第28話家族

「まさか、あのスベトラーナって人が密告を……?」


「密告ならまだ許せた。どんな国であれ、祖国を裏切った事実があるなら仕方ない。だがナターシャに国を裏切った事実などない。陥れられたのだ」


 同じチームの仲間を陥れるなんて、愛華には信じられなかった。会ったこともないナターシャを想い、涙が溢れた。


 当時、ソ連の体操界では、国の代表を勝ち取る事は、オリンピックでメダルを獲得するより難しいと言われていた事は、愛華も知っている。


 やっと代表の座を勝ち取ったのに、政治の都合でオリンピックに参加できず、そして今度は可愛がっていた後輩に裏切られるなんて、酷すぎる。


「スベトラーナの裏切りを知ったのは、連邦崩壊後、KGBの資料室が公開されてからだ。私は当時の資料が閲覧出来るようになると、すぐナターシャの行方を調べた。その資料の中にスベタの名を見つけたのだ」


「でも同じ名前の別の人かも知れないし、名前だけ使われたってことはないんですか?」


「私もそう思いたかった。だから本人に直接訊いた。そしたらヤツはあっさり認めやがった。何の悪びれる様子もなくな!」


 エレーナの氷のような瞳が、この時は怒りと哀しみに青白く燃えているように見えた。


「私はヤツをチームから追い出し、尚もナターシャの行方を追った。再教育の後、スビードウェイとアイスレースをやっていた事までは掴んだ」


「スビードウェイって何ですか?」


 アイスレースはなんとなくわかったがスビードウェイと言うのは想像出来なかった。


「日本ではあまり馴染みがないかも知れないが、ロシアや北欧では、一番身近なオートレースだ。たいていは一周四百メートルの陸上競技場のようなトラックで、専用のバイクで行うダートレースだ。アイスレースは冬場、氷のリンクで行う。モータースポーツに危険は付き物だが、おそらくアイスレースは最も危険なレースの一つだろう。なにしろ1インチものスパイクがハリネズミのように打ち込まれたタイヤで、狭いコースをギリギリまで接近したドリフト戦をするのだからな。一応タイヤは鉄製のフェンダーで覆われているが、転倒して後続に轢かれれば、挽き肉にされる」


 愛華はぞっとした。ナターシャはどんな気持ちでそんな恐ろしいレースをしていたのか。


「それでもレースを続けていたんですよね?」


「その後、本人の意志とは思えないが、同じレーサーの男と結婚し、出産を期に引退したという事までしか資料は残っていなかった。連邦崩壊のゴタゴタで過去の政治犯の行方まで構っていられなくなっていたのだろう」


 そこで愛華は、エレーナがスターシアの様子を気にしていることに気づいた。スターシアは愛華がこれまで見たことのない哀しい顔をしていた。



「え……?えっ!もしかして……ナターシャさんていうのは……っ」


 愛華は言いかけて、慌てて口をつぐんだ。愛華の想像通りだとしたら軽率過ぎる。スターシアの気持ちを想えば、安易に尋ねていい話じゃない。


「アイカちゃんの想像通り、ナターシャは私のお母さんです」


 逆にスターシアが気づかって答えた。


「私が生まれて、母は僅かだけど幸せな時期を過ごしたそうです。私はその頃のことはほとんど覚えていません。私はあの男が父親とすら認めたくもありません。私の記憶にあるあの男は、薄汚い獣です。はじめの頃はまじめだったかもしれませんが、あの男が怪我をしてレースが出来なると、私たち家族は困窮しました。レーサーであれば怪我は仕方ない事です。あの男が最低なのは、その後でした。母は生活のために田舎町のスポーツ施設で働き始めました。元代表選手の肩書きは生きていましたが、ソ連邦崩壊の混乱期で食べていくのがやっとの収入でした。なのにあの男は、母の財布からお金を奪い、酒に変えてしまいました。ある夜、私と母が寝ていると、あの男は顔見知りの男を連れて来ました。あの男は、私を無理やり母から引き離し、母と連れてきた男だけを残し、私を隣の部屋に連れていきました……」


 話をするスターシアの頬を、とめどなく涙がこぼれ落ちていく。愛華の目にも、涙が溢れてくる。


「私は泣いて暴れましたが、酒臭い腕で口を塞がれ、もがくしかありませんでした。ドアの向こうから、お母さんの抵抗する声が聞こえてきました。やがてそれは懇願に代わり、嗚咽しか聞こえなくなりました。幼い私にも、それがとても悲しい声なのがわかりました……」


「そんな……、そんなの酷すぎます!」


「私には何もできませんでした。その後も何度もそういうことがあり、別の男まで連れて来るようになりました。母が拒むと私を売り飛ばすと脅し、部屋を離れる時は逃げられないように、私はいつもあの男に連れて行かれました。母は私を置いて逃げられません。私はお母さんといっしょにいたくて泣き続けるしかありませんでした」


 愛華も泣きながらスターシアに抱きついていた。スターシアがまるで愛華をいたわるように背中をやさしくさすった。


「ありがとう、アイカちゃん。でもね、エレーナさんが私たちを地獄のような生活から救ってくれたのよ」


「エレーナさんが……?」


 顔をあげて、エレーナに振り返った。


「もう少し早く見つけていれば、二人を悲しませずに済んだかも知れない……」


「いえ、私も母もエレーナさんに感謝しています」


 エレーナは悔し気な目に涙を浮かべている。


「私は軍の情報網を使って、ナターシャの行方を捜した。私が軍の広告塔として大人しく役割を果たしていたのも、より高い地位を得て、少しでもコネを作れれば、それだけナターシャの名誉を回復する機会も多くなると思ったからだ。


 彼女の行方が見つかったと知らせを受けた時、シーズン中にもかかわらず、私は飛んでいった。情報は詳細に調べられていた。私は機内で報告書を読みながら怒りに震えた。ナターシャの住む街に着いた時には、あの男どもを絶対に許せなくなっていた。ナターシャは、あんな三流の男どもになど、触れることすら許されない世界最高の運動能力と美しさを持った国の宝なのだぞ。彼女を穢した奴らを一人残らず地獄へ叩き落としてやると決めた」


 当時を思い出して語るエレーナの眼は、殺気に満ちていた。


「殺しちゃったのですか?」


 エレーナなら、それくらいやってしまった気がする。


「残念ながら、顎を砕き、ナターシャを穢したアソコを潰してやったところで軍の強襲部隊に抑えられた。一撃で殺らなかったのは私のミスだ。だが奴らに楽な死に方など、許す事ができなかった。地獄に行く前に、この世の苦痛をすべて味あわせてやりたかった」


 血生臭い話には耳を背けたくなる愛華だったが、同情はなかった。自分にはできないが、そんな男を許せないのはエレーナと同じ気持ちだ。


「誰かが、あの軍区の司令官に連絡したそうだ。警察より早く軍が動くとは思わなかった。もっとも警察が先に駆けつけていれば、私は刑務所行きだったろうがな」


 やはりエレーナを抑えるのに軍隊が出動するという話は、本当らしい。


 事件は軍がテロリストのアジトの一掃したという事で処理されている。国内外で新政権と旧勢力が衝突していた時期で、さほど話題にもならなかった。逮捕されたテロリストたちがどうなったかは不明だが、ソ連時代も現在のロシアでも、テロリストに人権などないのは公然の事実である。


「あの時のエレーナさんは、本当に格好よかったです。まるで王妃を救いに来た白馬の王子でした」


「なぜ私は王子なんだ?王子は普通男だろ? 」


 スターシアから何度も言われていたが、未だに腑に落ちない。


「だってあの時は、男の人だと思ったんですもの。あの頃の私、男は下劣で薄汚いものだと思っていたのに、こんな素敵な男の人もいるんだと、ときめいたんですよ。なのにあとで女の人だと知って、やはり男は下劣な薄汚いものだと確信しました。今は真面目でやさしい紳士もいることは理解していますが、やはり心の底では穢らわしいものだと怖れてます。こうなったのもエレーナさんの責任です。責任とってもらいたいです」


「何ゆえに私がとらないかんのだ?」


「ひどいです!エレーナさん、責任とってあげてください」


「アイカまで……」



 愛華は絶望的な重い空気が、少し軽くなった気がした。これがエレーナとスターシアの呼吸なのか?正直チームに加わって、エレーナとスターシアのイメージしていたものとの違いに戸惑っていた。特にスターシアのゆるキャラぶりには、尊敬は出来るけど少し変わった人だと思っていた。


 これまでスターシアの過去について、まったく知らなかったのに気づき、心の中で詫びた。愛華の家庭も事情があったが、スターシアに比べたら幸せと言うしかない。そしてもう一度スターシアにぎゅっと抱きついていた。



「それで、ナターシャさんは今どうしているんですか?」


 抱きついたまま、スターシアの顔を見上げて尋ねた。今度は訊いてもいい気がする。スターシアはやさしく愛華の頭を撫で、微笑むだけだった。泣き崩れるのを耐えているようにも見えた。エレーナが代わりに教えてくれた。


「ナターシャは重度のアルコール依存症になっていた。無理もない、アルコールで現実を忘れるしかない生活だったのだからな。私は彼女を療養所に入れ、スターシアをモスクワにある全寮制のスポーツ選手専門の学校に編入させた。知っての通りスターシアの運動センスは母親ゆずりで素晴らしく、難関の国立スポーツ学校にすぐ入学できた。ナターシャは現在、モスクワ郊外で私とスターシアと共同で設立した体操教室で指導してもらっている。そこは今では私とスターシアだけでなく、内外で活躍する多くのスポーツ選手から賛同を得て経営も安定し、体操だけでなく他の競技の選手育成もしている。まだライダーを育てるほどの規模はないが、アイカも協力してくれるか?」


「しますっ!……って言っても、わたし、出資するようなお金ありません……」


 威勢よく返事したものの、愛華はチームに入れただけでも幸運な立場にある。契約金など僅かだ。アカデミーにいた時よりはマシになったが、出費も増えた。なんだか自分も加わりたいのに、しゅんとした。


「なにも金を出す必要はない。シーズンが終わったら、一緒に来てくれればいい。アイカはもう世界で活躍するアスリートの一人なのだから、子どもたちの憧れだ」


「わたしが憧れ?わたしなんかが、ですか?」


 スターシアが両手のひらで愛華の顔を上向かせ、目をみつめて言う。


「ストロベリーナイツの一員として来てもらいますよ。それにアイカちゃんは私の妹も同然です。お母さんにも逢ってほしいですから」


「行きます!絶対に行かせてほしいです!エレーナさんが尊敬するナターシャさんに逢いたいです。それにスターシアさんのお母さんなら、わたしのお母さんと同じですよね!」


「私たちは家族ですね」


 スターシアが、いつものように明るく、そしてちょっとあぶなく答えた。


「ちょっと待て!私も家族の一員だぞ。私の家庭内の位置ポジションはなんだ?」


 愛華とスターシアのほんわかムードから取り残されかけていたエレーナが、いつものように口を挟む。


「エレーナさんはわたしたちのお父さんです!」


「お父さん!?」


「白馬の王子様なんだから、お父さんです」


 愛華の強引なキャラ設定に、エレーナはショックを受けた。更にスターシアが追い討ちをかける。


「空いてるポジションはお父さんしかありませんから。私はあの男を父親とは思ってませんので、エレーナさんがお父さんになってください」


「いや、お父さんも普通男だろ?三姉妹の長女とか、まだ空いてるポジションはあるだろ?」


「エレーナさんが三姉妹の長女?長男では?」


「歳の離れたお兄さんですかぁ?なんかピンときませんです」


「父親の代わりに家族を支える長女だ。これならピンとくるだろ?頼れるお姉さんだぞ」


 エレーナとしては最大限妥協したつもりだったが、二人とも冷ややかだった。


「再婚相手の娘たちに気に入られようと、無理してる新しいお父さん、って感じです」


「ホント、ぴったりですね。エレーナさんは新しいお父さんです」


「無理しなくても、『お父さん』と呼んであげますから」


 義理の娘たちからお父さんと呼ばれ、涙ぐむエレーナであった。


「おまえらァ、おぼえていろ」


 いつもの三人の会話になっていた。愛華は、いつの間にかスターシアのこのゆるいキャラが好きになっていた。緩さの裏に深い哀しみとそれを乗り越えてきた芯の強さがあることを知った。また少し、エレーナとスターシアの本当の姿に近づけた気がした。


 スターシアは、幼少期の体験から、男性に対する不信感は未だに拭えていない。かといって、噂されるような同性愛者でもない。男性を愛せないだけで、同性を恋愛対象、或いは性の対象としているわけではない。その事でスターシア自身が思い悩むことはなかった。彼女には家族がある。


 本当に彼女が怖れ忌み嫌っているのは、彼女自身の身体に流れる『あの男』の血であった。酒に溺れ、自分勝手な欲のために、母を踏みにじった『あの男』の血を身体から消し去りたかった。


 自分は、大切な人を絶対犠牲にしない。母親が彼女を守ったように、大切な人のために尽くすことこそ、自身に流れる忌まわしい血を浄化出来る唯一の方法だと思い込んでいた。エレーナや愛華に対する態度も、同性愛的なものでなく、純粋な献身であった。少々、度が過ぎてはいたが……。


 誰もが羨望する容姿とGP全クラスを通じて最も美しいライディングと言われるほどの実力を持ちながら、求愛するすべての男性を拒み、一人のアシストライダーであることを望む彼女の生き方が、幼少期の体験によるものだとは、当時関わった限られた者しか知らない。それ以外でスターシアの生い立ちを知る者は、愛華だけということになる。




 エレーナの憎しみのもう一人の対象であるスベトラーナも、時代に翻弄された犠牲者と言えた。


 過去のKGBに残る資料では、スベトラーナの密告によって、ナターシャの国家反逆が発覚していたが、スベトラーナは、エレーナが愛華に語った以上の情報は提供していない。スベトラーナにとってもナターシャは、体操時代から憧れ慕う存在だった。バイクに転向したのちも、ナターシャの疾走する姿は、翼を持った天使のように神々しく、スベトラーナの憧れだった。


 ナターシャが拘束された時、エレーナたちと共に、無実を訴えたのも本心からである。それどころか危険を顧みず、直接国家保安局に釈明しようとさえしている。


 すべて黙殺された。


 上部でどんな決定がされていたか知る由もない。ただ、防空軍所属の彼女たちの活躍を諜報部が面白くなくみていたのは間違いない。どんな体制でも、正々堂々の力の誇示を本質とする軍と、陰謀と騙し合いを画策する諜報機関とは、相成れないものである。互いに必要としながらも、軽蔑し、対立するのが常だ。



 スベトラーナの訴えは無視された上、逆に密告した事実をばらすと脅された。彼女が開き直ると今度はチームのメンバーの誰でも反逆罪で逮捕出来ると脅した。彼女はそれが出来る事を知っていた。ナターシャの拘束に、エレーナたちは反感を口にしている。そうでなくても、ありもしない罪をでっちあげるぐらい平気でする連中だ。従うしかなかった。その気になれば、全員シベリア送りにも出来るだろう。スベトラーナには、エレーナからまで翼を奪うことは絶対にさせられなかった。


 次第に諜報活動に染まり、局内でもそれなりの力を持っていったスベトラーナは、エレーナとは別のチャンネルでナターシャを捜した。


 彼女がナターシャの行方を掴んだのは、エレーナとほぼ同時期だった。


 そしてエレーナがナターシャの元に向かったと知った時、軍に知らせさせたのも彼女である。エレーナなら、ナターシャを汚した男たちを殺すだろうと確信していた。


 エレーナの手を汚してならない。最悪でもエレーナの立場なら、警察より先に軍が動けば揉み消せるとの判断は、エレーナを救った。


 罪滅ぼしのつもりはない。この程度で自分の罪が許されるとも思わない。ただエレーナには、いつも輝いていて欲しかった。日陰で生きるのは、自分だけでいい。



 もう一度、ナターシャとエレーナと私の三人で走りたい。


 スベトラーナは、一瞬思い描いた夢を、慌てて打ち消した。もう二度と叶うことはない。

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