第27話追憶

 マレーシアでも、予選はパワーにまさるジュリエッタの後塵を拝すも、決勝ではストロベリーナイツが追い込み、またもエレーナを頂点にストロベリーナイツが表彰台を独占した。


 エレーナの連続優勝により、バレンティーナとのポイント差を大きく縮め、メディアはもはや流れがエレーナに移ったと書き立てた。ジュリエッタのテストコースでバレンティーナ自ら参加した改良型のテストが、思わしくなかったと言う情報も、マスコミに筒抜けだったのだ。


 実際には、ジュリエッタの改良型は、エンジンパワーこそ控えられていたが、バランスの取れた仕上がりでテストコースでは改良前のラップタイムを上回っていた。しかし、バレンティーナがあくまでも立ち上がり加速にこだわり、もう一度はじめから見直す事になったという経緯がある。



「エレーナさんの10回目のチャンピオンも確実ですね。わたしも歴史的快挙に立ち合えるなんて夢のようです」


 すでにタイトルを決めたように浮かれる愛華に、エレーナは厳しく咎めた。


「浮かれるのはまだ早い。親しいジャーナリストの裏話では、それなりの仕上がりだったらしいが、バレンティーナがあくまで速いマシンにこだわったそうだ。それだけに投入されれば前以上の脅威となるのは間違いない。それにリザルトだけ見れば我々の圧勝だが、今日のレースも相手のアシスト一人が序盤に転倒脱落したから勝てたに過ぎない。今のままでも、いつも勝てる相手ではない」


 しかも、チェッカー後のスターシアのバイクには、ウィニングランを一周するガソリンすら残っていなかった。それほど全周を通じて全開で走らなければならない接戦だった。


「わたしがもう少しスターシアさんの負担を受け持てれば良かったんですけど……」


「アイカは十分働いてくれている。スターシアの体重が重すぎるだけだ。アイカ、スターシアのケーキを半分食べてもいいぞ」


「酷い……、でもアイカちゃんにこれ以上負担を増やす訳にはいきません。アイカちゃん、私のぶんも食べて。はい、あ〜ん」


「誰が『あ〜ん』で食べさせろと言った!」


「ケーキを諦めるんです。これくらいの特権あってもいいじゃないですか」


「特権なの?……スターシアさん、わたしは大丈夫ですから、ご自分で食べてください」


 愛華は、なにが特権なのかわからないが、尊敬するスターシアさんからケーキを奪う事はできなかった。それに自分がなんとかこのチームに役立てるのも、体重が軽さがあってのことだ。技術だけでは全然届かないのは承知している。いくら小柄とはいえ、日頃から愛華自身も体重管理には気をつけなければならない。


「ところで、どうしてジュリエッタの情報が流れたんでしょうか?普通そういうことって、内緒にした方がいいんじゃないですか?」


 愛華の疑問に、エレーナの表情が険しくなった。


「おそらくスベトラーナだろう」


「……」


 愛華はスベトラーナの名を聞いて緊張した。以前もスベトラーナの事でエレーナの機嫌が悪くなったのを思い出す。


「もうアイカちゃんにも教えてあげても、いいんじゃないですか?」


 愛華が萎縮したのに気づいたスターシアが、エレーナに言った。


「スターシアは構わないのか?」


「アイカちゃんはもう私たちの仲間です。私もアイカちゃんに隠し事はしたくありません」


「スターシアがそう言うのならいいだろう。私としてはあまりアイカの耳を汚したくなかったが、自分だけ知らないというのも居心地が悪いだろう」


 二人の雰囲気が、いつもの痛いやりとりや余裕のある感じではなくなり、愛華はなにを聴かされるのか身構えた。


 愛華が知る事で、不必要に巻き込まないようエレーナは慎重に言葉を選んで話し始めた。


「スベトラーナは、まだソ連時代の、私が初めてGPにやって来た頃のレッドオクトーバーと呼ばれたチームのメンバーだった」


 その事は以前から知っている。愛華は黙って続きに耳を傾けた。


「私とスベトラーナは体操をやっていた頃から親友であり、ライバル同士だった。そしてもう一人、チーム最年長で、チームの誰からも慕われ、まとめ役だったナターシャという先輩がいた。彼女は私とは違い、体操でも代表チームに選ばれた一流の選手だった。オリンピックでもメダル確実と言われたほどの選手だったが、自らレースチームに転向した」


「どうしてそんな選手が転向したんですか?」


「ロサンゼルスオリンピックを知っているか?」


「知ってます。生まれる前ですけど、ソ連とか東側の国がボイコットして参加しなかったんですよね。確かその前のモスクワオリンピックをアメリカや日本とかがボイコットした事への仕返しだったとか」


「当時の政治的な話をアイカと議論する気はない」


「すみません」


 愛華はそんな意味で言ったのではなかったが、素直に謝った。


「いや、私こそおとなげなかった。アイカにそんな気がないのはわかっている。それでナターシャはそのロサンゼルスオリンピックの代表だった。厳しい代表選考を勝ち抜いたのに、知っての通りオリンピックには出場出来なかった」


「そんなぁ……」


 出来事として知ってはいたが、選手の立場ならたまらないということに初めて気づいた。


 愛華は代表以前に怪我によって夢を諦めたが、オリンピックの切符を手にしながら出場出来ない悔しさは、自分とはくらべものにならないはずだ。


「次のオリンピックをめざすとかはなかったんですか?」


「それも考えたとは思う。しかし、アイカも知っている通り、女子体操選手の選手生命は短い。四年後には既にピークを過ぎているだろう。それにその頃の主流は、美しさより軽業師のようなアクロバチックな技に高得点がつくように傾きはじめていた頃だ。選手のピークは、より若年齢化していた。彼女は体操界から身を退き、自らGPプロジェクトに参加した。もし彼女がロサンゼルスオリンピックに出場していれば、体操競技の採点規準も変わっていたかも知れない。それほど素晴らしく、貴高く美しい選手だった。そんな偉大な選手と較べたら、私など体操選手と言ってもまったく無名の選手だったが、転向後の彼女は私たちにも優しく接してくれた。ソ連でオリンピック選手と言えば、ほとんど党幹部と同じ扱いと言っていい。どんなに混んでる店でも並ぶ必要はないし、交通違反も揉み消してもらえる。そんな雲の上のような存在が、私たちと同じように一からバイクを覚え、共に汗と涙と血を流してGPをめざした。特に私とスベトラーナには、同じ体操選手だったから、何かと世話を焼いてくれた。転倒して怪我した時など『体操がやりたかったのにもう嫌だ、逃げだしたい』と泣く私を『体操選手はどんなスポーツをしても一流になれる運動神経を持っていることを証明しましょう』と励ましてくれた。彼女がいなければ、今の私は存在しない」


 愛華はチームに入る前からエレーナのファンで、色々な書物やネットでエレーナの事を調べていたが、初めて聞く話だ。エレーナが泣き言を洩らしていたのも想像できない。そして、若い頃のエレーナが今の自分と重なって思えた。


(エレーナさんにも、そんな人がいたんだ。わたしもエレーナさんのことを、後輩に語れる日がくるかなぁ?その前にエレーナさんに少しでも近づけたらいいな。逢ってみたいな、ナターシャさんって人に)


「やがて、私とスベトラーナはエースを争う主力になっていった。ナターシャは乗り始めた年齢が高かった事もあり、私たちほど早くバイクに馴れることが出来なかった。才能は彼女の方が上なのは明白だったが。それでも彼女はチームのリーダーとして、私たちをまとめ、サポートしてくれた」


 エレーナの話は、初めて国外に出て、世界選手権にデビューした頃へと進んだ。


「すべてが驚きだった。国で教えられていた事とはまったく違っていた。西側は豊かで自由だ。初めて体験するものばかりで、戸惑う私たちに唯一国外遠征の経験のあるナターシャがいてくれたことが、どんなに心強かったことか。彼女は情報部に疑われないように、浮かれる私たちをいつも注意してくれた。当時、国外に出るスポーツ選手は、亡命や反体制思想に染まらないよういつも監視されていたからな。疑われれば国に戻され、再教育される。私たちはなるべく自分たちのスタッフ以外と接触しないようにしなければならなかった」


 曖昧な伝聞としてしか知られていない当時のソ連の選手に、今では想像出来ない苦労があったんだと改めて思い知った。


「更に私たちの活躍が、驚くほどの話題になるとマスコミや他のライダーなどの連中が、色々と接触しようとしてくるようになった。優勝インタビューなどでの私の受け答えには、ナターシャもいつもハラハラしていたことだろう。すべて監視されているのだ。それ以外は、ナターシャが代表で対応してくれた。彼女は私と違い、党の望む受け答えをスマートにしていた。そんな中、チームの中で一番大人で、最も美しいナターシャに、他のクラスのアメリカから来ていた男性ライダーが熱心にアプローチするようになった。彼女も満更でもない様子で、私たちメンバーは“許されぬ恋”を憧れと好奇心を持って見守った。私たちを不愉快に思う連中からは『氷の操り人形』などと呼ばれていたが、みんな十代の乙女だ。恋に関心もあれば、憧れもする。メンバーは、監督や政治委員に気づかれないよう注意しながらも許されざる恋を応援した。それがどんな結果を招くかも知らず、無責任にな」


 愛華はその結果を知りたくないと思った。ここまで聴いたら結果は想像出来る。それでも知りたくなかった。恋愛ドラマのような生易しい悲愛ですまないのは愛華にもわかった。愛華にも恋愛経験と呼べるものはなかったが憧れはある。もしエレーナの立場だったら、好奇心いっぱいで応援したはずだ。だからその結果が不幸になるなんて耐えられない。それでもここまで聴いた以上、最後まで聴く責任があるように感じられた。愛華は覚悟を決めて耳を傾けた。それは愛華の想像以上の辛い物語だった。


「ある日、突然ナターシャは本国に戻された。理由は、アメリカ帝国主義の退廃的な男に惑わされて、祖国を裏切り亡命しようとしたという。その時は誰が密告したかわからなかったが、メンバーを疑う者など誰もいない。ナターシャはメンバーの誰からも慕われていたし、第一仲良くなったと言っても実際には恋愛と言えるまでいっていない。まして祖国や仲間を捨てて亡命などあり得ない。彼女は少し親しくなった男性と時々話をしては頬を赤らめる程度で、それを無邪気な乙女たちが騒いでいたに過ぎなかっただけだ。メンバーなら誰もが知っている事実だ。情報部の邪推だとメンバー全員で訴えたが無駄だった」


 エレーナの瞳から涙がこぼれるのを、愛華は初めて見た。そしてスターシアまでもが泣いていた。


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