第2話
ずんぐりふっくりとした若筍を模したチョコレート菓子。口に放り込み噛み砕けば、サクサクとしたクッキー生地と絡み合うミルクチョコレートの優しい甘さ。
“キノコ派” と “タケノコ派” の長きにわたる論争は有名だが、個人的には “タケノコ派” を支持したいと思ったりする。
そんな、目を閉じて陶酔している幸夜のつかの間の至福を邪魔するのは、隣でブツブツうだうだと漏れ続ける煩わしい声。
「……ったくもぉ……今さら探したってないわよ、昨日散々探してなかったんだもの……誰かに拾われるか、カラスに持っていかれちゃってるわよ……てゆーか、どーせアレ、試作品だったんでしょ? だったら許してくれたっていいと思わない? なのに、『見つかるまで帰ってくるな』だなんて、ボスったらひどいわ! 鬼よ!」
ハンドルを握るのはふくれっ面のリリコ。グロスで艶めいた唇を突き出し、垂れ流す文句は止む気配がない。
幸夜は胸内でわかってねーなと溜息を吐いた。小型機器の紛失が問題なのではない。マズいのは、中に入った調査上の証拠画像データ紛失なのである。
「――ちょっとユキヤ、『オレ、カンケーねーし』みたいな顔して、チョコレート臭を振りまかないでくれる?」
「お前が失くしたんだろ。オレはカンケーない」
「連帯責任だって言われたでしょぉっ! 一緒にいたアンタにも責任はあるのよっ!」
「いいから、前向いて運転しろよ……」
うんざりと返せば、運転席のリリコはフンッと鼻を鳴らして大きくハンドルを切る。幸夜は舌打ち交じりにタケノコを噛み砕き、目を閉じた。
爽やかに晴れた昼下がり。しかし風俗店が立ち並ぶこの界隈だけは、降り注ぐ陽光が恨めしいとばかりに陰鬱な色を見せている。
少し離れたコインパーキングに車を停めて、歩くのは昨日と同じ裏道、向かうは昨日と同じラブホテル街だ。
健全たる晴天の空の下、健全じゃない裏通り……仕事でもないのにわざわざ繁華街まで出張って、素の恰好のままラブホテル通りを散策……いくらタケノコ型チョコが旨くても、幸夜のウンザリ度は増すばかりである。
「――ねぇ、もし探しても見つからなかったら、来月のお給料、引かれるかしら」
不安そうな顔で振り返ったリリコに、幸夜は大欠伸をかましながら告げてやる。
「よくて、全額カットだな」
「えぇっ、うそぉっ! いやよそんなの!」
「衣装代、小道具代……その他諸々経費の領収書も無効だ」
「冗談じゃないわよっ! あのスーツやバッグがいくらしたと思ってんのっ? 来月からアタシ、どうやって生きていけばいいのよぉッ!」
「……キンキン叫ぶなよ、っるせーな……」
投げやりに返して、幸夜はチョコ菓子を噛み砕いた。
大体、文句を言いたいのは幸夜の方である。イヤリング式超小型カメラという――たしかに試作品ではあるが――ハイテク機器を見せられ、使ってみたいと駄々をこねたのはリリコなのだ。絶対に失くすなよ、と釘を刺されながら見事に失くしたのだから、責任はリリコだけに問うて欲しい。連帯責任だとか何とかで幸夜まで探し物をさせられるのは、とんだとばっちりでしかない。
「えーと……昨日ぶつかったのってどの辺だったかしら……」
スリムジーンズの臀部が跳ねていく数歩あとを、幸夜はダラダラと歩いていく。
その時、背後で人の気配がすると同時に、小さな声が聞こえた。
「――あの、すみません」
振り向いて幸夜は目を見張った。そこに佇むのは、昨日この場所でリリコにぶつかってきた少女である。
漆黒色のオカッパ頭と細い首がキノコを思わせたあの少女。昨日とまったく同じ、安っぽいピンク色のパーカーにジーンズという服装で、肩には例のトートバッグがある。
「あの……、昨日は申し訳ありませんでした」
ゆっくり深々と頭を下げる少女に、幸夜が言葉を出しかねていると、先行くリリコが気づいて振り返り声を上げた。
「――あら! 昨日の!」
駆け戻ってきたリリコに視線を移し、少女はもう一度丁寧に頭を下げる。そしておもむろにパーカーの襟元へ手を入れて、首にかけていたらしい何かを引っ張り出した。小さなガマ口だ。それを開けて中から取り出したものを、幸夜とリリコの目の前に差し出す。
「これが、わたしの洋服に引っ掛かっていたようで……お返しします」
小さな手の平にコロンと乗っかっているのはまさしく、昨日リリコが耳につけていたイヤリング式超小型カメラ。
リリコが飛び上がらんばかりに歓声を上げた。
「あったー! よかったぁ! やっだ、わざわざ届けに来てくれたのぉ? いい子ねー、おかげで助かったわぁー。壊れてないかしら……ま、いいわね。戻ってきただけで。失くすなって言われたけど、壊すなって言われてないし?」
指でつまみ上げた鈍色ゴールドのそれを
幸夜はすっと目を細めた。……やっぱりこいつ。
「……お前、どうして、オレたちだとわかった?」
少女の丸い瞳が幸夜に向く。
「あら、言われてみればそれもそうね。アタシたち、昨日とはかなり…… “違う” と思うんだけど」
自分らの恰好をしげしげと眺めて、リリコも首を傾げた。
昨日のリリコは、大仰に盛ったシャンパン色の巻き髪に大胆なカットのスーツを着て、手の込んだメイクを施していた。幸夜も同じく派手なスーツと柄シャツを着せられ銀髪のウイッグを被せられ、どこのホストだと思うような恰好だったのだ。
しかし今日は違う。単なる服装が違う、ということではない。昨日の二人は完全な別人物に扮していたと言ってもいい。何より、顔を変えていたのだ。それを、中学生そこらに見える一介の少女が素に戻った幸夜とリリコを見て、昨日の人間と同一だと判断できるのは――普通なら考えられない。
幸夜の不穏な目つきを感じているのかいないのか、少女の大きな瞳はじっと幸夜の手元――手に持ったチョコ菓子の箱――に注がれている。
「顔を、覚えていましたので……」
「顔を……覚えて……?」
オウム返しに呟いた幸夜の手元から、少女は目を上げた。
「では……失礼します」
と、もう一度ぎこちなく頭を下げて背を向けようとした少女を、今度はリリコが「あ、ねぇ、ちょっと待って」と呼び止めた。
「せっかくだから、お礼にジュースくらい奢るわよ。あそこの自販機でもいい?」
「いえ、あの」
リリコは一歩後退しかけた少女の肩を抱いて自販機の方へ促した。
「んっふふ、ほんのお礼だから気にしないで。――ああ、アタシたち、別に怪しいモノじゃないから安心してね」
「あの……結構です。わたし、失礼します」
「あら、遠慮しなくていいのよ? あ、もしかしてジュースよりお小遣いの方がいいってこと? 可愛い顔してしっかりしてるわね。オーケー、わかった。わざわざここまで届けに来てくれたんだし、少しくらいいいわよ。いくら欲しいの? ああ、言っとくけど英世だからね? お嬢ちゃんに諭吉はいくら何でも――」
「――リリコ」
「ん? なに?」
不意に呼びかけた幸夜にリリコが顔を上げる。しかし幸夜の眼は、通りの奥に向けられていた。
約五十メートル先、二軒隣のラブホテルの外壁の角。ほんの一瞬、ちらりと現れた黒い影――見張られている。誰かが隠れて、こちらを
自分でも驚くほど身体が勝手に動いた。幸夜はチョコレート菓子の小箱をポケットに突っ込んで少女の腕を取る。
「来い」
「――え? ちょっと、ユキヤ?」
遠くから感じる視線に背を向けて足早に歩き始めればリリコが慌てて追ってくる。三人は立ち並ぶラブホテルの隙間に滑り込み、細い裏路地を進んだ。
「ちょっとどうしたのよ、突然」
幸夜は足を止めずに後ろを振り返った。角を曲がる瞬間、目の端に黒い影が映る。
――間違いない。追われている。
だったら、と幸夜は少女の腕を引いたまま、さらに足を速めた。入り組んだ路地を縫うようにして右へ左へと何度も曲がる。そんな幸夜のただならぬ様子に、リリコが怪訝な表情ながらついて来る。そして少女は、抵抗することなく腕を引かれるがまま、何度か足をもつれさせた。
数本目に滑り込んだ細い裏道沿いにある、古くて小さな雑居ビルの中に素早く入り、狭い階段を二階分上がった。いつ崩れてもおかしくないような老築化した建物は、空きビルなのか人の気配がない。窮屈な踊り場で身を屈めるよう二人に目で合図する。
軽く息を弾ませたリリコが、訳がわからないといった顔で頭を振った。
「いったいナニごとぉ? この子、誘拐でもするつもり?」
「さっき誰かがこっちの様子を
「えっ? ナンで? ユキヤ、借金でもしたの?」
「オレじゃねーよ」
冷淡に吐き捨て、幸夜は傍らでうずくまり全身で苦しそうに喘いでいる少女に目を向ける。リリコは「えぇっ? この子?」と目を丸くした。
「ナンでこんなお嬢ちゃんが、追われるのよ?」
「知らねーよ。こいつに聞け」
言い放ち、幸夜は首を伸ばして踊り場の壁から目だけを覗かせ外の様子を窺った。人影も人の気配もない……
「ちょっと、お嬢ちゃん? アナタ、ナニやらかしたの? あ……わかった。万引き?」
「万引きしたヤツを遠目から監視してどーすんだよ」
「そうだけどぉ」
幸夜とリリコのやり取りが聞こえているのかいないのか、少女はまだ、自身の身体を抱えるようにして息を荒げている。全力疾走したわけじゃあるまいし、見るからに細い体躯からしてよほど体力がないと見える。ただ、逃げる途中に何度もクッと身体を折り曲げるようにする仕草は気にかかった。
小刻みに上下する少女の背を眺めつつ考えを巡らせ、幸夜はもう一度首を伸ばして外を覗き見た。
「……リリコ、車を『G.マチルダ』の裏に回せ。きっかり十五分後だ」
「いいけど……」
少女に目を向けて何か言いたげにしていたリリコは、諦めたように肩をすくめて立ち上がる。そして、足を忍ばせて階段を降りて行った。
まだ肩で息をしている少女がようやく顔を上げた。リリコが降りて行った階段を表情のない目で見つめている。
幸夜は壁にもたれて脚を伸ばし、ジップアップジャンバーのポケットからチョコレート菓子の小箱を出した。ころりと出てくる小さなタケノコ。出てきたのは一個だけ。
最後の一個を口に放り込んだ時、少女の目線に気づいた。幸夜を――幸夜の口元を――瞬きもせず凝視している。
幸夜はクッキー生地とミルクチョコレートの絶妙なハーモニーを味わいながら、箱を大きく振って空であることを示してみせて、その空箱を少女の肩にかかるトートバッグに押し込んだ。少女はまったく表情を変えないまま、トートバッグをじっと眺めて、そして再び幸夜の口元に焦点を戻す。
走ったせいか、色味のなかった頬がわずかに紅潮して、折れそうなほど細い首筋に汗が滲んでいる。そして人形の目玉のような大きな瞳。何の感情も見えないガラス玉のような――
「おい、昨日持っていたノート、今も持っているか」
「……ノート」
たっぷり五秒の間をとって、少女はか細い声を出した。黙って手を出すと、ほんのわずかに戸惑ったような色を見せつつバッグの中から一冊のノートを取り出す。
昨日、幸夜がちらりと垣間見た大学ノート。受け取って注意深く何ページかめくって、幸夜は確信した。
「――これ全部、お前が描いたんだよな」
少女がこくりと頷いて、絹糸のような髪の毛がさらりと揺れる。
ノートに描かれたおびただしい数の “人の顔” ――鉛筆だけで描かれたそれらは、モノクロ写真のようにリアルな精巧さを持っている。既視感のある顔はすぐに見つかった。
「これ……昨日のオレらだな」
サングラスをした襟足の長い髪型の男の顔と、入念にメイクされた派手めの女の顔。他の絵と同じく描写は細かい。
「……たったあれだけの接触で、これか」
絵の上手さなど、この際どうでもよかった。注目すべきは “アウトプット” ではなく “インプット” の方。
少女は無表情に、幸夜の手にあるノートを見つめていたが、ふと、小さな声を漏らした。
「……あの方はなぜ、女性の恰好を……」
「あ?」
「……あ……いえ……」
ノートから視線を外し、口を噤んでしまった少女。胡乱な目を向けるも、少女はそれ以上何も言わない。
幸夜は再びノートのページをめくる。ところどころ紙面の片隅に小さく書き込んであるのは日付だろう。大小さまざま、視点もさまざま、見事に人間の “顔” だけしか描かれていない。
――と、幸夜の目が見開かれた。同じアングルで描かれた、二つの知っている顔――
「……おい、この男とこの男、どこで見た」
幸夜が指さした二つの “顔” に、少女の視線が落ちる。
「この二人……もしかして、一緒にいたんじゃないか?」
丸い瞳が幸夜に向いた。こくりと小さく頷いた少女の唇が戸惑ったように開く。が、声が漏れる前に、幸夜のポケットにある携帯端末が一度だけ振動した。リリコだろう。
幸夜はひとまずノートを閉じて少女に返した。立ち上がりざまに彼女の腕を取って引き上げる。パーカーの生地越しにもその腕は折れそうなほど細い。
「――行くぞ」
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