チェイス★ザ★フェイス!

松穂

第1章 不倫とツチノコはゲスい味がする

第1話

 ――……額のカーブは……目頭から二重ふたえの線……鼻は右寄りの鷲鼻……頬骨の高さは……顎横の骨は耳下からほぼ垂直で……


 鉛筆の芯が、白い画用紙の上を機械的な速さで動いていく。

「――うっそ、ちょっと見て見て、めっちゃ上手いんだけどー」

「すっごーい、写真みたーい! なにこれ、似顔絵?」

 背後を通りかかった若い女性二人が足を止めて寄ってくる。が、鉛筆を走らせる少女の手は止まらない。


 ――……細い眉毛、眉尻は少し上がって……横しずく型の目で二重ふたえは……天然じゃない……鼻柱の幅はこのくらいで……上唇は……口端が反り返って……


 無心で手を動かすうちに、じっと動かず期待の目を向けるモデル――今回は若いカップルだ――が、次第に不審と困惑でソワソワしてくる。

「おい……、さっきからオレらの顔、見てなくねーか……?」

「でも、だって……すごい勢いで描いてるんだけど……」

 カップルが顔を見合わせてコソコソと囁き合っている。聞こえているのかいないのか、鉛筆を動かす少女は顔も、目さえも上げず、ただひたすら手を動かす。

 周りにちらほらと人が集まり始めた。

 少女の背後からスケッチブックを覗き込んでは、前に座る――煉瓦敷きの階段に座ってもらっている――カップルと見比べて、ひとしきり感嘆の声を上げる。

  “似顔絵” として描く場合は、胸元近くまで描き込み、髪の毛も丁寧に描いた方が喜ばれる――そんなことも学んだ今日この頃である。

 そして少女は、描き始めてから十二分と三十四秒で手を止めた。

「……できました。お二人分で二千円です」

 十二分と三十七秒ぶりに顔を上げて、描き上げた一枚をスケッチブックから無造作に破り取った。

「んあ、ああ……どうも」

 カップルの男の方が、面喰ったような顔でデニムのポケットから財布を取り出し、千円札二枚を引き抜く。差し出されたお金を受け取った少女は、すぐさま首から吊るしてある小さなガマ口にしまって、そのガマ口をパーカーの首元から懐に押し込んだ。

 使っていた鉛筆を薄汚れた革製のペンケースにしまったところで、カップルの女の方がペラペラの画用紙一枚を手に持ってポカンと首を傾げる。

「……えっと……これ、……このまま?」


 平日の夕方――とはいえ日はまだ高く、駅前の煉瓦広場は人通りが多い。今日はもう少し稼げるかもしれない、と、少女は期待感を抱きつつ顔を上げた。

 すると、そのタイミングを見計らったように「お嬢ちゃん」と声がかかる。少女の周りにできたちょっとした人だかりの中から、ぅいー、という唸り声が前によろめき出てきた。

「さっきから見てりゃ、ずいぶん上手に描くじゃねぇか。どれどれ、オジサンも描いてもらおうかな」

 ガハハと笑う赤ら顔の男性は、手にワンカップ酒を持っている。よっこらせ、と先ほどまでカップルが座っていた階段に腰を下ろす時、酒が少し零れた。まだ薄ら明るい時分というのに、すでに出来上がっている様子だ。

 少女は顔色一つ変えずにコクリと頷いて、ペンケースから再び鉛筆を取り出した。

「いくらだい?」

「お一人様、千円です」

「先払い?」

「いえ、後でいいです」

「オトコ前に描いとくれよぉ?」

 男はグフグフと変な声で笑った。禿げあがった頭がてらてらと光っている。男の顔に焦点を合わせて、少女は一度瞳を瞬いた。そして、その目線を手に持った鉛筆の芯先へ移そうとした時――、

 人垣の隙間に、スーツ姿の二人組がちらと映った。彼らは何かを探すように視線を巡らせながら、行きかう人々の間を縫うようにしてこちらに向かって歩いてくる。少女の周りにできた人だかりには気づいていない――いや、今、気づいた。

 その二人組がこちらに向かって方向転換すると同時に少女はトートバッグを引き寄せた。

「……すみません、あの、またの機会に」

「――ぉおぃっ? ちょっと? お嬢ちゃん?」

 赤ら顔の男が驚いて見上げた拍子に、またカップの中の酒が零れた。

 少女はトートバッグにスケッチブックと鉛筆、ペンケース、そして《 似顔絵描きます お一人様千円 》とマジックで書いた画用紙も突っ込んで、顔を伏せ身体を縮めたまま人の輪の中に潜り込んだ。人垣が何だ何だとざわつく。

 スーツ姿の男性二人が駆けつけた時、少女の姿はどこにもなかった。



   * * *



「……もぉ。ユキヤ、チョコ臭い。わかってないなら教えてあげるけど、今は、勤・務・中、よ」

 振り返りざまに睨みつけられて、キノコ型のチョコレート菓子を頬張る男――幸夜は濃いサングラスの奥の眼を不機嫌に細めた。

「……まだ出てこねーの? もう一時間以上たつぜ?」

「誰もがアンタと同じ早漏だと思わないで」

のお前が言うな」

 舌打ちとともに吐き捨てれば、エナメル製ピンヒールの踵が幸夜の足の甲を直撃。

「――ぃっ……!」

 チョコレート菓子の小箱を取り落さなかったのは奇跡だ。思いつく限りの罵詈雑言を浴びせかけようとしてこらえた。無駄な労力は使わない方がいい。

 目の前のシャンパン色した巻き毛がフンと勝ち誇ったように跳ねた。呆れるほどの盛り髪に胸元がざっくり空いた高級ブランドスーツを着た相棒――呼び名をリリコという――は、再び向き直って外壁越しに覗き見る。注視するのは、小路をはさんだ向かいにあるラブホテルの出入り口だ。

 繁華街の端っこに広がる色欲街。時刻は陽が落ちて間もない夜の入り口である。

 外観華やかなラブホテルが点在するこの界隈は、外灯こそ派手な光を放ちその存在を主張しているが、どこもかしこも寂れてくすんだように見えるのは、決してサングラスのせいではないはずだ。

 尖った革靴のつま先を振って痛みを逃し、幸夜は憮然と小さなキノコ型チョコ菓子を口に放り込んだ。

 いわゆる “張り込み” というこの行為は、幸夜にとって苦行以外の何物でもない。何が楽しくてラブホテルの薄暗い駐車場に身を潜め、他人ひとさまの情事待ちをしなければならないのだ。


「……今日こそ、相手の男の素性を突き止めるわよ。こないだはかれたけど今日は失敗しないんだから。この辺じゃテッペンとれるくらいカンペキに変装ばけたしね」

 鼻息荒く意気込むリリコに、幸夜は今更ながら自分の恰好を見下ろしてうんざりと溜息を吐いた。

 ――つーか、ここまで変装ばける必要、あったか……?

 派手に着飾ったリリコに負けるとも劣らず、幸夜自身もチャラッチャラの扮装――いわゆる完全バカ丸出しのホスト風――である。あーでもないこーでもないと着せられ顔に塗りたくられ髪をいじりまくられ……ここまで風体を変えるのにどれだけ時間がかかったか。

 たかだか張り込みごときにここまで入れ込むリリコに呆れる。大体、やましさを秘めてラブホテルなんぞにシケ込む人間は、得てして他人のことなど注視しないもの、というのが幸夜の持論だ。そういった人間はむしろ、他人から観察されることを怖れているのだから。

 あっという間にチョコ菓子の小箱は空となり、幸夜はそれをぐしゃりと潰してリリコが肩から下げるハイブランド物のバッグに押し込んだ。

 ちょっとっ、と小声の抗議も聞き流し、スーツのポケットから新しい小箱を取り出す。張り込みには欠かせない常備食だ。

 小箱を開けて新しい小さなキノコを次々と口に入れて、呆れ返った目を向けてくる相棒に、よそ見をするなと顎をしゃくった。


「……あ、ほら、出てきた」

 さらに待つこと数十分後、潜めた小声に目を上げて外壁越しに覗けば、隣のラブホテルの入り口階段から降りてくるのは一組の男女。

 今回の調査対象者は、パステルカラーのワンピーススーツ着た女性の方だ。三十代前半の、いかにも金持ちの若奥様といったセレブ感漂う女性で、事実、老舗家具メーカーの重役夫人である。

 一方、連れの男性の方は、黒縁の眼鏡をかけた勤勉そうな若いサラリーマンといったところか。ただしこの男、隣に連れ添う女性の――つまるところ、この男女はれっきとした不倫関係だ。


「――撮って」

 言われるまでもなく幸夜は、寄り添って降りてくる二人をしっかりと目で捉え、明るい外灯が二人の顔面をはっきりと浮かび上がらせた瞬間を狙って、サングラスのテンプルの部分にある小さなボタンを数回押した。この高性能サングラス型カメラ、レンズはブリッジ部分にあり、特に注意して見なければわからない仕様になっている。

 一方のリリコも、耳にある大ぶりのイヤリングを指で操作する。こちらの超小型イヤリング型カメラは、かすかなシャッター音が欠点と言えば欠点か。

「……撮れた?」

「ああ。ばっちし」

 ひと昔前は不可能的スパイ映画などの中だけで存在した小道具が、今や現物として機能する世の中だ。時代とやらは刻々と変わっていく。変わらないのは、ゲスだなんだと叩かれることをわかっていながら、倫理に外れた情動を抑えられない人間の方だ。

 しっかり腕を組んで仲睦まじく歩くターゲットが、幸夜たちの隠れている駐車場のプライバシーカーテン付近を通り過ぎたところで、二人はその外壁から顔をのぞかせた。


「追うわよ」

「……ったりーな。今回の依頼、不倫相手の素性調査は依頼項目に入ってねーんだろ? とっとと帰ろーぜ」

 調査を始めて二週間、逢引き三回分の証拠画像は撮れている。これ以上の労働は御免こうむりたい。やる気のない幸夜にリリコはキッと目を吊り上げる。

「アンタね、 “妻に裏切られた旦那” ってやつを甘く見るんじゃないわよ? 最初は控えめに、『不倫しているかどうかだけが知りたいんです』なーんて言ってても、いざ不倫・浮気が確定したら『相手の男はどんなヤツだー!』ってなるに決まってるじゃない! それにあの男、絶対怪しいのよ。あんなマジメそうなナリしてて、昼間っから仕事もせず人妻とデートなんて……もしかしたらあの奥さん、ダマされてるかもしれないじゃないの。仮にも “探偵” を名乗っているなら、依頼人へのアフターケアは考えておかなきゃ!」

「それでかれてちゃ世話ねーよな」

「こないだは運が悪かったの! たまたま見失っちゃったの! だいたいっ、アタシひとりに押しつけてアンタが帰っちゃうからいけないんじゃないのっ!」

「んじゃ、今日もオレ帰るわ。お前一人でガンバ――」

 ぐいと胸倉掴まれて、あわや接吻するかの勢いで引き寄せられる。

「アンタッ! そーやっていっつも人任せにしてっ! ボスに言いつけるわよっ!」

「……ギャイギャイ喚くなよ……お前、タマコに似てきたぞ」

「ジョーダンやめてっ! ほら、行くわよっ!」

 眉を吊り上げたリリコはガッシと幸夜の腕を抱え込み、己の豊満な胸を押し付ける。幸夜は溜息を吐いて、キノコ型チョコを口に投げ入れつつ渋々駐車場から出た。 

 こちらも今シテきたとこでーす、的な雰囲気を装いながら、リリコと二人並んで数十メートル前方の男女を注視しつつ五十歩ほど進んだ時――、


「――っきゃっ!」

「――ぃぎ……っ!」

 突然横から――リリコがいる左側から――ドンという衝撃が伝わり、よろめいたリリコがたたらを踏んだ――幸夜の足の甲の上で。本日二度目のピンヒール直撃に幸夜はたまらず態勢を崩し、そのままリリコもろともドミノ倒しとなる。

「いったーいっ、もうっ、ナニゴトぉ?」

「……オレが言いたい……ぃってぇ……」


 どうやら、左横の細い路地から何かが飛び出してリリコとモロにぶつかったらしい。呻きながら目を上げれば、傍らには幸夜たちと同じように地べたへ転がったキノコ――いや、真っ黒な艶のあるキノコみたいな頭。

「す、すみませ……ゲホ……」

 リリコにぶつかった何かは、この場所にまったくそぐわない一人の少女だった。

 色の白い顔に頬のあたりで切りそろえられたオカッパ髪が乱れかかっている。安っぽいピンク色のパーカーと薄い色のジーンズは明らかにサイズが合っておらずダブついて、それが少女の身体を恐ろしく細く華奢に見せていた。地味で野暮ったい印象……中学生くらいに見える。


「んもぉー、いきなり飛び出してくるんだもん……、あぁーん、ストッキングが伝線しちゃったじゃなーい」

 幸夜の上に覆いかぶさったままふくれっ面になるリリコを「どけ」と押しのけ、じんじんと痛む足の甲を庇いながら立ち上がる。リリコのブランドバッグや少女の持ち物らしいトートバッグも道路上に落ちているが、それより何より惜しいのは、路上にばら撒かれたキノコのチョコ菓子だ。小箱は手から離さなかったのに、箱の中には無念、一個も残っていない。


「あー、もったいね」

「すみません……」

 少女はもう一度言って身を起こしかけた途端「うぅ」とうずくまった。胸だか腹だかを痛そうに抑えているが、打ちどころが悪かったのだろうか。突進してきた加害者はそっちだろ、と言いたい。

「まったく……よそ見しながら走っちゃダメよ。危ないでしょ?」

 リリコがよいしょと立ち上がった。

 少女が持っていたらしき布製のトートバッグから、中身が飛び出して周辺に散らばっている。青色の鉛筆が数本、臙脂色のペンケース……バッグから半分出ているのはスケッチブック……ともう一冊、幸夜の足元近くに飛び出したのは……ノート、か。

 どこにでも売っているようなその大学ノートを、幸夜は何気なく手を伸ばして拾い上げた。その拍子に中身がパラリとめくれて幸夜の目が大きく見開かれる。

 ――こいつは……、


「ちょっと大丈夫? 変なところにヒジでも入ったかしら」

 リリコがうずくまる少女に屈みこんで助け起こすと、彼女は内臓を庇うような姿勢で顔を上げてリリコを見た。丸くて大きな瞳がゆっくりと二回、瞬きをする。

「あらら、こんなに散らばっちゃって。……えーと、これとこれと……ああ、それも?」

 リリコは散らばった鉛筆やペンケースを拾い上げて、幸夜の手にあるノートもさっと引き抜いた。

 ずっとリリコを見つめ――いや、ガン見し続けていた少女は、リリコから「はい、どーぞ」とトートバッグを手渡されて、ようやく我に返ったように動き出す。ノロノロとバッグを肩にかけて、もう一度深々と頭を下げた。

「……あの……すみませんでした……」

 丁寧に折り曲げた身体をぎこちなく起こした少女は、幸夜を見て一度瞬き、もう一度リリコを見上げた。

「気をつけてね? ……さ、ユキヤ、行きましょ。対象者マルタイが――、」

「……あ? ああ……」

 小声で急かされ目線を転じれば、追尾中の調査対象者は遥か数百メートル彼方。このままだと見失ってしまう。行きかけてもう一度視線を戻すと、少女はすでに幸夜たちに背を向けていた。遠ざかっていく足取りはどこかふらふらと覚束ない。そして少女は、出てきた路地とは別の、ホテル脇の細い路地へ入り姿を消した。

「ちょっと早く! 見失っちゃうでしょ!」

 さらに強く幸夜の腕を引いて、邪魔だとばかりにシャンパン色の巻き髪を払いのけた時、リリコはハッとしたように左耳へ手をやった。

「えっ、うそっ、ないっ! イヤリング! イヤリング型カメラがないっ!」

「――はぁ?」

「うっそぉ、やだもう! さっきぶつかった時に飛んだのかしら? その辺に落ちてないっ? ユキヤも探してよっ!」

 慌ててリリコが道路に屈み込んだ時、不意に二人の男が現れた。先ほどの少女が飛び出してきた路地から出てきたスーツ姿の男二人は、路上に這いつくばるリリコと立ち尽くす幸夜に一瞬目を止めたが、すぐに何かを探すような素振りで視線を巡らせながらラブホテル通りを小走りに直進していく。一人の男の革靴が、散らばったキノコチョコの数個を無惨に踏み砕いた。

 足早に去って行く男二人をサングラス越しに見やり、幸夜は目を細める。

 一見、サラリーマンのような何の変哲もないスーツ姿であったが、鞄の類を持っておらず、手には黒の革手袋……単なる通行人とも、ありふれた会社勤めの人間とも見えない。そして何となく、あの少女を追っているように見えたのは気のせいか。


 気づけば、調査対象者は目視可能範囲から完全に外れていた。すっかり人気ひとけのなくなったラブホテル通りに残されたのは、無駄に派手でバカっぽいホストと、地べたにへたり込んだイケイケ風俗嬢、散らばり砕けたキノコ型チョコレートたち。

 リリコの悲壮な声が生温い夜風に散った。

「どうしよう……ボスに叱られるぅ……」



   * * *



「……ナイトパック、八時間でお願いします」

 受付で料金を前払いした少女――陽乃子ひのこは、選んだフラットシートタイプの部屋によろめくようにして入った。トートバッグを置いて、できるだけそろそろと腰を下ろしたのは、脇腹の痛みをかばうためである。

 繁華街から外れた裏通りの端っこにある小さなインターネット・カフェ。ここ数週間の間、毎晩利用している店である。ここは、陽乃子のような未成年の少女が毎晩利用しても入店を断られることがなかった。繁華街の中心に近い店舗だと、すぐに家出や犯罪を疑われて警察に通報される場合もあるのだという。

 とはいえ、この店でも初回利用時の会員証作成の際は、ずいぶん不審な目で見られていたようだ。実際の年齢より幼く見られる容姿というのは、非常に不便でやりづらいことばかりなのだと初めて知った。

 しかし会員証さえ作ってしまえば、あとは特に問題がなかった。

 今日も、受付にいた男性は陽乃子の差し出した会員証をおざなりに確認しただけである。とても興味深い――あくまでも――顔立ちの男性であったが、あちら側から見れば、陽乃子など不特定多数の中の一人にすぎないのだろう。


 壁にもたれたまま、陽乃子は身体の内部に刺激を与えないよう注意深く脚を伸ばした。

 両腕を広げたほどしか横幅のない狭い個室だが、小柄な陽乃子にとっては充分な広さだ。初めてインターネット・カフェなる施設を利用した時は、余所余所しい匂いと部屋の外から漏れる他人の気配に落ち着かなかったが、眠ってしまえば気になることもない。

 陽乃子は、首にかけたガマ口型財布を懐から取り出して中身を確認した。

 今日稼いだ金額の三分の一近くが宿泊代に消えた。最低限安心して眠ることができる場所を得るというのは、案外お金がかかるものなのだ。その上、食べるものや着るものにも当然お金は必要で、それらのお金を差し引くとなれば残る金額はわずかである。

 生きていくにはお金が必要――頭では理解していたつもりでも、実際に体感する現実の過酷さは自分がいかに非力であるかを思い知らされる。生きるだけで精一杯の自分……けれどここまで、生きるということを “生々しく” 意識したのは初めてではないだろうか。

 じっとしていると、脇腹の痛みは引いていく代わりに、あちこち走り回った足がじんじんと熱を持つように疼いた。

 このまま眠ってしまいたいくらい身体はくたくたに疲れている。けれど足より脇腹より、膨張して圧迫されるような頭の痛みに、陽乃子はたまらずトートバッグを引き寄せた。

 中から取り出したのは、B5サイズの大学ノートとペンケース。バッグの底を探ると数本の鉛筆が散らばっている。

 鉛筆の芯が何本か折れてしまっているのは、数刻前、人とぶつかってしまいバッグを取り落してしまったせいだろう。陽乃子は芯の折れた鉛筆をペンケースへしまい、その中から使えそうな別の鉛筆を一本取り出した。

 ノートの新しいページを開き、ひと息大きく吸う。鉛筆の芯先に持てる意識すべてを集中させて、放出した。

 白い紙面に、エネルギーが解き放たれたように高速で描かれていく――それは、人間の顔。

 男、女、若者、老人、大人、子供――ノートの紙面いっぱいに五、六人分の顔を描くと、少女は手を休めることなく次のページをめくって再びそこに顔を描き続けた。

 描かれる顔が一つ、一つと増えていくごとに、脳内を圧迫する痛みが少しずつ和らいでいく。

 三~四十分ほど経った頃、ようやく手が止まった。

 無造作に鉛筆を置いて、そこで初めて陽乃子の小さな口から大きな欠伸が出る。丸い瞳がトロリと生気を失い、描写された顔だらけのノートをしばしボウッと眺めた。

 襲ってくる睡魔の中で、陽乃子の目は紙面の中ほどに描かれた二つの顔に止まる。今日ぶつかってしまった二人組である。

 白いスーツを着てサングラスをした銀髪の人と、胸元が大きく開いた綺麗な色の洋服を着た西洋人形のような雰囲気の人。二人ともその顔にかなり手の込んだ細工をしているようで、あれは素顔ではないのだと感じた。と同時に陽乃子の目は、後頭部がピリピリするような奇妙な刺激を認知したのである。

 サングラスをしていた男の方は、完璧に近い左右対称(シンメトリー)を為す顔だった。隠れていた目の部分はわからないが、それでも陽乃子の直感は、彼の顔立ちが限りなくシンメトリーに近いのだと言っている。

 そしてさらに印象強く残っているのが、もう一人の白金色をした巻き髪の人。不思議な違和感を醸し出す顔を、あれだけ間近で見たのは初めてだ。あまりの不可思議さについ目が離せず、失礼だと思いながらもつい見入ってしまった。

 あの界隈は風俗店が多く、ああいった風体の男女はよく見かけた。同じような不可思議な違和感を持つ顔立ちの人も、遠目に見かけたことはある。けれどどうしてか、あの二人はそういった風体の人たちとは違ったように思えた。

 そういえば、ぶつかった拍子に何か……菓子のようなものが飛び散っていた。銀髪の人はそれらを惜しそうに眺めていなかったか。同じものを弁償してお詫びするべきだっただろうか。もしかしたらずいぶん非礼な真似をしてしまったかもしれない。

 陽乃子はもう一度大きな欠伸をして、潤んだ瞳をパチパチとしばたいた。気だるい身体で立ち上がり、よろよろと受付に行ってブランケットを借りる。

 ここのネットカフェにはシャワールームが完備してあるのだが、あまりにも疲れすぎていて借りる気力がなかった。飲み放題の自販機さえも目に入らず素通りした。

 個室に戻って厚手のパーカーを脱いだ時、何かがコロンと、合皮張りの床面に落ちた。

 拾ってみるとそれは、半球形をしたイヤリングであった。艶なしのゴールド本体に、小さく透き通った宝石がいくつも散りばめられている。ペットボトルのキャップより小さいのに、金属のような重さを手の平に感じる。

 もしかしたらとても高価な代物なのかもしれないと思い至った時、お姫様のような巻き髪が、遠ざかる稲妻のように小さくフラッシュした。

 少女は半ば意識を失いかけながら、首にかけたままのガマ口を開いてイヤリングをしまう。そしてブランケットにくるまると、ゆっくりと沈み込むように横になった。


 ――とてもいい匂いがした男の人と女の人……でも……本当はどちらも、……

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