートバッグからノートを取り出す。先刻彼に見せたノートだ。

 相変わらず口が半開きのまま困惑しきりのマサキなる男は、「……ナンなんだよ……」と頭をガリガリ掻きむしりながら煙草を咥えなおし、渋々立ち上がった。予想にたがわず見上げるほどに大きい。

 陽乃子がノートをユキヤに手渡し、マサキがリリコからイヤリングを受け取った時――、


「――マサちゃん? いるのかい?」

 妙に掠れてキィキィとこすれるような声がした。部屋奥にある階段の上の方からだ。パタパタとスリッパのような音をさせて、その人物は降りてくる。

「……そーいや、ボスよりメンドくさいのがいたな……」

 ユキヤの隣のデスクについた咥え煙草のマサキがボソッと呟いた。褐色の太い指先で小さな半球形のイヤリングをいじっている。

「――ユキちゃんたち、帰ってきてるのかい?」

 階段から降りてきた人物がその全貌を現した時、陽乃子の目は大きく三回瞬いた。

「おや、リリちゃん、やっぱり帰ってたのかい。探し物は見つかったん――、」

 最初にリリコへ声をかけたその人は、ふと視線を巡らせて陽乃子に気づく。気づくや否や、その人物のローズピンク色をした厚ぼったい唇がO字型に開いて固まった。

「な……」


 陽乃子もまた、新たに登場したその彼――彼女というべきか?――から目を逸らすことができなくなった。

 背丈はマサキという男ほど高くないが、負けず劣らずがっちり骨太の体躯をしたその人物は、どう見ても女性に見えない。けれど、なぜか淡いパステルピンクのフリルをあしらった薔薇の花柄エプロンをつけて、手には長い菜箸とお玉を持っている。

 ぴっちりと太腿に食い込んでいるヒョウ柄のタイツや、クルクルと大きくカールしたショッキングピンク色のヘアースタイルもさることながら、特に陽乃子の目を惹きつけてやまないのは、人並み以上の大きさを持つその顔である。こんなに大きくて角張った顔を間近で見たのは初めてだ。

 しかも、顔全体に施された化粧の濃さが尋常ではない。厚塗りしてもなお、白く毛羽立った皮膚の下に髭の剃り跡は青々しく、目の上にはキラキラとした紫色がごってりと塗られ、つけまつ毛はバサバサと音を立てそうだ。ピクピクと蠢く目の上で、吊り上がった細い眉がますますギュイッと跳ね上がった。


「なっ、なんだいその子は……っ!」

 O字型の唇がパクパクと喘ぐように動く。

「お、おおお、女の子じゃぁないかッ! どーしてここに、おん、おんなの――、」

「――ママさん、ボスはどこ行ったんだ?」

 化粧お化けの言葉を遮るようにマサキがかぶせる。 “ママさん” と呼ばれた化粧のお化けは、パチクリと瞬いた。

「サ、サブちゃんなら、依頼が入ったとかで昼過ぎに出て行ったけど……」

「ふーん」

 とだけ答えて、マサキは細長いピンセットのような器具を使い、分解したイヤリングの中から小指の爪よりも小さい何かを取り出す。厚化粧の怪人はハッと我に返ってキィキィ声を張り上げた。

「―― “ふーん” じゃないよっ! その子は誰だいっ! ここは部外者立ち入り禁止なんだよっ! サブちゃんに知れたら――、」

「――タマコ。タケノコのやつストックが切れた。買っとけよ」

 今度はユキヤがかぶせた。 “タマコ” とも呼ばれる厚化粧怪人は、またもやパチパチと瞬く。

「え、もう食べちまったのかい? あんた最近チョコレートの消費量が多すぎやしないかい……、――って、そうじゃないよっ! その子どっから拾ってきたんだいっ? うちはペットの飼育も禁止なんだよっ!」

 ギャイギャイ叫ぶタマコなるお化けを、リリコが「マーマ」とため息交じりでなだめた。

「ちょっと落ち着いてよ。捨て猫じゃあるまいし」

「――じゃあっ、ナンでここに女の子が……、――ま、まさか、ゆ、誘拐してきたのかいっ? アンタたちっ、給料なら十分もらってるはずだよっ!」

「だからメンドくせぇって言ったんだ……よっしゃ、データ破損はねぇみてぇだな。そっちに送るぞ」

 マサキもデスク上のパソコンを開いて手早く操作し始めた。薔薇柄エプロンの妖怪が、ゴツい身体のわりに素早い動きで陽乃子を押しのけ、デスクチェアに座るユキヤに詰め寄る。

「……ユ、ユキちゃん? 悪いこと言わないから、元いた場所に返しておいでよ……今なら間に合うよ? あたしが一緒に行ってあげようか? 一緒に謝ってあげようか?」

 菜箸とお玉を握ったままグイグイ迫る化粧お化けを、ユキヤは「ジャマだ、どけ」とデスクチェアごと動いて押しのけた。ギャンッと飛び上がる妖怪厚化粧。どうやらデスクチェアのキャスターに足先をかれたようだ。

 陽乃子は不意にキュッと目を閉じた。また襲ってくる頭の膨張感。

 珍奇で稀有な “顔” の情報は非常に興味深いが、その分、脳への負担が大きいらしい。頭の内部を圧迫する重い質量はますます大きくなるばかりだ。


「――これ、こいつが描いた顔。昨日の、変装ばけたオレたち」

 ユキヤが陽乃子のノートを開き、デスクの上へ広げて見せた。マサキはデスクチェアごと近寄り、リリコとタマコも顔を見合わせ「?」のマークを浮かべながら、揃ってノートを覗き込む。

「……おやまぁ」

「へぇ、こいつは……」

「やっだ、これ、昨日のアタシじゃない!」

 それぞれが感嘆の声を漏らす中、ユキヤはデスクに片肘をついて淡々と説明した。

「さっきリリコが話した通り、昨日こいつとぶつかった。それから別れるまで三分と経っていない。もちろんこいつとは昨日が初対面で、それ以後、今日声をかけられるまで一度も会っていない。しかもこの絵は、オレたちの目の前で描かれたものじゃない」

 マサキが短くなった煙草をデスクの隅にあった空き缶へねじ込み、ノートを手に取った。中身を吟味するようにパラパラとめくっていく。

「見事に “顔” しかねぇな」

「すっごいわぁ、写真みたい。これぜーんぶ、ヒノコちゃんが描いたの?」

「驚いたねぇ……アンタ、絵描きさんなのかい……?」

 ノートに描かれたいくつもの “顔” にリリコとタマコも感嘆しきりだ。マサキだけが大きな口元をへの字にして低く唸った。

「――つまりこのお嬢ちゃんは、たった数分間の接触だけで、これだけ正確に緻密に、お前らの顔を覚えちまった、ってことか。幸夜、お前が言いたいのは――」

 ユキヤが長い前髪の隙間から陽乃子を鋭く見据える。

「――そう。こいつも…… “カメラ・アイ” だ」

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